今回は会津藩を取り上げるぞ。堅実でまさに江戸時代の武士の鑑というイメージがありますが、どんな藩だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の武士の歴史には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、会津藩について5分でわかるようにまとめた。

1-1、会津藩(あいづはん)とは

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会津藩は江戸時代に存在した、陸奥会津郡が中心の現在の福島県西部、新潟県と栃木県の一部を治めた藩のことです。藩庁は若松城(現会津若松市)で、戦国時代以降、葦名氏から伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝が治めたのち、保科正之がはいって、徳川家の親藩として会津松平家が明治維新まで続きました。

この会津藩についてご紹介していきますね。

2-1、会津藩の歴史、会津松平家以前

会津藩は奥羽の外様大名、伊達家、上杉家などの抑えとして重要なスポットです。そして会津藩といえば松平家が有名ですが、松平家が入るまでに会津藩の基礎を築いた蒲生氏郷、加藤嘉明などが領主だったということ。

ということで、戦国時代から江戸時代、松平家になるまでの会津の領主の変遷や歴史についてご紹介しますね。

2-2、戦国時代は葦名氏

戦国時代の会津地方は、戦国大名の蘆名(あしな)家の領国で黒川(後の会津若松)が本拠でした。蘆名氏は自称会津守護として一時勢威があったのですが、後継者争いと家臣団の権力闘争などの内紛で次第に衰退していき、1589年に当時の当主だった蘆名義広が摺上原の戦いで伊達政宗に大敗。葦名義広は実家の常陸佐竹家のもとに落ちのびたために蘆名家は滅亡して会津は政宗の支配下に。

2-3、蒲生氏郷時代、若松城を築き、会津藩の基礎を築いた

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不明。 - 会津若松市立会津図書館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

 

1590年7月、豊臣秀吉は小田原征伐で後北条家を滅ぼしたあと、8月に会津黒川に入って奥州仕置を行ないました。そこで会津領主だった伊達政宗は小田原征伐に参陣したが、前年の合戦での惣無事令違反などで会津地方と周辺地域を没収されて、会津は蒲生氏郷に。最初は42万石、のちに太閤検地と加増があり、92万石になったそう。

蒲生氏郷は子供の頃から織田信長に見込まれて次女の婿にされた期待の武将で、伊勢松坂12万石からの転封でした。氏郷は黒川を自分の故郷にちなんで若松と改め、故郷の近江商人や前任地の松坂の商人や職人も招聘し、城下町を建設して会津若松の商工業を発展させ、また92万石らしい7層の天守を持つ立派な会津若松城を築いて会津藩の基礎を築きました

しかし氏郷は1595年に41歳で死去、嫡子の秀行は13歳で家康の娘と結婚して跡を継いだが、蒲生家の重臣たちの内紛が治められず、それを理由に秀吉が宇都宮12万石に減封のうえに転封に。

2-4、上杉景勝時代、家康の会津征伐がぼっ発

1598年、秀吉の命で上杉景勝が、蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた会津120万石に加増移封、会津中納言と呼ばれるようになりました。しかし景勝の会津入部間もなく秀吉が死去。

そして徳川家康の台頭で、石田三成が家康に対抗するために景勝の家老の直江兼続に接近し、兼続は景勝と1599年8月に会津に帰国。領内の山道を開いて武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備強化をしたのですね。兼続と景勝は、翌年2月から若松の北西3キロの地点に、あらたに神指城の築城を開始したのですが、これらの軍備増強は隣国越後領主の堀秀治、出羽領主の最上義光らが家康に報告。また上杉家中の藤田信吉らの避戦派が出奔を余儀なくされたなどで、家康は景勝に弁明を求める使者を出すも景勝は拒絶、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始したが、小山評定でもどり関ヶ原合戦につながることに

家康はこのとき、景勝のけん制のために、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に残し、直江兼続は家康追撃を、北の最上義光や伊達政宗らの攻勢をあって断念。関ヶ原合戦後、景勝は11月に家康との和睦に重臣を上洛させ、自らも結城秀康に伴われて伏見城で家康に謝罪しました。この結果改易は免れたが、上杉家は会津など90万石を没収されて、出羽米沢30万石の減封に

2-5、再び蒲生氏の時代、内紛と大地震がぼっ発

1601年、会津から宇都宮へ移封した氏郷の息子の蒲生秀行が60万石に加増されて入部しました。この加増は関ヶ原の東軍の中でも群を抜いているのは、秀行の正室が家康の娘だからだそう。しかし秀行が執政に重臣で津川城代2万石の岡重政を任命したことが原因となり、以前からの家中内紛が再燃。そして1611年8月に会津地震が起きて若松城の城下町のうち2万戸余が倒壊して死者は3700名にものぼり、また山崩れで23の村が埋没、そして若松城天守の石垣も崩れて天守も傾くという大惨事に。藩主の秀行はこの心労のためか地震の翌年5月に30歳で急死。

その後は長男の忠郷(家康の孫)が跡を継ぎ、忠郷は1624年に従兄弟になる将軍家光、伯父の大御所秀忠を江戸屋敷に招いたりと、江戸幕府との親密な関係を強化。また会津領内で採掘された金は280万両にもなり、このころが全盛期だったということです。しかし忠郷は1627年に25歳で急死し、跡継ぎなくして蒲生家は改易となったが、同母弟で出羽上山藩主の忠知が当主となり、伊予松山へ24万石で減封されて存続に。忠知もこの7年後に跡継ぎなく30歳で急死したので蒲生家は断絶に。

2-6、加藤嘉明の時代、藩内の整備

1627年2月、伊予松山藩20万石から加藤嘉明が40万石に加増されて会津に入部しました。嘉明は若くして豊臣秀吉の家臣として仕えで賤ヶ岳の七本槍の1人で、淡路を領した後に水軍を率いて朝鮮出兵などでも活躍、関ヶ原の戦いでは本戦で東軍の将として武功を立てたことで、伊予松山で20万石をもらった人です。

この会津の地は米沢藩上杉家や伊達家などの奥羽の鎮守として重要な地であったため、大御所の秀忠が藤堂高虎を最初に選んだが、高虎が辞退して嘉明を推薦したので、加増して会津に移封したという話があります。しかし嘉明は65歳で、伊予松山城もまだできていないし藩政の基礎を固めている最中で、瀬戸内から寒冷地への移封は大変だったよう。嘉明は老骨に鞭打って、積極的に会津藩内の整備に取り組み、白河街道を整備して、蒲生氏郷が名づけた日野町、火玉村を甲賀町、福永村と改名したりするも、4年後の1631年に69歳で死去。

2-7、2代目加藤明成、飢饉、会津騒動がぼっ発

嘉明の没後は息子の明成が継承したが、1636年の江戸城の手伝い普請で堀の開削費用とか、地震で傾いていたままの若松城の天守の5層への改築工事、出丸工事といった多額の出費で藩の財政が逼迫しました。

そして年貢を厳しく取り立てることでしのいだのですが、1642年と翌年に飢饉となり、領内の農民2000人が土地を捨てて他藩に逃散する騒動に。また明成は、父嘉明からの家老堀主水と対立して1639年4月、堀が一族300余人を引き連れて若松城に向けて発砲して橋を焼き払い芦野原の関所を突破して出奔、激怒した明成が主水を追跡という、会津騒動といわれた内紛騒ぎに。

その後、この堀主水は明成が城の無断改築や関所の新設をしていると幕府に訴えたために、将軍家光の裁断で主君に非があるのは認めるが、主君に背いて幕府に訴えたのは堀主水の義に外れた行為として、堀主水は明成に引き渡されて拷問死という結末に。1643年5月、明成は幕府に会津40万石を返上、幕府は所領を没収して改易としたが、明成の嫡子明友に石見吉永藩1万石を与え、かろうじて加藤家は存続。

3-1、会津松平家時代

保科正之が入部後の会津藩について解説していきますね。

3-2、保科正之の入部で、会津松平家の時代へ

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土津神社, パブリック・ドメイン, リンクによる

1643年、出羽山形藩から3万石加増された23万石となって、保科正之が入部しました。以後会津藩は会津松平家が幕末まで続くことに。

保科正之は2代将軍秀忠の庶子で高遠藩主の保科正光の養子として育てられたが、成人後に3代将軍で異母兄の家光の絶大な信頼を受け、幕政に参加しました。そして家光没後、11歳の嫡子家綱が4代将軍となったのちには家光の遺言で後見、補佐を務めることになったそう。正之は幕政では、特に明暦の大火後、江戸城天守閣の再建を中止して江戸庶民の救済に当たるなどの善政を敷いたことで有名ですが、そのために会津への帰国は1647年と晩年の数年間だけに。しかし正之は藩政でも手腕を発揮して、会津松平家の藩政は正之の治世で確立したのですね。

また、会津藩の実高は幕末までに40万石を上回ったということで、徳川御三家の水戸藩より実収入が多く、藩の軍事力もかなりのものだったよう。なお、正之は山形藩主時代に保科家の家宝類を養父正光の異母弟で保科家を相続した正貞に譲り、徳川一門として認められて、葵紋の使用と松平姓を許されていたのですが、養子としてくれた保科家への恩義と家臣に対する心情などから保科姓を名乗り続け、正之の孫の代から会津松平家を名乗るように。

\次のページで「3-3、正之が確立したことは」を解説!/

3-3、正之が確立したことは

会津藩は、正之の時代の1663年に日本初の老齢年金制度を創設しました。正之は藩内に合計155人以上いた90歳以上の老人に対し、一日に米5合を、年間にして約1石8斗、米俵で4俵半(約270キロ)を支給し、本人が取りに来れないときは子や孫が受け取ることも認めていたそう。

また、凶作による飢饉への備えとして、1655年には社倉制度を開始。これは藩が7000俵余りの米を買い入れて各代官に預けておき、翌年から通常にくらべて低率の2割の利子で百姓に貸し付けて、その利子で蓄えるべき米を増やし、凶作の備えとしたのですね。そして実際に飢饉が起こったときは、その米を病人、工事人足、新田開発者、火災被害者などには無償で提供したということで、正之が領内の23か所につくった社倉の備蓄米は、最大で5万俵になったということ。

なお、正之は1668年4月に会津藩の方針を決め藩是としたのが、「家訓15条」といわれるもので、「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」「婦女子の言、一切聞くべからず」などが有名で、以後、会津藩主から藩士たちの精神的な支柱となりました。

3-4、財政危機で破綻状態に

1749年、4代藩主容貞(かたさだ)の時代に、不作と厳しい年貢増と取り立てが原因で、会津藩最大の百姓一揆が勃発しました。この一揆に対して藩は、鎮定する代わりに年貢減免、首謀者の処刑と入牢などで対処。

江戸時代も後期になると、どの藩の財政も悪化していましたが、宝暦年間での会津藩の財政事情は、借金が36万4600両、毎年4万2200両の返済を迫られていたという状態。しかも藩は農政改革をおこない年貢を定免法に改定したが、逆に借金は40万両に増えたということで、1767年には財政再建を任されていた井深主水が藩を捨てて逃亡する事件まで起こったということ。そしてその後も手形の発行などを繰り返して藩の借金は総額57万両にも及び、実質的な破綻状態に。

3-5、家老田中玄宰の藩政改革が成功

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1781年、5代藩主容頌(かたさだ)は家老の家柄で34歳の田中玄宰(はるなか)を登用。ただでさえ財政破綻状態の会津藩にさらに天明の大飢饉、利根川や荒川の改修、江戸城の手伝い普請、江戸会津藩邸の消失、改築という難題を乗り越えるために、玄宰は財政だけでなく藩政のすべてに対して改革を願い出たが受け入れられなかったので、病と称して一時辞職し、その間に経済なども研究して1年後に復帰して「天明の大改革」建議書を上申したのですね。

そして殖産興業が奨励されて、農民や町人に薬用ニンジン、紅花、養蚕、藍、棉などの栽培を奨励し、また酒造り、漆器、絵ろうそく等の製造を指導するなどで、今日の会津地方の伝統産業の基礎が確立され、また藩校の日新館を創設して、藩士たちの教育改革を行い、役人の不正の処罰、教化主義という刑罰制度の改正をおこなって、会津藩は幕末までに雄藩といわれるための基礎を築いたそう。この成功は、隣藩の白河藩主で老中だったあの松平定信にも高く評価されたということです。

3-7、戊辰戦争で朝敵とされた会津藩

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1862年閏8月、9代藩主松平容保は文久の改革後に京都守護職に任じられました。幕末の動乱でこの任務は火中の栗を拾う様なものと、国元から家老の西郷頼母らが江戸へ上ってまで反対し、容保も再三辞退したが、政治総裁職の越前福井藩主松平春嶽が、藩祖保科正之の家訓を盾に迫ったために、藩主容保は受けざるを得ず、容保の決意に家臣たちは号泣しつつ京都へ行ったということです。

そして容保は会津藩兵を引き連れて上洛、壬生の浪士であった新選組を預かりとして、会津藩士と洛中の過激派尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担い、容保は孝明天皇からご宸翰を賜るほどの絶大な信頼を得るまでに。1863年には、薩摩藩の呼びかけではっきり言ってテロリストと化していた過激な長州藩の影響力を八月十八日の政変で排除して禁門の変でも長州軍と戦い、長州征伐にも参加したなど、幕府側の前面に立っていたが、1867年1月に孝明天皇が崩御、同年10月14日には大政奉還で江戸幕府が消滅。

1868年1月、新政府軍との鳥羽伏見の戦いがぼっ発し、会津藩と新選組は、桑名藩や旧幕府軍とともに戦ったが敗北。15代将軍徳川慶喜は、容保と弟の桑名藩主で京都所司代の松平定敬らを半ば強引に引き連れて開陽丸で江戸へ遁走したが、慶喜は、事態収拾を勝海舟に丸投げしてさっさと謹慎、容保は会津藩兵たちの江戸帰還後、江戸退去を命令されて会津へ。

そして朝敵として戦う意思のないことを再三新政府軍に申し入れるが、新政府軍は会津藩を朝敵と見なし、降伏を受け入れないため、しかたなく奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗、若松城に1カ月籠城して戦い、白虎隊の悲劇など必死の攻防もむなしく敗北に。降伏によって会津藩領は会津松平家から没収、藩主容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となり、1869年に容保の嫡男容大の家名存続が許され、極寒の陸奥国斗南(現青森県むつ市)に斗南藩2万石に移封されました。

3-8、明治後の会津藩

廃藩置県の前、会津藩の旧領は明治政府民政局の直轄地となり、若松城下には明治政府民政局が設置されましたが、1871年の廃藩置県で会津地方は若松県となり、1876年には旧二本松藩などと旧の磐城平藩と中村藩と合併されて福島県になりました。

奥州の抑えとして名のある武将が入部して若松城が築かれ、明治まで親藩が統治した藩

会津地方は戦国時代には名門葦名氏が治め、伊達政宗に敗れた後は政宗の支配となり、次に信長も期待した蒲生氏郷を、秀吉が恐れたか見込んだか破格の90万石で入部し、立派な若松城を築いて会津の城下町の基礎を確立しました。

その後、上杉景勝、加藤嘉明、再び蒲生を経て将軍家光の異母弟保科正之が会津松平家の祖として入部。以後、飢饉や財政破綻を藩政改革で乗り切り、幕末には徳川家に忠誠を誓う質実剛健な雄藩として活躍を。幕末の藩主松平容保は、信頼のおける忠実な人間として孝明天皇に絶大な信頼をされましたが、新政府となった薩摩藩や長州藩のスケープゴートにされた感が強く、戊辰戦争ではいわれなく朝敵とされて悲劇の敗戦を経験することに。

現代でも会津では戦争というのは太平洋戦争ではなく戊辰戦争をさすというほどですが、会津藩出身者でその後の明治日本を代表する人材が輩出し、また今に至るも質実剛健な武士のイメージを濃厚に伝え、歴史ファンだけでなく外国人にも畏敬の念を起こさせる存在であり続けるのは、伝統ある会津藩ならではといってもいいのではないでしょうか。

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幕末日本史歴史江戸時代

3分で簡単「会津藩」武士の鑑のイメージ?その歴史・悲劇をわかりやすく歴女が解説

今回は会津藩を取り上げるぞ。堅実でまさに江戸時代の武士の鑑というイメージがありますが、どんな藩だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の武士の歴史には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、会津藩について5分でわかるようにまとめた。

1-1、会津藩(あいづはん)とは

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会津藩は江戸時代に存在した、陸奥会津郡が中心の現在の福島県西部、新潟県と栃木県の一部を治めた藩のことです。藩庁は若松城(現会津若松市)で、戦国時代以降、葦名氏から伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝が治めたのち、保科正之がはいって、徳川家の親藩として会津松平家が明治維新まで続きました。

この会津藩についてご紹介していきますね。

2-1、会津藩の歴史、会津松平家以前

会津藩は奥羽の外様大名、伊達家、上杉家などの抑えとして重要なスポットです。そして会津藩といえば松平家が有名ですが、松平家が入るまでに会津藩の基礎を築いた蒲生氏郷、加藤嘉明などが領主だったということ。

ということで、戦国時代から江戸時代、松平家になるまでの会津の領主の変遷や歴史についてご紹介しますね。

2-2、戦国時代は葦名氏

戦国時代の会津地方は、戦国大名の蘆名(あしな)家の領国で黒川(後の会津若松)が本拠でした。蘆名氏は自称会津守護として一時勢威があったのですが、後継者争いと家臣団の権力闘争などの内紛で次第に衰退していき、1589年に当時の当主だった蘆名義広が摺上原の戦いで伊達政宗に大敗。葦名義広は実家の常陸佐竹家のもとに落ちのびたために蘆名家は滅亡して会津は政宗の支配下に。

2-3、蒲生氏郷時代、若松城を築き、会津藩の基礎を築いた

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不明。 – 会津若松市立会津図書館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

 

1590年7月、豊臣秀吉は小田原征伐で後北条家を滅ぼしたあと、8月に会津黒川に入って奥州仕置を行ないました。そこで会津領主だった伊達政宗は小田原征伐に参陣したが、前年の合戦での惣無事令違反などで会津地方と周辺地域を没収されて、会津は蒲生氏郷に。最初は42万石、のちに太閤検地と加増があり、92万石になったそう。

蒲生氏郷は子供の頃から織田信長に見込まれて次女の婿にされた期待の武将で、伊勢松坂12万石からの転封でした。氏郷は黒川を自分の故郷にちなんで若松と改め、故郷の近江商人や前任地の松坂の商人や職人も招聘し、城下町を建設して会津若松の商工業を発展させ、また92万石らしい7層の天守を持つ立派な会津若松城を築いて会津藩の基礎を築きました

しかし氏郷は1595年に41歳で死去、嫡子の秀行は13歳で家康の娘と結婚して跡を継いだが、蒲生家の重臣たちの内紛が治められず、それを理由に秀吉が宇都宮12万石に減封のうえに転封に。

2-4、上杉景勝時代、家康の会津征伐がぼっ発

1598年、秀吉の命で上杉景勝が、蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた会津120万石に加増移封、会津中納言と呼ばれるようになりました。しかし景勝の会津入部間もなく秀吉が死去。

そして徳川家康の台頭で、石田三成が家康に対抗するために景勝の家老の直江兼続に接近し、兼続は景勝と1599年8月に会津に帰国。領内の山道を開いて武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備強化をしたのですね。兼続と景勝は、翌年2月から若松の北西3キロの地点に、あらたに神指城の築城を開始したのですが、これらの軍備増強は隣国越後領主の堀秀治、出羽領主の最上義光らが家康に報告。また上杉家中の藤田信吉らの避戦派が出奔を余儀なくされたなどで、家康は景勝に弁明を求める使者を出すも景勝は拒絶、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始したが、小山評定でもどり関ヶ原合戦につながることに

家康はこのとき、景勝のけん制のために、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に残し、直江兼続は家康追撃を、北の最上義光や伊達政宗らの攻勢をあって断念。関ヶ原合戦後、景勝は11月に家康との和睦に重臣を上洛させ、自らも結城秀康に伴われて伏見城で家康に謝罪しました。この結果改易は免れたが、上杉家は会津など90万石を没収されて、出羽米沢30万石の減封に

2-5、再び蒲生氏の時代、内紛と大地震がぼっ発

1601年、会津から宇都宮へ移封した氏郷の息子の蒲生秀行が60万石に加増されて入部しました。この加増は関ヶ原の東軍の中でも群を抜いているのは、秀行の正室が家康の娘だからだそう。しかし秀行が執政に重臣で津川城代2万石の岡重政を任命したことが原因となり、以前からの家中内紛が再燃。そして1611年8月に会津地震が起きて若松城の城下町のうち2万戸余が倒壊して死者は3700名にものぼり、また山崩れで23の村が埋没、そして若松城天守の石垣も崩れて天守も傾くという大惨事に。藩主の秀行はこの心労のためか地震の翌年5月に30歳で急死。

その後は長男の忠郷(家康の孫)が跡を継ぎ、忠郷は1624年に従兄弟になる将軍家光、伯父の大御所秀忠を江戸屋敷に招いたりと、江戸幕府との親密な関係を強化。また会津領内で採掘された金は280万両にもなり、このころが全盛期だったということです。しかし忠郷は1627年に25歳で急死し、跡継ぎなくして蒲生家は改易となったが、同母弟で出羽上山藩主の忠知が当主となり、伊予松山へ24万石で減封されて存続に。忠知もこの7年後に跡継ぎなく30歳で急死したので蒲生家は断絶に。

2-6、加藤嘉明の時代、藩内の整備

1627年2月、伊予松山藩20万石から加藤嘉明が40万石に加増されて会津に入部しました。嘉明は若くして豊臣秀吉の家臣として仕えで賤ヶ岳の七本槍の1人で、淡路を領した後に水軍を率いて朝鮮出兵などでも活躍、関ヶ原の戦いでは本戦で東軍の将として武功を立てたことで、伊予松山で20万石をもらった人です。

この会津の地は米沢藩上杉家や伊達家などの奥羽の鎮守として重要な地であったため、大御所の秀忠が藤堂高虎を最初に選んだが、高虎が辞退して嘉明を推薦したので、加増して会津に移封したという話があります。しかし嘉明は65歳で、伊予松山城もまだできていないし藩政の基礎を固めている最中で、瀬戸内から寒冷地への移封は大変だったよう。嘉明は老骨に鞭打って、積極的に会津藩内の整備に取り組み、白河街道を整備して、蒲生氏郷が名づけた日野町、火玉村を甲賀町、福永村と改名したりするも、4年後の1631年に69歳で死去。

2-7、2代目加藤明成、飢饉、会津騒動がぼっ発

嘉明の没後は息子の明成が継承したが、1636年の江戸城の手伝い普請で堀の開削費用とか、地震で傾いていたままの若松城の天守の5層への改築工事、出丸工事といった多額の出費で藩の財政が逼迫しました。

そして年貢を厳しく取り立てることでしのいだのですが、1642年と翌年に飢饉となり、領内の農民2000人が土地を捨てて他藩に逃散する騒動に。また明成は、父嘉明からの家老堀主水と対立して1639年4月、堀が一族300余人を引き連れて若松城に向けて発砲して橋を焼き払い芦野原の関所を突破して出奔、激怒した明成が主水を追跡という、会津騒動といわれた内紛騒ぎに。

その後、この堀主水は明成が城の無断改築や関所の新設をしていると幕府に訴えたために、将軍家光の裁断で主君に非があるのは認めるが、主君に背いて幕府に訴えたのは堀主水の義に外れた行為として、堀主水は明成に引き渡されて拷問死という結末に。1643年5月、明成は幕府に会津40万石を返上、幕府は所領を没収して改易としたが、明成の嫡子明友に石見吉永藩1万石を与え、かろうじて加藤家は存続。

3-1、会津松平家時代

保科正之が入部後の会津藩について解説していきますね。

3-2、保科正之の入部で、会津松平家の時代へ

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土津神社, パブリック・ドメイン, リンクによる

1643年、出羽山形藩から3万石加増された23万石となって、保科正之が入部しました。以後会津藩は会津松平家が幕末まで続くことに。

保科正之は2代将軍秀忠の庶子で高遠藩主の保科正光の養子として育てられたが、成人後に3代将軍で異母兄の家光の絶大な信頼を受け、幕政に参加しました。そして家光没後、11歳の嫡子家綱が4代将軍となったのちには家光の遺言で後見、補佐を務めることになったそう。正之は幕政では、特に明暦の大火後、江戸城天守閣の再建を中止して江戸庶民の救済に当たるなどの善政を敷いたことで有名ですが、そのために会津への帰国は1647年と晩年の数年間だけに。しかし正之は藩政でも手腕を発揮して、会津松平家の藩政は正之の治世で確立したのですね。

また、会津藩の実高は幕末までに40万石を上回ったということで、徳川御三家の水戸藩より実収入が多く、藩の軍事力もかなりのものだったよう。なお、正之は山形藩主時代に保科家の家宝類を養父正光の異母弟で保科家を相続した正貞に譲り、徳川一門として認められて、葵紋の使用と松平姓を許されていたのですが、養子としてくれた保科家への恩義と家臣に対する心情などから保科姓を名乗り続け、正之の孫の代から会津松平家を名乗るように。

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