日本史

5分でわかる「会津藩」武士の鑑のイメージ?その歴史・悲劇をわかりやすく歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は会津藩を取り上げるぞ。堅実でまさに江戸時代の武士の鑑というイメージがあるが、どんな藩だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の武士の歴史には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、会津藩について5分でわかるようにまとめた。

1-1、会津藩(あいづはん)とは

image by PIXTA / 44698804

会津藩は江戸時代に存在した、陸奥会津郡が中心の現在の福島県西部、新潟県と栃木県の一部を治めた藩のことです。藩庁は若松城(現会津若松市)で、戦国時代以降、葦名氏から伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝が治めたのち、保科正之がはいって、徳川家の親藩として会津松平家が明治維新まで続きました。

この会津藩についてご紹介していきますね。

2-1、会津藩の歴史、会津松平家以前

会津藩は奥羽の外様大名、伊達家、上杉家などの抑えとして重要なスポットです。そして会津藩といえば松平家が有名ですが、松平家が入るまでに会津藩の基礎を築いた蒲生氏郷、加藤嘉明などが領主だったということ。

ということで、戦国時代から江戸時代、松平家になるまでの会津の領主の変遷や歴史についてご紹介しますね。

2-2、戦国時代は葦名氏

戦国時代の会津地方は、戦国大名の蘆名(あしな)家の領国で黒川(後の会津若松)が本拠でした。蘆名氏は自称会津守護として一時勢威があったのですが、後継者争いと家臣団の権力闘争などの内紛で次第に衰退していき、1589年に当時の当主だった蘆名義広が摺上原の戦いで伊達政宗に大敗。葦名義広は実家の常陸佐竹家のもとに落ちのびたために蘆名家は滅亡して会津は政宗の支配下に。

2-3、蒲生氏郷時代、若松城を築き、会津藩の基礎を築いた

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不明。 – 会津若松市立会津図書館所蔵品。, パブリック・ドメイン, リンクによる

 

1590年7月、豊臣秀吉は小田原征伐で後北条家を滅ぼしたあと、8月に会津黒川に入って奥州仕置を行ないました。そこで会津領主だった伊達政宗は小田原征伐に参陣したが、前年の合戦での惣無事令違反などで会津地方と周辺地域を没収されて、会津は蒲生氏郷に。最初は42万石、のちに太閤検地と加増があり、92万石になったそう。

蒲生氏郷は子供の頃から織田信長に見込まれて次女の婿にされた期待の武将で、伊勢松坂12万石からの転封でした。氏郷は黒川を自分の故郷にちなんで若松と改め、故郷の近江商人や前任地の松坂の商人や職人も招聘し、城下町を建設して会津若松の商工業を発展させ、また92万石らしい7層の天守を持つ立派な会津若松城を築いて会津藩の基礎を築きました

しかし氏郷は1595年に41歳で死去、嫡子の秀行は13歳で家康の娘と結婚して跡を継いだが、蒲生家の重臣たちの内紛が治められず、それを理由に秀吉が宇都宮12万石に減封のうえに転封に。

2-4、上杉景勝時代、家康の会津征伐がぼっ発

1598年、秀吉の命で上杉景勝が、蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた会津120万石に加増移封、会津中納言と呼ばれるようになりました。しかし景勝の会津入部間もなく秀吉が死去。

そして徳川家康の台頭で、石田三成が家康に対抗するために景勝の家老の直江兼続に接近し、兼続は景勝と1599年8月に会津に帰国。領内の山道を開いて武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備強化をしたのですね。兼続と景勝は、翌年2月から若松の北西3キロの地点に、あらたに神指城の築城を開始したのですが、これらの軍備増強は隣国越後領主の堀秀治、出羽領主の最上義光らが家康に報告。また上杉家中の藤田信吉らの避戦派が出奔を余儀なくされたなどで、家康は景勝に弁明を求める使者を出すも景勝は拒絶、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始したが、小山評定でもどり関ヶ原合戦につながることに

家康はこのとき、景勝のけん制のために、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に残し、直江兼続は家康追撃を、北の最上義光や伊達政宗らの攻勢をあって断念。関ヶ原合戦後、景勝は11月に家康との和睦に重臣を上洛させ、自らも結城秀康に伴われて伏見城で家康に謝罪しました。この結果改易は免れたが、上杉家は会津など90万石を没収されて、出羽米沢30万石の減封に

2-5、再び蒲生氏の時代、内紛と大地震がぼっ発

1601年、会津から宇都宮へ移封した氏郷の息子の蒲生秀行が60万石に加増されて入部しました。この加増は関ヶ原の東軍の中でも群を抜いているのは、秀行の正室が家康の娘だからだそう。しかし秀行が執政に重臣で津川城代2万石の岡重政を任命したことが原因となり、以前からの家中内紛が再燃。そして1611年8月に会津地震が起きて若松城の城下町のうち2万戸余が倒壊して死者は3700名にものぼり、また山崩れで23の村が埋没、そして若松城天守の石垣も崩れて天守も傾くという大惨事に。藩主の秀行はこの心労のためか地震の翌年5月に30歳で急死。

その後は長男の忠郷(家康の孫)が跡を継ぎ、忠郷は1624年に従兄弟になる将軍家光、伯父の大御所秀忠を江戸屋敷に招いたりと、江戸幕府との親密な関係を強化。また会津領内で採掘された金は280万両にもなり、このころが全盛期だったということです。しかし忠郷は1627年に25歳で急死し、跡継ぎなくして蒲生家は改易となったが、同母弟で出羽上山藩主の忠知が当主となり、伊予松山へ24万石で減封されて存続に。忠知もこの7年後に跡継ぎなく30歳で急死したので蒲生家は断絶に。

2-6、加藤嘉明の時代、藩内の整備

1627年2月、伊予松山藩20万石から加藤嘉明が40万石に加増されて会津に入部しました。嘉明は若くして豊臣秀吉の家臣として仕えで賤ヶ岳の七本槍の1人で、淡路を領した後に水軍を率いて朝鮮出兵などでも活躍、関ヶ原の戦いでは本戦で東軍の将として武功を立てたことで、伊予松山で20万石をもらった人です。

この会津の地は米沢藩上杉家や伊達家などの奥羽の鎮守として重要な地であったため、大御所の秀忠が藤堂高虎を最初に選んだが、高虎が辞退して嘉明を推薦したので、加増して会津に移封したという話があります。しかし嘉明は65歳で、伊予松山城もまだできていないし藩政の基礎を固めている最中で、瀬戸内から寒冷地への移封は大変だったよう。嘉明は老骨に鞭打って、積極的に会津藩内の整備に取り組み、白河街道を整備して、蒲生氏郷が名づけた日野町、火玉村を甲賀町、福永村と改名したりするも、4年後の1631年に69歳で死去。

2-7、2代目加藤明成、飢饉、会津騒動がぼっ発

嘉明の没後は息子の明成が継承したが、1636年の江戸城の手伝い普請で堀の開削費用とか、地震で傾いていたままの若松城の天守の5層への改築工事、出丸工事といった多額の出費で藩の財政が逼迫しました。

そして年貢を厳しく取り立てることでしのいだのですが、1642年と翌年に飢饉となり、領内の農民2000人が土地を捨てて他藩に逃散する騒動に。また明成は、父嘉明からの家老堀主水と対立して1639年4月、堀が一族300余人を引き連れて若松城に向けて発砲して橋を焼き払い芦野原の関所を突破して出奔、激怒した明成が主水を追跡という、会津騒動といわれた内紛騒ぎに。

その後、この堀主水は明成が城の無断改築や関所の新設をしていると幕府に訴えたために、将軍家光の裁断で主君に非があるのは認めるが、主君に背いて幕府に訴えたのは堀主水の義に外れた行為として、堀主水は明成に引き渡されて拷問死という結末に。1643年5月、明成は幕府に会津40万石を返上、幕府は所領を没収して改易としたが、明成の嫡子明友に石見吉永藩1万石を与え、かろうじて加藤家は存続。

3-1、会津松平家時代

保科正之が入部後の会津藩について解説していきますね。

3-2、保科正之の入部で、会津松平家の時代へ

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土津神社, パブリック・ドメイン, リンクによる

1643年、出羽山形藩から3万石加増された23万石となって、保科正之が入部しました。以後会津藩は会津松平家が幕末まで続くことに。

保科正之は2代将軍秀忠の庶子で高遠藩主の保科正光の養子として育てられたが、成人後に3代将軍で異母兄の家光の絶大な信頼を受け、幕政に参加しました。そして家光没後、11歳の嫡子家綱が4代将軍となったのちには家光の遺言で後見、補佐を務めることになったそう。正之は幕政では、特に明暦の大火後、江戸城天守閣の再建を中止して江戸庶民の救済に当たるなどの善政を敷いたことで有名ですが、そのために会津への帰国は1647年と晩年の数年間だけに。しかし正之は藩政でも手腕を発揮して、会津松平家の藩政は正之の治世で確立したのですね。

また、会津藩の実高は幕末までに40万石を上回ったということで、徳川御三家の水戸藩より実収入が多く、藩の軍事力もかなりのものだったよう。なお、正之は山形藩主時代に保科家の家宝類を養父正光の異母弟で保科家を相続した正貞に譲り、徳川一門として認められて、葵紋の使用と松平姓を許されていたのですが、養子としてくれた保科家への恩義と家臣に対する心情などから保科姓を名乗り続け、正之の孫の代から会津松平家を名乗るように。

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