古代日本の歴史区分のひとつ「古墳時代」。その名の通り古墳が盛んに造られたことからこう呼ばれるようになった。ですが、なぜ古墳が造られたんでしょうな?
今回は「古墳時代」の出来事や古墳について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。古代日本の歴史ロマンに惹かれ、今回のテーマを選んで勉強。わかりやすくまとめた。

1.古代日本の様子

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日本史の始まり「旧石器時代」

日本の歴史は「旧石器時代」から始まります。「旧石器」は石と石をぶつけて欠けさせ、手で握りやすいようにしただけの簡素な打製石器でした。これを人類が使い始めたのは250万年前です。旧石器時代では、旧石器を使うばかりで、人々はまだ土器も金属器も知りませんでした。

他の動物と違って人類は道具を使うすべがありましたが、それでもまだまだ原始的な世界。食料は巨大なナウマンゾウや、森の木の実などでした。けれど、そういった日々の糧を得るために狩猟や採取もひとりでは危険です。たったひとりでナウマンゾウに立ち向かうなんて自殺行為ですよね。そのため、人々はすでに群れを作って集団で行動していました。集団になればリーダーが出てくるものですが、しかし、旧石器時代の集団における上下関係など、社会的な構成ははっきりしません。

進化する縄文時代

旧石器時代に続く縄文時代では打製石器の改良が行われ、石を磨いて加工した磨製石器へと進化していきました。これを「旧石器」に対して「新石器」と呼びます。そして、住居も洞窟や木の下ではなく、竪穴式住居へと変わって人々は定住をはじめました。人が住めば当然、ゴミがでますよね。そのゴミの化石から当時の人々が何を食べていたのかがわかり、さらにどんな暮らしをしていたかまでもわかってくるのです。この時代のゴミ捨て場を「貝塚」といいます。

貝塚の発見からさらに縄目の文様がついた縄文土器や、ハート形土偶や赤口器土偶など、さまざまな土偶が出土しました。また、土偶の発見によって縄文人が人型の霊的存在を信じていたことが判明したのです。

しかし、いくら住居やお墓を調査しても出土品に差はありませんでした。そういうことから、縄文時代にもまだ身分や貧富の差はなかったと考えられています。

大きく環境の変わった弥生時代

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人々の差に関して変化が訪れたのは弥生時代になってから。一万年以上続いた縄文時代の終盤に、中国や朝鮮半島からやってきた「渡来人」たちによって日本に「稲作」が伝わったことにはじまります。「稲作」は水田でお米を生産すること。つまり、農業のはじまりですね。農業の伝来によって狩猟と採取がメインだった縄文人たちの生活が一変しました。

狩猟も採取も家から離れて危険を犯してやらなければなりません。しかし、狩るはずが逆に動物にやられてしまったり、木の実を探しているうちに迷子になって帰れなくなるなんてことも起こりえます。

稲作は家の近くで行える比較的安全な食料確保の手段でした。もちろん、気候や自然災害、稲の病気など不作になる原因は現代よりもたくさんあります。稲作に向かない地域には農耕は根付きませんでした。それでも米は長期保存のきく食料で、稲作は狩猟と採取以上に安定した食料供給を可能にしたのです。

戦争の始まり

食料供給が安定化すると、飢えて死ぬ確立が下がりますよね。そうすると、集団の人口は増え、数軒しかなかった集落は「ムラ」へと発展していきました。

人が増えれば働き手も増えるということ。そのお陰で田んぼを拡張し、狩りはより安全になっていきます。こうしてさらに食料確保が安定していくわけですね。発展の中心となった「米」は一族の繁栄に欠かせないものとなったのです。

そのため、弥生時代の米は富と同意義になりました。稲作に向く土地は当然裕福になり人口も増えますが、向かない土地は米が少なく、両者の間に貧富の差が発生します。

しかし、悲しいかな、弥生時代は涼しい気候が続き、冷夏によって米が不足することが多くなりました。こうして、弥生人たちの間に米を奪い合う争いが始まったのです。

\次のページで「リーダーと身分の発生」を解説!/

リーダーと身分の発生

弥生時代は石器に加え、鉄器が伝わっていた時代でした。人々はよそのムラに攻め入るための武器をすでに持っていたわけですね。

しかし、襲われる側も黙ってやられるわけにはいきません。人々は自分たちのムラを守るため、周りに堀を巡らせて「濠(ごう)」を造り、逆茂木や乱杭、さらに高い柵を築いて外敵の侵入を防ぎます。このようなムラを「環濠集落」と言い、弥生時代には欠かせない存在となりました。

このとき、攻める側にも守る側にも必ず集団を引っ張るリーダーがあらわれました。リーダーは農耕や狩猟、建築を通して集団の信頼を得てなるもの、あるいは、天候や作物の出来不出来を占う宗教的な権威を持った指導者(司祭)です。

やがてリーダーはムラの長となります。さらに大きい集団だとクニを形成してリーダーは王になりました。ここでようやく集団の中で身分の差が生まれたわけですね。

2.多くの古墳を建造した古墳時代

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さまざまな古墳の形

奈良県を中心とする近畿の各地に古墳が造られるようになったのは三世紀後半。古墳を近くで見るとなんだかお堀に囲まれた森があるだけのように見えますね。しかし、空の上から見てみると、以下のようなさまざまな形をしていることがわかります。

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1.円墳

古墳時代を通じて造られたお椀を逆さにしたような丸い古墳。小~中規模のものが多くみられます。写真は埼玉県行田市にある日本最大の円墳「丸墓山古墳」。

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2.方墳

四角い形をした古墳。円墳の次に多く造られました。写真は大阪府堺市の銅亀山古墳。

\次のページで「どうして古墳が造られたの?」を解説!/

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Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, リンクによる

3.上円下方墳

二段になった古墳で、下段が四角、上段が円形となっています。けっこう珍しい形で、六つしか確認されていません。写真は奈良県奈良市の石のカラト古墳。

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Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省, Attribution, リンクによる

4.前方後円墳

円墳に方墳がくっついた鍵穴のような形をした古墳。世界に古墳は数あれど、前方後円墳は日本でしか見られない形です。三世紀中ごろから七世紀初頭まで作られ続けた日本の代表的な古墳形式。写真は世界最大級の古墳「大仙古墳」。

どうして古墳が造られたの?

ところで、なぜこのような巨大な古墳が造られたのかご存知でしょうか?

そもそも、古墳とは古代のお墓でした。それも身分の高い人が入るもので、大きさを誇示することから権力の象徴でもあったのです。なので、王族や貴族は大型の古墳をこぞって造りました。

そして、古墳のまわりには「埴輪(はにわ)」という土の焼物が置かれました。埴輪は兵士や馬、女性、家などさまざまな形を模してつくられた人形です。埴輪は祭祀や魔除けのために並べられたとされています。

ただ、かつては王様など偉い人が亡くなると、王様の遺体と一緒に召使いたちが生き埋めにされていたことがありました。これは王様の死後も変わらずに召使いたちが死んだ王様に仕えるというスピリチュアルな理由です。しかし、人口=国力の世界で無為に人間が減るのは避けたいところですし、生き埋めなんてあんまりですよね。だから召使いの代わりに埴輪を置くようになったという説が有力視されています。

また、遺体と一緒に埋められた副葬品などによって、当時の生活や風俗についてたくさんのことがわかりました。

古墳は誰が造ったのか

ところで、大仙古墳をはじめとした多くの古墳が集中しているのが近畿地方でした。つまり、近畿地方に古墳をつくれるほど多くの権力者がいたということです。そして、それは近畿地方に大規模な勢力があったことを示しています。

いったい、古代の近畿には何があったのでしょうか?

日本の歴史書『日本書紀』には、縄文時代の末期から弥生時代早期にあたる紀元前660年、神武天皇が近畿を平定し、奈良の橿原宮で初代天皇として即位した、と書かれていました。それからいくつもの地方国家が連合し、五世紀ごろには近畿を中心に東北から九州にまでおよぶ巨大な大和朝廷(大和政権)が成立したと考えられています。そして、大和朝廷を治める王は当然「天皇」なのですが、その当時は「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。

つまり、古墳を造ったのは大王と大和朝廷に仕える貴族たち、そして豪族だったのです。

現代で古墳を管理するのは宮内庁

大阪府堺市に現存する日本最大級の「大仙古墳」。その称号に高わぬ大きさで、長さ525メートル、高さ39メートル、さらに外堀の周囲は3キロという超巨大な古墳です。大仙古墳を一目拝もうとしても、外周から見えるのは一番外の堀だけ。なかには入れません。記載している写真は空から撮ったもので、こうでもしなければとても鍵穴の形をしているなんてわかりませんよね。

そんな大仙古墳ですが、私が学生のころは「仁徳天皇陵」と呼ばれていました。その名の通り、「仁徳天皇」のお墓(古墳)とみられていたからです。

ところが、現在において天皇のお墓たる古墳を管理しているのは宮内庁という天皇家に関する仕事をするお役所。当然、大仙古墳もその管轄に含まれます。

本当なら大仙古墳のなかを調査していったい誰のお墓なのかを知りたいところですが、大仙古墳を管理している宮内庁が調査を許してくれません。天皇のお墓を調査するなんて畏れおおいということなのでしょう。

そういうわけで、大仙古墳が本当に仁徳天皇のお墓なのかは誰にもわからないのです。そこで旧来は「仁徳天皇陵」と呼んでいたのを、地名からとった「大仙古墳」と呼ばれるようになったのでした。

\次のページで「3.古墳時代の日本と外国」を解説!/

3.古墳時代の日本と外国

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朝鮮半島へ出兵した大和朝廷

弥生時代にはすでに日本に大陸から渡来人がやってきていましたね。彼らは稲作や青銅、鉄器に限らず、織物に土木技術などさまざまなものを日本にもたらしてくれました。

そして、四世紀ごろ、日本の一大国家となっていた大和朝廷は鉄資源を求めて海を渡り、朝鮮半島にあった高句麗や新羅といった国々と戦っていた、と高句麗の王・好太王(広開土王)の碑に刻まれています。

倭の五王時代と中国の関係

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中国における日本の記録は、弥生時代にあったとされる「邪馬台国」の「卑弥呼」に関する記録が記された「魏志倭人伝」(正確には『「魏書」東夷伝倭人条』)以降、しばらくありませんでした。

再び、中国の歴史書に日本の記述が出たのは五世紀。当時の中国の一部を支配していた「宋」の歴史書『宋書』の倭人伝です。そこには、「倭(日本)の五王」といって、五代に渡る日本の王が宋に朝貢をしていたという記録が残っていました。

「朝貢」というのは、強い国に対して貢物をすることです。そうすることによって、貢物をした国が強い国の子分的な存在になり、いざというときに強い国に守ってもらったりと恩恵を与えてもらえるのでした。

五王の名前は、宋に合わせてそれぞれ「讃、珍、済、興、武」と書かれていました。もちろん、五人とも大和朝廷の大王ですが、どれがどの大王かという推測はされつつも、確定されてはいません。

この当時の航海が非常に大変なものだったとはいえ、ちゃんと日本は外国と交流をもっていたんですね。

古墳がたくさんつくられたから「古墳時代」

弥生時代に社会構想ができあがり、権力者が生まれた結果、その権力者のお墓として造られたのが「古墳」です。そして、古墳が多く造られたことからその名がついた「古墳時代」。日本でのみ見られる前方後円墳をはじめ、円墳などさまざまな古墳が北は東北から南は九州まで、全国各地に分布します。

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古墳時代日本史歴史

3分で簡単「古墳時代」どんな時代?古墳が作られた理由は?外国との関係は?歴史オタクがわかりやすく解説

古代日本の歴史区分のひとつ「古墳時代」。その名の通り古墳が盛んに造られたことからこう呼ばれるようになった。ですが、なぜ古墳が造られたんでしょうな?
今回は「古墳時代」の出来事や古墳について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。古代日本の歴史ロマンに惹かれ、今回のテーマを選んで勉強。わかりやすくまとめた。

1.古代日本の様子

image by PIXTA / 65483333

日本史の始まり「旧石器時代」

日本の歴史は「旧石器時代」から始まります。「旧石器」は石と石をぶつけて欠けさせ、手で握りやすいようにしただけの簡素な打製石器でした。これを人類が使い始めたのは250万年前です。旧石器時代では、旧石器を使うばかりで、人々はまだ土器も金属器も知りませんでした。

他の動物と違って人類は道具を使うすべがありましたが、それでもまだまだ原始的な世界。食料は巨大なナウマンゾウや、森の木の実などでした。けれど、そういった日々の糧を得るために狩猟や採取もひとりでは危険です。たったひとりでナウマンゾウに立ち向かうなんて自殺行為ですよね。そのため、人々はすでに群れを作って集団で行動していました。集団になればリーダーが出てくるものですが、しかし、旧石器時代の集団における上下関係など、社会的な構成ははっきりしません。

進化する縄文時代

旧石器時代に続く縄文時代では打製石器の改良が行われ、石を磨いて加工した磨製石器へと進化していきました。これを「旧石器」に対して「新石器」と呼びます。そして、住居も洞窟や木の下ではなく、竪穴式住居へと変わって人々は定住をはじめました。人が住めば当然、ゴミがでますよね。そのゴミの化石から当時の人々が何を食べていたのかがわかり、さらにどんな暮らしをしていたかまでもわかってくるのです。この時代のゴミ捨て場を「貝塚」といいます。

貝塚の発見からさらに縄目の文様がついた縄文土器や、ハート形土偶や赤口器土偶など、さまざまな土偶が出土しました。また、土偶の発見によって縄文人が人型の霊的存在を信じていたことが判明したのです。

しかし、いくら住居やお墓を調査しても出土品に差はありませんでした。そういうことから、縄文時代にもまだ身分や貧富の差はなかったと考えられています。

大きく環境の変わった弥生時代

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人々の差に関して変化が訪れたのは弥生時代になってから。一万年以上続いた縄文時代の終盤に、中国や朝鮮半島からやってきた「渡来人」たちによって日本に「稲作」が伝わったことにはじまります。「稲作」は水田でお米を生産すること。つまり、農業のはじまりですね。農業の伝来によって狩猟と採取がメインだった縄文人たちの生活が一変しました。

狩猟も採取も家から離れて危険を犯してやらなければなりません。しかし、狩るはずが逆に動物にやられてしまったり、木の実を探しているうちに迷子になって帰れなくなるなんてことも起こりえます。

稲作は家の近くで行える比較的安全な食料確保の手段でした。もちろん、気候や自然災害、稲の病気など不作になる原因は現代よりもたくさんあります。稲作に向かない地域には農耕は根付きませんでした。それでも米は長期保存のきく食料で、稲作は狩猟と採取以上に安定した食料供給を可能にしたのです。

戦争の始まり

食料供給が安定化すると、飢えて死ぬ確立が下がりますよね。そうすると、集団の人口は増え、数軒しかなかった集落は「ムラ」へと発展していきました。

人が増えれば働き手も増えるということ。そのお陰で田んぼを拡張し、狩りはより安全になっていきます。こうしてさらに食料確保が安定していくわけですね。発展の中心となった「米」は一族の繁栄に欠かせないものとなったのです。

そのため、弥生時代の米は富と同意義になりました。稲作に向く土地は当然裕福になり人口も増えますが、向かない土地は米が少なく、両者の間に貧富の差が発生します。

しかし、悲しいかな、弥生時代は涼しい気候が続き、冷夏によって米が不足することが多くなりました。こうして、弥生人たちの間に米を奪い合う争いが始まったのです。

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