今回のテーマとなる「桃山文化」は、「安土桃山文化」ともいう。その名の通り、安土桃山時代に興った文化です。織田信長の安土城や兵庫の姫路城他、現代にまで残る多くの城が築かれたし、茶道が庶民に広がったりと、様々な文化の発展と伝播が起こっている。
今回はそんな「桃山文化」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものをテーマにしたゲームも大好き。今回はよくドラマの舞台に取り上げられる安土桃山時代の文化についてまとめました。

1.安土桃山時代はどんな時代?

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織田信長と豊臣秀吉の時代

「桃山文化」は「安土桃山時代」に興った文化と冒頭で桜木先生がおっしゃっていましたね。「安土桃山時代」とは、「織田信長」と「豊臣秀吉」が天下統一を進めていた戦国時代の末期ごろを指します。ともに時代を代表する武将ですね。「安土桃山時代」は織田信長の居城「安土城」があった滋賀県近江八幡市安土町と、豊臣秀吉の居城「伏見城」があった京都府伏見区桃山地域から取ってつけられました。

「織田信長」も「豊臣秀吉」も戦国時代の武将としてご存じの方が多いでしょう。「安土桃山時代」は1573年~1603年、戦国時代は1467年(1493年)~1590年となっていて、安土桃山時代には戦国時代が内包されているのがわかります。軽くですが、このふたりがいったいどのようにして時代を築いていったのかを見ていきましょう。

戦国武将の台頭

室町幕府が滅ぶきっかけとなったのは1467年、次期足利将軍の座を巡って京都で起こった「応仁の乱」でした。それに続き、1493年の細川政元のクーデター「明応の政変」によって室町幕府の権威がますます低下していきます。

室町幕府は弱り続け、そんな頼りない幕府とその下につく守護大名たちに代わって戦国大名の台頭がはじまったのです。

そういう時期ですから、組織の上層部が弱ければ下の人間が倒して親分にすげ変わればいい、という風潮がおこりました。これが戦国時代の特徴と言える「下剋上」ですね。絶対的な価値観だった身分の上下がひっくり返り、下の者が実力でのし上がったのです。

天下に広まる織田信長の名

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狩野宗秀 (Kanō Sōshū, 1551 - 1601) - en:Image:Odanobunaga.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

時代の主役のひとり織田信長は、室町幕府の守護大名・斯波氏の家臣清州織田氏の出身。生まれながらの戦国大名ではなく、もとは地方領主の家系でした。

しかし、織田氏は幕府とともに斯波氏の力が弱まると、どんどん領地を広げていきます。さらに信長が父から織田氏の家督を継ぐと、分裂していた他の織田家を排除、尾張国の支配を固めていきました。

そして、1560年、大軍を率いて都にのぼろうとした今川義元が、尾張を侵攻する形で押し通ろうとする「桶狭間の戦い」が起こります。

今川義元の二万から五万の大軍に対し、信長の軍勢は三千から五千人ほど。数の上では信長の負けが濃厚で、信長自身も死を覚悟した戦いでした。しかし、ここで信長は今川義元に勝つために真っ向勝負ではなく、奇襲を仕掛けます。そうして、精鋭を率いた信長が今川義元の宿営に突っ込んだ乱戦の末、信長が今川義元を討ち取ったのでした。

桶狭間の戦いに勝利したことにより、信長は窮地を脱すると同時に、天下にその名を知らしめたのです。

室町将軍追放で安土桃山時代へ

今川義元との戦いのあと、織田信長は尾張の統一と美濃国の征服を成し遂げます。そこへ助けを求めてきた十二代将軍・足利義晴の息子「足利義昭」を十五代足利将軍にすることで、信長は上洛を果たしたのでした。

しかし、次期将軍へと擁立した足利義昭を信長はあまり敬いません。どちらかと言えば、信長のかいらいとして足利義昭の行動に制限をかけたりしていました。

しかし、将軍なのにそんなふうに扱われた足利義昭が怒らないわけがありませんよね。足利義昭によって「信長包囲網」が結ばれると、信長はいっきにピンチに陥りました。

そうして苦しい状況の下、信長はなんとか戦い抜いた果てに、将軍・足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼします。それが1573年のこと。安土桃山時代の始まりです。

本能寺で散った信長と後を継いだ秀吉

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狩野光信 - 1. Shouzou.com [1], Kōdai-ji temple warehouse, Kyoto, Japan, パブリック・ドメイン, リンクによる

室町幕府滅亡後、織田信長は石山本願寺や中国地方の毛利輝元らと戦い、勝利と敗北を繰り返しながらも徐々に勢力を強めていきます。しかし、稀代の武将だった信長も、部下の「明智光秀」による謀反で攻め滅ぼされてしまいました。これが1582年の「本能寺の変」です。

信長を下剋上したことにより、明智光秀が信長にとって代わるものだと思われたそのとき、中国地方へ遠征に出ていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が急いで取って返してきました。秀吉は信長の仇として明智光秀に挑み、そうして、「山崎の戦い」にて明智光秀を滅ぼしたのです。

明智光秀の死後、信長の部下たちの間で信長の後継者を決める「清須会議」が開かれました。

そこで秀吉は生き残った信長の次男・信雄、三男・信孝を抑え込み、亡くなった長男・信忠の息子で、信長の孫にあたる三法師(さんぽうし)を後継者としたうえで、秀吉自身が三法師の後見人となりました。こうして秀吉は事実上の信長の後継者となったわけです。

そして、反発した柴田勝家らを滅ぼしていき、ついに天下人となったのでした。

\次のページで「2.桃山文化その1-城の変化」を解説!/

2.桃山文化その1-城の変化

山城から平山城・平城へ変遷

桃山文化の特徴となる城郭建築。それ以前の城は険しい山を利用した「山城」が主流でした。しかし、戦国時代になると小高い丘や台地に城を築いた「平山城」や平地に築く「平城」へと変わっていきました。山という天然の要塞がない代わりに、城を幾重にも堀で囲ったり、堅牢な石垣を積んで防御力を上げたのです。

また、戦国時代以降の城には、城のシンボルとなる「天守閣」というものがつくられました。天守閣は城の中でも一番高い建物で、物見やぐらの他、天下に城主の威厳を見せつける役割を持っています。

しかし、天守閣は高いところにある分、登っていくのも一苦労しますよね。そのため、戦のない普段は物置として使われていました。また、実際に城を攻められたときに天守閣を籠城の場とするために、石落としなど多くの工夫がされたのです。

信長の築いた「安土城」

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by D-one - photo by D-one, CC 表示-継承 2.5, リンクによる

1575年、武田勝頼と対決した「長篠の戦い」の翌1576年、織田信長は琵琶湖東岸の安土山(滋賀県近江八幡安土町)に安土城を築きました。

戦国時代の城は、基本的に攻城戦を想定してつくられます。しかし、安土城はそういう従来の城とは一味違いました。

まずは「天守閣」です。信長は不便な場所にある天守閣を居住区としました。安土城には大型の天守閣があったとされ、信長はそこで生活していたと推測されます。それに、安土城には石落としなどの防御策が一切なかったのです。

さらに、安土城には中央の礎石がひとつ足りません。そこには心柱ではなく、円筒形の仏塔があったのではないかと推測されています。また、城郭の中に堂塔伽藍のある寺院(摠見寺、臨済宗)が建てられたのも、日本では安土城が最初で最後。戦国時代の城でありながら、非常に宗教色の濃い場所でもあったのです。

これらのことから、信長は安土城を戦いのための城ではなく、政治を行うための城と定めてつくったのでしょう。

しかし、信長の安土城は現存せず、豊臣秀吉と明智光秀の「山崎の戦い」のあとに焼失してしまいました。

秀吉と国宝「姫路城」

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日本の国宝とされる兵庫県姫路市の「姫路城」。現存する城郭建築の最高峰とされ、別名を「白鷺城」といいます。築城されたのは南北朝時代に遡り、その後に豊臣秀吉の家臣・黒田孝高(黒田如水)が秀吉に献上。秀吉は姫路城の大改修を行って近世城郭へ変化させました。そのときに石垣で城を囲い、天守をつくって「姫路城」へと改めます。さらに、城の南部に城下町を発展させて、姫路城を播磨国(兵庫県)の中心地にしました。山崎の戦いのあと、秀吉自身は大坂城へ移りますが、姫路城には秀吉の弟・豊臣秀長が入ります。

そして、姫路城が現在の姿になったのは、1600年の関ヶ原の戦いのあとのこと。播磨姫路藩の初代藩主となった「池田輝政」が八年の歳月をかけて姫路城を再び大改修。城全体を白い漆喰で塗った優美な姿になったのでした。

\次のページで「現存する十二の天守」を解説!/

現存する十二の天守

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多くの城が建てられてきましたが、明治維新以降は「廃城令」や戦争によって当時のまま残る城は少なくなってしまいます。

現代にまで現存している天守は全部で十二ヶ所。そのなかでも国宝に指定されているのは兵庫県姫路市の姫路城、愛知県犬山市の犬山城、長野県松本市の松本城、福井県坂井市の丸岡城、島根県松江市の松江城、そして、京都の二条城です。

3.桃山文化その2-千利休と茶の湯の広まり

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秀吉に仕えた茶聖「千利休」

茶人として知られる「千利休」はもともと堺の商人の息子でした。彼は17歳で茶道を習い、後に織田信長が堺を直轄地としたときに、信長に召し抱えられることになります。そこで千利休は独自の茶道具や懐石料理を考案、さらに茶の湯の儀礼を定めて茶道を確立しました。

そして、本能寺の変、山崎の戦いのあとは、豊臣秀吉に仕えることとなります。秀吉の命令によって、千利休は京都乙訓郡大山崎町に半年かけて茶室「待庵」をつくりました。

信長、秀吉という時代を代表する武将に仕え、時の正親町天皇へ献茶するなど華々しい功績を持ちながら、しかし、千利休が追及したのは閑寂の中に奥深い美を感じる「わび」「さび」です。その精神に基づいて千利休は「わび茶」を大成させます。

大衆から大名にまで広がる茶の文化

「わび茶」を大成させた千利休ですが、彼は豊臣秀吉の不興を買ってしまったために切腹して亡くなってしまいます。しかし、茶道は千利休亡きあとも生き続け、教養として人々の間に広がっていきました。

一方、武士の間に茶の湯が広まったのは織田信長の時代。彼は家臣のうちでも功績をあげたものだけに茶の湯の参加を許すという許可制にしたのです。そのため、茶の湯に出入りするのが武士の間で一種のステータスとなったのでした。

4.桃山文化その3-華やかな芸能・芸術  

城の内側を華々しく彩った障壁画

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城を見学したことのある方ならご存知かもしれませんが、城の内部の襖や衝立、天上などあらゆるところには多くの場合豪奢な絵が描かれています。

金箔の地に青や緑で描く「濃絵(だみえ)」といい、ぱっと見ただけで豪華絢爛な印象を受けますね。金は権力の象徴でもありましたから、この時代は特に黄金が好まれたのです。

その中心となったのが、室町時代の絵師・狩野正信を祖とする「狩野派」でした。なかでも「狩野永徳(かのうえいとく)」は信長と秀吉の両方に仕え、狩野派の全盛期を築きます。彼の作品は「洛中洛外図屏風」などの現在で国宝に指定されているものも少なくありません。

また、庶民の生活や都市の様子をテーマにした風俗画や、日本にやってきた南蛮人(ポルトガル人)を題材にした南蛮屏風などが描かれるようになり、桃山文化の絵画は従来の文化から一戦を越えたのです。

阿国歌舞伎のはじまり

室町時代に成立した「猿楽(能)」は、安土桃山時代になると大名や貴族などの上流社会だけでなく、庶民にも愛されるようになっていました。人々には娯楽を鑑賞する文化が根付いていたのです。

そんななか、1603年に出雲大社の巫女「阿国(おくに)」が京都の五条や三条、北野神社で興行を始めます。この興行では、黒い法衣に首から吊った鉦(かね)を叩きながら念仏踊を踊ったり、派手な衣装で男装をして胸に十字架を付けて踊ったりする「かぶき踊」を行いました。

「かぶき」とは、「傾(かぶ)く」という意味で、つまり、江戸幕府の体制や規範を拒否したアウトローたちのことです。幕府にとっては悩みの種である彼らは、しかし、庶民には恰好よく思われ人気がありました。

阿国が演じた「かぶき踊」は、まさに、この「かぶき者」を模したものであり、さらにそこに男装など性別的倒錯が加わって、彼女の踊りは爆発的な大ヒットとなります。四年後には、江戸城中で勧進(お寺の建立、修繕の寄付を募ること)のための「かぶき踊」を演じるまでになったのです。

活気ある時代の華やかな文化

群雄割拠し、各地で天下取りの争いが続いた時代。「桃山文化」は織田信長や豊臣秀吉のもとで花開きました。従来の城とは一線を画す城郭建築に、庶民への芸能の浸透。緊迫を使った豪華絢爛な障壁画や、宗教色のない風俗画が描かれ、それらは現代にまで受け継がれたものも少なくありません。戦いの時代とはいえ、「桃山文化」は非常に活気のある文化となりました。

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安土桃山時代日本史歴史

3分で簡単「桃山文化」どんな時代?何がある?歴史オタクがわかりやすく解説

今回のテーマとなる「桃山文化」は、「安土桃山文化」ともいう。その名の通り、安土桃山時代に興った文化です。織田信長の安土城や兵庫の姫路城他、現代にまで残る多くの城が築かれたし、茶道が庶民に広がったりと、様々な文化の発展と伝播が起こっている。
今回はそんな「桃山文化」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものをテーマにしたゲームも大好き。今回はよくドラマの舞台に取り上げられる安土桃山時代の文化についてまとめました。

1.安土桃山時代はどんな時代?

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織田信長と豊臣秀吉の時代

「桃山文化」は「安土桃山時代」に興った文化と冒頭で桜木先生がおっしゃっていましたね。「安土桃山時代」とは、「織田信長」と「豊臣秀吉」が天下統一を進めていた戦国時代の末期ごろを指します。ともに時代を代表する武将ですね。「安土桃山時代」は織田信長の居城「安土城」があった滋賀県近江八幡市安土町と、豊臣秀吉の居城「伏見城」があった京都府伏見区桃山地域から取ってつけられました。

「織田信長」も「豊臣秀吉」も戦国時代の武将としてご存じの方が多いでしょう。「安土桃山時代」は1573年~1603年、戦国時代は1467年(1493年)~1590年となっていて、安土桃山時代には戦国時代が内包されているのがわかります。軽くですが、このふたりがいったいどのようにして時代を築いていったのかを見ていきましょう。

戦国武将の台頭

室町幕府が滅ぶきっかけとなったのは1467年、次期足利将軍の座を巡って京都で起こった「応仁の乱」でした。それに続き、1493年の細川政元のクーデター「明応の政変」によって室町幕府の権威がますます低下していきます。

室町幕府は弱り続け、そんな頼りない幕府とその下につく守護大名たちに代わって戦国大名の台頭がはじまったのです。

そういう時期ですから、組織の上層部が弱ければ下の人間が倒して親分にすげ変わればいい、という風潮がおこりました。これが戦国時代の特徴と言える「下剋上」ですね。絶対的な価値観だった身分の上下がひっくり返り、下の者が実力でのし上がったのです。

天下に広まる織田信長の名

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狩野宗秀 (Kanō Sōshū, 1551 – 1601) – en:Image:Odanobunaga.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

時代の主役のひとり織田信長は、室町幕府の守護大名・斯波氏の家臣清州織田氏の出身。生まれながらの戦国大名ではなく、もとは地方領主の家系でした。

しかし、織田氏は幕府とともに斯波氏の力が弱まると、どんどん領地を広げていきます。さらに信長が父から織田氏の家督を継ぐと、分裂していた他の織田家を排除、尾張国の支配を固めていきました。

そして、1560年、大軍を率いて都にのぼろうとした今川義元が、尾張を侵攻する形で押し通ろうとする「桶狭間の戦い」が起こります。

今川義元の二万から五万の大軍に対し、信長の軍勢は三千から五千人ほど。数の上では信長の負けが濃厚で、信長自身も死を覚悟した戦いでした。しかし、ここで信長は今川義元に勝つために真っ向勝負ではなく、奇襲を仕掛けます。そうして、精鋭を率いた信長が今川義元の宿営に突っ込んだ乱戦の末、信長が今川義元を討ち取ったのでした。

桶狭間の戦いに勝利したことにより、信長は窮地を脱すると同時に、天下にその名を知らしめたのです。

室町将軍追放で安土桃山時代へ

今川義元との戦いのあと、織田信長は尾張の統一と美濃国の征服を成し遂げます。そこへ助けを求めてきた十二代将軍・足利義晴の息子「足利義昭」を十五代足利将軍にすることで、信長は上洛を果たしたのでした。

しかし、次期将軍へと擁立した足利義昭を信長はあまり敬いません。どちらかと言えば、信長のかいらいとして足利義昭の行動に制限をかけたりしていました。

しかし、将軍なのにそんなふうに扱われた足利義昭が怒らないわけがありませんよね。足利義昭によって「信長包囲網」が結ばれると、信長はいっきにピンチに陥りました。

そうして苦しい状況の下、信長はなんとか戦い抜いた果てに、将軍・足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼします。それが1573年のこと。安土桃山時代の始まりです。

本能寺で散った信長と後を継いだ秀吉

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狩野光信 – 1. Shouzou.com [1], Kōdai-ji temple warehouse, Kyoto, Japan, パブリック・ドメイン, リンクによる

室町幕府滅亡後、織田信長は石山本願寺や中国地方の毛利輝元らと戦い、勝利と敗北を繰り返しながらも徐々に勢力を強めていきます。しかし、稀代の武将だった信長も、部下の「明智光秀」による謀反で攻め滅ぼされてしまいました。これが1582年の「本能寺の変」です。

信長を下剋上したことにより、明智光秀が信長にとって代わるものだと思われたそのとき、中国地方へ遠征に出ていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が急いで取って返してきました。秀吉は信長の仇として明智光秀に挑み、そうして、「山崎の戦い」にて明智光秀を滅ぼしたのです。

明智光秀の死後、信長の部下たちの間で信長の後継者を決める「清須会議」が開かれました。

そこで秀吉は生き残った信長の次男・信雄、三男・信孝を抑え込み、亡くなった長男・信忠の息子で、信長の孫にあたる三法師(さんぽうし)を後継者としたうえで、秀吉自身が三法師の後見人となりました。こうして秀吉は事実上の信長の後継者となったわけです。

そして、反発した柴田勝家らを滅ぼしていき、ついに天下人となったのでした。

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