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今回はそんな「一向一揆」を取り巻く時代環境や、一揆を行った一向宗について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。
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ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。得意分野の平安時代から派生して、平安時代前後に活躍した仏教の宗派について勉強し、まとめた。
「一向宗」の起こした「一揆」
「一向一揆」の「一向」とは、「一向宗」のことを指します。そして、一向宗とは、鎌倉時代に盛んになった「浄土真宗」、とくに本願寺教団のことです。
本願寺教団は阿弥陀仏のお力を信じてただ一向(ひたすら)に「南無阿弥陀仏」とお念仏をとなえればよいという教えから「一向宗」と呼ばれます。
そして、「一揆」は「志を同じにする集団」、あるいは「その集団の行動」のこと。特に幕府や領主などの権力者に対して人々が団結して起こした暴動を指します。
「一向宗」の起こした「一揆」だから、「一向一揆」なんですね。
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「浄土真宗」とは?信仰から一向一揆まで歴史オタクがわかりやすく5分で解説
平安時代後期に芽吹いた「浄土信仰」
「浄土真宗」の開祖「親鸞(しんらん)」は平安時代末期に生まれ、比叡山の天台宗で出家した僧侶でした。当時、世の中は「末法思想」に染まり、誰もが絶望していた時代です。
この末法思想というのは仏教の経典に書かれた「仏法が衰え、誰も悟りを得られなくなった世の中」のこと。仏法が衰退すると、世の中は戦乱に飢饉、疫病、災害といった不幸にあふれ、そのなかで人々は煩悩に囚われて苦しみ続けるのです。
しかも、仏教には輪廻転生という大きなシステムがあり、死んだとしても楽にはなりません。「六道」と呼ばれる世界のどこかに生まれ変わり、再び悩み、苦しむことになります。唯一、輪廻転生から逃れられる方法が仏教によって「悟り」をひらき、「解脱」することでした。しかし、末法の世では仏法は弱まっていますよね?そういうわけで、いくら悟りに至ろうと修行しても、誰も悟りを開くことはできなかったのです。
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浄土で悟りを開く「浄土信仰」
苦しみに満ちた六道とは別に「浄土」という場所がありました。そこは「阿弥陀仏」が開いた世界で、人々が心から阿弥陀仏に帰依(信仰)して「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とお念仏を唱えれば、誰でも阿弥陀仏のお力によって、六道ではなく浄土へ生まれ変わることができるのです。
そして、浄土に生まれ変わった人は、阿弥陀仏のもとで修業することで人間の世ではできなかった「悟り」を開くことができるのでした。
これを「浄土思想」、あるいは「浄土信仰」といいます。
浄土信仰が末法思想とマッチするのは火を見るよりも明らかですよね。そういうわけで、平安時代の末期にもなると、貴族から庶民まで多くの人々が阿弥陀仏を信じていたのです。
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浄土信仰の考えを深めた「親鸞」
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比叡山の僧侶だった「法然」は、阿弥陀仏が煩悩に囚われた人々こそを救ってくださるから、人はただ一心に念仏を唱えればよい、と確信します。そして、この「専修念仏」をかかげた「浄土宗」を開きました。
普通、僧侶は寺院で修行するものでしたが、浄土信仰や「専修念仏」は念仏を唱えればいいので寺院も仏像もいりません。お念仏さえすれば阿弥陀仏が救ってくれるのですから。
そして、法然の弟子のひとりだったのが「親鸞」です。親鸞は浄土信仰の思想を深めた「悪人正機」を唱えます。これを御幣をおそれず噛み砕いて説明すると「自分で何とかして浄土へ行こうとする人ですら阿弥陀仏に救われるのだから、自力ではどうにもできないことをわかった人が阿弥陀仏に頼ればなおさら救われる」という考えです。
親鸞はこの考えを実践するため、当時の僧侶が行わなかった肉食や、妻を持つなど、普通の人々と同じように生きることによって、特別出家しなければ救われないことなんてない、と人々に教えを伝えたのでした。
そして、親鸞の入滅(高僧が亡くなること)後、親鸞の弟子たちによって浄土宗とは別に新たな教団として「浄土真宗」を発展させたのでした。
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2.本願寺と一向一揆のはじまり
月岡芳年 – Turnbull, Stephen (2003). Japanese Warrior Monks AD 949-1603. Oxford: Osprey Publishing ISBN 1841765732. tōken world ukiyoe 刀剣ワールド浮世絵, パブリック・ドメイン, リンクによる
本願寺の建立と衰退
親鸞の入滅後、娘の覚信尼(かくしんに)が京都の鳥部野の北部にあたる「大谷」に親鸞の遺骨を納める廟堂を立てました。そして、ひ孫の「覚如(かくにょ)」が親鸞の祖廟継承を主張して廟堂を「本願寺」にします。
しかし、これが原因で関東で浄土真宗の布教活動をさかんに行っていた佛光寺や専修寺と対立することになりました。今でこそ立派な寺院として存在する本願寺ですが、お寺になったばかりの当時は天台宗は青蓮院の末寺に過ぎない小さな寺院だったのです。そのため、他の宗派や佛光寺などの浄土真宗他派に押される形で本願寺は次第に衰退してしまいました。
本願寺中興の祖「蓮如」
周囲に押され衰退する状況のなか、室町時代に本願寺を救う僧侶、浄土真宗本願寺派第八世宗主「蓮如」があらわれます。彼もまた親鸞の嫡流の子孫です。
蓮如が生まれたときもまだ本願寺は青蓮院の末寺で、衰退が著しい状態でした。本願寺のあまりに寂れた様子から参詣者が本願寺から佛光寺へ鞍替えしてしまうほどです。
この状況を打破しようとし、父の跡を継いだ蓮如は「帰命尽十方無碍光如来」や「南無阿弥陀仏」といった名号(仏の名前)を書いた掛け軸を信徒に与えることにしました。そして、その掛け軸をかけた部屋はどこだろうと念仏道場(寺)になることにしたのです。
自分の家が念仏道場になるのですから、お念仏を唱えるのにわざわざお寺まで行かなくても良くなりますよね。それに新しくお寺を建てる必要はありません。日々仕事に追われる庶民たちはこのシステムを大歓迎し、本願寺教団はどんどん広がっていったのです。
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最初の一向一揆
信徒が増えたことで危機を乗り切ったかのように思えますが、本願寺教団のピンチはまだ続きます。
蓮如が作った掛け軸のシステムや一向宗の拡大に対し、青蓮院の本寺・比叡山延暦寺は「本願寺の宗旨がまったく天台宗のそれとは違う」「神仏をないがしろにしている」と弾圧を始めたのです。そして、延暦寺は本願寺と蓮如を仏敵とし、延暦寺の僧兵たちによって本願寺は打ち壊されてしまいます。
蓮如自身は金森(滋賀県守山市)の念仏道場に逃げ込みましたが、そこにも僧兵たちが追って来たため、立てこもって防戦となりました。防戦するために蓮如側も武器を持って戦ったので、この戦いが最初の一向一揆とされています。
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