「一向一揆」は室町時代から起こりはじめた社会運動のひとつです。現代のような運動やデモと違い、「一揆」には武力行使が含まれる。けっこう物騒な出来事だったんです。ですが、武力をもって何かを訴え、行動しなければならないなんて、いったい彼らに何が起こったんでしょうな?
今回はそんな「一向一揆」を取り巻く時代環境や、一揆を行った一向宗について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。得意分野の平安時代から派生して、平安時代前後に活躍した仏教の宗派について勉強し、まとめた。

1.「一向一揆」の「一向」ってなに?

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「一向宗」の起こした「一揆」

「一向一揆」の「一向」とは、「一向宗」のことを指します。そして、一向宗とは、鎌倉時代に盛んになった「浄土真宗」、とくに本願寺教団のことです。

本願寺教団は阿弥陀仏のお力を信じてただ一向(ひたすら)に「南無阿弥陀仏」とお念仏をとなえればよいという教えから「一向宗」と呼ばれます。

そして、「一揆」は「志を同じにする集団」、あるいは「その集団の行動」のこと。特に幕府や領主などの権力者に対して人々が団結して起こした暴動を指します。

「一向宗」の起こした「一揆」だから、「一向一揆」なんですね。

平安時代後期に芽吹いた「浄土信仰」

「浄土真宗」の開祖「親鸞(しんらん)」は平安時代末期に生まれ、比叡山の天台宗で出家した僧侶でした。当時、世の中は「末法思想」に染まり、誰もが絶望していた時代です。

この末法思想というのは仏教の経典に書かれた「仏法が衰え、誰も悟りを得られなくなった世の中」のこと。仏法が衰退すると、世の中は戦乱に飢饉、疫病、災害といった不幸にあふれ、そのなかで人々は煩悩に囚われて苦しみ続けるのです。

しかも、仏教には輪廻転生という大きなシステムがあり、死んだとしても楽にはなりません。「六道」と呼ばれる世界のどこかに生まれ変わり、再び悩み、苦しむことになります。唯一、輪廻転生から逃れられる方法が仏教によって「悟り」をひらき、「解脱」することでした。しかし、末法の世では仏法は弱まっていますよね?そういうわけで、いくら悟りに至ろうと修行しても、誰も悟りを開くことはできなかったのです。

浄土で悟りを開く「浄土信仰」

苦しみに満ちた六道とは別に「浄土」という場所がありました。そこは「阿弥陀仏」が開いた世界で、人々が心から阿弥陀仏に帰依(信仰)して「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とお念仏を唱えれば、誰でも阿弥陀仏のお力によって、六道ではなく浄土へ生まれ変わることができるのです。

そして、浄土に生まれ変わった人は、阿弥陀仏のもとで修業することで人間の世ではできなかった「悟り」を開くことができるのでした。

これを「浄土思想」、あるいは「浄土信仰」といいます。

浄土信仰が末法思想とマッチするのは火を見るよりも明らかですよね。そういうわけで、平安時代の末期にもなると、貴族から庶民まで多くの人々が阿弥陀仏を信じていたのです。

浄土信仰の考えを深めた「親鸞」

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比叡山の僧侶だった「法然」は、阿弥陀仏が煩悩に囚われた人々こそを救ってくださるから、人はただ一心に念仏を唱えればよい、と確信します。そして、この「専修念仏」をかかげた「浄土宗」を開きました。

普通、僧侶は寺院で修行するものでしたが、浄土信仰や「専修念仏」は念仏を唱えればいいので寺院も仏像もいりません。お念仏さえすれば阿弥陀仏が救ってくれるのですから。

そして、法然の弟子のひとりだったのが「親鸞」です。親鸞は浄土信仰の思想を深めた「悪人正機」を唱えます。これを御幣をおそれず噛み砕いて説明すると「自分で何とかして浄土へ行こうとする人ですら阿弥陀仏に救われるのだから、自力ではどうにもできないことをわかった人が阿弥陀仏に頼ればなおさら救われる」という考えです。

親鸞はこの考えを実践するため、当時の僧侶が行わなかった肉食や、妻を持つなど、普通の人々と同じように生きることによって、特別出家しなければ救われないことなんてない、と人々に教えを伝えたのでした。

そして、親鸞の入滅(高僧が亡くなること)後、親鸞の弟子たちによって浄土宗とは別に新たな教団として「浄土真宗」を発展させたのでした。

2.本願寺と一向一揆のはじまり

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月岡芳年 - Turnbull, Stephen (2003). Japanese Warrior Monks AD 949-1603. Oxford: Osprey Publishing ISBN 1841765732. tōken world ukiyoe 刀剣ワールド浮世絵, パブリック・ドメイン, リンクによる

本願寺の建立と衰退

親鸞の入滅後、娘の覚信尼(かくしんに)が京都の鳥部野の北部にあたる「大谷」に親鸞の遺骨を納める廟堂を立てました。そして、ひ孫の「覚如(かくにょ)」が親鸞の祖廟継承を主張して廟堂を「本願寺」にします。

しかし、これが原因で関東で浄土真宗の布教活動をさかんに行っていた佛光寺や専修寺と対立することになりました。今でこそ立派な寺院として存在する本願寺ですが、お寺になったばかりの当時は天台宗は青蓮院の末寺に過ぎない小さな寺院だったのです。そのため、他の宗派や佛光寺などの浄土真宗他派に押される形で本願寺は次第に衰退してしまいました。

本願寺中興の祖「蓮如」

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投稿者が撮影 - ブレイズマン 09:00, 2 June 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

周囲に押され衰退する状況のなか、室町時代に本願寺を救う僧侶、浄土真宗本願寺派第八世宗主「蓮如」があらわれます。彼もまた親鸞の嫡流の子孫です。

蓮如が生まれたときもまだ本願寺は青蓮院の末寺で、衰退が著しい状態でした。本願寺のあまりに寂れた様子から参詣者が本願寺から佛光寺へ鞍替えしてしまうほどです。

この状況を打破しようとし、父の跡を継いだ蓮如は「帰命尽十方無碍光如来」や「南無阿弥陀仏」といった名号(仏の名前)を書いた掛け軸を信徒に与えることにしました。そして、その掛け軸をかけた部屋はどこだろうと念仏道場(寺)になることにしたのです。

自分の家が念仏道場になるのですから、お念仏を唱えるのにわざわざお寺まで行かなくても良くなりますよね。それに新しくお寺を建てる必要はありません。日々仕事に追われる庶民たちはこのシステムを大歓迎し、本願寺教団はどんどん広がっていったのです。

最初の一向一揆

信徒が増えたことで危機を乗り切ったかのように思えますが、本願寺教団のピンチはまだ続きます。

蓮如が作った掛け軸のシステムや一向宗の拡大に対し、青蓮院の本寺・比叡山延暦寺は「本願寺の宗旨がまったく天台宗のそれとは違う」「神仏をないがしろにしている」と弾圧を始めたのです。そして、延暦寺は本願寺と蓮如を仏敵とし、延暦寺の僧兵たちによって本願寺は打ち壊されてしまいます。

蓮如自身は金森(滋賀県守山市)の念仏道場に逃げ込みましたが、そこにも僧兵たちが追って来たため、立てこもって防戦となりました。防戦するために蓮如側も武器を持って戦ったので、この戦いが最初の一向一揆とされています。

\次のページで「さかえる本願寺教団」を解説!/

さかえる本願寺教団

最初の一向一揆のあと、なんとか比叡山と和解するものの、和解の条件には蓮如の息子を廃嫡するなどあんまりな内容です。しかし、蓮如はこれ以上の争いを避けるために近畿地方を出て北陸の吉崎(福井県あわら市)に移り、そこに「吉崎御坊」を建てました。

蓮如が吉崎御坊にいると広まったところ、掛け軸をいただこうと全国から人々が吉崎に集まり始めます。そうすると、人々を泊める宿や物流が生まれ、そこで働く人の家ができますよね。荒地だった吉崎はみるみるうちに発展して人が集まったのです。

しかし、当時の京都では「応仁の乱」が続いていた時期でした。応仁の乱は室町幕府の九代目将軍の座を巡る後継者争いで、なかなか決着がつかず全国に波及。11年にもわたって争い続けます。

そんな時期に人が一ヶ所に集まっていれば怪しまれますよね。そこで蓮如は吉崎に人があまり来ないように1474年に「御文(御文章)」を出しました。これは手紙の形で協議をわかりやすく説いたものです。

さらに、蓮如は「御文」に「他の宗派や教えを避難してはならない」「阿弥陀仏以外の神仏をないがしろにしてはいけない」「よく信心して極楽往生を願いなさい」という三ヶ条の心得をしたためました。まわりともうまくやって、私たちは私たちの教義を真摯にやっていこう、ということですね。

再勃発した一向一揆

しかし、「御文」に託した蓮如の思いはむなしくも破られてしまいます。

1474年、加賀(石川県)にて、守護大名の富樫正親が東軍に、その弟・富樫幸千代が西軍について対立し、とうとう弟が兄を追い出す事態に発展しました。このとき、加賀の一向一揆は兄・政親の要請を受けて内紛に介入します。政親を助けることで、本願寺教団は守護大名からの保護を受けられるのではないかという期待があったのでしょう。結果、弟・幸千代を倒し、政親は地位を取り戻します。

そうして、期待通り、教団を保護してくれるのではないかと思われました。しかし、一向一揆の勢いに不安を感じた政親は手の平を返して信徒たちを弾圧し始めます。蓮如も吉崎御坊から退去することになりました。

蓮如が去ったあとも政親の弾圧は続きます。加賀の一向一揆は、恩を仇で返した富樫政親を高尾城で攻め滅ぼし(長享の一揆)、その後、百年にわたって一向一揆が加賀を治めるようになりました。

このようにして各地の一向一揆は拡大していき、戦国時代には戦国大名とも対立するほどの一大勢力となります。

3.一向一揆VS織田信長

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織田信長と宗教

尾張(愛知県西部)の戦国大名・織田信長は、駿河(静岡県)の今川義元を破り、第十五代将軍・足利義昭を追放して室町幕府を終わらせました。そうして、自ら天下統一に乗り出したのです。

そんななか、織田信長と近江(滋賀県)の浅井長政、越前(福井県嶺北地方)の朝倉義景が対立。比叡山の延暦寺は浅井・朝倉に味方したため、焼き討ちの憂き目にあってしまいます。神仏をおそれないことから、信長は「天魔の化身」とまでいわれました。

信長との対立で石山合戦11年

そんな信長と、戦国時代最大の宗教的武装勢力だった本願寺教団が対立しないわけがありません。

その当時、蓮如が隠居先とした石山御坊(大坂御坊)は、十世法主「証如」により「石山本願寺」として本願寺の本拠となっていました。石山本願寺は本願寺の門主が自治する広大な寺内町であり、川や堀で囲まれた城塞都市でもあったのです。

それが十一世法主「顕如」の時代、中国地方へ勢力を広げようとする信長の進路になってしまいました。「天魔の化身」とされる信長のことですから、何の躊躇もなく石山本願寺を破壊してしまうでしょう。しかし、黙ってやられるわけにはいきません。

顕如は信長と戦うと決め、1570年、石山本願寺近くの信長の陣地を攻撃。さらに信長と敵対する戦国大名に同盟の手紙を送り、各地の一向一揆にも決起を呼びかける「石山御文」を送ります。そうして、数日のうちに信長の弟を討ち取りました。

もちろん、信長も一向一揆を放置するわけにはいきません。信長は五万の大軍を率いて弟を討った長島(三重県桑名市)の一向一揆と戦います。しかし、長島は攻めにくい土地だったため、一揆を破るのに三年もかかったのです。

顕如の降伏

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各地の一向一揆が倒されていき、1576年、とうとう石山本願寺が戦場となりました。信長は茨木や尼崎に城を築いて戦いましたが、こちらもなかなか決着が付きません。それで結局、1580年に信長は正親町天皇に仲介を頼んで、顕如に石山本願寺からの退去を条件に信長と講和するよう働きかけたのでした。

石山本願寺が落とされていないとはいえ、顕如側も同盟者の毛利輝元の支援を失ったところであとがありません。顕如はこの講和を受け入れることにして、石山本願寺を退去しました。そして、講和に反対して立てこもり続けた顕如の息子・教如も数ヶ月後に石山本願寺を去ってようやく十一年にもおよんだ「石山合戦」は幕を閉じたのです。

また、加賀を治めていた一向一揆も石山合戦のあとに解体。本願寺の分裂騒動もあり、石山合戦終了以降「一向一揆」は見られなくなりました。

時代の逆風と戦い続けた人々

ひたすらに念仏を唱え、極楽浄土への往生を願い続けた一向宗。しかし、時代は彼らを許さず弾圧を加えます。武力に武力で応戦した結果「一向一揆」がはじまり、一国を治めるほどの勢力にまで発展しました。時代の逆風に折れず、抗い続けた一向一揆の人々は、さらに戦国時代には織田信長と対立して十一年にも及ぶ戦いを繰り広げられるほどの大勢力となったのです。

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室町時代日本史歴史

3分で簡単「一向一揆」一向って何?一揆が起こった原因は?歴史オタクがわかりやすく解説

「一向一揆」は室町時代から起こりはじめた社会運動のひとつです。現代のような運動やデモと違い、「一揆」には武力行使が含まれる。けっこう物騒な出来事だったんです。ですが、武力をもって何かを訴え、行動しなければならないなんて、いったい彼らに何が起こったんでしょうな?
今回はそんな「一向一揆」を取り巻く時代環境や、一揆を行った一向宗について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。得意分野の平安時代から派生して、平安時代前後に活躍した仏教の宗派について勉強し、まとめた。

1.「一向一揆」の「一向」ってなに?

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「一向宗」の起こした「一揆」

「一向一揆」の「一向」とは、「一向宗」のことを指します。そして、一向宗とは、鎌倉時代に盛んになった「浄土真宗」、とくに本願寺教団のことです。

本願寺教団は阿弥陀仏のお力を信じてただ一向(ひたすら)に「南無阿弥陀仏」とお念仏をとなえればよいという教えから「一向宗」と呼ばれます。

そして、「一揆」は「志を同じにする集団」、あるいは「その集団の行動」のこと。特に幕府や領主などの権力者に対して人々が団結して起こした暴動を指します。

「一向宗」の起こした「一揆」だから、「一向一揆」なんですね。

平安時代後期に芽吹いた「浄土信仰」

「浄土真宗」の開祖「親鸞(しんらん)」は平安時代末期に生まれ、比叡山の天台宗で出家した僧侶でした。当時、世の中は「末法思想」に染まり、誰もが絶望していた時代です。

この末法思想というのは仏教の経典に書かれた「仏法が衰え、誰も悟りを得られなくなった世の中」のこと。仏法が衰退すると、世の中は戦乱に飢饉、疫病、災害といった不幸にあふれ、そのなかで人々は煩悩に囚われて苦しみ続けるのです。

しかも、仏教には輪廻転生という大きなシステムがあり、死んだとしても楽にはなりません。「六道」と呼ばれる世界のどこかに生まれ変わり、再び悩み、苦しむことになります。唯一、輪廻転生から逃れられる方法が仏教によって「悟り」をひらき、「解脱」することでした。しかし、末法の世では仏法は弱まっていますよね?そういうわけで、いくら悟りに至ろうと修行しても、誰も悟りを開くことはできなかったのです。

浄土で悟りを開く「浄土信仰」

苦しみに満ちた六道とは別に「浄土」という場所がありました。そこは「阿弥陀仏」が開いた世界で、人々が心から阿弥陀仏に帰依(信仰)して「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とお念仏を唱えれば、誰でも阿弥陀仏のお力によって、六道ではなく浄土へ生まれ変わることができるのです。

そして、浄土に生まれ変わった人は、阿弥陀仏のもとで修業することで人間の世ではできなかった「悟り」を開くことができるのでした。

これを「浄土思想」、あるいは「浄土信仰」といいます。

浄土信仰が末法思想とマッチするのは火を見るよりも明らかですよね。そういうわけで、平安時代の末期にもなると、貴族から庶民まで多くの人々が阿弥陀仏を信じていたのです。

浄土信仰の考えを深めた「親鸞」

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比叡山の僧侶だった「法然」は、阿弥陀仏が煩悩に囚われた人々こそを救ってくださるから、人はただ一心に念仏を唱えればよい、と確信します。そして、この「専修念仏」をかかげた「浄土宗」を開きました。

普通、僧侶は寺院で修行するものでしたが、浄土信仰や「専修念仏」は念仏を唱えればいいので寺院も仏像もいりません。お念仏さえすれば阿弥陀仏が救ってくれるのですから。

そして、法然の弟子のひとりだったのが「親鸞」です。親鸞は浄土信仰の思想を深めた「悪人正機」を唱えます。これを御幣をおそれず噛み砕いて説明すると「自分で何とかして浄土へ行こうとする人ですら阿弥陀仏に救われるのだから、自力ではどうにもできないことをわかった人が阿弥陀仏に頼ればなおさら救われる」という考えです。

親鸞はこの考えを実践するため、当時の僧侶が行わなかった肉食や、妻を持つなど、普通の人々と同じように生きることによって、特別出家しなければ救われないことなんてない、と人々に教えを伝えたのでした。

そして、親鸞の入滅(高僧が亡くなること)後、親鸞の弟子たちによって浄土宗とは別に新たな教団として「浄土真宗」を発展させたのでした。

2.本願寺と一向一揆のはじまり

Azukizaka 1564.JPG
月岡芳年 – Turnbull, Stephen (2003). Japanese Warrior Monks AD 949-1603. Oxford: Osprey Publishing ISBN 1841765732. tōken world ukiyoe 刀剣ワールド浮世絵, パブリック・ドメイン, リンクによる

本願寺の建立と衰退

親鸞の入滅後、娘の覚信尼(かくしんに)が京都の鳥部野の北部にあたる「大谷」に親鸞の遺骨を納める廟堂を立てました。そして、ひ孫の「覚如(かくにょ)」が親鸞の祖廟継承を主張して廟堂を「本願寺」にします。

しかし、これが原因で関東で浄土真宗の布教活動をさかんに行っていた佛光寺や専修寺と対立することになりました。今でこそ立派な寺院として存在する本願寺ですが、お寺になったばかりの当時は天台宗は青蓮院の末寺に過ぎない小さな寺院だったのです。そのため、他の宗派や佛光寺などの浄土真宗他派に押される形で本願寺は次第に衰退してしまいました。

本願寺中興の祖「蓮如」

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投稿者が撮影 – ブレイズマン 09:00, 2 June 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

周囲に押され衰退する状況のなか、室町時代に本願寺を救う僧侶、浄土真宗本願寺派第八世宗主「蓮如」があらわれます。彼もまた親鸞の嫡流の子孫です。

蓮如が生まれたときもまだ本願寺は青蓮院の末寺で、衰退が著しい状態でした。本願寺のあまりに寂れた様子から参詣者が本願寺から佛光寺へ鞍替えしてしまうほどです。

この状況を打破しようとし、父の跡を継いだ蓮如は「帰命尽十方無碍光如来」や「南無阿弥陀仏」といった名号(仏の名前)を書いた掛け軸を信徒に与えることにしました。そして、その掛け軸をかけた部屋はどこだろうと念仏道場(寺)になることにしたのです。

自分の家が念仏道場になるのですから、お念仏を唱えるのにわざわざお寺まで行かなくても良くなりますよね。それに新しくお寺を建てる必要はありません。日々仕事に追われる庶民たちはこのシステムを大歓迎し、本願寺教団はどんどん広がっていったのです。

最初の一向一揆

信徒が増えたことで危機を乗り切ったかのように思えますが、本願寺教団のピンチはまだ続きます。

蓮如が作った掛け軸のシステムや一向宗の拡大に対し、青蓮院の本寺・比叡山延暦寺は「本願寺の宗旨がまったく天台宗のそれとは違う」「神仏をないがしろにしている」と弾圧を始めたのです。そして、延暦寺は本願寺と蓮如を仏敵とし、延暦寺の僧兵たちによって本願寺は打ち壊されてしまいます。

蓮如自身は金森(滋賀県守山市)の念仏道場に逃げ込みましたが、そこにも僧兵たちが追って来たため、立てこもって防戦となりました。防戦するために蓮如側も武器を持って戦ったので、この戦いが最初の一向一揆とされています。

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