50年間にわたる記録の物語
『太平記』は、『将門記』と同じように作者、成立時期ともに不詳とされています。しかし、たったひとりの作者がつくったのではなく、室町幕府と関わりのある知識人を中心とした複数人で編纂したと考えられました。そして、小島法師らによって1370年ごろまでに全40巻で1318年からはじまる南北朝から、足利義満が三代将軍になった1368年までにおよぶ50年間の記録が完成したのです。
全40巻からなる『太平記』は三部構成になっており、第一部では後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府滅亡までを、第二部は後醍醐天皇の新政の失敗から崩御まで、そして第三部では足利幕府内部の混乱や紛争を描きました。また、合戦や政治の変遷だけではなく、伊勢神宮のおこりや、鎌倉時代のモンゴル襲来(元寇)の際に吹いた神風のことなど、日本にとって重要な出来事が語られています。
『太平記』第一部その1・後醍醐天皇の倒幕計画
では、『太平記』を説明するにあたって、まず物語がどういう歴史のなかにあったのかをお話ししなければなりませんね。
物語の当時は、日本は鎌倉幕府が治めていました。しかし、少し前に起こったモンゴル襲来(元寇)によって幕府は非常に弱っていたのです。味方のはずの武士たちの一部が幕府に愛想を尽かしはじめていたのを見た幕府嫌いの後醍醐(ごだいご)天皇は、これは倒幕に立ち上がる絶好チャンスだと立ち上がります。
なぜ後醍醐天皇は幕府嫌いだったのか?その原因は天皇の後継問題にありました。実は、このころ天皇の位を継げる家系はふたつあったのです。当然、ふたつの家系は自分の系統の子どもを天皇にしたいわけですから、天皇の座を巡って激しく争うことになりますよね。そこに鎌倉幕府が仲裁に入って、両家から交互に天皇を出す「両統迭立」という取り決めをしました。
けれど、後醍醐天皇はどうしても自分の息子を次の天皇にしたいという強い思いがあり、そんな決まりを強いる幕府はいますぐにでも打ち倒してしまいたいのです。
そんなときに元寇が起こり、鎌倉幕府が弱ったことで後醍醐天皇は一世一代の大チャンスを得たのでした。
『太平記』第一部その2・鎌倉幕府滅亡
しかしながら、鎌倉幕府もそう甘くはありません。後醍醐天皇と腹心・日野資朝、日野俊基は嫌疑にかけられます(正中の変)。ここでひとまず後醍醐天皇、日野俊基は冤罪ということになりましたが、このままでは倒幕も息子を天皇にするのも夢のまた夢。
諦めずに二度目の倒幕計画を練るのですが、今度は側近・吉田定房が、京都を監視する幕府の「六波羅探題」へ密告。このままでは危ないと考えた後醍醐天皇は正当な天皇の証となる「三種の神器」を持って京都から逃亡します。そうして、尊良親王(たかよししんのう)と護良親王(もりよししんのう)のふたりの息子とともに挙兵し、笠置山(京都府相楽郡笠置町)に籠城する「笠置山の戦い」を起こしました。そこで敗れた後醍醐天皇は隠岐島へと配流されるものの、「楠木正成(くすのきまさしげ)」による赤坂城の挙兵や各地での反乱、「足利尊氏(当時は高氏)」が天皇側に寝返るなど、鎌倉幕府にとって不利な状況が重なりはじめます。
そして、京都の六波羅探題が攻め落とされ、さらに「新田義貞(にったよしさだ)」が鎌倉幕府を裏切って、足利尊氏の息子・千寿王(のちの室町幕府二代目将軍足利義詮)とともに鎌倉幕府を攻め滅ぼしたのです。1333年7月のことでした。
『太平記』第二部その1・後醍醐天皇の「健武の新政」失敗
晴れて鎌倉幕府を倒し、自ら政治を主導することになった後醍醐天皇は「健武の新政」を開始します。しかし、後醍醐天皇はここで大きな間違いをおかしてしまいました。
鎌倉幕府が大嫌いだった後醍醐天皇は、当然、武士も大嫌いだったわけで。そうすると、当然、自分が主導する政治の場からなるべく武士を排除し、平安時代のような貴族中心の社会に戻そうとしたのです。
けれど、よく考えてみてください。幕府を倒したのは後醍醐天皇ひとりの力ではありませんよね。武士たちが最前線で戦ったからこそ、鎌倉幕府を倒せたのです。武士たちは命をかけて戦ったのに、報酬はなく、それどころか朝廷に領地を没収されるものまで出てきました。鎌倉幕府よりひどい扱いに怒った武士たちは、もう一度幕府を望むようになりますよね。そこで、倒幕の立役者のひとりだった「足利尊氏」が立ち上がることになりました。
『太平記』第二部その2・南北朝のはじまり
いくら武士たちが幕府設立を望んだからといって、それを武士嫌いの後醍醐天皇が認めるはずがありません。そこで足利尊氏はないがしろにされたもう一つの血統に声をかけることにしました。そうして光明天皇の即位と引き換えに、足利尊氏は征夷大将軍に任命され、1338年に室町幕府を開いたのです。
後醍醐天皇としては自分が唯一の天皇なわけですから、勝手に即位した光明天皇を認めるわけにはいきませんよね。しかし、光明天皇の背後には足利尊氏率いる武士たちがついています。武力ではなかなか勝てません。そこで後醍醐天皇は京都の都から奈良の吉野へと逃れ、天皇と政治を続けました。
これが京都の足利尊氏と光明天皇を北、吉野の後醍醐天皇を南とした南北朝時代のはじまりです。
『太平記』第三部・混沌を極める室町時代
南北朝時代のはじまりと同時に武士を中心とする室町幕府、室町時代もスタートするわけですが、ここで注意しなければならないのが、武士の全員が全員室町幕府に従ったわけではないというところ。
各地に領地を持つ武士はこのころからすでに「守護大名」と呼ばれ、自分たちの利益になるようそれぞれ南北にわかれます。ところが、守護大名たちは最初からずっと同じ勢力に味方していたわけではありません。「最初は南に味方していたけれど、北の方が条件がいいから明日から北の味方に加わる」みたいなことがたくさん起こったのです。
この状態は1392年まで続くことになります。『太平記』では、足利尊氏から将軍の座を引き継ぎ、生涯を戦に投じた二代目将軍「足利義詮」が病気で亡くなるまでが書かれました。
\次のページで「3.江戸時代に人気爆発、その理由は?」を解説!/