室町時代につくられた「太平記」は鎌倉幕府の滅亡から、その後に起こった南北朝時代の戦乱など、混沌とした時代を舞台とする戦記物です。しかし、軍記物語は「どこでこういう戦いがありました」と記すだけじゃない。それじゃあ教科書と変わらないでしょう?「太平記」も例に漏れず読者が飽きて離れないような面白い構成になっているんです。
今回はそんな「太平記」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。軍記物語のなかでも特に『平家物語』について研究していた。今回はその延長上にある『太平記』についてまとめた。

1.文芸の一大ジャンル「軍記物語」とは

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歴史資料と物語の特性を併せ持つ「軍記物語」

歴史やその記録をありのまま順序を追って客観的に書いたものを「叙事文」といいます。はじめて聞く単語かもしれませんが、実はみなさんお馴染みの文章だったりするんですよ。

学校に持って行くかばんのなかか、本棚にしまってありませんか?「日本史の教科書」あるいは、「世界史の教科書」。そう。みなさんがもっとも触れる叙事文が、学校で使われる歴史の教科書なんです。「××年、○○で△△が起こった」とか書かれていますよね。それが叙事文です。

今回解説する「太平記」は、桜木先生が先におっしゃったように鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代の争乱など、戦いを主軸とした社会情勢の変遷が記された「軍記物語」。歴史を書いたと聞くと、教科書のような叙事文のようなものをイメージしそうですよね。

しかし、「軍記物語」は合戦や社会の動乱を主軸にしながらも、それと関わる登場人物たちの逸話を読者を楽しませる「物語」です。史実でありながらときに虚構と思われる部分も含めつつ、動乱の渦中、あるいは動乱を生き延びた体験や、当時の見聞を元に説話風に書かれたことから、物語としての性格が浮き彫りになったのでした。

つまり、「軍記物語」は年代記としての性格を有しながらも物語としての面白さを持ち合わせたジャンルなのです。史料として、そして、文芸としての両側面は人々をひきつけ、今日まで大切にされて、現代の私たちにまで引き継がれてきたのでした。

代表的な「軍記物語」

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不明 - 「扇の的」平家物語絵巻, パブリック・ドメイン, リンクによる

せっかく「軍記物語」がどういうものか解説したので、名前を知っておいて損はない軍記物語の代表作品を二つご紹介しておきましょう。

まずは、軍記物語として一番最初に書かれた平将門を主役とした『将門記』。成立は鎌倉時代とされていますが、正確な成立年、および作者は不明とされています。原本が残っていないこと、また写本に欠けがあること、そして作者不明なことから『将門記』を歴史書というには疑問が残るかもしれません。しかし、『将門記』の中心となる「平将門の乱」について詳細に書かれていることから、史料として高い価値を得ています。

そして、平安時代末期の動乱を書いた『平家物語』。これは古典の教科書にもありませんか?「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という美しい響きの一文を聞いたことがあると思います。

『平家物語』はいわゆる「源平合戦(治承・寿永の乱)」を主軸にした戦争の話ですが、一方で、盲目の僧侶「琵琶法師」らによって弾き語られていました。琵琶法師たちは『平家物語』に節をつけた歌「平曲」にし、町中で語って歩いていたのです。ある種の大道芸ですね。さらに、「平曲」は娯楽としてだけでなく、仏教文学としての側面もありました。僧侶たちに語らせることで、亡き平家への鎮魂の意味合いを果たしたのです。

2.争い続く『太平記』の時代

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\次のページで「50年間にわたる記録の物語」を解説!/

50年間にわたる記録の物語

『太平記』は、『将門記』と同じように作者、成立時期ともに不詳とされています。しかし、たったひとりの作者がつくったのではなく、室町幕府と関わりのある知識人を中心とした複数人で編纂したと考えられました。そして、小島法師らによって1370年ごろまでに全40巻で1318年からはじまる南北朝から、足利義満が三代将軍になった1368年までにおよぶ50年間の記録が完成したのです。

全40巻からなる『太平記』は三部構成になっており、第一部では後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府滅亡までを、第二部は後醍醐天皇の新政の失敗から崩御まで、そして第三部では足利幕府内部の混乱や紛争を描きました。また、合戦や政治の変遷だけではなく、伊勢神宮のおこりや、鎌倉時代のモンゴル襲来(元寇)の際に吹いた神風のことなど、日本にとって重要な出来事が語られています。

『太平記』第一部その1・後醍醐天皇の倒幕計画

では、『太平記』を説明するにあたって、まず物語がどういう歴史のなかにあったのかをお話ししなければなりませんね。

物語の当時は、日本は鎌倉幕府が治めていました。しかし、少し前に起こったモンゴル襲来(元寇)によって幕府は非常に弱っていたのです。味方のはずの武士たちの一部が幕府に愛想を尽かしはじめていたのを見た幕府嫌いの後醍醐(ごだいご)天皇は、これは倒幕に立ち上がる絶好チャンスだと立ち上がります。

なぜ後醍醐天皇は幕府嫌いだったのか?その原因は天皇の後継問題にありました。実は、このころ天皇の位を継げる家系はふたつあったのです。当然、ふたつの家系は自分の系統の子どもを天皇にしたいわけですから、天皇の座を巡って激しく争うことになりますよね。そこに鎌倉幕府が仲裁に入って、両家から交互に天皇を出す「両統迭立」という取り決めをしました。

けれど、後醍醐天皇はどうしても自分の息子を次の天皇にしたいという強い思いがあり、そんな決まりを強いる幕府はいますぐにでも打ち倒してしまいたいのです。

そんなときに元寇が起こり、鎌倉幕府が弱ったことで後醍醐天皇は一世一代の大チャンスを得たのでした。

『太平記』第一部その2・鎌倉幕府滅亡

しかしながら、鎌倉幕府もそう甘くはありません。後醍醐天皇と腹心・日野資朝、日野俊基は嫌疑にかけられます(正中の変)。ここでひとまず後醍醐天皇、日野俊基は冤罪ということになりましたが、このままでは倒幕も息子を天皇にするのも夢のまた夢。

諦めずに二度目の倒幕計画を練るのですが、今度は側近・吉田定房が、京都を監視する幕府の「六波羅探題」へ密告。このままでは危ないと考えた後醍醐天皇は正当な天皇の証となる「三種の神器」を持って京都から逃亡します。そうして、尊良親王(たかよししんのう)と護良親王(もりよししんのう)のふたりの息子とともに挙兵し、笠置山(京都府相楽郡笠置町)に籠城する「笠置山の戦い」を起こしました。そこで敗れた後醍醐天皇は隠岐島へと配流されるものの、「楠木正成(くすのきまさしげ)」による赤坂城の挙兵や各地での反乱、「足利尊氏(当時は高氏)」が天皇側に寝返るなど、鎌倉幕府にとって不利な状況が重なりはじめます。

そして、京都の六波羅探題が攻め落とされ、さらに「新田義貞(にったよしさだ)」が鎌倉幕府を裏切って、足利尊氏の息子・千寿王(のちの室町幕府二代目将軍足利義詮)とともに鎌倉幕府を攻め滅ぼしたのです。1333年7月のことでした。

『太平記』第二部その1・後醍醐天皇の「健武の新政」失敗

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晴れて鎌倉幕府を倒し、自ら政治を主導することになった後醍醐天皇は「健武の新政」を開始します。しかし、後醍醐天皇はここで大きな間違いをおかしてしまいました。

鎌倉幕府が大嫌いだった後醍醐天皇は、当然、武士も大嫌いだったわけで。そうすると、当然、自分が主導する政治の場からなるべく武士を排除し、平安時代のような貴族中心の社会に戻そうとしたのです。

けれど、よく考えてみてください。幕府を倒したのは後醍醐天皇ひとりの力ではありませんよね。武士たちが最前線で戦ったからこそ、鎌倉幕府を倒せたのです。武士たちは命をかけて戦ったのに、報酬はなく、それどころか朝廷に領地を没収されるものまで出てきました。鎌倉幕府よりひどい扱いに怒った武士たちは、もう一度幕府を望むようになりますよね。そこで、倒幕の立役者のひとりだった「足利尊氏」が立ち上がることになりました。

『太平記』第二部その2・南北朝のはじまり

いくら武士たちが幕府設立を望んだからといって、それを武士嫌いの後醍醐天皇が認めるはずがありません。そこで足利尊氏はないがしろにされたもう一つの血統に声をかけることにしました。そうして光明天皇の即位と引き換えに、足利尊氏は征夷大将軍に任命され、1338年に室町幕府を開いたのです。

後醍醐天皇としては自分が唯一の天皇なわけですから、勝手に即位した光明天皇を認めるわけにはいきませんよね。しかし、光明天皇の背後には足利尊氏率いる武士たちがついています。武力ではなかなか勝てません。そこで後醍醐天皇は京都の都から奈良の吉野へと逃れ、天皇と政治を続けました。

これが京都の足利尊氏と光明天皇を北、吉野の後醍醐天皇を南とした南北朝時代のはじまりです。

『太平記』第三部・混沌を極める室町時代

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南北朝時代のはじまりと同時に武士を中心とする室町幕府、室町時代もスタートするわけですが、ここで注意しなければならないのが、武士の全員が全員室町幕府に従ったわけではないというところ。

各地に領地を持つ武士はこのころからすでに「守護大名」と呼ばれ、自分たちの利益になるようそれぞれ南北にわかれます。ところが、守護大名たちは最初からずっと同じ勢力に味方していたわけではありません。「最初は南に味方していたけれど、北の方が条件がいいから明日から北の味方に加わる」みたいなことがたくさん起こったのです。

この状態は1392年まで続くことになります。『太平記』では、足利尊氏から将軍の座を引き継ぎ、生涯を戦に投じた二代目将軍「足利義詮」が病気で亡くなるまでが書かれました。

\次のページで「3.江戸時代に人気爆発、その理由は?」を解説!/

3.江戸時代に人気爆発、その理由は?

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民衆の娯楽として

当時の識字率は現在の比ではなく、字を読めない人はたくさんいました。けれど、耳で聞く事なら誰にだってできますよね。僧侶が物語を語り聞かせることで、日本の歴史を身分関係なく多くの人々に伝えてきました。

しかし、ただ語り伝えるにしても、興味を引くような物語でなければ人は聞いてくれません。娯楽にはならないのです。

さて、ここで『太平記』の中身を見ますと、難しいながらに力強い言葉がずらりと並んでいるのがわかります。意味がわからなくても力強い言葉は人の心を掴むのに十分な力を持ち、そこに僧侶たちの熟練された歌が加わるのです。『太平記』の語りは、人を物語に引き込む素晴らしい娯楽でした。

また、江戸時代になると「太平記読み」という『太平記』を朗読、あるいは講釈する芸能が広がります。「太平記読み」は、さらに元禄のころには職業としても確立するようになりました。

けれど、どうしてそこまで『太平記』が人気になったのでしょうか?

人気の秘訣は「忠臣」

『太平記』人気のキーワードに「忠臣」という言葉があります。主君に忠義を尽くす臣下のことですね。同時代には「忠臣蔵」など、そのものズバリの人気タイトルがあるように、「忠臣」は日本人に広く好まれたのです。

なかでも、第一部で後醍醐天皇側の武将として、鎌倉幕府、そして足利尊氏と最後まで戦った「楠木正成」は大人気でした。楠木正成の天皇への忠義のあり方は江戸時代の国学者らに引き継がれ、のちに小学校の教科書に載せるなどして「国民は天皇の臣下」という考えを広めたのです。

歴史を物語り、人々を惹きつけた『太平記』

鎌倉時代の終わりから南北朝時代の終盤までを書いた『太平記』。血生臭い動乱の時代にありながら、楠木正成などの忠臣や、そのほかの武士たちの武勇、忠孝の話などを織り交ぜ、人々に道徳観や人生観を教え伝えたのです。そういう面からみると『太平記』はただの軍記物語ではなく、歴史と道徳を学べる教科書といっても過言ではありませんね。

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南北朝時代室町時代日本史歴史

3分で簡単「太平記」軍記物語の一つ?どんな話?歴史オタクがわかりやすく解説

50年間にわたる記録の物語

『太平記』は、『将門記』と同じように作者、成立時期ともに不詳とされています。しかし、たったひとりの作者がつくったのではなく、室町幕府と関わりのある知識人を中心とした複数人で編纂したと考えられました。そして、小島法師らによって1370年ごろまでに全40巻で1318年からはじまる南北朝から、足利義満が三代将軍になった1368年までにおよぶ50年間の記録が完成したのです。

全40巻からなる『太平記』は三部構成になっており、第一部では後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府滅亡までを、第二部は後醍醐天皇の新政の失敗から崩御まで、そして第三部では足利幕府内部の混乱や紛争を描きました。また、合戦や政治の変遷だけではなく、伊勢神宮のおこりや、鎌倉時代のモンゴル襲来(元寇)の際に吹いた神風のことなど、日本にとって重要な出来事が語られています。

『太平記』第一部その1・後醍醐天皇の倒幕計画

では、『太平記』を説明するにあたって、まず物語がどういう歴史のなかにあったのかをお話ししなければなりませんね。

物語の当時は、日本は鎌倉幕府が治めていました。しかし、少し前に起こったモンゴル襲来(元寇)によって幕府は非常に弱っていたのです。味方のはずの武士たちの一部が幕府に愛想を尽かしはじめていたのを見た幕府嫌いの後醍醐(ごだいご)天皇は、これは倒幕に立ち上がる絶好チャンスだと立ち上がります。

なぜ後醍醐天皇は幕府嫌いだったのか?その原因は天皇の後継問題にありました。実は、このころ天皇の位を継げる家系はふたつあったのです。当然、ふたつの家系は自分の系統の子どもを天皇にしたいわけですから、天皇の座を巡って激しく争うことになりますよね。そこに鎌倉幕府が仲裁に入って、両家から交互に天皇を出す「両統迭立」という取り決めをしました。

けれど、後醍醐天皇はどうしても自分の息子を次の天皇にしたいという強い思いがあり、そんな決まりを強いる幕府はいますぐにでも打ち倒してしまいたいのです。

そんなときに元寇が起こり、鎌倉幕府が弱ったことで後醍醐天皇は一世一代の大チャンスを得たのでした。

『太平記』第一部その2・鎌倉幕府滅亡

しかしながら、鎌倉幕府もそう甘くはありません。後醍醐天皇と腹心・日野資朝、日野俊基は嫌疑にかけられます(正中の変)。ここでひとまず後醍醐天皇、日野俊基は冤罪ということになりましたが、このままでは倒幕も息子を天皇にするのも夢のまた夢。

諦めずに二度目の倒幕計画を練るのですが、今度は側近・吉田定房が、京都を監視する幕府の「六波羅探題」へ密告。このままでは危ないと考えた後醍醐天皇は正当な天皇の証となる「三種の神器」を持って京都から逃亡します。そうして、尊良親王(たかよししんのう)と護良親王(もりよししんのう)のふたりの息子とともに挙兵し、笠置山(京都府相楽郡笠置町)に籠城する「笠置山の戦い」を起こしました。そこで敗れた後醍醐天皇は隠岐島へと配流されるものの、「楠木正成(くすのきまさしげ)」による赤坂城の挙兵や各地での反乱、「足利尊氏(当時は高氏)」が天皇側に寝返るなど、鎌倉幕府にとって不利な状況が重なりはじめます。

そして、京都の六波羅探題が攻め落とされ、さらに「新田義貞(にったよしさだ)」が鎌倉幕府を裏切って、足利尊氏の息子・千寿王(のちの室町幕府二代目将軍足利義詮)とともに鎌倉幕府を攻め滅ぼしたのです。1333年7月のことでした。

『太平記』第二部その1・後醍醐天皇の「健武の新政」失敗

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晴れて鎌倉幕府を倒し、自ら政治を主導することになった後醍醐天皇は「健武の新政」を開始します。しかし、後醍醐天皇はここで大きな間違いをおかしてしまいました。

鎌倉幕府が大嫌いだった後醍醐天皇は、当然、武士も大嫌いだったわけで。そうすると、当然、自分が主導する政治の場からなるべく武士を排除し、平安時代のような貴族中心の社会に戻そうとしたのです。

けれど、よく考えてみてください。幕府を倒したのは後醍醐天皇ひとりの力ではありませんよね。武士たちが最前線で戦ったからこそ、鎌倉幕府を倒せたのです。武士たちは命をかけて戦ったのに、報酬はなく、それどころか朝廷に領地を没収されるものまで出てきました。鎌倉幕府よりひどい扱いに怒った武士たちは、もう一度幕府を望むようになりますよね。そこで、倒幕の立役者のひとりだった「足利尊氏」が立ち上がることになりました。

『太平記』第二部その2・南北朝のはじまり

いくら武士たちが幕府設立を望んだからといって、それを武士嫌いの後醍醐天皇が認めるはずがありません。そこで足利尊氏はないがしろにされたもう一つの血統に声をかけることにしました。そうして光明天皇の即位と引き換えに、足利尊氏は征夷大将軍に任命され、1338年に室町幕府を開いたのです。

後醍醐天皇としては自分が唯一の天皇なわけですから、勝手に即位した光明天皇を認めるわけにはいきませんよね。しかし、光明天皇の背後には足利尊氏率いる武士たちがついています。武力ではなかなか勝てません。そこで後醍醐天皇は京都の都から奈良の吉野へと逃れ、天皇と政治を続けました。

これが京都の足利尊氏と光明天皇を北、吉野の後醍醐天皇を南とした南北朝時代のはじまりです。

『太平記』第三部・混沌を極める室町時代

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南北朝時代のはじまりと同時に武士を中心とする室町幕府、室町時代もスタートするわけですが、ここで注意しなければならないのが、武士の全員が全員室町幕府に従ったわけではないというところ。

各地に領地を持つ武士はこのころからすでに「守護大名」と呼ばれ、自分たちの利益になるようそれぞれ南北にわかれます。ところが、守護大名たちは最初からずっと同じ勢力に味方していたわけではありません。「最初は南に味方していたけれど、北の方が条件がいいから明日から北の味方に加わる」みたいなことがたくさん起こったのです。

この状態は1392年まで続くことになります。『太平記』では、足利尊氏から将軍の座を引き継ぎ、生涯を戦に投じた二代目将軍「足利義詮」が病気で亡くなるまでが書かれました。

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