日本史

5分でわかる「物部守屋」なぜ蘇我氏と対立した?どうして滅んだ?歴史オタクがわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ。古代日本の権力者だった「物部守屋」だが、蘇我一族と対立した結果、滅ぼされてしまう。いったいなぜ物部守屋は蘇我氏と相対することになったんだろうな。

今回は「物部守屋」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。古代日本の歴史ロマンに惹かれ、今回のテーマを選んで勉強。わかりやすくまとめた。

1.一大国家を築いたヤマト朝廷

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古代日本の権力者「大王」と豪族たち

近畿地方を中心に北は東北、南は九州にまでおよぶ広大な勢力を築いたヤマト朝廷。その成立過程ははっきりしないものの、たくさんの地方国家が連合してヤマト政権をつくったと考えられています。

その頂点に君臨したのが「大王(おおきみ)」、のちの「天皇」です。大王の治世の下、ヤマト朝廷は有力な豪族たちによって治められていました。

そして、大王は有力な氏族に「姓(かばね)」という称号を与えます。称号によってその氏族と王権の関係や、氏族の地位をあらわしました。いわゆる「爵位」と「官職」の二つの性格を持ち合わせたものですね。

この氏姓制度のもと、第19代允恭天皇が導入した「臣連制度」で「公・君(きみ)」、「臣(おみ)」、「連(むらじ)」、「直(あたい)」、「首(おびと)」、「史(ふひと)」、「村主(すぐり)」などが決められました。

今回のテーマ「物部守屋」はこのなかでも、「臣」と並ぶ最高位の豪族が持つ「連」です。

物部氏は最初、武器の製造と管理を担っていました。それが徐々に大伴氏と肩を並べる軍事氏族へと成長していきます。そうして、さらに時を重ねると物部氏は刑罰、警察、軍事、裁判の執行などの職務を担当するようになりました。

このように力をつけたため、物部氏はヤマト朝廷を左右するほどの権力を有する「大連」となりました。

そして、ライバル関係にあたる蘇我氏は「大臣」。蘇我氏は氏族の管理や、外交の権益を持っていたとみられます。

仏教が伝来した古墳時代

物部氏や蘇我氏が登場するのは古墳時代。たくさんの古墳が造られたことから、この時代を「古墳時代」といいました。

そんな古墳時代の終わりごろのこと。538年、朝鮮半島にあった「百済」の「聖王(聖明王)」からヤマト朝廷の「欽明天皇」へと「仏教」が公伝されました。

「公伝」とは、簡単に言うと「王様から王様へ伝えること」。つまり、国家間での公式なやりとりです。仏教自体はすでに渡来人たちの手によって日本へは入ってきていました。渡来人たちが個人的に仏教を信仰しているだけで、大和朝廷は関与していない状態だったのです。

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弥生時代に権力や貧富の差が発生し、それを受け継いだ古墳時代に「ヤマト政権」が築かれた。いくつもの地方国家が連合した国だったが、そのなかでも神武天皇から続く天皇家が頂点となって政治を行っていたんだな。その周りを固めたのが「連」や「臣」といった有力な豪族たちだ。

そういう環境のもと、五世紀になってようやく日本に「仏教」が公伝されることになる。そうするといよいよ仏教をめぐって「物部氏」と「蘇我氏」が出てくるわけだな。

2.仏教を巡る親世代のいさかい

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公伝された仏教をどうするかで揉める

百済の聖王は日本に「仏教」という新しい宗教を教え、一緒に釈迦仏像や経典を贈ってくれました。しかし、日本にはすでに日本神話の神々を信仰する神道があります。天皇家は日本神話の神・イザナミノミコトの子孫とされていましたし、天皇家以外の氏族もそれぞれの祖先から祀ってきたカミ様がいました。

特に物部一族は、神武天皇が近畿に来る以前より大和の地に降り立った「饒速日命(にぎはやひのみこと)」を祖先とします。つまり、物部氏は日本神話のカミを先祖に持つ一族だったのです。そんな物部氏が仏教に反対するのは自明の理ですよね。

しかし、わざわざ百済の聖王から公伝された仏教や仏像を捨ててしまうわけにはいきません。王様同士のやりとりですから、ひとつ間違えれば国際問題ものです。

聖王が同封した手紙には「インドから朝鮮半島にいたるまで、どの国も仏教を信仰していますよ」と書かれていました。仏教は当時の先進文化の証だったのです。

悩んだ欽明天皇は、臣下たちを集めて仏教を信仰すべきかどうか問うことにしました。

崇仏派と廃仏派の対立

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物部氏の長「物部尾輿(もののべのおこし)」は仏教に猛反対しました。「私たちの国はずっと神道を信仰してきたのに、もし今から外国のカミ様を拝んだら、我が国の神の怒りを買いますよ」と神々の怒りをおそれたのです。ここで登場する「物部尾輿」こそ、今回のテーマ「物部守屋」の父親でした。

一方、大連の物部尾輿と肩を並べることのできる「大臣」の「蘇我稲目(そがのいなめ)」は「多くの他国が仏教を信仰しているのに、我が国だけ信仰しないなんてできません」と答えたのです。

蘇我稲目のような仏教賛成派を崇仏派、物部尾輿のような仏教反対派を廃仏派と言います。物部氏と蘇我氏の対立はここから始まり、そして、朝廷はどちらにつくかで真っ二つに意見が割れてしまいました。

どちらの意見を汲むかは非常に難しい問題です。そこで欽明天皇は、崇仏派の蘇我稲目にこれらを渡して様子をみることにしました。蘇我稲目は飛鳥の向原というところにあった家を祓い清めて釈迦仏像を安置します。これが日本最初のお寺となりました。

物部氏による最初の焼き討ち

蘇我稲目が向原で仏像を祀ったところ、折り悪く国中で疫病が流行しはじめました。当時の医療は言わずもがな、疫病によって多くの犠牲者が出ます。

その悲惨な光景を見た物部尾輿は「蘇我稲目が外国の神を祀って我々のカミを蔑ろにしたから、やっぱりカミがお怒りになって天罰を下したのです。だから、早く仏像など捨てさせて、カミの怒りを解きましょう!」と欽明天皇に奏上します。

カミの祟りが信じられていた古代ですし、大連の物部尾輿にそう言われてしまえば、欽明天皇も頷く他ありません。物部尾輿はすぐさま向原のお寺を焼き払い、百済の聖王からおくられた釈迦仏像を大阪湾の水路に捨ててしまいました。

するとどうでしょう。空に雲もないのに天皇の住む大殿から火が上がった、と『日本書紀』に書かれています。これは捨てられた仏像の怒りが皇居を燃やしたという、仏の不思議な力をあらわしたエピソードでした。

欽明天皇はその後、霊木で二体の仏像を彫らせたとされています。欽明天皇は仏教の力を完全に否定したわけではないということですね。けれど、国をあげて仏教を祀ったわけではありません。依然として、仏教は崇仏派の蘇我稲目に任せたままにしています。

そういうわけで、仏教をめぐる対立は決着するどころかますます深まるばかり。問題は解決されることなく、物部尾輿と蘇我稲目の次世代へと受け継がれることになりました。

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仏教を信仰するか否かで廃仏派の物部尾輿と崇仏派の蘇我稲目の間で深い対立が起こる。ふたつの意見は朝廷を真っ二つにしたので、欽明天皇はひとまず蘇我稲目に仏教を任せてみることにしたんだな。それでタイミング悪く疫病が流行ってしまったから、寺を焼くなんて現代なら信じられないようなことが実行された。しかし、それでも蘇我稲目は諦めずにまだ信仰を続ける。なかなか一本筋の通った男だな。

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