古代日本の権力者だった「物部守屋(もののべのもりや)」ですが、蘇我一族と対立した結果、滅ぼされてしまう。いったいなぜ物部守屋は蘇我氏と相対することになったんでしょうな。今回は「物部守屋」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。古代日本の歴史ロマンに惹かれ、今回のテーマを選んで勉強。わかりやすくまとめた。

1.一大国家を築いたヤマト朝廷

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近畿地方を中心に北は東北、南は九州にまでおよぶ広大な勢力を築いたヤマト朝廷。その成立過程ははっきりしないものの、たくさんの地方国家が連合してヤマト政権をつくったと考えられています。

古代日本の権力者「大王」と豪族たち

ヤマト朝廷の頂点に君臨したのが「大王(おおきみ)」、のちの「天皇」です。大王の治世の下、ヤマト朝廷は有力な豪族たちによって治められていました。

そして、大王は有力な氏族に「姓(かばね)」という称号を与えます。称号によってその氏族と王権の関係や、氏族の地位をあらわしました。いわゆる「爵位」と「官職」の二つの性格を持ち合わせたものですね。

この氏姓制度のもと、第19代允恭天皇が導入した「臣連制度」で「公・君(きみ)」、「臣(おみ)」、「連(むらじ)」、「直(あたい)」、「首(おびと)」、「史(ふひと)」、「村主(すぐり)」などが決められました。

臣連制度の中で力を付けた物部守屋

今回のテーマ「物部守屋」はこのなかでも、「臣」と並ぶ最高位の豪族が持つ「連」です。

物部氏は最初、武器の製造と管理を担っていました。それが徐々に大伴氏と肩を並べる軍事氏族へと成長していきます。そうして、さらに時を重ねると物部氏は刑罰、警察、軍事、裁判の執行などの職務を担当するようになりました。

このように力をつけたため、物部氏はヤマト朝廷を左右するほどの権力を有する「大連」となりました。

そして、ライバル関係にあたる蘇我氏は「大臣」。蘇我氏は氏族の管理や、外交の権益を持っていたとみられます。

仏教が伝来した古墳時代

物部氏や蘇我氏が登場するのは古墳時代。たくさんの古墳が造られたことから、この時代を「古墳時代」といいました。

そんな古墳時代の終わりごろのこと。538年、朝鮮半島にあった「百済」の「聖王(聖明王)」からヤマト朝廷の「欽明天皇」へと「仏教」が公伝されました。

「公伝」とは、簡単に言うと「王様から王様へ伝えること」。つまり、国家間での公式なやりとりです。仏教自体はすでに渡来人たちの手によって日本へは入ってきていました。渡来人たちが個人的に仏教を信仰しているだけで、大和朝廷は関与していない状態だったのです。

\次のページで「2.仏教を巡る親世代のいさかい」を解説!/

2.仏教を巡る親世代のいさかい

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百済の聖王は日本に「仏教」という新しい宗教を教え、一緒に釈迦仏像や経典を贈ってくれました。しかし、日本にはすでに日本神話の神々を信仰する神道があります。天皇家は日本神話の神・イザナミノミコトの子孫とされていましたし、天皇家以外の氏族もそれぞれの祖先から祀ってきた神様がいました。

公伝された仏教をどうするかで揉める

特に物部一族は、神武天皇が近畿に来る以前より大和の地に降り立った「饒速日命(にぎはやひのみこと)」を祖先とします。つまり、物部氏は日本神話の神を先祖に持つ一族だったのです。そんな物部氏が仏教に反対するのは自明の理ですよね。

しかし、わざわざ百済の聖王から公伝された仏教や仏像を捨ててしまうわけにはいきません。王様同士のやりとりですから、ひとつ間違えれば国際問題ものです。

聖王が同封した手紙には「インドから朝鮮半島にいたるまで、どの国も仏教を信仰していますよ」と書かれていました。仏教は当時の先進文化の証だったのです。

悩んだ欽明天皇は、臣下たちを集めて仏教を信仰すべきかどうか問うことにしました。

崇仏派と廃仏派の対立

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物部氏の長「物部尾輿(もののべのおこし)」は仏教に猛反対しました。「私たちの国はずっと神道を信仰してきたのに、もし今から外国のカミ様を拝んだら、我が国の神の怒りを買いますよ」と神々の怒りをおそれたのです。ここで登場する「物部尾輿」こそ、今回のテーマ「物部守屋」の父親でした。

一方、大連の物部尾輿と肩を並べることのできる「大臣」の「蘇我稲目(そがのいなめ)」は「多くの他国が仏教を信仰しているのに、我が国だけ信仰しないなんてできません」と答えたのです。

蘇我稲目のような仏教賛成派を崇仏派、物部尾輿のような仏教反対派を廃仏派と言います。物部氏と蘇我氏の対立はここから始まり、そして、朝廷はどちらにつくかで真っ二つに意見が割れてしまいました。

どちらの意見を汲むかは非常に難しい問題です。そこで欽明天皇は、崇仏派の蘇我稲目にこれらを渡して様子をみることにしました。蘇我稲目は飛鳥の向原というところにあった家を祓い清めて釈迦仏像を安置します。これが日本最初のお寺となりました。

\次のページで「物部氏による最初の焼き討ち」を解説!/

物部氏による最初の焼き討ち

蘇我稲目が向原で仏像を祀ったところ、折り悪く国中で疫病が流行しはじめました。当時の医療は言わずもがな、疫病によって多くの犠牲者が出ます。

その悲惨な光景を見た物部尾輿は「蘇我稲目が外国の神を祀って我々の神を蔑ろにしたから、やはり神がお怒りになって天罰を下したのです。だから、早く仏像など捨てさせて、神の怒りを解きましょう!」と欽明天皇に奏上します。

神の祟りが信じられていた古代ですし、大連の物部尾輿にそう言われてしまえば欽明天皇も頷く他ありません。物部尾輿はすぐさま向原のお寺を焼き払い、百済の聖王からおくられた釈迦仏像を大阪湾の水路に捨ててしまいました。

仏教をめぐる対立は決着することなく次世代へ

するとどうでしょう。空に雲もないのに天皇の住む大殿から火が上がった、と『日本書紀』に書かれています。これは捨てられた仏像の怒りが皇居を燃やしたという、仏の不思議な力をあらわしたエピソードでした。

欽明天皇はその後、霊木で二体の仏像を彫らせたとされています。欽明天皇は仏教の力を完全に否定したわけではないということですね。けれど、国をあげて仏教を祀ったわけではありません。依然として、仏教は崇仏派の蘇我稲目に任せたままにしています。

そういうわけで、仏教をめぐる対立は決着するどころかますます深まるばかり。問題は解決されることなく、物部尾輿と蘇我稲目の次世代へと受け継がれることになりました。

3.物部守屋と蘇我馬子

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最後に、物部守屋と蘇我馬子の攻防を見ていきましょう。

物部尾輿の息子「物部守屋」

有力な軍事氏族だった「物部氏」。「連」のなかで最も強い「大連」の称号を持ち、名実ともにヤマト政権をひっぱっていく一族でした。

そんな物部氏に生まれた「物部守屋(もののべのもりや)」。父は物部氏のエリートで、母もまた「弓削(ゆげ)氏」の祖・倭古の娘でした。弓削氏は武器の製作を担った一族で、物部氏と深い関係にあります。父母ともに軍事に携わる、ヤマト朝廷には欠かせない一族でした。そして、物部守屋は父の考えを受け継ぎ、仏教を強く否定する廃仏派となります。

百済より再びもたらされた仏像

欽明天皇が崩御し、敏達天皇が即位したのち、物部守屋は大連に任命されました。同じく、蘇我稲目の息子「蘇我馬子」もまた父の跡を引き継いで大臣となります。

世代交代ののち、再び百済から弥勒菩薩の石像と仏像がおくられてくると、蘇我馬子はそれを受け取って寺をつくることにしました。そのお寺に三人の尼僧がおつとめに入ります。彼女たちこそ日本初の僧侶だったのです。

しかし、新しいお寺ができてしばらくもしないうちに蘇我馬子は病に倒れてしまいます。そこで蘇我馬子は敏達天皇に仏法を祀る許可を得ることにしました。許可ももらったことだから、さっそく法会を行おうとしたときのこと。またしてもタイミング悪く疫病の流行がはじまってしまったのです。

\次のページで「仏像を焼いた罪に倒れる」を解説!/

仏像を焼いた罪に倒れる

再び疫病の流行に襲われた日本。物部守屋は、同じく廃仏派の中臣勝海(なかとみのかつみ)とともに「仏教を信奉したから、また疫病が起こった」と敏達天皇に奏上します。そして、やはり父・物部尾輿と同じように蘇我馬子のお寺を破壊、仏像は難波の堀江に投げ捨てました。さらに三人の尼僧を縛り上げてむち打ちにしたのです。

仏像を討ち捨て、信徒をこれだけ痛めつけたのだから疫病もなくなるだろう、と思われました。ところが、疫病はおさまるどころか、物部守屋と敏達天皇も病に倒れることに。これはお寺を焼き、仏像を捨てた罰ではないか、と人々はウワサしました。

そんななか、蘇我馬子はなんとか病回復の法会の許可をもぎ取り、尼僧たちと法会を行います。しかし、時すでに遅く、敏達天皇は崩御してしまいました。

用明天皇、仏教公認へ

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敏達天皇の崩御後、新しく皇位についたのは蘇我馬子が推薦する用明天皇でした。用明天皇は欽明天皇と蘇我馬子の妹の間に生まれた天皇。つまり、蘇我馬子の甥ですね。そういうわけで、用明天皇は崇仏派でした。

しかし、その人選に物部守屋が黙っているはずがありません。物部守屋は同じく用明天皇即位に不満に思っていた欽明天皇の皇子・穴穂部皇子(あなほべのみこ)と手を組むことにしました。

即位した用明天皇でしたが、すぐに病に倒れてしまいます。病床に伏した用明天皇は、そこで仏教を公認したいと願い、臣下たちに議論させました。

もちろん、廃仏派の物部守屋や中臣勝海は大反対しますが、他の臣下の多くが蘇我馬子に味方したのです。その状況に危機感を抱いた物部守屋は別荘のあった河内国(現在の大阪府東部)へ行き、味方を集めることにしました。

次代の天皇をめぐる争い

その後、用明天皇はたった二年の在位で崩御。時代の天皇の座をめぐり、物部守屋は穴穂部皇子を即位させようと画策しました。

しかし、泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の崇峻天皇)を推していた蘇我馬子が先手を打ち、炊屋姫(敏達天皇の后)の詔を得て穴穂部皇子を殺害。さらに物部守屋を滅ぼすと決めて大軍を集めて挙兵します。

けれど、河内国渋川郡にいた物部守屋も黙ってやられるわけにはいきません。そして、何と言っても物部氏は軍事を司る氏族です。強力な一族を集めた物部守屋は稲城を築いて防御を固め、蘇我馬子の軍を待ちました。

丁未の乱のゆくえ

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攻め入る大軍に対し、物部守屋の手勢は大木に登って上から矢を浴びせかけます。稲城の強固な守りと矢の雨によって蘇我馬子たちは三度に渡って撤退していきました。

このとき、蘇我馬子は仏法の加護を得ようと、戦いに勝てば寺を建立すると誓いを立てます。また、蘇我氏と血縁関係にあった厩戸皇子(聖徳太子)は四天王の像を彫って勝利を祈願し、最後の戦いに挑んだのです。

そして、自ら大木に登り矢を放っていた物部守屋が射殺されたことをきっかけに物部氏の軍勢は崩れ、とうとう蘇我馬子たちによって滅ぼされたのでした。

これを「丁未の乱」といいます。

自国の神々を尊重するあまり過激派に

日本神話の神「饒速日命(にぎはやひのみこと)」を祖先とする物部守屋。外国からやってきた仏教が日本の神々以上に祀られては、神々の怒りを買うと仏教に大反対しました。その結果、お寺を焼いたり、仏像を捨てたりとかなり過激な行動に出ます。

しかし、どんな仕打ちにも諦めなかった蘇我氏により崇仏派の用明天皇が即位すると、仏教が公認されることとなったのです。そして、政治の中枢を握った蘇我馬子らに攻め滅ぼされる「丁未の乱」が起きたのでした。

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古墳時代日本史歴史

物部守屋はなぜ蘇我氏と対立した?どうして滅んだ?歴史オタクが簡単にわかりやすく解説

古代日本の権力者だった「物部守屋(もののべのもりや)」ですが、蘇我一族と対立した結果、滅ぼされてしまう。いったいなぜ物部守屋は蘇我氏と相対することになったんでしょうな。今回は「物部守屋」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。古代日本の歴史ロマンに惹かれ、今回のテーマを選んで勉強。わかりやすくまとめた。

1.一大国家を築いたヤマト朝廷

image by PIXTA / 62774849

近畿地方を中心に北は東北、南は九州にまでおよぶ広大な勢力を築いたヤマト朝廷。その成立過程ははっきりしないものの、たくさんの地方国家が連合してヤマト政権をつくったと考えられています。

古代日本の権力者「大王」と豪族たち

ヤマト朝廷の頂点に君臨したのが「大王(おおきみ)」、のちの「天皇」です。大王の治世の下、ヤマト朝廷は有力な豪族たちによって治められていました。

そして、大王は有力な氏族に「姓(かばね)」という称号を与えます。称号によってその氏族と王権の関係や、氏族の地位をあらわしました。いわゆる「爵位」と「官職」の二つの性格を持ち合わせたものですね。

この氏姓制度のもと、第19代允恭天皇が導入した「臣連制度」で「公・君(きみ)」、「臣(おみ)」、「連(むらじ)」、「直(あたい)」、「首(おびと)」、「史(ふひと)」、「村主(すぐり)」などが決められました。

臣連制度の中で力を付けた物部守屋

今回のテーマ「物部守屋」はこのなかでも、「臣」と並ぶ最高位の豪族が持つ「連」です。

物部氏は最初、武器の製造と管理を担っていました。それが徐々に大伴氏と肩を並べる軍事氏族へと成長していきます。そうして、さらに時を重ねると物部氏は刑罰、警察、軍事、裁判の執行などの職務を担当するようになりました。

このように力をつけたため、物部氏はヤマト朝廷を左右するほどの権力を有する「大連」となりました。

そして、ライバル関係にあたる蘇我氏は「大臣」。蘇我氏は氏族の管理や、外交の権益を持っていたとみられます。

仏教が伝来した古墳時代

物部氏や蘇我氏が登場するのは古墳時代。たくさんの古墳が造られたことから、この時代を「古墳時代」といいました。

そんな古墳時代の終わりごろのこと。538年、朝鮮半島にあった「百済」の「聖王(聖明王)」からヤマト朝廷の「欽明天皇」へと「仏教」が公伝されました。

「公伝」とは、簡単に言うと「王様から王様へ伝えること」。つまり、国家間での公式なやりとりです。仏教自体はすでに渡来人たちの手によって日本へは入ってきていました。渡来人たちが個人的に仏教を信仰しているだけで、大和朝廷は関与していない状態だったのです。

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