古墳時代日本史歴史

物部守屋はなぜ蘇我氏と対立した?どうして滅んだ?歴史オタクが簡単にわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ。古代日本の権力者だった「物部守屋(もののべのもりや)」だが、蘇我一族と対立した結果、滅ぼされてしまう。いったいなぜ物部守屋は蘇我氏と相対することになったんだろうな。今回は「物部守屋」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。古代日本の歴史ロマンに惹かれ、今回のテーマを選んで勉強。わかりやすくまとめた。

1.一大国家を築いたヤマト朝廷

image by PIXTA / 62774849

近畿地方を中心に北は東北、南は九州にまでおよぶ広大な勢力を築いたヤマト朝廷。その成立過程ははっきりしないものの、たくさんの地方国家が連合してヤマト政権をつくったと考えられています。

古代日本の権力者「大王」と豪族たち

ヤマト朝廷の頂点に君臨したのが「大王(おおきみ)」、のちの「天皇」です。大王の治世の下、ヤマト朝廷は有力な豪族たちによって治められていました。

そして、大王は有力な氏族に「姓(かばね)」という称号を与えます。称号によってその氏族と王権の関係や、氏族の地位をあらわしました。いわゆる「爵位」と「官職」の二つの性格を持ち合わせたものですね。

この氏姓制度のもと、第19代允恭天皇が導入した「臣連制度」で「公・君(きみ)」、「臣(おみ)」、「連(むらじ)」、「直(あたい)」、「首(おびと)」、「史(ふひと)」、「村主(すぐり)」などが決められました。

臣連制度の中で力を付けた物部守屋

今回のテーマ「物部守屋」はこのなかでも、「臣」と並ぶ最高位の豪族が持つ「連」です。

物部氏は最初、武器の製造と管理を担っていました。それが徐々に大伴氏と肩を並べる軍事氏族へと成長していきます。そうして、さらに時を重ねると物部氏は刑罰、警察、軍事、裁判の執行などの職務を担当するようになりました。

このように力をつけたため、物部氏はヤマト朝廷を左右するほどの権力を有する「大連」となりました。

そして、ライバル関係にあたる蘇我氏は「大臣」。蘇我氏は氏族の管理や、外交の権益を持っていたとみられます。

仏教が伝来した古墳時代

物部氏や蘇我氏が登場するのは古墳時代。たくさんの古墳が造られたことから、この時代を「古墳時代」といいました。

そんな古墳時代の終わりごろのこと。538年、朝鮮半島にあった「百済」の「聖王(聖明王)」からヤマト朝廷の「欽明天皇」へと「仏教」が公伝されました。

「公伝」とは、簡単に言うと「王様から王様へ伝えること」。つまり、国家間での公式なやりとりです。仏教自体はすでに渡来人たちの手によって日本へは入ってきていました。渡来人たちが個人的に仏教を信仰しているだけで、大和朝廷は関与していない状態だったのです。

\次のページで「2.仏教を巡る親世代のいさかい」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: