仏教をめぐる争い
これで仏教論争が一時的にでも落ち着くと思われました。ところが、タイミングの悪いことに蘇我稲目が仏像を祀った途端に巷で疫病が流行りだし、多くの人が命を落としたのです。
仏教を祀るから日本の神様たちが怒って疫病を流行らせたのだ、と物部尾輿たち廃仏派は蘇我稲目の寺を焼き払い、仏像を難波の堀江(大阪湾の水路)に捨ててしまいました。
こんな暴動が起こっても欽明天皇は仏教についてはすべて蘇我氏に一任したままにします。蘇我稲目も諦めずにまた焼き払われた寺を再建しました。そうして、ますます蘇我氏と物部氏の対立は深まったいったのです。
その争いの姿勢は彼らの子どもの代にまで引き継がれることとなりました。
丁未の乱、仏教公認までの争い
仏教をめぐって蘇我氏と物部氏がとうとう武力衝突するにいたったのは、蘇我氏が稲目から馬子へ、物部氏は尾輿から守屋へと代替わりしたあとのこと。
欽明天皇の次代、敏達天皇の後継者争いに絡みます。蘇我馬子も物部守屋も別々に次の天皇候補を選び、そして、お互いに引き下がることはできません。話し合いは平行線のまま埒が明かず、その結果の武力衝突でした。戦いは蘇我馬子が軍を率いて物部守屋の邸宅を襲い、戦いの末に物部一族を滅ぼしてしまいます(丁未の乱)。
天皇の後継者争いは蘇我氏の勝利。廃仏派筆頭だった物部氏が敗れたことで、蘇我氏は堂々と仏教の信仰と布教ができるようになったのでした。
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聖徳太子が「十七条の憲法」を発布
そうして、日本初の女性天皇の推古天皇の御代になり、その摂政を務めた聖徳太子は「十七条の憲法」を発布します。
「十七条の憲法」の第二条には「篤く三宝を敬え」と書かれていました。「三宝」とはいわゆる「仏」「法」「僧」のことで、要するに、仏様とその教え、そして、それらを信奉する僧侶を大切にしなさい、ということです。実は、聖徳太子もまた蘇我氏と物部氏の戦いに参加した崇仏派のひとりだったのでした。
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紀元前より続き、インドから日本へやってきた仏教
紀元前450年ごろ、お釈迦様(ガウタマ・シッダールダ)により北インドで生まれた「仏教」。お釈迦様は人々の苦しみを見て出家を決意し、六年に渡って苦しみから逃れる術を探し続けました。そうして「悟り」に至り、無限に続く輪廻の輪から解脱したのです。
そんな仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代、今から約1400年以上前のこと。日本には日本神話や土着のカミ様がいましたから、伝来した当初は仏教の扱いについて大きな紛糾が起こりました。その争いを崇仏派の蘇我氏が制したことで、仏教は日本において揺るがぬ宗派となったのです。