「仏教」はみんな知っているな?日本ならどこにでも寺はあるし、観光地として開かれているところもあるから、境内に入ったことのある人も多いでしょう。
今回は「仏教」の始まりや日本への伝来がどんなものだったかについて歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。これまでたくさん仏教の宗派について勉強し、まとめてきた。今回はその大本にあたる「仏教」そのものについてわかりやすく解説していく。

1.仏教の誕生はどこ?

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仏教は日本でもメジャーな宗教です。キリスト教、イスラム教と並ぶ世界三大宗教のひとつですね。みなさんは仏教誕生の地がどこか知っていますか?まずは仏教の誕生について見ていきましょう。

仏教はどこで生まれたの?

日本にはどこにでもお寺があり、その中には先祖のお墓がある人もたくさんいると思います。観光に開かれたお寺もありますね。特に京都では清水寺をはじめとしたたくさんの寺院が開かれています。清水寺は修学旅行の定番ですから、行ったことがあるという人も多いでしょう。

ところで、その仏教がいったいどこから来たか知っているでしょうか?お寺は古くから日本に存在しているので、日本が発祥と思っている人も少なくないかもしれません。しかし、仏教誕生の地は日本ではないのです。

仏教が生まれたのは、紀元前450年ごろの北インド。このころの仏教を現在の仏教と区別するため「初期仏教」あるいは「原始仏教」と呼びます。

2.仏教の開祖「ガウタマ・シッダールタ」の誕生

仏教の開祖は「ガウタマ・シッダールタ」といいました。仏教で「お釈迦(しゃか)様」や「仏陀(ブッダ)」というのはみんなこの人を指して言います。ガウタマ・シッダールダが生まれた当時のインドはコーサラ国という大きな国がありました。そして、コーサラ国の属国のひとつ、シャーキヤ国の王子として生まれたのがガウタマ・シッダールダだったのです。

ガウタマ・シッダールダは脇から生まれた!?

ガウタマ・シッダールダの生まれ方にはたいへん有名なエピソードがありますね。

母・マーヤーが里帰り出産をしようと実家へ戻る旅路の途中、ルンビニー(現在のインドとネパールの国境付近にあった小国)の花園でマーヤーが産気づき、彼女の右脇からすぽんとガウタマ・シッダールダが生まれ出たのです。それだけでなく、彼は誕生した直後には立ち上がって七歩歩き、右手で天を、左手で大地を指さして「天上天下唯我独尊」と言ったとされています。簡単に訳すと、これは「すべての人は平等だ」という意味です。

この当時からすでにインドには「カースト」という強力な身分制度がありました。彼がカースト制度に強く反対していたのも有名ですね。

ガウタマ・シッダールダの誕生日は、現在の暦で四月八日とされていて、毎年この日にお寺では灌仏会(花祭り)が行われています。

ガウタマ・シッダールダの尊称

「釈迦」というのは、部族の名前の「シャーキヤ」を漢字に表したもの。サンスクリット語で「シャーキヤ族の聖者」を「シャーキヤムニ」といい、これを漢訳すると「釈迦牟尼」となります。そこから「釈迦牟尼」を略し、ガウタマ・シッダールダを「釈迦(お釈迦様)」と呼ぶようになったのです。

もうひとつの「仏陀」は、「目覚めた人」という意味で、もともとはインドで修行していた優れた聖者に対する呼称でした。それが仏教でも用いられ、ガウタマ・シッダールダの尊称となったのです。

\次のページで「ガウタマ・シッダールダの出家」を解説!/

ガウタマ・シッダールダの出家

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シャーキヤ国の王子として期待を一心に背負い、すばらしい教育を受けて育ったガウタマ・シッダールダ。十代の後半には母方のいとこ・ヤショーダラーと結婚して息子・ラーフラが生まれました。

絵にかいたような幸せですね。しかし、成長するにつれ、聡明なガウタマ・シッダールダはこの世は多くの苦しみに満ちていることを知ります。すべての人間は老いに苦しみ、病に苦しみ、そして最後に死ぬ苦しみを味わうことになると知ったガウタマ・シッダールダは、出家者の清らかな姿を見て自分の進むべき道を決めたのです。そうして、父王や妻が引き留めようとするのを振り切って出家しました。これがガウタマ・シッダールダ29歳のときのことです。

ブッダガヤの菩提樹で悟りを開く

出家して彼は最初、高名な師のもとで瞑想や苦行に励みますが、そこでは納得のいく答えが見つかりませんでした。それどころか、直射日光を浴び続ける修行や断食など苦行によって心身が衰えるばかり。

そして、とうとうガウタマ・シッダールダは衰弱しきって、今にも死んでしまいそうになったときのこと。そばを通りかかったスジャータという娘に乳粥をもらい、なんとか命を繋いだのです。

その後、ガウタマ・シッダールダはブッダガヤの菩提樹のもとで瞑想をはじめ、どんな誘惑に負けることなく悟りの境地に至ります。出家して六年目、35歳のときでした。

こうして悟りを開いたガウタマ・シッダールダは自ら法(ダルマ)を説き、仏教を広めていったのでした。

3.お釈迦様の教え

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お釈迦様の教えとはどのようなものなのでしょうか。

仏教の世界観と目的

仏教の世界の大きな枠に「輪廻」というシステムがありました。「輪廻」はこの世に生きるすべてのいのちが何度も転生を繰り返すことです。そして、その転生の先は「六道」という六つの世界に分かれていました。

・天人の住む「天道」
・人間の「人間道」
・阿修羅たちが住み、争いの絶えない「修羅道」
・動物の「畜生道」
・常に空腹に苛まれ苦しむ「餓鬼道」
・罪を償わせるための地下の世界「地獄道」

下にいくにつれてどんどん世界の苦しみのレベルが上がっていく仕組みになっています。

すべての生き物は無限にある前世と今世で背負った業によって、この六つの世界から次の転生先を決められました。平たく言うと、悪い事や不道徳なことをすると、次は下の世界に生まれ変わるということですね。

一番上で苦しみのないとされる「天道」ですが、そこの住人の天人でもやはり長い寿命の果てには死んでしまうので、まったく苦しみがないわけではありません。それに、悟りを開いたガウタマ・シッダールダ(以下、お釈迦様)には遠く及ばないのです。

「輪廻」がある限り、いのちは転生し続け、何度も苦しみを味わい続けます。しかし、実は、この「輪廻」から抜け出す唯一の方法がありました。それは「悟り」を開くことです。「悟り」を開き、心の迷いが解けて世界の真理を会得することで「解脱」する、つまり「輪廻」からいのちが解放されるのでした。

人間の抱える苦しみと煩悩

お釈迦様が悟りに至る道筋を説明するために最初に説いたとされる四つの真理を「四諦」といいます。「四諦」の内容は「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」という四つの真理です。

最初の「苦諦」は、人間が自分でさえも思い通りにならない「四苦(出生、老い、病気、死)」に、日常的に経験する四つの苦しみ(愛する対象と別れる苦しみ「愛別離苦」、憎む対象に出会う苦しみ「怨憎会苦」、求めても得られない苦しみ「求不得苦」、肉体と精神が思うようにならない苦しみ「五蘊盛苦」)を加えた「四苦八苦」と細かく分類されています。お釈迦様はこの「四苦八苦」こそが人間が抱えている「煩悩」の原因だと考えました。

この煩悩の結果として苦しみが生まれているという真実が「集諦」です。そして、苦しみの因果から離れ、悟りにいたることを「滅諦」。「滅諦」を実現するための実践が「道諦」です。「道諦」には八つの正しい道(八正道)があります。

八正道を実践し、輪廻から解脱することが、お釈迦様の教えの根本なのです。

4.仏教の日本への伝来

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日本へ仏教が伝来した歴史を見ていきましょう。

インドから日本へ

インドの北部から始まった仏教はやがてシルクロードを伝って中国にもたらされました。そこからさらに朝鮮半島にあった「百済」に伝わり、飛鳥時代になって百済の聖王から日本の欽明天皇に公伝されたことで伝わります。

「公伝」というのは、簡単に言うと「王様から王様へ伝えること」。いわゆる「公的なこと」という意味ですね。公的ではない個人レベルではすでに仏教は渡来人たちによって日本に伝来していました。

公伝された仏教、どうする?

百済の聖王によって公式に伝えられた仏教でしたが、日本にはすでに日本神話の神々を信仰する神道がありました。そもそも天皇家は日本神話の神・イザナミノミコトの子孫とされていましたし、天皇家以外の氏族もそれぞれの祖先から祀ってきた神様がいます。その神様たちと一緒に今から新しく入ってきた仏教も信仰してください、と言われてもそうはいきませんよね。有力者の物部尾輿(もののべのおこし)は仏教に猛反対しました。

しかし、同盟国の百済からおくられたものを捨ててしまうわけにはいきません。聖王の手紙には「インドからこちらの朝鮮半島に至るまで、どの国も仏教を信仰していますよ」とも書かれています。仏教は先進文化の証でもあったのです。

そこで欽明天皇は仏教に賛成した有力者・蘇我稲目(そがのいなめ)に渡して様子をみることにしたのでした。

\次のページで「仏教をめぐる争い」を解説!/

仏教をめぐる争い

これで仏教論争が一時的にでも落ち着くと思われました。ところが、タイミングの悪いことに蘇我稲目が仏像を祀った途端に巷で疫病が流行りだし、多くの人が命を落としたのです。

仏教を祀るから日本の神様たちが怒って疫病を流行らせたのだ、と物部尾輿たち廃仏派は蘇我稲目の寺を焼き払い、仏像を難波の堀江(大阪湾の水路)に捨ててしまいました。

こんな暴動が起こっても欽明天皇は仏教についてはすべて蘇我氏に一任したままにします。蘇我稲目も諦めずにまた焼き払われた寺を再建しました。そうして、ますます蘇我氏と物部氏の対立は深まったいったのです。

その争いの姿勢は彼らの子どもの代にまで引き継がれることとなりました。

丁未の乱、仏教公認までの争い

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仏教をめぐって蘇我氏と物部氏がとうとう武力衝突するにいたったのは、蘇我氏が稲目から馬子へ、物部氏は尾輿から守屋へと代替わりしたあとのこと。

欽明天皇の次代、敏達天皇の後継者争いに絡みます。蘇我馬子も物部守屋も別々に次の天皇候補を選び、そして、お互いに引き下がることはできません。話し合いは平行線のまま埒が明かず、その結果の武力衝突でした。戦いは蘇我馬子が軍を率いて物部守屋の邸宅を襲い、戦いの末に物部一族を滅ぼしてしまいます(丁未の乱)。

天皇の後継者争いは蘇我氏の勝利。廃仏派筆頭だった物部氏が敗れたことで、蘇我氏は堂々と仏教の信仰と布教ができるようになったのでした。

聖徳太子が「十七条の憲法」を発布

そうして、日本初の女性天皇の推古天皇の御代になり、その摂政を務めた聖徳太子は「十七条の憲法」を発布します。

「十七条の憲法」の第二条には「篤く三宝を敬え」と書かれていました。「三宝」とはいわゆる「仏」「法」「僧」のことで、要するに、仏様とその教え、そして、それらを信奉する僧侶を大切にしなさい、ということです。実は、聖徳太子もまた蘇我氏と物部氏の戦いに参加した崇仏派のひとりだったのでした。

紀元前より続き、インドから日本へやってきた仏教

紀元前450年ごろ、お釈迦様(ガウタマ・シッダールダ)により北インドで生まれた「仏教」。お釈迦様は人々の苦しみを見て出家を決意し、六年に渡って苦しみから逃れる術を探し続けました。そうして「悟り」に至り、無限に続く輪廻の輪から解脱したのです。

そんな仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代、今から約1400年以上前のこと。日本には日本神話や土着のカミ様がいましたから、伝来した当初は仏教の扱いについて大きな紛糾が起こりました。その争いを崇仏派の蘇我氏が制したことで、仏教は日本において揺るがぬ宗派となったのです。

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日本史歴史飛鳥時代

3分で簡単にわかる「仏教」の始まり!どんな教え?どうやって日本に伝来した?歴史オタクがわかりやすく解説

ガウタマ・シッダールダの出家

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シャーキヤ国の王子として期待を一心に背負い、すばらしい教育を受けて育ったガウタマ・シッダールダ。十代の後半には母方のいとこ・ヤショーダラーと結婚して息子・ラーフラが生まれました。

絵にかいたような幸せですね。しかし、成長するにつれ、聡明なガウタマ・シッダールダはこの世は多くの苦しみに満ちていることを知ります。すべての人間は老いに苦しみ、病に苦しみ、そして最後に死ぬ苦しみを味わうことになると知ったガウタマ・シッダールダは、出家者の清らかな姿を見て自分の進むべき道を決めたのです。そうして、父王や妻が引き留めようとするのを振り切って出家しました。これがガウタマ・シッダールダ29歳のときのことです。

ブッダガヤの菩提樹で悟りを開く

出家して彼は最初、高名な師のもとで瞑想や苦行に励みますが、そこでは納得のいく答えが見つかりませんでした。それどころか、直射日光を浴び続ける修行や断食など苦行によって心身が衰えるばかり。

そして、とうとうガウタマ・シッダールダは衰弱しきって、今にも死んでしまいそうになったときのこと。そばを通りかかったスジャータという娘に乳粥をもらい、なんとか命を繋いだのです。

その後、ガウタマ・シッダールダはブッダガヤの菩提樹のもとで瞑想をはじめ、どんな誘惑に負けることなく悟りの境地に至ります。出家して六年目、35歳のときでした。

こうして悟りを開いたガウタマ・シッダールダは自ら法(ダルマ)を説き、仏教を広めていったのでした。

3.お釈迦様の教え

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お釈迦様の教えとはどのようなものなのでしょうか。

仏教の世界観と目的

仏教の世界の大きな枠に「輪廻」というシステムがありました。「輪廻」はこの世に生きるすべてのいのちが何度も転生を繰り返すことです。そして、その転生の先は「六道」という六つの世界に分かれていました。

・天人の住む「天道」
・人間の「人間道」
・阿修羅たちが住み、争いの絶えない「修羅道」
・動物の「畜生道」
・常に空腹に苛まれ苦しむ「餓鬼道」
・罪を償わせるための地下の世界「地獄道」

下にいくにつれてどんどん世界の苦しみのレベルが上がっていく仕組みになっています。

すべての生き物は無限にある前世と今世で背負った業によって、この六つの世界から次の転生先を決められました。平たく言うと、悪い事や不道徳なことをすると、次は下の世界に生まれ変わるということですね。

一番上で苦しみのないとされる「天道」ですが、そこの住人の天人でもやはり長い寿命の果てには死んでしまうので、まったく苦しみがないわけではありません。それに、悟りを開いたガウタマ・シッダールダ(以下、お釈迦様)には遠く及ばないのです。

「輪廻」がある限り、いのちは転生し続け、何度も苦しみを味わい続けます。しかし、実は、この「輪廻」から抜け出す唯一の方法がありました。それは「悟り」を開くことです。「悟り」を開き、心の迷いが解けて世界の真理を会得することで「解脱」する、つまり「輪廻」からいのちが解放されるのでした。

人間の抱える苦しみと煩悩

お釈迦様が悟りに至る道筋を説明するために最初に説いたとされる四つの真理を「四諦」といいます。「四諦」の内容は「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」という四つの真理です。

最初の「苦諦」は、人間が自分でさえも思い通りにならない「四苦(出生、老い、病気、死)」に、日常的に経験する四つの苦しみ(愛する対象と別れる苦しみ「愛別離苦」、憎む対象に出会う苦しみ「怨憎会苦」、求めても得られない苦しみ「求不得苦」、肉体と精神が思うようにならない苦しみ「五蘊盛苦」)を加えた「四苦八苦」と細かく分類されています。お釈迦様はこの「四苦八苦」こそが人間が抱えている「煩悩」の原因だと考えました。

この煩悩の結果として苦しみが生まれているという真実が「集諦」です。そして、苦しみの因果から離れ、悟りにいたることを「滅諦」。「滅諦」を実現するための実践が「道諦」です。「道諦」には八つの正しい道(八正道)があります。

八正道を実践し、輪廻から解脱することが、お釈迦様の教えの根本なのです。

4.仏教の日本への伝来

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日本へ仏教が伝来した歴史を見ていきましょう。

インドから日本へ

インドの北部から始まった仏教はやがてシルクロードを伝って中国にもたらされました。そこからさらに朝鮮半島にあった「百済」に伝わり、飛鳥時代になって百済の聖王から日本の欽明天皇に公伝されたことで伝わります。

「公伝」というのは、簡単に言うと「王様から王様へ伝えること」。いわゆる「公的なこと」という意味ですね。公的ではない個人レベルではすでに仏教は渡来人たちによって日本に伝来していました。

公伝された仏教、どうする?

百済の聖王によって公式に伝えられた仏教でしたが、日本にはすでに日本神話の神々を信仰する神道がありました。そもそも天皇家は日本神話の神・イザナミノミコトの子孫とされていましたし、天皇家以外の氏族もそれぞれの祖先から祀ってきた神様がいます。その神様たちと一緒に今から新しく入ってきた仏教も信仰してください、と言われてもそうはいきませんよね。有力者の物部尾輿(もののべのおこし)は仏教に猛反対しました。

しかし、同盟国の百済からおくられたものを捨ててしまうわけにはいきません。聖王の手紙には「インドからこちらの朝鮮半島に至るまで、どの国も仏教を信仰していますよ」とも書かれています。仏教は先進文化の証でもあったのです。

そこで欽明天皇は仏教に賛成した有力者・蘇我稲目(そがのいなめ)に渡して様子をみることにしたのでした。

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