室町時代戦国時代日本史歴史

5分でわかる「松山城」誰のお城?歴史は?難攻不落のお城をわかりやすく歴女が解説

2-4、松山城の全容は

松山城は、勝山山頂を削って本丸を築いた平山城で、南西方向へ伸ばしたかたちで二の丸、三の丸が置かれる連郭式構造をなしています。

山頂には本丸が、そして本丸の北部に本壇という天守曲輪があり、大天守と小天守、南隅櫓、北隅櫓を3棟の渡櫓で連結してあるという連立式天守で、南西麓の二の丸が城の中枢で、藩主の生活の場の御殿や庭園、茶室などがあったということで、三の丸は身分の高い家来の屋敷が建ち並び、北麓には北曲輪、南東麓には東曲輪が作られていて、本丸は主に倉庫として使われていたそう。

また本丸から二の丸にかけては登り石垣を築いて囲んであって丘陵斜面から大手城道への侵入を防ぎ、三の丸は比高6メートルほどの土塁で囲み、北と東に石垣造の虎口を開いてあるという構造。

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3-1、松山城の特徴

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他のお城と違うところをご紹介しますね。

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3-2、新しく作られ、生活も出来る天守

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松山城の大天守は最初は五重六階だったのですが、1642年に三重四階に作り直されたということです。またその後1784年に落雷によって焼失し、1854年に再建落成して現在に至っているという、現存する他の12の城の天守のうちで最も新しい建物で、創建時の桃山文化様式の築城術が見事に再現されています。

なお、天守というのは、籠城時に使うためにある場所で、通常は人は出入りしないのですが、松山城は、なぜか天守の1階から3階まで畳を敷くことができる構造に作られていて天井板も貼ってあるということで、殿様が天守で生活できるようにしつらえたのかもと言われているそうです

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3-3、44メートルの井戸

松山城は、勝山の南北2つの峰を埋め立てて本丸の敷地を作ったとき、谷底にあった泉を井戸として残したそう。現在も残る井戸は、直径2メートル、深さ44メートルあって、当時の技術では掘ることができない深さで20年かかって作り上げたということ。また、愛媛県歴史文化博物館所蔵の「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」の古絵図では、現在の小天守の位置に加藤、蒲生時代の大天守が築かれていた可能性が高く、現在の大天守の位置は、籠城したときに水源となる人口の池が作られていたということです。

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20年もかけて谷を埋め立てて城を作って、泉を井戸にして残したのか、すごい工事だったろうなあ

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3-5、登り石垣

登り石垣は、山腹から侵入しようとする敵を阻止する目的でふもとの館と山頂の天守を、山の斜面を登る2本の石垣で連結させてつくられたものです。これは豊臣秀吉の朝鮮出兵での倭城築城の防衛から出来た手法で、朝鮮へ渡海して蔚山城に援軍として入った嘉明が取り入れたと言われているそう。

また、松山城にはほかにも屏風折になった石垣も残っていて、城の防御壁、七曲りなどの迷路っぽい登城経路など、様々な工夫があるということで難攻不落と言われています

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