今回は松山城を取り上げるぞ。今も天守閣が残っている国宝の名城ですが、どんなふうに作られたかとか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、松山城について5分でわかるようにまとめた。

1-1、松山城(まつやまじょう)とは

松山城は、愛媛県松山市にある城で、別名を金亀城(きんきじょう)、勝山城と言います。備中松山城とか各地の松山城との区別で伊予松山城と呼ばれることも。また、日本100名城、日本の歴史公園100選、津山城、姫路城と共に日本三大平山城にも選ばれ、国宝、重要文化財に指定されています。

この松山城についてご紹介していきますね。

1-2、松山城が出来るまで

戦国時代の伊予国は、北部と中部を河野氏が、越智郡には村上氏が、新居郡には金子氏、喜多郡に宇都宮氏、宇和郡には西園寺氏などが分立。

そのうちの河野氏の河野通直は、現松山城の東の道後温泉の近くにあった湯築城を本拠としていましたが、1585年、秀吉の四国征伐のときに小早川隆景らの軍の侵攻によって、1カ月の籠城の後に降伏。

四国を平定した豊臣秀吉は、はじめ伊予を小早川隆景に与えたのですが、1587年には福島正則が伊予国今治11万3千石をあたえられて湯築城主となり、国分山城に移ったということ。そして関ヶ原合戦の戦功で、加藤嘉明が伊予の国20万石をもらい、勝山に松山城を築城したのですね。

2-1、松山城の場所、築城などについて

いろいろご説明していきますね。

2-2、松山城の場所は

松山城は、標高132m、比高約90mの勝山という山の上に、加藤嘉明によってはじめて建てられた城郭です。

このあたりは湿地帯だったということで、嘉明の重臣の足立重信が土木、治水技術に秀でた人物だったため、湯山川の流域を南に変えて末流を伊予川に合流させるという大改修をまかされました。その功績により伊予川が重信川と呼ばれるようになったそう。なお、足立重信は松山城の普請奉行となって、縄張り、城つくりにも貢献しましたが、城が出来上がる前に死去。

2-3、松山城の築城は

松山城は1602年に築城を開始し、完成までに約25年かかりました。1603年10月に、加藤嘉明が地名を「松山」と改名したために、松山城と呼ばれることに。

また1627年、嘉明は松山城の完成を待たずに会津に転封となり、会津藩主だった蒲生忠知が24万石で松山城主となりましたが、1634年に参勤交代の途中で急死し、蒲生家は跡継ぎなく断絶となって翌年に松平定行が15万石の藩主となり幕末まで松平家の城となりました。なお定行は、1642年、創建当初は5重であったという天守を3重に改築。

\次のページで「2-4、松山城の全容は」を解説!/

2-4、松山城の全容は

松山城は、勝山山頂を削って本丸を築いた平山城で、南西方向へ伸ばしたかたちで二の丸、三の丸が置かれる連郭式構造をなしています。

山頂には本丸が、そして本丸の北部に本壇という天守曲輪があり、大天守と小天守、南隅櫓、北隅櫓を3棟の渡櫓で連結してあるという連立式天守で、南西麓の二の丸が城の中枢で、藩主の生活の場の御殿や庭園、茶室などがあったということで、三の丸は身分の高い家来の屋敷が建ち並び、北麓には北曲輪、南東麓には東曲輪が作られていて、本丸は主に倉庫として使われていたそう。

また本丸から二の丸にかけては登り石垣を築いて囲んであって丘陵斜面から大手城道への侵入を防ぎ、三の丸は比高6メートルほどの土塁で囲み、北と東に石垣造の虎口を開いてあるという構造。

3-1、松山城の特徴

image by PIXTA / 15404169

他のお城と違うところをご紹介しますね。

3-2、新しく作られ、生活も出来る天守

image by PIXTA / 58131864

松山城の大天守は最初は五重六階だったのですが、1642年に三重四階に作り直されたということです。またその後1784年に落雷によって焼失し、1854年に再建落成して現在に至っているという、現存する他の12の城の天守のうちで最も新しい建物で、創建時の桃山文化様式の築城術が見事に再現されています。

なお、天守というのは、籠城時に使うためにある場所で、通常は人は出入りしないのですが、松山城は、なぜか天守の1階から3階まで畳を敷くことができる構造に作られていて天井板も貼ってあるということで、殿様が天守で生活できるようにしつらえたのかもと言われているそうです

3-3、44メートルの井戸

松山城は、勝山の南北2つの峰を埋め立てて本丸の敷地を作ったとき、谷底にあった泉を井戸として残したそう。現在も残る井戸は、直径2メートル、深さ44メートルあって、当時の技術では掘ることができない深さで20年かかって作り上げたということ。また、愛媛県歴史文化博物館所蔵の「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」の古絵図では、現在の小天守の位置に加藤、蒲生時代の大天守が築かれていた可能性が高く、現在の大天守の位置は、籠城したときに水源となる人口の池が作られていたということです。

3-5、登り石垣

登り石垣は、山腹から侵入しようとする敵を阻止する目的でふもとの館と山頂の天守を、山の斜面を登る2本の石垣で連結させてつくられたものです。これは豊臣秀吉の朝鮮出兵での倭城築城の防衛から出来た手法で、朝鮮へ渡海して蔚山城に援軍として入った嘉明が取り入れたと言われているそう。

また、松山城にはほかにも屏風折になった石垣も残っていて、城の防御壁、七曲りなどの迷路っぽい登城経路など、様々な工夫があるということで難攻不落と言われています

\次のページで「3-6、野原櫓(のはらやぐら)」を解説!/

3-6、野原櫓(のはらやぐら)

松山城野原櫓
Jyo81 (ja: User) - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, リンクによる

本丸を守るために置かれた防衛施設で、望楼型二重櫓の形を残す現存の野原櫓は他に類を見ないため、現在は重要文化財に指定。望楼型二重櫓は天井の梁を使って2階を支える仕組みで、層塔型の伊予松山城の天守とは対になっているそう。

3-7、隠門と隠門続櫓

正面の筒井門に隠れるように建てられているため、敵が筒井門に気をとられている間に隠門を通じて敵を襲うという、城の防御のための実戦的な構造だということです。

3-8、明治以後の松山城、二之丸庭園は「恋人の聖地」に認定

image by PIXTA / 32045133

1891年、松山藩士の息子で1867年松山生まれの俳聖正岡子規は、「松山や 秋より高き 天主閣」を、1895年、「春や昔 十五万石の 城下哉」という、松山城の句を詠んでいます。

また、松山には日露戦争時の1904年、全国初の捕虜収容所が設けられて、ロシア兵の捕虜が収容されていたことで有名です。当時の松山は、瀬戸内海のおだやかな港で輸送に便利で気候が温暖、港から街まで鉄道があったので選ばれたといわれていますが、当時の松山市の人口3万人に対し、捕虜の数は延べ6千人、多いときは4千人を超える捕虜がいたといわれていて、この捕虜たちはおもてなし精神で手厚く保護され市民との交流もあったため、ロシア兵にそのことが伝わり、投降する兵が「マツヤマ」と叫んだと言われるほど。

そして1985年、松山城二の丸の史跡庭園にある大井戸の遺構からロシア兵と赤十字社看護婦の名が刻まれた帝政ロシア時代の10ルーブル金貨が見つかり、恋するふたりが再会を願ってコインを投げ入れたのかとか、色々とロマンをかきたてられたこと、美しい庭園風景が結婚式の前撮りに人気があるなどで、二の丸庭園は恋人の聖地と認定されたそう。

なお、1933年ごろまでは、本丸部分には40棟の建造物が現存していたが、戦災や放火などのために1949年までに19棟が失われ、現在は21棟が残っているそう。現在は、城跡の主要部分が公園として整備され、大天守(現存12天守の1つ)を含む21棟の現存建造物が国の重要文化財に、城郭遺構が国の史跡に指定され、連立式天守群の小天守以下5棟と22棟が木造で復元され、現在は徒歩でもロープウェイでも登れ、有料で見学できるようになっています。

4-1、松山城にゆかりの人々

有名な殿様をご紹介しますね。

4-2、加藤嘉明(よしあき、よしあきら)

1563年、三河国幡豆郡永良郷(現愛知県西尾市)生まれ。父は家康の家臣、加藤教明(岸三之丞教明)の長男だったが、三河一向一揆で一向一揆勢に組したが敗れて流浪の身になりました。

そして、近江国で長浜城主当時の羽柴秀吉に仕え、息子の嘉明は馬の行商の手伝いから優れた資質があると加藤光泰の父から秀吉に推挙されて、秀吉の養子羽柴秀勝の小姓になったそう。嘉明は1576年の播磨攻めのときに、秀勝に無断で13歳で秀吉軍に従軍。これが秀吉夫人後の北政所寧々の怒りを買ったが、秀吉はむしろ評価して300石を与えて秀吉の家来にしたのですね。嘉明は1578年3月に三木城攻囲戦で初陣、4月の備中須久毛山の戦いでは、15歳にして2つの首級をあげるなど活躍し、中国大返しや山崎合戦にも参加、賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人に数えられる武功をあげ、その後、小牧、長久手合戦、雑賀征伐などの功績で、淡路国の津名、三原郡1万5000石に封じられて大名となり、志知城主に。以後は淡路水軍を率いて九州征伐や小田原征伐、文禄、慶長の役で活躍。

そして伊予国正木(現愛媛県松前町)を増封されて6万石、別に蔵入地4万石の管理もあったので志知城から伊予正木城に移り、家臣の足立重信に伊予川(のちの重信川)を河川改修をさせ、城の城下町も拡張させました。慶長の役の功績で10万石加増となったが秀吉が死去。

嘉明は関ヶ原の合戦でも家康の東軍で活躍したために伊予松山20万石をもらって松山城を築城し、1627年には会津へ転封となり、1631年9月に江戸で69歳で死去。

なお、松山城のマスコットキャラクター「よしあきくん」は、嘉明にちなんでいて松山城築城400年祭を記念して誕生したそうです。ときどき本丸広場周辺を散歩し、お城の山から松山の街をあたたかく見守っていて、貸し出しもあるということ。

4-3、松平定行(まつだいらさだゆき)

1587年生まれで、徳川家康の異父弟の息子で甥にあたります。松平家は多くあって、この系統は家康の母お大の方の再婚先久松家で、久松松平家。定行は1601年に初めて伯父の家康にお目見えし、翌年近江蒲生郡で2千石をもらい、その翌年に兄の早世で嫡子となり1607年に父定勝の掛川3万石を継承したが、桑名に転封となり、大坂の陣では父とともに伏見城を守ったということ。

1624年に桑名11万石となったが、1635年、3代将軍家光の命令で4万石を加増して伊予松山藩に転封に。これは徳川家門として、中四国地方の外様大名への牽制と警戒という意味だったそう。定行は1639年、松山城の天守を5重から3重に改築。また1644年には長崎探題に就任して異国船と交渉したりと鎖国の完成に貢献。1658年に72歳で隠居し、松山(しょうざん、後に勝山)と名乗ったので、勝山公といわれるように。以後は俳諧や茶道に親しんで1668年に82歳で死去。

なお、久松松平家は明治以後、久松と名乗るようになったということで、フリーアナウンサーの松平定知氏は久松松平家の分家の旗本家の出身で遠縁になるそうです。

愛媛の銘菓タルトの考案者

松平定行は、長崎探題時代にポルトガル船が入港して海上警備をしたときに、カステラにジャムが入ったロールケーキのような南蛮菓子に感動して製法を教えてもらい松山に持ち帰り、ジャムの代わりに餡を入れたタルトを考案。その後久松松平家の家伝とされていたのが、明治以降に松山の菓子司に技術が伝わって愛媛の銘菓になったそう。

難攻不落と言われる、現在に残る名城のひとつ

松山城は秀吉の家臣で賤ヶ岳七本槍で有名な加藤嘉明が、関ヶ原合戦の戦功で家康から20万石をもらったあとに築いた城です。

嘉明は秀吉の家臣たちの中では、加藤清正ら派手な活躍と城つくりにも長けた有名武将に較べると、やや地味目の武将ですが、幼い頃から秀吉の側に仕えて合戦に出、また秀吉が作る数々の城なども見聞し、朝鮮の役での経験と有能な家臣のおかげもあって、立派な城と城下町を作りあげました。江戸時代初期にしてはかなり高い山に作られた城には数々の難所があり、ビルのように高い立派な登り石垣や、迷路っぽく七曲りの道を作って敵の侵入を防ぎ、また籠城したときに水不足とならないように大工事でもともとあった泉を埋めて井戸として利用するなど、色々な工夫が凝らされ、難攻不落の城といわれているということです。

また、江戸末期に天守閣を建て替えたことで新しめの桃山時代形式の建造物ということ、そして明治まで続いた久松松平家の丸に三つ葉葵の紋瓦が燦然と光っていることなどで、観光ミシュランの二つ星をもらっているそう。それにしても嘉明がこの城を築いたときは、まさか400年後に自分がゆるキャラのモデル、よしあきくんになるとは思わなかっただろうなと感慨深いですね。

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室町時代戦国時代日本史歴史

3分で簡単「松山城」誰のお城?歴史は?難攻不落のお城をわかりやすく歴女が解説

今回は松山城を取り上げるぞ。今も天守閣が残っている国宝の名城ですが、どんなふうに作られたかとか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、松山城について5分でわかるようにまとめた。

1-1、松山城(まつやまじょう)とは

松山城は、愛媛県松山市にある城で、別名を金亀城(きんきじょう)、勝山城と言います。備中松山城とか各地の松山城との区別で伊予松山城と呼ばれることも。また、日本100名城、日本の歴史公園100選、津山城、姫路城と共に日本三大平山城にも選ばれ、国宝、重要文化財に指定されています。

この松山城についてご紹介していきますね。

1-2、松山城が出来るまで

戦国時代の伊予国は、北部と中部を河野氏が、越智郡には村上氏が、新居郡には金子氏、喜多郡に宇都宮氏、宇和郡には西園寺氏などが分立。

そのうちの河野氏の河野通直は、現松山城の東の道後温泉の近くにあった湯築城を本拠としていましたが、1585年、秀吉の四国征伐のときに小早川隆景らの軍の侵攻によって、1カ月の籠城の後に降伏。

四国を平定した豊臣秀吉は、はじめ伊予を小早川隆景に与えたのですが、1587年には福島正則が伊予国今治11万3千石をあたえられて湯築城主となり、国分山城に移ったということ。そして関ヶ原合戦の戦功で、加藤嘉明が伊予の国20万石をもらい、勝山に松山城を築城したのですね。

2-1、松山城の場所、築城などについて

いろいろご説明していきますね。

2-2、松山城の場所は

松山城は、標高132m、比高約90mの勝山という山の上に、加藤嘉明によってはじめて建てられた城郭です。

このあたりは湿地帯だったということで、嘉明の重臣の足立重信が土木、治水技術に秀でた人物だったため、湯山川の流域を南に変えて末流を伊予川に合流させるという大改修をまかされました。その功績により伊予川が重信川と呼ばれるようになったそう。なお、足立重信は松山城の普請奉行となって、縄張り、城つくりにも貢献しましたが、城が出来上がる前に死去。

2-3、松山城の築城は

松山城は1602年に築城を開始し、完成までに約25年かかりました。1603年10月に、加藤嘉明が地名を「松山」と改名したために、松山城と呼ばれることに。

また1627年、嘉明は松山城の完成を待たずに会津に転封となり、会津藩主だった蒲生忠知が24万石で松山城主となりましたが、1634年に参勤交代の途中で急死し、蒲生家は跡継ぎなく断絶となって翌年に松平定行が15万石の藩主となり幕末まで松平家の城となりました。なお定行は、1642年、創建当初は5重であったという天守を3重に改築。

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