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5分でわかる「マクシミリアン1世」ハプスブルグ家中興の祖をわかりやすく歴女が解説

4-1、マクシミリアンの結婚政策

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アルブレヒト・デューラーLQG_SIsDPpL2aQ at Google Cultural Institute maximum zoom level, パブリック・ドメイン, リンクによる

「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」は17世紀のもので誰の言葉かは不明ですが、マクシミリアン自身がマリー・ド・ブルゴーニュとの結婚でブルゴーニュ自由伯領、ネーデルラントを獲得、マクシミリアンの子や孫の婚姻が領土拡大につながったことから始まったのは間違いないということで、具体的な例をご紹介しますね。

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4-2、息子と娘をカスティリア・アラゴン王家と二重結婚

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Bernhard Strigel – The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, リンクによる

1496年、フランス国王シャルル8世の動きを封じるためもあって、マクシミリアンは、息子のフィリップ美公を、カスティリア女王イザベラとアラゴン王フェルディナンドの王女フアナ(狂女)と、そして娘マルグリットを王太子フアンと二重結婚させました。マルグリットの夫フアンは子供なく早世したが、イベリア半島の大部分と、ナポリ王国、シチリア王国を獲得。また息子フィリップは早世するが、ファナとの間に2男4女が生まれ、長男カールはのちにスペイン王カルロス1世、神聖ローマ皇帝カール5世となり、ハプスブルク家隆盛の基礎を築いて、スペインは大航海時代にアメリカ大陸を征服して、日の沈まない帝国に。次男のフェルディナントは後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世に

そしてフェルディナンドと3女マリアをハンガリー・ボヘミアのヤギェウォ家のアンナとラヨシュ2世と、これまた二重結婚させたのですが、マリアの夫ラヨシュ2世は1526年にモハーチの戦いで戦死したので、この結婚を取り決めた1515年のウィーン会議の決定に従い、ラヨシュの姉アンナの夫のフェルディナントがハンガリーとボヘミアの王位を継承。「婚姻政策」によって、現在の国名で言えばオーストリア、スペイン、ベルギー、オランダ、イタリア南部、チェコ、ハンガリーに及ぶ、ハプスブルク帝国に

そして長女レオノーレはポルトガル王1世(のちにフランスのフランソワ1世と再婚)、次女イザベルはデンマーク王クリスチャン2世と、また4女カタリナはポルトガル王ジョアン3世と結婚と、領土や王位だけでなくヨーロッパ中の王家と婚姻関係を築いたのですね。

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5、その後も戦争に明け暮れる

1508年、マクシミリアンは、ローマでの神聖ローマ皇帝の戴冠を妨害したヴェネツィアに対して攻撃を開始。この戦いの膠着後に娘のマルグリットによって、対ヴェネツィアのためのフランスと、ローマ教皇とスペインによるカンブレー同盟(対ヴェネツィア同盟)が成立。その後にフランスがヴェネツィアとの戦いに勝利して同盟内で突出したことで、ローマ教皇と他の同盟国、イングランド、スイスが反発して、1511年にローマ教皇主導の対フランス同盟である神聖同盟が結成されたが、ヴェネツィアは同盟を脱退してフランスと同盟を結ぶなど、イタリアでは目まぐるしい動きがある中で、マクシミリアンは、1512年には神聖ローマ帝国とは名ばかりで、ドイツ語圏とその周辺に限られることを明確にするために、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と公言

そしてマクシミリアンは1513年に、イングランド王ヘンリー8世と連合してギネガテの戦いでフランスを撃破しましたが、神聖同盟は最終的に瓦解、1516年にブリュッセルで和議となって、その2年後にはヴェネツィアとも和睦。1515年には前述のようにウィーンでの会談でハンガリーとボヘミアを治めていたヤギェウォ家とマクシミリアンの孫たちとの二重婚姻が決定、孫のフェルディナント1世からのハプスブルク帝国隆盛の始まりとなりました。

1519年、マクシミリアンは59歳でヴェルスで病没。遺言により遺体は母エレオノーレの隣に、心臓は妻マリーとともに埋葬されました。

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中世最後の騎士と呼ばれ、結婚政策でハプスブルグ家を繁栄に導いた

マクシミリアン1世は神聖ローマ皇帝の父フリードリヒ3世とポルトガル王女の母との間に生まれ、ハプスブルグ家の期待を背負って成長、ブルゴーニュ公女との結婚で人生が開けた人です。

父シャルル突進公の戦死で窮地に立たされた婚約者のブルゴーニュ公女マリーの助けを求める手紙に応じてかけつけて結婚、反乱もおさめるなんて白馬の騎士そのもの。そしてマリーとは言葉が通じない政略結婚でも愛情もあり、子供も2人生まれたが、マリーは事故で早世。マリーとの間の息子フィリップ美公がスペイン女王イザベラの娘と結婚、そしてうまれた孫たちの結婚によって、その後のハプスブルグ家は最盛期に。

また、マクシミリアンはマリーの死後のブルゴーニュ公国の反乱をおさめ、26年の治世で25回の戦争に出たと言われていて、神聖ローマ皇帝となったが、重い甲冑の騎士の戦いから傭兵の歩兵中心の近代の戦いを取り入れたことでも有名で、ハンガリー、チロル地方を手に入れたしと、結局、ハプスブルグ家に繁栄をもたらした結婚政策も領土も、すべてマクシミリアン1世から始まったということなんですね。

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