
その辺のところをヨーロッパの王室も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、マクシミリアン1世の生い立ち
- 1-2、ウィーンの南方の生まれ
- 1-3、こども時代は母の影響が大きかった
- 1-4、シャルル突進公に気に入られる
- 2-1、マリー・ド・ブルゴーニュと結婚
- 2-2、ルイ11世と対決してマリーを救済
- 2-3、近代戦法を取り入れてルイ11世軍に勝利
- 2-4、マリーとマクシミリアン
- 3-1、マリーの早世後のブルゴーニュ継承戦争の混乱を収める
- 3-2、ローマ王に選ばれる
- 3-3、ブルージュで虜囚に
- 3-4、ブルターニュ公女を巡ってフランス王と争う
- 3-5、神聖ローマ皇帝に選出
- 3-6、チロル地方を継承してオーストリアを統一
- 3-7、イタリア戦争で神聖同盟を結成
- 3-8、ヴォルムス帝国議会を開催して国制改革
- 4-1、マクシミリアンの結婚政策
- 4-2、息子と娘をカスティリア・アラゴン王家と二重結婚
- 5、その後も戦争に明け暮れる
- 中世最後の騎士と呼ばれ、結婚政策でハプスブルグ家を繁栄に導いた
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの王室の歴史には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、マクシミリアン1世について5分でわかるようにまとめた。
1-1、マクシミリアン1世の生い立ち
マクシミリアン1世はハプスブルグ家隆盛の祖といわれる人で、神聖ローマ皇帝。政略結婚で愛が生まれ、子孫も結婚で広がり、ハプスブルグ家の繁栄はこの人から始まりました。ルネッサンス時代の君主として芸術の庇護者でもあり中世最後の騎士とも言われるマクシミリアン1世の生涯をご紹介していきます。
1-2、ウィーンの南方の生まれ
マクシミリアン1世は、1459年3月にウィーナー・ノイシュタット(現ウィーンの南方にある街)で生まれました。父フリードリヒ3世は神聖ローマ皇帝で、母エレオノーレはポルトガルの王女、結婚7年目にやっと生まれた跡継ぎで、きょうだいは5人だが、成人したのは妹のクニグンデ(のちのバイエルン公妃)ひとり。
マクシミリアン1世誕生時の神聖ローマ帝国は
14、15世紀は、神聖ローマ皇帝位は実態を伴わない官職の一つとなってしまい、ドイツ圏には領邦国家が乱立していた時代でした。こういう時代に神聖ローマ皇帝となったマクシミリアンの父フリードリヒは、有能だからではなくて、凡庸で無能で御しやすいから、勢威ある選帝侯たちに選ばれたのだそう。ということでフリードリヒ3世は1440年、ローマ王となり、1452年、ローマで教皇ニコラウス5世の司式で12歳下のポルトガル王ドゥアルテ1世の王女、15歳のエレオノーレと結婚式を挙式し、教皇の手によって神聖ローマ皇帝として戴冠式も行ったのですね。
なお、母エレオノーレは海洋国として裕福だったポルトガルから嫁いできたのですが、ノイシュタットの宮廷は陰気だったとか、凡庸で我慢強いだけが取り柄のフリードリヒ3世とはかなりの年齢差があり、結婚には失望していたそうで、長男の夭折を経て、やっとうまれたマクシミリアンに期待したというわけです。
1-3、こども時代は母の影響が大きかった
1462年、マクシミリアンが3歳のとき、父フリードリヒ3世に対してオーストリア大公の叔父アルブレヒト6世が叛乱を起こしたのですが、気弱な父皇帝が混乱に対処しないため、アルブレヒトに煽動されたウォルフガング・ホルツァーを筆頭に市民が議会に殺到、マクシミリアンと母后エレオノーレはウィーンの王宮に幽閉という事件が起こりました。アルブレヒトがウィーンを支配したがすぐに死去、ホルツァーも処刑されて、再び父フリードリヒ3世がウィーンを治めるようになりましたが、こんな出来事があったせいか、マクシミリアンは5歳までしゃべることが出来なかったそう。
マクシミリアンは母后エレオノーレに可愛がられて大変な影響を受け、社交的で明るい性格、芸術、学問に関心を持つようになったが、母はマクシミリアンが8歳のときに死去。また母の死でマクシミリアンの信仰心は深まって、父に似て錬金術や迷信深い面ももっていました。マクシミリアンは父フリードリヒ3世が付けたスコラ学の家庭教師に関心を示さなかったが、騎士道物語とか年代記、紋章学などは好きで、乗馬をはじめとする武芸には熱心だったということで、10代になると眉目秀麗で、多くの人を惹きつける話術を会得。魅力的な若者のマクシミリアンは、おとなしく凡庸といわれた父フリードリヒ3世とは全然似ていなかったので、フリードリヒ3世の子ではないと噂されたことも。

当時のヨーロッパ中部はブルゴーニュ公国が中心
マクシミリアンの若いころは、現代のフランスのブルゴーニュ地方、ロレーヌ地方、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクという広大な範囲のブルゴーニュ公国が、毛織物産業を中心とした貿易で繁栄していて、北方ルネッサンス文化の中心地でもありました。そしてブルゴーニュ公国の領主シャルル(突進公)は、ブルゴーニュ戦争で勢力拡大と公爵から国王への昇格を目指していたところだったんですね。
シャルル突進公は、マクシミリアンの母エレオノーレの従兄に当たり、ひとり娘でブルゴーニュ公国の相続者であるマリーには、各国から数多くの結婚申し込みがあったのですが、シャルル突進公は神聖ローマ皇帝の息子のマクシミリアンに関心を示したそう。
1-4、シャルル突進公に気に入られる
ということで、1473年9月、マクシミリアンの父フリードリヒ3世とシャルル突進公はトリーアで、対フランス政策やオスマン討伐について会談することになり、フリードリヒ3世は14歳のマクシミリアンと1000人の従者たちも連れて行ったところ、シャルル突進公は贅を尽くして皇帝一行を歓待し、マクシミリアンをかなり気に入りました。
そしてブルゴーニュの経済力を盾にして、娘マリーとマクシミリアンの婚約、そのうえに自分のローマ王指名を望んだのですが、マクシミリアンの父フリードリヒ3世はシャルル突進公の強引さはフランス王や帝国諸侯の反発を招く(ローマ王は選挙制)と及び腰となって、11月24日にひそかにマクシミリアンと宰相らの6名だけでモーゼル川を下ってコブレンツへ逃亡。
シャルル突進公は激怒してブルゴーニュ戦争に。しかし戦いが膠着状態となったので、翌年の4月にはローマ王指名を取り下げて、マリーとマクシミリアンの婚約だけを申し込んだそう。フリードリヒ3世側もこのころは、ハンガリー王マーチャーシュ1世の攻撃でウィーンやニーダーエスターライヒが陥落して敗走途中だったので、婚約に合意。
なお、マクシミリアンは皇帝の親書と自身の肖像画とダイヤモンドの指輪をマリーへ贈り、マリーもマクシミリアンに感謝状と指輪を贈ったので、これが婚約指輪交換の起源とされているということです。
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