今回はマクシミリアン1世を取り上げるぞ。結婚でハプスブルグ家繁栄の基礎を築いた人ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの王室も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの王室の歴史には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、マクシミリアン1世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、マクシミリアン1世の生い立ち

マクシミリアン1世はハプスブルグ家隆盛の祖といわれる人で、神聖ローマ皇帝。政略結婚で愛が生まれ、子孫も結婚で広がり、ハプスブルグ家の繁栄はこの人から始まりました。ルネッサンス時代の君主として芸術の庇護者でもあり中世最後の騎士とも言われるマクシミリアン1世の生涯をご紹介していきます。

1-2、ウィーンの南方の生まれ

マクシミリアン1世は、1459年3月にウィーナー・ノイシュタット(現ウィーンの南方にある街)で生まれました。父フリードリヒ3世は神聖ローマ皇帝で、母エレオノーレはポルトガルの王女、結婚7年目にやっと生まれた跡継ぎで、きょうだいは5人だが、成人したのは妹のクニグンデ(のちのバイエルン公妃)ひとり。

マクシミリアン1世誕生時の神聖ローマ帝国は

14、15世紀は、神聖ローマ皇帝位は実態を伴わない官職の一つとなってしまい、ドイツ圏には領邦国家が乱立していた時代でした。こういう時代に神聖ローマ皇帝となったマクシミリアンの父フリードリヒは、有能だからではなくて、凡庸で無能で御しやすいから、勢威ある選帝侯たちに選ばれたのだそう。ということでフリードリヒ3世は1440年、ローマ王となり、1452年、ローマで教皇ニコラウス5世の司式で12歳下のポルトガル王ドゥアルテ1世の王女、15歳のエレオノーレと結婚式を挙式し、教皇の手によって神聖ローマ皇帝として戴冠式も行ったのですね。

なお、母エレオノーレは海洋国として裕福だったポルトガルから嫁いできたのですが、ノイシュタットの宮廷は陰気だったとか、凡庸で我慢強いだけが取り柄のフリードリヒ3世とはかなりの年齢差があり、結婚には失望していたそうで、長男の夭折を経て、やっとうまれたマクシミリアンに期待したというわけです。

1-3、こども時代は母の影響が大きかった

1462年、マクシミリアンが3歳のとき、父フリードリヒ3世に対してオーストリア大公の叔父アルブレヒト6世が叛乱を起こしたのですが、気弱な父皇帝が混乱に対処しないため、アルブレヒトに煽動されたウォルフガング・ホルツァーを筆頭に市民が議会に殺到、マクシミリアンと母后エレオノーレはウィーンの王宮に幽閉という事件が起こりました。アルブレヒトがウィーンを支配したがすぐに死去、ホルツァーも処刑されて、再び父フリードリヒ3世がウィーンを治めるようになりましたが、こんな出来事があったせいか、マクシミリアンは5歳までしゃべることが出来なかったそう。

マクシミリアンは母后エレオノーレに可愛がられて大変な影響を受け、社交的で明るい性格、芸術、学問に関心を持つようになったが、母はマクシミリアンが8歳のときに死去。また母の死でマクシミリアンの信仰心は深まって、父に似て錬金術や迷信深い面ももっていました。マクシミリアンは父フリードリヒ3世が付けたスコラ学の家庭教師に関心を示さなかったが、騎士道物語とか年代記、紋章学などは好きで、乗馬をはじめとする武芸には熱心だったということで、10代になると眉目秀麗で、多くの人を惹きつける話術を会得。魅力的な若者のマクシミリアンは、おとなしく凡庸といわれた父フリードリヒ3世とは全然似ていなかったので、フリードリヒ3世の子ではないと噂されたことも。

image by PIXTA / 29061617

当時のヨーロッパ中部はブルゴーニュ公国が中心

マクシミリアンの若いころは、現代のフランスのブルゴーニュ地方、ロレーヌ地方、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクという広大な範囲のブルゴーニュ公国が、毛織物産業を中心とした貿易で繁栄していて、北方ルネッサンス文化の中心地でもありました。そしてブルゴーニュ公国の領主シャルル(突進公)は、ブルゴーニュ戦争で勢力拡大と公爵から国王への昇格を目指していたところだったんですね。

シャルル突進公は、マクシミリアンの母エレオノーレの従兄に当たり、ひとり娘でブルゴーニュ公国の相続者であるマリーには、各国から数多くの結婚申し込みがあったのですが、シャルル突進公は神聖ローマ皇帝の息子のマクシミリアンに関心を示したそう。

1-4、シャルル突進公に気に入られる

ということで、1473年9月、マクシミリアンの父フリードリヒ3世とシャルル突進公はトリーアで、対フランス政策やオスマン討伐について会談することになり、フリードリヒ3世は14歳のマクシミリアンと1000人の従者たちも連れて行ったところ、シャルル突進公は贅を尽くして皇帝一行を歓待し、マクシミリアンをかなり気に入りました。

そしてブルゴーニュの経済力を盾にして、娘マリーとマクシミリアンの婚約、そのうえに自分のローマ王指名を望んだのですが、マクシミリアンの父フリードリヒ3世はシャルル突進公の強引さはフランス王や帝国諸侯の反発を招く(ローマ王は選挙制)と及び腰となって、11月24日にひそかにマクシミリアンと宰相らの6名だけでモーゼル川を下ってコブレンツへ逃亡。

シャルル突進公は激怒してブルゴーニュ戦争に。しかし戦いが膠着状態となったので、翌年の4月にはローマ王指名を取り下げて、マリーとマクシミリアンの婚約だけを申し込んだそう。フリードリヒ3世側もこのころは、ハンガリー王マーチャーシュ1世の攻撃でウィーンやニーダーエスターライヒが陥落して敗走途中だったので、婚約に合意。

なお、マクシミリアンは皇帝の親書と自身の肖像画とダイヤモンドの指輪をマリーへ贈り、マリーもマクシミリアンに感謝状と指輪を贈ったので、これが婚約指輪交換の起源とされているということです。

\次のページで「2-1、マリー・ド・ブルゴーニュと結婚」を解説!/

2-1、マリー・ド・ブルゴーニュと結婚

Maximilian I and Maria von Burgund.jpg
Anton Petter - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

1477年1月、シャルル突進公はナンシーの戦いで戦死。ブルゴーニュ国内では、専制君主的だったシャルル突進公への不満が高まっていたため、突進公の戦死をきっかけに貴族や商人たちが権利の拡大を画策、またフランス王ルイ11世もブルゴーニュ公爵領フランシュ=コンテ、ネーデルラントに程近いピカルディー、アルトワを占拠するなど、ブルゴーニュ公国内は大混乱に陥りました。

跡継ぎの公女マリーは忠臣を処刑されて義母のマルグリット公妃とも引き離されたため、3月に婚約者のマクシミリアンに救いを求める手紙を出したということ。そこで5月にマクシミリアンはウィーンを出発、各地で歓迎を受けつつガンを目指し、8月18日にはマリーと対面、翌日に挙式したということ。

2-2、ルイ11世と対決してマリーを救済

マクシミリアンは、結婚早々からマリーとブルゴーニュ公領内を歴訪して、資産を売却したり抵当に入れたりと資金を作り、父フリードリヒ3世にも資金援助を求めて支援を仰ぎ、ネーデルラントの州議会の支持も得てルイ11世と対決しました。ルイ11世は9月には休戦と占拠した都市の返却を申し出たということで、マクシミリアンは救いを求めたマリーの願いもかなえたのですね。

2-3、近代戦法を取り入れてルイ11世軍に勝利

翌年の1478年5月、ルイ11世は休戦を破りエノーに侵攻したのですが、迎え撃ったマクシミリアンは初陣で勝利。その後もルイ11世はブルゴーニュ公国の通商に介入、フランスとブルゴーニュ公国との国境近くの穀物を刈り取ったりしたので、ブルゴーニュ公国では反フランスの機運が高まったが、ついにフランス軍がアルトワに侵入して、1479年8月、ギネガテの戦いがぼっ発。

この戦いでマクシミリアンは、スイス傭兵は確保できなかったので、フランドル、ブラバントや南ドイツからも傭兵をつのり、スイス式の武装と戦陣展開の訓練をおこなったのが傭兵ランツクネヒトの始まりといわれ、中世の戦い方と違う歩兵中心の軍の主力を軽装歩兵による密集隊形に切り替え、近代戦を取り入れたと言われています。そしてマクシミリアンは、重さ40キロあるという鋼鉄の甲冑姿の装甲騎兵が主力のフランス騎士団を撃破し、フランドルを確保。

しかし、傭兵たちへの給料が足りず、戦いに勝っているのにフランス軍を最後まで追撃できなかったそう。ともあれマクシミリアンは、完全に不安を払拭したというわけではないが、マリーの父シャルル突進公の戦死以来の混乱を収拾することができたのですね。

2-4、マリーとマクシミリアン

マリーとマクシミリアンは言葉が通じなかったため、最初は上流階級の教養語のラテン語で会話していたが、マクシミリアンはすぐにマリーに教わったフランス語を会得し、マリーの宮廷の人たちに現地語のフラマン語や色々な言語を学んで、それぞれの言語で読み書き出来るようになったそう。

マクシミリアンはその後、領国が広がり、スペイン語やドイツ語ハンガリー語などに堪能になるハプスブルグ家の人々の先駆け的存在に。また政略結婚にも関わらず、ふたりは乗馬や狩りなどの趣味を通じて心から愛し合うカップルとなったそう。

3-1、マリーの早世後のブルゴーニュ継承戦争の混乱を収める

マクシミリアンとマリーとの間には、フィリップ(のちの美公)とマルグリットが生まれていたが、1482年3月、4人目を妊娠中だった愛妻マリーが落馬事故で急死。マリーは「フィリップとマルグリット2人を公国の相続人に指定、嫡男フィリップが15歳の成人になるまで、夫マクシミリアンを後見人、摂政に」と遺言をして、家臣にたちにも夫マクシミリアンに仕えるように言い残したそう。

しかしガンなどの都市ではブルゴーニュ公の後継者をフィリップしか認めず、マクシミリアン排斥の動きが起こったのですが、この反乱の背後にはフランス王ルイ11世が暗躍。反乱はブルゴーニュ公国全土に広まったが、マクシミリアンは父帝フリードリヒ3世やドイツ諸侯の支援を受けられなかったので、一時はアラスの和約を結ばざるを得ず、2歳の娘マルグリットとフランス王太子シャルルとの婚約、フランシュ=コンテ、アルトワ、シャロレーを婚資として割譲し、シャルルとマルグリットに嗣子が無ければフィリップが継承、フィリップに嗣子が無ければ、フランス領となることや、また、フィリップはガン市民の下で養育ということになり、マクシミリアンは摂政の地位を事実上剥奪されたということ。

しかし、1483年には2か月かけてユトレヒトを陥落させて反撃開始、ブルゴーニュ公国の都市を次々と陥落、ガン、ブリュージュを攻略して権威を回復しフランス軍や反乱軍を鎮圧し追放、翌年にはブルゴーニュ公国領のネーデルラントをハプスブルク家の領土としたのですね。

そしてブリュッセルでネーデルランド議会を招集後、マクシミリアンは、ブルゴーニュの統治とフィリップの保護を宰相カロンドレらによる特別顧問団にまかせて、1485年11月にブルゴーニュを去り、12月、アーヘンへ向かいました。

\次のページで「3-2、ローマ王に選ばれる」を解説!/

3-2、ローマ王に選ばれる

同じころ、父の皇帝フリードリヒ3世のいたウィーンをハンガリー国王マーチャーシュ1世がウィーンを攻撃し、1485年にウィーンを占領して、フリードリヒ3世を追放、フリードリヒ3世はリンツへ宮廷を移す羽目に。

マクシミリアンは27歳でネーデルラントの反乱の鎮圧が認められ、フリードリヒ3世のドイツ諸侯への説得もあって、1486年、アーヘンで神聖ローマ皇帝の後継者という意味のローマ王に即位。そしてオーストリアに戻ってハンガリー軍と戦い、ウィーンを奪回しました。

3-3、ブルージュで虜囚に

image by PIXTA / 25044554

マクシミリアンは、戦費を賄うため、ネーデルランドにビール税などで増税を貸し、またマクシミリアンが雇ったドイツ傭兵が治安を乱したのも、マクシミリアンのせいにされ、市民の不満がつのったのですが、これをフランスのシャルル8世と摂政のアンヌがあおったのですね。

1488年1月にマクシミリアンが500名の兵を従えてブルージュの招待を受けて訪問時、立て替えた戦費の返却、不当に逮捕された役人の釈放やフランスとの和平を要求されたのをマクシミリアンが拒否したところ、暴動が起こってマクシミリアンは幽閉、家臣たちは次々と引き離されて処刑されたり逃げたりしたということ。

マクシミリアンもひそかに父フリードリヒ3世へ手紙を出して救いを求め、また毒殺を警戒して食事をとらず衰弱したということですが、親フランスのガン、ブルージュ、イープルのネーデルラントの都市のほうもローマ王マクシミリアンを人質にとったものの、処遇に困って3か月が経過。一方ローマ王マクシミリアンの虜囚はローマ教皇からスペインのイザベラ女王とフェルディナンド王、ドイツ諸侯までも怒り心頭となり、救出のための帝国軍4万が派遣されることに。

このためにブルージュは、マクシミリアンに息子のブルゴーニュ公フィリップの後見を放棄して、フランスと和平を認めるなどの要求を出しマクシミリアンは要求に応じて署名し、やっと5月に解放されることになりました。なお、マクシミリアンの応じた要求は、虜囚中のために認められないと反故にされ、帝国軍はマクシミリアンの報復のために諸都市を包囲して攻撃しましたが、マクシミリアンが救出された後でもあり、士気が上がらずに8月には撤収したということ。

その後、1492年にザクセン公アルブレヒト(勇敢公)の活躍で内戦が終結、ハプスブルク家によるネーデルラントの中央集権的統治が確立することになりました。

3-4、ブルターニュ公女を巡ってフランス王と争う

1490年、マクシミリアンはフランスを挟み撃ちにすることを念頭に入れて、ブルターニュ公国の継承権を持つアンヌ・ド・ブルターニュ女公と婚約、代理人を派遣して結婚式を挙行しました。そしてオーストリア諸都市をハンガリーの制圧から奪回するために進攻して8月にはハンガリー軍からウィーンを解放させたのですが、父フリードリヒ3世の命で、対ハンガリー政策に専念したために、アンヌとの正式な結婚ができなかったそう。

そうするうち1491年に、フランス王シャルル8世がブルターニュへ侵攻して首都レンヌを包囲、孤立したアンヌに結婚を迫って結婚してしまいました。シャルル8世はマクシミリアンの娘のマルグリットと婚約していたのですが、1492年2月にはローマ教皇インノケンティウス8世が、シャルル8世とアンヌの結婚を認め、マクシミリアンとアンヌの結婚をなかったことにし、またシャルルとマクシミリアンの娘マルグリットとの離婚を特赦。こうしてマクシミリアンはアンヌとの婚姻によるブルターニュとの同盟を断念。

またマクシミリアンはフランス王妃となるためにフランスで育てられていた娘マルグリットの帰国を要求して交渉したが、マルグリットをフランスの侯爵と結婚させて、婚資をフランスへ併合しようというシャルル8世の計画があったために交渉はまとまらず、マクシミリアンはついに激怒してフランスと開戦し、1492年12月、マクシミリアンはマルグリットの婚資としてフランスに併合されていたブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)に侵攻、翌年3月にはブルゴーニュ自由伯領のほとんどを奪還、1493年5月のサンリスの和約で、マルグリットのネーデルラントへの帰国とブルゴーニュ公の遺領分割が決定

このころからハプスブルク家とフランス王家の長い対立が起ったのですね。

3-5、神聖ローマ皇帝に選出

1493年、マクシミリアンは父フリードリヒ3世の死去で、神聖ローマ皇帝に選出されました。そのころオスマン帝国が1453年にコンスタンティノープルを陥落させ、北上してハンガリー王国に迫っていたため、マクシミリアンはキリスト教世界を防衛する責務を与えられたのですね。

なお、マクシミリアンは、1508年に正式に神聖ローマ皇帝として戴冠式を行うためにローマに向かったが、ヴェネツィアに阻まれてやむなく途中のトレントで皇帝の戴冠式を挙行。マクシミリアンはローマで戴冠式を行えなかったのですが、それ以後のハプルブルク家の神聖ローマ皇帝の戴冠式は、ローマでおこなわなくなったそう。

3-6、チロル地方を継承してオーストリアを統一

マクシミリアンは、バイエルン公国に併合されそうになっていたチロル地方を継承してオーストリアを統一。このチロル地方の継承では、チロル地方の銀山を支配していた銀行業のフッガー家との関係を築いて、ハプスブルク家の財政基盤も整うことになりました。そしてマクシミリアンは王宮をウィーンからチロル地方のインスブルックに移転。

これはブルゴーニュをめぐってのフランスとの対立に備え、イタリア方面への進出も画策したからで、1493年には、身分違いという反対を押し切り、婚資目当てにミラノ公国のスフォルツァ家の公女ビアンカ(カテリーナ・スフォルツァの異母妹)と再婚しイタリア戦争にも巻き込まれることに。

3-7、イタリア戦争で神聖同盟を結成

1494年、フランス王シャルル8世がイタリアに侵入してイタリア戦争がぼっ発。フランス軍はナポリを占領したために、マクシミリアンはローマ教皇アレクサンドル6世、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国などに呼びかけて反フランス同盟の神聖同盟を結成し、フランス軍に反撃

驚いたシャルル8世軍をフランスに戻る途中で迎撃したが、マクシミリアンはドイツ諸侯を説得できずに参戦していなかったこともあって、シャルル8世は脱出に成功しました。

3-8、ヴォルムス帝国議会を開催して国制改革

このころの神聖ローマ皇帝の軍事力の中心は、封建的な家臣団から傭兵部隊(ランツクネヒト)に移行していました。そして傭兵部隊を雇う莫大な費用のためにドイツ諸侯の協力を必要としたマクシミリアンは、皇帝と諸侯の関係を円滑にして納得させる必要があったのですね。

そういうわけで、ドイツ諸侯がイタリア戦争で盗賊が増えるなどの法的秩序の乱れの解決を迫ったので、1495年、ヴォルムス帝国議会を開催したマクシミリアンはイタリア戦争の戦費の援助を諸侯に要請、ドイツ諸侯は帝国と皇帝権力の分離を要求し、結果として「永久ラント平和令」(私闘を禁じて司法による紛争解決のみを有効とした法律)の発布、治安維持のための帝国管区を導入すること、帝室裁判所である帝国最高法院を創設すること、皇帝と諸身分の政府機関の帝国統治院を設置すること、そして帝国議会制度の整備といった、帝国国制の改革案が協議決定されました。

以後、皇帝と諸身分によるドイツの二元体制はより強化され、神聖ローマ帝国は中央集権的ではなく領邦国家の連合となったということ。また1499年、マクシミリアンは独立運動が強まったスイス連邦軍とのシュヴァーベン戦争で、独立を阻止しようとして失敗、バーゼル条約でスイスの独立を実質的に承認したということです。

\次のページで「4-1、マクシミリアンの結婚政策」を解説!/

4-1、マクシミリアンの結婚政策

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アルブレヒト・デューラー - LQG_SIsDPpL2aQ at Google Cultural Institute maximum zoom level, パブリック・ドメイン, リンクによる

「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」は17世紀のもので誰の言葉かは不明ですが、マクシミリアン自身がマリー・ド・ブルゴーニュとの結婚でブルゴーニュ自由伯領、ネーデルラントを獲得、マクシミリアンの子や孫の婚姻が領土拡大につながったことから始まったのは間違いないということで、具体的な例をご紹介しますね。

4-2、息子と娘をカスティリア・アラゴン王家と二重結婚

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Bernhard Strigel - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, リンクによる

1496年、フランス国王シャルル8世の動きを封じるためもあって、マクシミリアンは、息子のフィリップ美公を、カスティリア女王イザベラとアラゴン王フェルディナンドの王女フアナ(狂女)と、そして娘マルグリットを王太子フアンと二重結婚させました。マルグリットの夫フアンは子供なく早世したが、イベリア半島の大部分と、ナポリ王国、シチリア王国を獲得。また息子フィリップは早世するが、ファナとの間に2男4女が生まれ、長男カールはのちにスペイン王カルロス1世、神聖ローマ皇帝カール5世となり、ハプスブルク家隆盛の基礎を築いて、スペインは大航海時代にアメリカ大陸を征服して、日の沈まない帝国に。次男のフェルディナントは後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世に

そしてフェルディナンドと3女マリアをハンガリー・ボヘミアのヤギェウォ家のアンナとラヨシュ2世と、これまた二重結婚させたのですが、マリアの夫ラヨシュ2世は1526年にモハーチの戦いで戦死したので、この結婚を取り決めた1515年のウィーン会議の決定に従い、ラヨシュの姉アンナの夫のフェルディナントがハンガリーとボヘミアの王位を継承。「婚姻政策」によって、現在の国名で言えばオーストリア、スペイン、ベルギー、オランダ、イタリア南部、チェコ、ハンガリーに及ぶ、ハプスブルク帝国に

そして長女レオノーレはポルトガル王1世(のちにフランスのフランソワ1世と再婚)、次女イザベルはデンマーク王クリスチャン2世と、また4女カタリナはポルトガル王ジョアン3世と結婚と、領土や王位だけでなくヨーロッパ中の王家と婚姻関係を築いたのですね。

5、その後も戦争に明け暮れる

1508年、マクシミリアンは、ローマでの神聖ローマ皇帝の戴冠を妨害したヴェネツィアに対して攻撃を開始。この戦いの膠着後に娘のマルグリットによって、対ヴェネツィアのためのフランスと、ローマ教皇とスペインによるカンブレー同盟(対ヴェネツィア同盟)が成立。その後にフランスがヴェネツィアとの戦いに勝利して同盟内で突出したことで、ローマ教皇と他の同盟国、イングランド、スイスが反発して、1511年にローマ教皇主導の対フランス同盟である神聖同盟が結成されたが、ヴェネツィアは同盟を脱退してフランスと同盟を結ぶなど、イタリアでは目まぐるしい動きがある中で、マクシミリアンは、1512年には神聖ローマ帝国とは名ばかりで、ドイツ語圏とその周辺に限られることを明確にするために、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と公言

そしてマクシミリアンは1513年に、イングランド王ヘンリー8世と連合してギネガテの戦いでフランスを撃破しましたが、神聖同盟は最終的に瓦解、1516年にブリュッセルで和議となって、その2年後にはヴェネツィアとも和睦。1515年には前述のようにウィーンでの会談でハンガリーとボヘミアを治めていたヤギェウォ家とマクシミリアンの孫たちとの二重婚姻が決定、孫のフェルディナント1世からのハプスブルク帝国隆盛の始まりとなりました。

1519年、マクシミリアンは59歳でヴェルスで病没。遺言により遺体は母エレオノーレの隣に、心臓は妻マリーとともに埋葬されました。

中世最後の騎士と呼ばれ、結婚政策でハプスブルグ家を繁栄に導いた

マクシミリアン1世は神聖ローマ皇帝の父フリードリヒ3世とポルトガル王女の母との間に生まれ、ハプスブルグ家の期待を背負って成長、ブルゴーニュ公女との結婚で人生が開けた人です。

父シャルル突進公の戦死で窮地に立たされた婚約者のブルゴーニュ公女マリーの助けを求める手紙に応じてかけつけて結婚、反乱もおさめるなんて白馬の騎士そのもの。そしてマリーとは言葉が通じない政略結婚でも愛情もあり、子供も2人生まれたが、マリーは事故で早世。マリーとの間の息子フィリップ美公がスペイン女王イザベラの娘と結婚、そしてうまれた孫たちの結婚によって、その後のハプスブルグ家は最盛期に。

また、マクシミリアンはマリーの死後のブルゴーニュ公国の反乱をおさめ、26年の治世で25回の戦争に出たと言われていて、神聖ローマ皇帝となったが、重い甲冑の騎士の戦いから傭兵の歩兵中心の近代の戦いを取り入れたことでも有名で、ハンガリー、チロル地方を手に入れたしと、結局、ハプスブルグ家に繁栄をもたらした結婚政策も領土も、すべてマクシミリアン1世から始まったということなんですね。

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ドイツヨーロッパの歴史世界史歴史神聖ローマ帝国

3分で簡単「マクシミリアン1世」ハプスブルグ家中興の祖をわかりやすく歴女が解説

今回はマクシミリアン1世を取り上げるぞ。結婚でハプスブルグ家繁栄の基礎を築いた人ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの王室も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの王室の歴史には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、マクシミリアン1世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、マクシミリアン1世の生い立ち

マクシミリアン1世はハプスブルグ家隆盛の祖といわれる人で、神聖ローマ皇帝。政略結婚で愛が生まれ、子孫も結婚で広がり、ハプスブルグ家の繁栄はこの人から始まりました。ルネッサンス時代の君主として芸術の庇護者でもあり中世最後の騎士とも言われるマクシミリアン1世の生涯をご紹介していきます。

1-2、ウィーンの南方の生まれ

マクシミリアン1世は、1459年3月にウィーナー・ノイシュタット(現ウィーンの南方にある街)で生まれました。父フリードリヒ3世は神聖ローマ皇帝で、母エレオノーレはポルトガルの王女、結婚7年目にやっと生まれた跡継ぎで、きょうだいは5人だが、成人したのは妹のクニグンデ(のちのバイエルン公妃)ひとり。

マクシミリアン1世誕生時の神聖ローマ帝国は

14、15世紀は、神聖ローマ皇帝位は実態を伴わない官職の一つとなってしまい、ドイツ圏には領邦国家が乱立していた時代でした。こういう時代に神聖ローマ皇帝となったマクシミリアンの父フリードリヒは、有能だからではなくて、凡庸で無能で御しやすいから、勢威ある選帝侯たちに選ばれたのだそう。ということでフリードリヒ3世は1440年、ローマ王となり、1452年、ローマで教皇ニコラウス5世の司式で12歳下のポルトガル王ドゥアルテ1世の王女、15歳のエレオノーレと結婚式を挙式し、教皇の手によって神聖ローマ皇帝として戴冠式も行ったのですね。

なお、母エレオノーレは海洋国として裕福だったポルトガルから嫁いできたのですが、ノイシュタットの宮廷は陰気だったとか、凡庸で我慢強いだけが取り柄のフリードリヒ3世とはかなりの年齢差があり、結婚には失望していたそうで、長男の夭折を経て、やっとうまれたマクシミリアンに期待したというわけです。

1-3、こども時代は母の影響が大きかった

1462年、マクシミリアンが3歳のとき、父フリードリヒ3世に対してオーストリア大公の叔父アルブレヒト6世が叛乱を起こしたのですが、気弱な父皇帝が混乱に対処しないため、アルブレヒトに煽動されたウォルフガング・ホルツァーを筆頭に市民が議会に殺到、マクシミリアンと母后エレオノーレはウィーンの王宮に幽閉という事件が起こりました。アルブレヒトがウィーンを支配したがすぐに死去、ホルツァーも処刑されて、再び父フリードリヒ3世がウィーンを治めるようになりましたが、こんな出来事があったせいか、マクシミリアンは5歳までしゃべることが出来なかったそう。

マクシミリアンは母后エレオノーレに可愛がられて大変な影響を受け、社交的で明るい性格、芸術、学問に関心を持つようになったが、母はマクシミリアンが8歳のときに死去。また母の死でマクシミリアンの信仰心は深まって、父に似て錬金術や迷信深い面ももっていました。マクシミリアンは父フリードリヒ3世が付けたスコラ学の家庭教師に関心を示さなかったが、騎士道物語とか年代記、紋章学などは好きで、乗馬をはじめとする武芸には熱心だったということで、10代になると眉目秀麗で、多くの人を惹きつける話術を会得。魅力的な若者のマクシミリアンは、おとなしく凡庸といわれた父フリードリヒ3世とは全然似ていなかったので、フリードリヒ3世の子ではないと噂されたことも。

image by PIXTA / 29061617

当時のヨーロッパ中部はブルゴーニュ公国が中心

マクシミリアンの若いころは、現代のフランスのブルゴーニュ地方、ロレーヌ地方、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクという広大な範囲のブルゴーニュ公国が、毛織物産業を中心とした貿易で繁栄していて、北方ルネッサンス文化の中心地でもありました。そしてブルゴーニュ公国の領主シャルル(突進公)は、ブルゴーニュ戦争で勢力拡大と公爵から国王への昇格を目指していたところだったんですね。

シャルル突進公は、マクシミリアンの母エレオノーレの従兄に当たり、ひとり娘でブルゴーニュ公国の相続者であるマリーには、各国から数多くの結婚申し込みがあったのですが、シャルル突進公は神聖ローマ皇帝の息子のマクシミリアンに関心を示したそう。

1-4、シャルル突進公に気に入られる

ということで、1473年9月、マクシミリアンの父フリードリヒ3世とシャルル突進公はトリーアで、対フランス政策やオスマン討伐について会談することになり、フリードリヒ3世は14歳のマクシミリアンと1000人の従者たちも連れて行ったところ、シャルル突進公は贅を尽くして皇帝一行を歓待し、マクシミリアンをかなり気に入りました。

そしてブルゴーニュの経済力を盾にして、娘マリーとマクシミリアンの婚約、そのうえに自分のローマ王指名を望んだのですが、マクシミリアンの父フリードリヒ3世はシャルル突進公の強引さはフランス王や帝国諸侯の反発を招く(ローマ王は選挙制)と及び腰となって、11月24日にひそかにマクシミリアンと宰相らの6名だけでモーゼル川を下ってコブレンツへ逃亡。

シャルル突進公は激怒してブルゴーニュ戦争に。しかし戦いが膠着状態となったので、翌年の4月にはローマ王指名を取り下げて、マリーとマクシミリアンの婚約だけを申し込んだそう。フリードリヒ3世側もこのころは、ハンガリー王マーチャーシュ1世の攻撃でウィーンやニーダーエスターライヒが陥落して敗走途中だったので、婚約に合意。

なお、マクシミリアンは皇帝の親書と自身の肖像画とダイヤモンドの指輪をマリーへ贈り、マリーもマクシミリアンに感謝状と指輪を贈ったので、これが婚約指輪交換の起源とされているということです。

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