室町時代戦国時代日本史歴史

5分でわかる「賤ヶ岳の七本槍」秀吉子飼いの7人の侍とは?わかりやすく歴女が解説

3-1、七本槍に含まれなかったふたり

ひとりは戦死、もうひとりは秀吉の家臣ではなく弟秀長の家臣だったことで七本槍には入っていないメンバーもご紹介しますね。

3-2、石川一光(かずみつ)(?〜1583)

美濃鏡島の出身といわれ、秀吉の養子秀勝の家臣。合戦では秋田助右衛門と共に旗奉行を勤めていたが、合戦前夜に福島正則と口論となり、功名を焦って真っ先に飛び出し、大物の拝郷五左衛門に槍で目を貫かれて、戦死。秀吉は死を惜んで家督を継いだ弟の長松に感状と1千石を与えたといわれています。

3-3、桜井家一(いえかず)(?~1596)

初めは秀吉の小姓をしていたが、のちに秀吉の弟秀長の家臣となりました。

合戦では、他の七本槍たちと共に賤ヶ岳を余呉湖畔に駆け降りたが、まだ敵の大将らしい姿が川並側の山の中腹に見えたので、再び急斜面を駆け上がっていったものの、潜んでいた敵に槍で突かれて崖下に転落し、九死に一生を得て、その敵を探し出して首を取ったそう。恩賞として丹波に3千石を与えられたが、秀長の家臣で陪臣になるために七本槍から外されたという話です。ほかには、佐久間盛政が中川清秀を討ったときに、木之本田上山の秀長の陣から秀吉への早駆け伝令として出されたが、馬が大垣で倒れたため、帰りは大垣から木之本まで秀吉の本隊と素足で走り続けたので秀吉は名馬を与えるなど目をかけていたという話もあるが、1596年に死去。

天下を狙う秀吉のターニングポイントで活躍した若手武将たち

賤ヶ岳の七本槍は、信長亡き後の山崎合戦で明智光秀を破った羽柴秀吉が、清須会議を経て織田家の跡目争いの信雄対信孝の陰で、柴田勝家との勢力争いでついに合戦となったとき、秀吉軍の若手武将として一番槍の武功を立てた人たちのことです。

七本槍が定着したのは江戸時代に軍記物が流行して以降といわれますが、「先懸之衆」として当時から話題にされたということ。この時期、信長の武将として中国征伐に派遣されていたのを取って返して以後の秀吉自身が、信長の配下を超えるために売り出し中だったこともあり、誰もが成り上がりで家代々の家来がいないと知っていることもあって、秀吉は自分にも優秀な若手武将がこれだけいるんだぞと触れ回りたい気持ちがあったのではないでしょうか。

その後、加藤清正と福島正則は、ダントツで出世したために他の5人と一緒にされることを嫌ったとかいいますが、中国大返しから賤ヶ岳の七本槍のころは、秀吉も必死だったろうし、若手の彼らも必死に馬を走らせたり槍を持って走り回っていたと思うと、その後を知る私たちには感慨深いことではありますよね。

1 2 3
Share:
angelica