室町時代戦国時代日本史歴史

5分でわかる「賤ヶ岳の七本槍」秀吉子飼いの7人の侍とは?わかりやすく歴女が解説

2-3、加藤清正(1562〜1611)

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不明 – 京都市勧持院所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる

清正の母は秀吉の母大政所と従姉妹で秀吉と清正は又従兄弟という関係です。清正の父は武士だったが戦傷のために鍛冶職だったということで、清正は9歳の時に伯父加藤喜左衛門に連れられて秀吉に小姓として仕えることになり、秀吉と北政所寧々に可愛がられて育ったそう。

合戦当時は22歳。戦いでは山路正国を討ち取り、恩賞として3千石を与えられるも、福島正則より2千石少ないので異議を申し立てたという逸話もあるということ。

その後も順調に秀吉の武将として武功をあげ、九州の肥後半国を領するまでに出世し、福島正則とともに秀吉配下の尾張派または北政所派に。秀吉の死後、近江派の石田三成との確執が表面化し、関ヶ原合戦では、東軍の徳川家康に味方して、宇土城、柳川城など、西軍武将の領していた九州の各城を攻略した功績で肥後一国を与えられて、52万石の大大名に。しかし秀頼と家康の二条城の対面直後に病気となって死去。

2-4、片桐且元(かつもと)(1556〜1615)

父は浅井長政の家臣だったが、姉川合戦後に浅井氏を見限って織田に寝返り、秀吉の配下に。且元も助作と呼ばれた子供の頃から、弟貞隆と共に長浜城主となった秀吉に仕えていたそう。

合戦当時は28歳。戦いでは、銀の切割柄絃の指物を差して奮闘し、信長配下では剛勇と言われ大聖寺城主に命じられていた拝郷五左衛門を討ち取ったとされ、戦功として摂津国内に3千石を与えられたということ。なお、拝郷五左衛門を討ち取ったとされるが、且元以外にも他の七本槍の面々全員の名前があるので、どうも7人で寄ってたかって討ち取ったよう

且元は秀吉の馬廻り衆や方広寺の作事奉行や検地奉行などをつとめることが多く、朝鮮征伐にも参加。関ヶ原の戦いでは西軍について大津城の戦いに家臣を派遣したが、家康に娘を人質に出したりもして、豊臣と徳川家の調整役として奔走したため、2万8千石の領地をもらい、秀頼の傅役から秀吉の死後は秀頼の家老として、大坂城と家康との折衝などにつとめたが、方広寺鐘銘事件ののち、大坂の陣の前に大坂城を退去、そして夏の陣直後に病死。

2-5、脇坂安治(わきざかやすはる)(1554〜1626)

東浅井郡脇坂村(現湖北町丁野)の出身で代々京極家に仕えていたが、父が戦死後、16歳で信長に仕え、明智光秀の配下とされたが、次に信長によって秀吉の配下にされたそう。

合戦当時は30歳。戦いでは、安治は槍をもち、群がる敵中に飛び入って十字の長柄の槍を振り廻している姿を、秀吉が賤ヶ岳山頂から見て目を見張ったという逸話もあり、柳ケ瀬で柴田勝政を討ち取ったといわれています。しかし勝政は討死せずに、逃れて金森長近の元に身を寄せていた説もあるそう。ともあれ安治は戦功で山城国に3千石を与えられることに。

その後、小牧、長久手の戦いでも戦功をあげて淡路洲本3万石の領主となり、九鬼嘉隆や加藤嘉明と水軍を担当し、四国征伐、九州征伐に朝鮮征伐にも出兵。関ヶ原の合戦では、最初は西軍だったが、小早川秀秋らとともに東軍に寝返ったおかげで伊予大洲5万3千石に加増されました。晩年は出家して京都に住み、73歳で死去。子孫は小大名とはいえ播州竜野城主となり、幕末まで存続。

2-6、糟屋武則(かすやたけのり)(1562〜?)

鎌倉時代から続く名門武家の出身で、三木城主別所長治に仕えていたが、秀吉の三木城攻めの前に、黒田官兵衛孝高の説得で加古川城に戻ったのち、孝高の推挙で秀吉の小姓となって仕えることに。

合戦当時は22歳で、佐久間盛政配下の宿屋七左衛門を討ち取ったといわれていて、戦後、播磨や河内で3千石を与えられました。その後は、小牧、長久手の戦いでは、他の七本槍と共に馬廻衆として兵150名を率いて秀吉の本陣を守り、小田原征伐にも参加するなど、秀吉の天下統一に至るまでの戦では、後備として秀吉の周囲を守るか後方支援の役目だったそう。

また増田長盛らと近江国検地奉行として検地を行い、近江坂田郡の秀吉の直轄領1万2千石などの代官も務め、朝鮮征伐でも渡海するなど活躍し、1万2千石の大名に。関ヶ原の合戦では西軍について前哨戦の伏見城攻めに参加したので戦後改易されたが、子孫が江戸幕府に旗本として500石で召し抱えられて、糟屋と改名したため、賤ヶ岳合戦の時は、加須屋だったという説もあるそう。

2-7、加藤嘉明(よしあきら、よしあき)(1563~1631)

嘉明は三河の長良のうまれ、父加藤藤三之丞朝明は美濃斉藤氏に仕え、斉藤氏が滅びたのちに徳川氏に仕えたが、三河一向一揆で家康に敵対したため浪人し、嘉明は15歳のときから秀吉に仕えたそう。ということで、加藤清正とは無関係。嘉明は、はじめ秀吉の養子の秀勝に近侍していたが、秀吉の播磨出兵のときに独断で秀吉に従軍して、北政所寧々を激怒させたものの、秀吉は喜んで300石を与えたという話があり、以来秀吉の期待どおりに戦功をおさめたということ。

合戦当時21歳で、紫の母衣張を背負って奮戦し3千石を与えられたが、槍をもって功を立てただけで、具体的に誰の首を取ったかは資料にないということです。嘉明はその後、小牧、長久手の戦い、雑賀攻めにも参加し、四国征伐のあとで淡路国の津名、三原郡1万千石に封じられて大名となって水軍を率いるようになり、九州征伐や小田原征伐などでは、淡路水軍を率いて参加し、朝鮮征伐でも水軍で活躍。関ヶ原合戦では東軍に属して、伊予20万石をゲットしたが、のちに蒲生氏と交代で会津43万5千石に移封されて、69歳で死去。

2-8、平野長泰(ながやす)(1559~1628)

平野家の出自は明らかでないが、尾張津島の住人平野万久の養子となったのが父長治で、その子が長泰。長泰が秀吉に仕えたのは1579年ころだそう。

合戦当時は25歳。長泰も賤ヶ岳で一番槍の賞を受けたとだけで、働きについての記録はないということだが、合戦後、河内に3千石の領地を与えられ、その後の小牧、長久手の戦いでも武功をあげて2千石を加増。しかし、その後福島、加藤らが合戦のたびに武功をあげて10万石20万石と大名にまで昇進したが、長泰だけは功もなく禄も5千石止まり、秀吉最盛期にも加増されなかったため、賤ヶ岳の合戦は怪我の功名といわれることも

関ヶ原の合戦では、徳川秀忠に従って中山道を行軍して本戦に間に合わず、大坂の陣では、豊臣方につきたかったが、江戸留守居を命ぜられたために出陣できずということで、その後は旗本として秀忠に仕えて1628年に70歳で死去。

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angelica