今回は賤ヶ岳の七本槍を取り上げるぞ。秀吉の売り出し中の家来だったって、どんな人たちだったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、賤ヶ岳の七本槍について5分でわかるようにまとめた。

1-1、賤ヶ岳の七本槍とは

賤ヶ岳の七本槍とは、柴田勝家と羽柴秀吉との賤ヶ岳(現滋賀県長浜市)での合戦で功名をあげた秀吉の若て家臣7人のことです。戦国時代は合戦の功労賞として感状が与えられるのですが、この合戦で感状をもらったのは実際にはこの7人以外にもあとふたりいるそうで、それ以外にも石田三成や大谷吉継、一柳直盛を含め羽柴家の14人の若手武将が武功を挙げたという記録もあり、七本槍は語呂合わせではと言う説も。

ということで、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた武将たちについてご紹介していきますね。

1-2、賤ヶ岳の合戦とは

image by PIXTA / 35438627

本能寺の変で織田信長が倒された後、中国大返しで帰って来た羽柴秀吉が山崎合戦で明智光秀を撃破。秀吉は信長の家臣のなかで頭一つリードした状態で、織田家の継承問題を話し合う清須会議が開かれました。秀吉は信長の重臣たちに信長の嫡孫の三法師が跡継ぎと認めさせ、柴田勝家はお市の方と結婚することもこの会議で決定。

しかしその後、信長の次男の織田信雄と三男の信孝との対立、秀吉と勝家との対立が表面化し、秀吉は信長の葬儀を京都の大徳寺で行って世間の注目を集めたり、清須会議の決定を破棄して織田信雄を織田家の相続人に据えることを勝家をのぞいた丹羽長秀と池田恒興の3人の合議で決めるなどで、秀吉と勝家の対立が深まりました。

それで1582年12月、秀吉は岐阜城の信孝を降伏させたあとに、賤ヶ岳一帯の高地に陣を張って、まず勝家の養子勝豊の長浜城を落としたのち、勝家が3月に大軍を率いて越前を出発。秀吉軍5万人が長浜城に入り、勝家軍3万人と約1ヵ月のにらみ合いがあったあと、秀吉は一時、織田信孝が美濃を奪い返すために動き出したので兵の半数を率いて美濃に戻ったが、再び速攻で賤ヶ岳にきて大岩山砦を落とした佐久間盛政を討ち取り、別所山に陣取っていた元は盟友の前田利家を説得し、戦わずして退却させたので、勝家軍は越前北ノ庄城へと退却し、秀吉軍は城を包囲して一斉攻撃し、敗北した勝家は4月23日にお市の方とともに自害したというのが、賤ヶ岳の合戦です。

1-3、賤ヶ岳の七本槍の背景は

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Alpsdake - 投稿者自身による作品, CC0, リンクによる

羽柴秀吉は、この賤ヶ岳の合戦の後、織田家の武将たちのなかで対抗する勢力がなくなり、天下統一に向けて一直線に進むことになりました。ということで、あとから思い返せば、この賤ヶ岳の合戦が天下人に向けての秀吉のターニングポイントのひとつだったというわけで、のちのち秀吉の天下統一に大きな力を発揮した子飼いの武将たちのデビュー戦だったのですね。

そういうわけで、江戸初期の「甫庵太閤記」が、賤ヶ岳の七本槍の初見であるといわれますが、同時代の「一柳家記」には単に「先懸之衆」とされ、天正期に成立した大村由己の「天正記」のなかの「柴田合戦記」には7人に加えて桜井と石川の9人が挙げられていたこと、石田三成や大谷吉継、一柳直盛も含め、秀吉子飼いの14人の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録。

それに秀吉の親戚で出世頭、賤ヶ岳でも一番の功労者だった福島正則が「脇坂などと同列にされて迷惑」とか、同じく加藤清正も「賤ヶ岳の七本槍」を話題にされるのを嫌っていたという逸話もあるということなので、当時からこれは虚名で、おそらくは「金ケ崎の退き口」、「中国大返し」といった宣伝大好き、そして成り上がりで家康みたいに家代々の家来がいない秀吉が、自分の配下の若い家来たちをおおげさに宣伝するためだったのではといわれているそう。

2-1、賤ヶ岳の七本槍たちのご紹介

image by PIXTA / 63774094

当時の年齢と活躍、その後を簡単にご紹介しますね。

2-2、福島正則(1561〜1624)

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不明 - 福島正則画像。東京国立博物館所蔵品。A portrait of Masanori Fukushima. A holding of the Tokyo National Museum., パブリック・ドメイン, リンクによる

秀吉の母の姉の子で従弟、父は桶屋だったが小姓として秀吉に仕えていて、合戦当時は23歳正則は賤ヶ岳の戦いの直前に、軍法を破ったために刀と脇指を取り上げられ蟄居中だったが、ひそかに槍を持って合戦に参加して、退却する拝郷五左衛門の隊を先駆けて追い討ちしたという、正則のイメージそのままの活躍で、七本槍で最も多い5千石を与えられたのは有名

正則は後々順調に武功をたてて、伊予今治11万3千石の大名となったが、石田三成を嫌うあまり秀吉の死後には徳川家康に接近し、関ヶ原の合戦でも率先して家康に協力、合戦後には戦功などが認められて、安芸、備後49万8千石の大名に。しかし1619年に改易されて越後と信濃に4万5千石を与えられ蟄居の身となり、最後は長野で64歳で死去。

\次のページで「2-3、加藤清正(1562〜1611)」を解説!/

2-3、加藤清正(1562〜1611)

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不明 - 京都市勧持院所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる

清正の母は秀吉の母大政所と従姉妹で秀吉と清正は又従兄弟という関係です。清正の父は武士だったが戦傷のために鍛冶職だったということで、清正は9歳の時に伯父加藤喜左衛門に連れられて秀吉に小姓として仕えることになり、秀吉と北政所寧々に可愛がられて育ったそう。

合戦当時は22歳。戦いでは山路正国を討ち取り、恩賞として3千石を与えられるも、福島正則より2千石少ないので異議を申し立てたという逸話もあるということ。

その後も順調に秀吉の武将として武功をあげ、九州の肥後半国を領するまでに出世し、福島正則とともに秀吉配下の尾張派または北政所派に。秀吉の死後、近江派の石田三成との確執が表面化し、関ヶ原合戦では、東軍の徳川家康に味方して、宇土城、柳川城など、西軍武将の領していた九州の各城を攻略した功績で肥後一国を与えられて、52万石の大大名に。しかし秀頼と家康の二条城の対面直後に病気となって死去。

2-4、片桐且元(かつもと)(1556〜1615)

父は浅井長政の家臣だったが、姉川合戦後に浅井氏を見限って織田に寝返り、秀吉の配下に。且元も助作と呼ばれた子供の頃から、弟貞隆と共に長浜城主となった秀吉に仕えていたそう。

合戦当時は28歳。戦いでは、銀の切割柄絃の指物を差して奮闘し、信長配下では剛勇と言われ大聖寺城主に命じられていた拝郷五左衛門を討ち取ったとされ、戦功として摂津国内に3千石を与えられたということ。なお、拝郷五左衛門を討ち取ったとされるが、且元以外にも他の七本槍の面々全員の名前があるので、どうも7人で寄ってたかって討ち取ったよう

且元は秀吉の馬廻り衆や方広寺の作事奉行や検地奉行などをつとめることが多く、朝鮮征伐にも参加。関ヶ原の戦いでは西軍について大津城の戦いに家臣を派遣したが、家康に娘を人質に出したりもして、豊臣と徳川家の調整役として奔走したため、2万8千石の領地をもらい、秀頼の傅役から秀吉の死後は秀頼の家老として、大坂城と家康との折衝などにつとめたが、方広寺鐘銘事件ののち、大坂の陣の前に大坂城を退去、そして夏の陣直後に病死。

2-5、脇坂安治(わきざかやすはる)(1554〜1626)

東浅井郡脇坂村(現湖北町丁野)の出身で代々京極家に仕えていたが、父が戦死後、16歳で信長に仕え、明智光秀の配下とされたが、次に信長によって秀吉の配下にされたそう。

合戦当時は30歳。戦いでは、安治は槍をもち、群がる敵中に飛び入って十字の長柄の槍を振り廻している姿を、秀吉が賤ヶ岳山頂から見て目を見張ったという逸話もあり、柳ケ瀬で柴田勝政を討ち取ったといわれています。しかし勝政は討死せずに、逃れて金森長近の元に身を寄せていた説もあるそう。ともあれ安治は戦功で山城国に3千石を与えられることに。

その後、小牧、長久手の戦いでも戦功をあげて淡路洲本3万石の領主となり、九鬼嘉隆や加藤嘉明と水軍を担当し、四国征伐、九州征伐に朝鮮征伐にも出兵。関ヶ原の合戦では、最初は西軍だったが、小早川秀秋らとともに東軍に寝返ったおかげで伊予大洲5万3千石に加増されました。晩年は出家して京都に住み、73歳で死去。子孫は小大名とはいえ播州竜野城主となり、幕末まで存続。

2-6、糟屋武則(かすやたけのり)(1562〜?)

鎌倉時代から続く名門武家の出身で、三木城主別所長治に仕えていたが、秀吉の三木城攻めの前に、黒田官兵衛孝高の説得で加古川城に戻ったのち、孝高の推挙で秀吉の小姓となって仕えることに。

合戦当時は22歳で、佐久間盛政配下の宿屋七左衛門を討ち取ったといわれていて、戦後、播磨や河内で3千石を与えられました。その後は、小牧、長久手の戦いでは、他の七本槍と共に馬廻衆として兵150名を率いて秀吉の本陣を守り、小田原征伐にも参加するなど、秀吉の天下統一に至るまでの戦では、後備として秀吉の周囲を守るか後方支援の役目だったそう。

また増田長盛らと近江国検地奉行として検地を行い、近江坂田郡の秀吉の直轄領1万2千石などの代官も務め、朝鮮征伐でも渡海するなど活躍し、1万2千石の大名に。関ヶ原の合戦では西軍について前哨戦の伏見城攻めに参加したので戦後改易されたが、子孫が江戸幕府に旗本として500石で召し抱えられて、糟屋と改名したため、賤ヶ岳合戦の時は、加須屋だったという説もあるそう。

2-7、加藤嘉明(よしあきら、よしあき)(1563~1631)

嘉明は三河の長良のうまれ、父加藤藤三之丞朝明は美濃斉藤氏に仕え、斉藤氏が滅びたのちに徳川氏に仕えたが、三河一向一揆で家康に敵対したため浪人し、嘉明は15歳のときから秀吉に仕えたそう。ということで、加藤清正とは無関係。嘉明は、はじめ秀吉の養子の秀勝に近侍していたが、秀吉の播磨出兵のときに独断で秀吉に従軍して、北政所寧々を激怒させたものの、秀吉は喜んで300石を与えたという話があり、以来秀吉の期待どおりに戦功をおさめたということ。

合戦当時21歳で、紫の母衣張を背負って奮戦し3千石を与えられたが、槍をもって功を立てただけで、具体的に誰の首を取ったかは資料にないということです。嘉明はその後、小牧、長久手の戦い、雑賀攻めにも参加し、四国征伐のあとで淡路国の津名、三原郡1万千石に封じられて大名となって水軍を率いるようになり、九州征伐や小田原征伐などでは、淡路水軍を率いて参加し、朝鮮征伐でも水軍で活躍。関ヶ原合戦では東軍に属して、伊予20万石をゲットしたが、のちに蒲生氏と交代で会津43万5千石に移封されて、69歳で死去。

2-8、平野長泰(ながやす)(1559~1628)

平野家の出自は明らかでないが、尾張津島の住人平野万久の養子となったのが父長治で、その子が長泰。長泰が秀吉に仕えたのは1579年ころだそう。

合戦当時は25歳。長泰も賤ヶ岳で一番槍の賞を受けたとだけで、働きについての記録はないということだが、合戦後、河内に3千石の領地を与えられ、その後の小牧、長久手の戦いでも武功をあげて2千石を加増。しかし、その後福島、加藤らが合戦のたびに武功をあげて10万石20万石と大名にまで昇進したが、長泰だけは功もなく禄も5千石止まり、秀吉最盛期にも加増されなかったため、賤ヶ岳の合戦は怪我の功名といわれることも

関ヶ原の合戦では、徳川秀忠に従って中山道を行軍して本戦に間に合わず、大坂の陣では、豊臣方につきたかったが、江戸留守居を命ぜられたために出陣できずということで、その後は旗本として秀忠に仕えて1628年に70歳で死去。

\次のページで「3-1、七本槍に含まれなかったふたり」を解説!/

3-1、七本槍に含まれなかったふたり

ひとりは戦死、もうひとりは秀吉の家臣ではなく弟秀長の家臣だったことで七本槍には入っていないメンバーもご紹介しますね。

3-2、石川一光(かずみつ)(?〜1583)

美濃鏡島の出身といわれ、秀吉の養子秀勝の家臣。合戦では秋田助右衛門と共に旗奉行を勤めていたが、合戦前夜に福島正則と口論となり、功名を焦って真っ先に飛び出し、大物の拝郷五左衛門に槍で目を貫かれて、戦死。秀吉は死を惜んで家督を継いだ弟の長松に感状と1千石を与えたといわれています。

3-3、桜井家一(いえかず)(?~1596)

初めは秀吉の小姓をしていたが、のちに秀吉の弟秀長の家臣となりました。

合戦では、他の七本槍たちと共に賤ヶ岳を余呉湖畔に駆け降りたが、まだ敵の大将らしい姿が川並側の山の中腹に見えたので、再び急斜面を駆け上がっていったものの、潜んでいた敵に槍で突かれて崖下に転落し、九死に一生を得て、その敵を探し出して首を取ったそう。恩賞として丹波に3千石を与えられたが、秀長の家臣で陪臣になるために七本槍から外されたという話です。ほかには、佐久間盛政が中川清秀を討ったときに、木之本田上山の秀長の陣から秀吉への早駆け伝令として出されたが、馬が大垣で倒れたため、帰りは大垣から木之本まで秀吉の本隊と素足で走り続けたので秀吉は名馬を与えるなど目をかけていたという話もあるが、1596年に死去。

天下を狙う秀吉のターニングポイントで活躍した若手武将たち

賤ヶ岳の七本槍は、信長亡き後の山崎合戦で明智光秀を破った羽柴秀吉が、清須会議を経て織田家の跡目争いの信雄対信孝の陰で、柴田勝家との勢力争いでついに合戦となったとき、秀吉軍の若手武将として一番槍の武功を立てた人たちのことです。

七本槍が定着したのは江戸時代に軍記物が流行して以降といわれますが、「先懸之衆」として当時から話題にされたということ。この時期、信長の武将として中国征伐に派遣されていたのを取って返して以後の秀吉自身が、信長の配下を超えるために売り出し中だったこともあり、誰もが成り上がりで家代々の家来がいないと知っていることもあって、秀吉は自分にも優秀な若手武将がこれだけいるんだぞと触れ回りたい気持ちがあったのではないでしょうか。

その後、加藤清正と福島正則は、ダントツで出世したために他の5人と一緒にされることを嫌ったとかいいますが、中国大返しから賤ヶ岳の七本槍のころは、秀吉も必死だったろうし、若手の彼らも必死に馬を走らせたり槍を持って走り回っていたと思うと、その後を知る私たちには感慨深いことではありますよね。

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室町時代戦国時代日本史歴史

3分で簡単「賤ヶ岳の七本槍」秀吉子飼いの7人の侍とは?わかりやすく歴女が解説

今回は賤ヶ岳の七本槍を取り上げるぞ。秀吉の売り出し中の家来だったって、どんな人たちだったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、賤ヶ岳の七本槍について5分でわかるようにまとめた。

1-1、賤ヶ岳の七本槍とは

賤ヶ岳の七本槍とは、柴田勝家と羽柴秀吉との賤ヶ岳(現滋賀県長浜市)での合戦で功名をあげた秀吉の若て家臣7人のことです。戦国時代は合戦の功労賞として感状が与えられるのですが、この合戦で感状をもらったのは実際にはこの7人以外にもあとふたりいるそうで、それ以外にも石田三成や大谷吉継、一柳直盛を含め羽柴家の14人の若手武将が武功を挙げたという記録もあり、七本槍は語呂合わせではと言う説も。

ということで、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた武将たちについてご紹介していきますね。

1-2、賤ヶ岳の合戦とは

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本能寺の変で織田信長が倒された後、中国大返しで帰って来た羽柴秀吉が山崎合戦で明智光秀を撃破。秀吉は信長の家臣のなかで頭一つリードした状態で、織田家の継承問題を話し合う清須会議が開かれました。秀吉は信長の重臣たちに信長の嫡孫の三法師が跡継ぎと認めさせ、柴田勝家はお市の方と結婚することもこの会議で決定。

しかしその後、信長の次男の織田信雄と三男の信孝との対立、秀吉と勝家との対立が表面化し、秀吉は信長の葬儀を京都の大徳寺で行って世間の注目を集めたり、清須会議の決定を破棄して織田信雄を織田家の相続人に据えることを勝家をのぞいた丹羽長秀と池田恒興の3人の合議で決めるなどで、秀吉と勝家の対立が深まりました。

それで1582年12月、秀吉は岐阜城の信孝を降伏させたあとに、賤ヶ岳一帯の高地に陣を張って、まず勝家の養子勝豊の長浜城を落としたのち、勝家が3月に大軍を率いて越前を出発。秀吉軍5万人が長浜城に入り、勝家軍3万人と約1ヵ月のにらみ合いがあったあと、秀吉は一時、織田信孝が美濃を奪い返すために動き出したので兵の半数を率いて美濃に戻ったが、再び速攻で賤ヶ岳にきて大岩山砦を落とした佐久間盛政を討ち取り、別所山に陣取っていた元は盟友の前田利家を説得し、戦わずして退却させたので、勝家軍は越前北ノ庄城へと退却し、秀吉軍は城を包囲して一斉攻撃し、敗北した勝家は4月23日にお市の方とともに自害したというのが、賤ヶ岳の合戦です。

1-3、賤ヶ岳の七本槍の背景は

Mount Shizu top 2009-02-08.jpg
Alpsdake投稿者自身による作品, CC0, リンクによる

羽柴秀吉は、この賤ヶ岳の合戦の後、織田家の武将たちのなかで対抗する勢力がなくなり、天下統一に向けて一直線に進むことになりました。ということで、あとから思い返せば、この賤ヶ岳の合戦が天下人に向けての秀吉のターニングポイントのひとつだったというわけで、のちのち秀吉の天下統一に大きな力を発揮した子飼いの武将たちのデビュー戦だったのですね。

そういうわけで、江戸初期の「甫庵太閤記」が、賤ヶ岳の七本槍の初見であるといわれますが、同時代の「一柳家記」には単に「先懸之衆」とされ、天正期に成立した大村由己の「天正記」のなかの「柴田合戦記」には7人に加えて桜井と石川の9人が挙げられていたこと、石田三成や大谷吉継、一柳直盛も含め、秀吉子飼いの14人の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録。

それに秀吉の親戚で出世頭、賤ヶ岳でも一番の功労者だった福島正則が「脇坂などと同列にされて迷惑」とか、同じく加藤清正も「賤ヶ岳の七本槍」を話題にされるのを嫌っていたという逸話もあるということなので、当時からこれは虚名で、おそらくは「金ケ崎の退き口」、「中国大返し」といった宣伝大好き、そして成り上がりで家康みたいに家代々の家来がいない秀吉が、自分の配下の若い家来たちをおおげさに宣伝するためだったのではといわれているそう。

2-1、賤ヶ岳の七本槍たちのご紹介

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当時の年齢と活躍、その後を簡単にご紹介しますね。

2-2、福島正則(1561〜1624)

Masanori Fukushima.JPG
不明 – 福島正則画像。東京国立博物館所蔵品。A portrait of Masanori Fukushima. A holding of the Tokyo National Museum., パブリック・ドメイン, リンクによる

秀吉の母の姉の子で従弟、父は桶屋だったが小姓として秀吉に仕えていて、合戦当時は23歳正則は賤ヶ岳の戦いの直前に、軍法を破ったために刀と脇指を取り上げられ蟄居中だったが、ひそかに槍を持って合戦に参加して、退却する拝郷五左衛門の隊を先駆けて追い討ちしたという、正則のイメージそのままの活躍で、七本槍で最も多い5千石を与えられたのは有名

正則は後々順調に武功をたてて、伊予今治11万3千石の大名となったが、石田三成を嫌うあまり秀吉の死後には徳川家康に接近し、関ヶ原の合戦でも率先して家康に協力、合戦後には戦功などが認められて、安芸、備後49万8千石の大名に。しかし1619年に改易されて越後と信濃に4万5千石を与えられ蟄居の身となり、最後は長野で64歳で死去。

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