
その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、賤ヶ岳の七本槍とは
- 1-2、賤ヶ岳の合戦とは
- 1-3、賤ヶ岳の七本槍の背景は
- 2-1、賤ヶ岳の七本槍たちのご紹介
- 2-2、福島正則(1561〜1624)
- 2-3、加藤清正(1562〜1611)
- 2-4、片桐且元(かつもと)(1556〜1615)
- 2-5、脇坂安治(わきざかやすはる)(1554〜1626)
- 2-6、糟屋武則(かすやたけのり)(1562〜?)
- 2-7、加藤嘉明(よしあきら、よしあき)(1563~1631)
- 2-8、平野長泰(ながやす)(1559~1628)
- 3-1、七本槍に含まれなかったふたり
- 3-2、石川一光(かずみつ)(?〜1583)
- 3-3、桜井家一(いえかず)(?~1596)
- 天下を狙う秀吉のターニングポイントで活躍した若手武将たち
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、賤ヶ岳の七本槍について5分でわかるようにまとめた。
1-1、賤ヶ岳の七本槍とは
賤ヶ岳の七本槍とは、柴田勝家と羽柴秀吉との賤ヶ岳(現滋賀県長浜市)での合戦で功名をあげた秀吉の若て家臣7人のことです。戦国時代は合戦の功労賞として感状が与えられるのですが、この合戦で感状をもらったのは実際にはこの7人以外にもあとふたりいるそうで、それ以外にも石田三成や大谷吉継、一柳直盛を含め羽柴家の14人の若手武将が武功を挙げたという記録もあり、七本槍は語呂合わせではと言う説も。
ということで、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた武将たちについてご紹介していきますね。
1-2、賤ヶ岳の合戦とは

本能寺の変で織田信長が倒された後、中国大返しで帰って来た羽柴秀吉が山崎合戦で明智光秀を撃破。秀吉は信長の家臣のなかで頭一つリードした状態で、織田家の継承問題を話し合う清須会議が開かれました。秀吉は信長の重臣たちに信長の嫡孫の三法師が跡継ぎと認めさせ、柴田勝家はお市の方と結婚することもこの会議で決定。
しかしその後、信長の次男の織田信雄と三男の信孝との対立、秀吉と勝家との対立が表面化し、秀吉は信長の葬儀を京都の大徳寺で行って世間の注目を集めたり、清須会議の決定を破棄して織田信雄を織田家の相続人に据えることを勝家をのぞいた丹羽長秀と池田恒興の3人の合議で決めるなどで、秀吉と勝家の対立が深まりました。
それで1582年12月、秀吉は岐阜城の信孝を降伏させたあとに、賤ヶ岳一帯の高地に陣を張って、まず勝家の養子勝豊の長浜城を落としたのち、勝家が3月に大軍を率いて越前を出発。秀吉軍5万人が長浜城に入り、勝家軍3万人と約1ヵ月のにらみ合いがあったあと、秀吉は一時、織田信孝が美濃を奪い返すために動き出したので兵の半数を率いて美濃に戻ったが、再び速攻で賤ヶ岳にきて大岩山砦を落とした佐久間盛政を討ち取り、別所山に陣取っていた元は盟友の前田利家を説得し、戦わずして退却させたので、勝家軍は越前北ノ庄城へと退却し、秀吉軍は城を包囲して一斉攻撃し、敗北した勝家は4月23日にお市の方とともに自害したというのが、賤ヶ岳の合戦です。
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1-3、賤ヶ岳の七本槍の背景は
羽柴秀吉は、この賤ヶ岳の合戦の後、織田家の武将たちのなかで対抗する勢力がなくなり、天下統一に向けて一直線に進むことになりました。ということで、あとから思い返せば、この賤ヶ岳の合戦が天下人に向けての秀吉のターニングポイントのひとつだったというわけで、のちのち秀吉の天下統一に大きな力を発揮した子飼いの武将たちのデビュー戦だったのですね。
そういうわけで、江戸初期の「甫庵太閤記」が、賤ヶ岳の七本槍の初見であるといわれますが、同時代の「一柳家記」には単に「先懸之衆」とされ、天正期に成立した大村由己の「天正記」のなかの「柴田合戦記」には7人に加えて桜井と石川の9人が挙げられていたこと、石田三成や大谷吉継、一柳直盛も含め、秀吉子飼いの14人の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録。
それに秀吉の親戚で出世頭、賤ヶ岳でも一番の功労者だった福島正則が「脇坂などと同列にされて迷惑」とか、同じく加藤清正も「賤ヶ岳の七本槍」を話題にされるのを嫌っていたという逸話もあるということなので、当時からこれは虚名で、おそらくは「金ケ崎の退き口」、「中国大返し」といった宣伝大好き、そして成り上がりで家康みたいに家代々の家来がいない秀吉が、自分の配下の若い家来たちをおおげさに宣伝するためだったのではといわれているそう。
2-2、福島正則(1561〜1624)
不明 – 福島正則画像。東京国立博物館所蔵品。A portrait of Masanori Fukushima. A holding of the Tokyo National Museum., パブリック・ドメイン, リンクによる
秀吉の母の姉の子で従弟、父は桶屋だったが小姓として秀吉に仕えていて、合戦当時は23歳。正則は賤ヶ岳の戦いの直前に、軍法を破ったために刀と脇指を取り上げられ蟄居中だったが、ひそかに槍を持って合戦に参加して、退却する拝郷五左衛門の隊を先駆けて追い討ちしたという、正則のイメージそのままの活躍で、七本槍で最も多い5千石を与えられたのは有名。
正則は後々順調に武功をたてて、伊予今治11万3千石の大名となったが、石田三成を嫌うあまり秀吉の死後には徳川家康に接近し、関ヶ原の合戦でも率先して家康に協力、合戦後には戦功などが認められて、安芸、備後49万8千石の大名に。しかし1619年に改易されて越後と信濃に4万5千石を与えられ蟄居の身となり、最後は長野で64歳で死去。
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