今回は彦根城を取り上げるぞ。井伊家のお城だったそうですが、どんな城だったか詳しく知りたいよな。その辺のところを江戸時代も大好きな歴女・あんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、彦根城について3分でわかるようにまとめた。

1-1.彦根城とは

image by PIXTA / 58506145

彦根城(現滋賀県彦根市)は、江戸時代初期に築城された井伊家の居城で、姫路城、犬山城、松本城、松江城とおなじく、天守が国宝指定された城です。もともと彦根には、石田三成の居城の佐和山城がありましたが、関ヶ原の戦いの後に戦功で近江18万石の居城として佐和山城主となった井伊直政が、いくらなんでも石田三成の城にそのまま住むわけにはいかないと、新たに築城されたのが彦根城。

ということで、ここでは別名金亀城(こんきじょう)ともいわれる彦根城について解説していきます。

2-1.彦根城ができるまで

徳川家康の武将の井伊直政は、徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑に数えられた家康の天下取りを支えた功臣のひとり。直政は関ヶ原合戦の軍功と外交折衝で功績をあげたので、近江の国18万石を知行することになり、石田三成の居城だった佐和山城主になりました。

佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどで、島左近も城つくりに関与した名城でしたが、直政は、佐和山城の中世的で古い縄張り、また三成の居城と城下町を継承することを嫌って、家康の許可を得て琵琶湖岸に近い磯山(現滋賀県米原市磯)に居城を移すことを計画

しかし直政は関ヶ原の戦傷がもとで1602年に死去し、家督を継いだ直継が幼少だったので、家老の木俣守勝が徳川家康と相談し、直政の遺志を継いで1603年に琵琶湖に面した彦根山(別名は金亀山)に彦根城の築城を開始したのですね。

2-2.井伊家とは

井伊家は遠江国の古い豪族で、平安時代にまでさかのぼれます。鎌倉時代から遠江地方の国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として宗良親王を迎えて一大勢力を誇りましたが、戦国時代には今川氏に仕えるようになっており、当時の当主だった井伊直盛が桶狭間合戦で戦死。直盛には嫡男がなかったので、従弟の直親が跡を継ぐも、今川氏に殺害され、直親の遺児でのちの井伊直政が残されました。

そこで出家していた直盛の一人娘が幼少の直政の後見人となって、井伊直虎(次郎法師)を名乗り、女領主として井伊家をおさめ、様々な危機を乗り越えた後、15歳になった直政は徳川家康に仕えて、多くの武功をたてて家康の天下統一に貢献。井伊の赤備えとしても有名な武将となり、最終的に近江18万石の大名に。なお、直政の死後、跡を継いだ息子の直継(後に直勝)は病弱で、かわって大坂の陣に出陣して活躍した弟の直孝が家康の命令で彦根藩主を継承し、石高も30万石にアップ。2代将軍秀忠、3代将軍家光の信任厚い幕閣となり、直継は分家を立てることに。

そして江戸時代の井伊家は、直澄、直該、直幸、直亮、直弼と5代6度の大老職を出したという譜代大名の筆頭となって、彦根藩は一度も転封もなく幕末まで務めました。

3-1.彦根城築城の歴史と全容

それでは、ここからは彦根城築城の歴史と天守など残っている建物について説明していきますね。

3-2.彦根城は京都に近く戦略的にも重要な地

彦根城のある彦根山は別名金亀(こんき)山で標高50メートル、琵琶湖と山の間約5キロほどの狭い平地に立地していて、中山道と北陸道(北国街道)が合流し、琵琶湖の水運が盛んだったころは、水陸の両方から京都に至るという東国と西国の結節地点でした。

戦略的にも重要だったため、古くは672年の壬申の乱、1570年の姉川の合戦、1583年の賤ヶ岳の合戦に、1600年の関ヶ原の合戦がこの彦根の周辺で行われたということで、徳川家康も京都に近い重要な場所に井伊直政を置いて城を築かせたのですね。

3-3.彦根城の築城は最初は天下普請

1603年、平山城である彦根城の築城が開始されました。築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12~15大名が携わった天下普請で、1606年には2期までの工事が完了、同年の天守完成と同じ頃、直継が入城しました。

その後、大坂夏の陣後の1616年からは彦根藩の手で第3期工事が開始、御殿などが建造されて1622年、約20年かかってすべての工事が完了して完成。

3-4.彦根城の全容は

image by PIXTA / 55409892

彦根城の別名金亀城は、彦根城築城以前、彦根山上にあった寺院に金の亀に乗った観音像が安置されていたことからといわれます。

城の形式は連郭式平山城で、本丸、二の丸、三の丸と北側に山崎曲輪が配置され、殿さまの住居である御殿は二の丸だったそう。本丸に天守、西の丸と山崎曲輪に三重櫓が建てられましたが、山崎曲輪の三重櫓は明治初期に破却されたということ。

また、彦根城の建築物は、一国一城令により、ほかの廃止が決定した近江の城から移築したものが多く、天守は大津城から、佐和口多門櫓は佐和山城から、時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は長浜城から、西ノ丸三重櫓は小谷城からといった具合で、現在では天守は国宝で他の建物も国の重要文化財に。

城の北側には4代藩主直興(なおおき)によって整備された庭園で、別名「槻(けやき)御殿」とも言われる玄宮園と楽々園という大名庭園ものこっていて、「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されています。

\次のページで「3-5.天守閣は複合式望楼型」を解説!/

3-5.天守閣は複合式望楼型

彦根城の天守閣は、通し柱を用いずに各階ごとに積み上げられた3層3階地下1階の複合式望楼型で、大津城の天守を4重5階だったものを3重に縮小して移築したといわれています。天守閣の1重目の窓は突上窓、2重目以上の窓はすべて華頭(かとう)窓の配列というのが特長で、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を、各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んで配置された屋根の曲線は、規模は小さいものの荘厳な雰囲気。

また、天守をささえる石垣は、牛蒡積(ごぼうづみ)と呼ばれていて、自然石を使って重心が内下に向くように作られたもので、一見粗雑だが強固な造りとなっているということ。また、築城の技法の「登り石垣」が良好な形で保存され、それに馬屋が残っているのも珍しく重要文化財指定だそう。

3-6.埋木舎(うもれぎのや)

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幕末に大老となった井伊直弼(なおすけ)が、17歳から32歳まで15年間の部屋住み時代を過ごした屋敷で、「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と直弼は和歌を詠み、自ら「埋木舎」と名付け、国学や歌道から居合道なども学び、文武両道の修練し、のちに安政の大獄でも活躍した国学者長野主膳などの側近とも交友したといわれています。

3-7.明治後の彦根城

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彦根城は、明治時代の廃城令のとき、解体の危機がありました。が、かろうじて残ったのは、1878年北陸巡幸を終えた明治天皇が彦根を通過時に、彦根城を保存するようにとの大命があったからといわれています。これは随行した参議大隈重信が明治天皇に彦根城を残すように願った説と、近江町長沢の福田寺で休憩された明治天皇に、住持攝専(せっせん)の夫人だった天皇の母方の従妹にあたる、かね子刀自が願ったという説があるそう。

なお、1992年に日本の世界遺産暫定リストに掲載されましたが、世界遺産登録が厳格化したためか推薦は見送られている状態だということです。

4-1.彦根城にまつわる人々

HikoneCastle7.jpg
投稿者が撮影 - ブレイズマン (talk) 10:34, 25 August 2008 (UTC), CC 表示-継承 3.0, リンクによる

初代と実質最後の藩主、それに劣らぬ有名キャラについてご紹介しますね。

4-2.井伊直政

1561年生まれ。父は19代当主直親(なおちか)で、「おんな城主 直虎」の井伊直虎は、井伊直政の養母です。当時今川家に仕えていた直政の祖父直盛は、桶狭間の戦いで主君今川義元とともに討ち死、そして直政が1歳の時に父直親が松平元康(のちの徳川家康)との内通嫌疑で今川氏真に誅殺されたため、井伊直虎が女城主としてがんばるも、今川家の謀略で井伊家は滅亡に。

直政は、一時三河国の鳳来寺に預けられて出家しましたが、1575年に14歳で家康に小姓として仕えることに。直政はかなりの美少年だったため、家康の寵童だったという説もあるそう。その後、直政は武田勝頼との芝原の戦いの初陣で活躍。武功をあげ、家康と後北条家との講和の使者として外交能力の高さも発揮し、以後は合戦でも先陣を切って活躍し、様々な講和交渉などでも活躍したということ。本能寺の変後の神君伊賀越えでも、家康を守って戦い無事に岡崎まで戻り、家康が武田家の旧領地と武田家遺臣団を引き受けたときは直政は武田家の猛将山県昌景の赤備えの軍装を引き継ぎ、井伊の赤備えとして小牧、長久手に出陣。井伊の赤鬼と呼ばれることに。

1590年の家康の関東入府にともなって、上野国箕輪12万石の大名となり、関ヶ原の戦い前には西軍の武将たちに調略を行い、黒田長政を通じて小早川秀秋の裏切りを取り付け、毛利家の吉川広家にも戦い不参加を約束させたということ。関ヶ原合戦で、あの島津勢の退き口で足に鉄砲傷の大けがを負ったのにもかかわらず、戦後の処理として西軍総大将の毛利輝元との講和交渉、真田昌幸、信繫親子の助命、土佐の長宗我部盛親の謝罪の取次ぎ、そして薩摩の島津氏との仲立ちなども行ったということで、様々の行賞を認められて近江の国18万石佐和山城を与えられたのですね。

直政は、関ヶ原の戦いの2年後、関ヶ原の戦いの鉄砲傷が原因で42歳で死去したために彦根城の城主にはなれませんでしたが、直政なくしてこの城は井伊家のものにはならなかったでしょう

4-3.井伊直弼(なおすけ)

1815年生まれで、15代当主。第13代直中の14男で、彦根城二の丸の槻御殿で誕生。母は側室で父の隠居後に生まれた庶子だったため、父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移って、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしました。直弼は、国学、和歌、茶道、兵学、居合術などを学んだそうで聡明で、他から養子の口もあったようですが、弟は養子に行けたものの直弼はなぜか縁組成立せず、兄の「用心棒」としておかれたそう。14代藩主で兄の直亮の養嗣子となっていた長兄の直元の死去後に江戸に召喚されて、次兄直亮の養子として後継者に決定。

1850年に直亮の死去を受けて家督を継いで藩主になりました。藩主となったのち、直弼は部屋住み時代の側近を雇用して人事を刷新、また、藩主、藩士、領民の一和を説き、藩士には積極的な意見の上申を奨励して、褒賞と人材登用の道を示したということです。そしてにペリーの黒船来航の混乱時に幕閣の中心となって大老に就任し、もめていた将軍家定の将軍継嗣問題について、一橋慶喜派を押さえ、14代将軍を紀州慶福(家茂)に決定し、アメリカ合衆国総領事ハリスとの間に日米修好通商条約を締結し、反対する大名、公卿、志士らを安政の大獄で弾圧した結果、1860年、桜田門外の変で46歳で暗殺。

4-4.ひこにゃん

彦根市のゆるキャラで、全国的に有名なひこにゃんの知られざる由来は、彦根藩2代藩主にまつわる話です。

江戸時代初期、江戸の郊外の武蔵国荏原郡世田ヶ谷村(現東京都世田谷区豪徳寺)にあった豪徳寺で2代目藩主直孝がにわか雨にあって大木の下で雨宿りをしていたときのこと、手招きをする白猫を見てそちらに近寄ったところ、直後に今まで直孝が雨宿りをしていた大木に雷が落ちたそう。直孝は、この白猫のおかげで難を逃れたと感謝して、のちに豪徳寺を井伊家の菩提寺としたということで、この直孝を助けた招き猫をもとに作られたのが、ひこにゃんだということです。

井伊家の城として江戸初期に築城、現在まで残って国宝となった彦根城

彦根城は、徳川家康の寵臣井伊直政が関ヶ原合戦の武功などで近江18万石を拝領して佐和山城主となったとき、石田三成の居城に住むわけにはいかんということで、別に城を建てることになり、直政の死後、後継者の息子の代に家康の命令で新築された城です。

重要な場所なので特に家康の命令で天下普請となり、一国一城令などもあって、近江に散在した秀吉の長浜城、佐和山城、大津城ほかの城からの移築も多く、20年かけて建てられたということ。京都の守りという重要な位置に置かれた井伊家は他の譜代大名と違って転封もなく幕末まで彦根城主として過ごしたうえ、歴代城主たちは老中、大老として幕閣の重鎮として幕府の政治も行ったのですね。

明治の廃城令での取り壊しの危機は明治天皇の命令で乗り越え、現在も天守閣などが国宝、重要文化財として残り、あの幕末の大老井伊直弼が部屋住み時代15年を過ごした埋もれ木の舎も残され、現在はゆるキャラのひこにゃん人気もあって観光スポットにと、往時をしのばせる彦根城。世界遺産に指定される価値はあるのではないでしょうか。

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日本史歴史江戸時代

3分で簡単にわかる「彦根城」の歴史!城主やひこにゃんも歴女が詳しく解説

今回は彦根城を取り上げるぞ。井伊家のお城だったそうですが、どんな城だったか詳しく知りたいよな。その辺のところを江戸時代も大好きな歴女・あんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、彦根城について3分でわかるようにまとめた。

1-1.彦根城とは

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彦根城(現滋賀県彦根市)は、江戸時代初期に築城された井伊家の居城で、姫路城、犬山城、松本城、松江城とおなじく、天守が国宝指定された城です。もともと彦根には、石田三成の居城の佐和山城がありましたが、関ヶ原の戦いの後に戦功で近江18万石の居城として佐和山城主となった井伊直政が、いくらなんでも石田三成の城にそのまま住むわけにはいかないと、新たに築城されたのが彦根城。

ということで、ここでは別名金亀城(こんきじょう)ともいわれる彦根城について解説していきます。

2-1.彦根城ができるまで

徳川家康の武将の井伊直政は、徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑に数えられた家康の天下取りを支えた功臣のひとり。直政は関ヶ原合戦の軍功と外交折衝で功績をあげたので、近江の国18万石を知行することになり、石田三成の居城だった佐和山城主になりました。

佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどで、島左近も城つくりに関与した名城でしたが、直政は、佐和山城の中世的で古い縄張り、また三成の居城と城下町を継承することを嫌って、家康の許可を得て琵琶湖岸に近い磯山(現滋賀県米原市磯)に居城を移すことを計画

しかし直政は関ヶ原の戦傷がもとで1602年に死去し、家督を継いだ直継が幼少だったので、家老の木俣守勝が徳川家康と相談し、直政の遺志を継いで1603年に琵琶湖に面した彦根山(別名は金亀山)に彦根城の築城を開始したのですね。

2-2.井伊家とは

井伊家は遠江国の古い豪族で、平安時代にまでさかのぼれます。鎌倉時代から遠江地方の国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として宗良親王を迎えて一大勢力を誇りましたが、戦国時代には今川氏に仕えるようになっており、当時の当主だった井伊直盛が桶狭間合戦で戦死。直盛には嫡男がなかったので、従弟の直親が跡を継ぐも、今川氏に殺害され、直親の遺児でのちの井伊直政が残されました。

そこで出家していた直盛の一人娘が幼少の直政の後見人となって、井伊直虎(次郎法師)を名乗り、女領主として井伊家をおさめ、様々な危機を乗り越えた後、15歳になった直政は徳川家康に仕えて、多くの武功をたてて家康の天下統一に貢献。井伊の赤備えとしても有名な武将となり、最終的に近江18万石の大名に。なお、直政の死後、跡を継いだ息子の直継(後に直勝)は病弱で、かわって大坂の陣に出陣して活躍した弟の直孝が家康の命令で彦根藩主を継承し、石高も30万石にアップ。2代将軍秀忠、3代将軍家光の信任厚い幕閣となり、直継は分家を立てることに。

そして江戸時代の井伊家は、直澄、直該、直幸、直亮、直弼と5代6度の大老職を出したという譜代大名の筆頭となって、彦根藩は一度も転封もなく幕末まで務めました。

3-1.彦根城築城の歴史と全容

それでは、ここからは彦根城築城の歴史と天守など残っている建物について説明していきますね。

3-2.彦根城は京都に近く戦略的にも重要な地

彦根城のある彦根山は別名金亀(こんき)山で標高50メートル、琵琶湖と山の間約5キロほどの狭い平地に立地していて、中山道と北陸道(北国街道)が合流し、琵琶湖の水運が盛んだったころは、水陸の両方から京都に至るという東国と西国の結節地点でした。

戦略的にも重要だったため、古くは672年の壬申の乱、1570年の姉川の合戦、1583年の賤ヶ岳の合戦に、1600年の関ヶ原の合戦がこの彦根の周辺で行われたということで、徳川家康も京都に近い重要な場所に井伊直政を置いて城を築かせたのですね。

3-3.彦根城の築城は最初は天下普請

1603年、平山城である彦根城の築城が開始されました。築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12~15大名が携わった天下普請で、1606年には2期までの工事が完了、同年の天守完成と同じ頃、直継が入城しました。

その後、大坂夏の陣後の1616年からは彦根藩の手で第3期工事が開始、御殿などが建造されて1622年、約20年かかってすべての工事が完了して完成。

3-4.彦根城の全容は

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彦根城の別名金亀城は、彦根城築城以前、彦根山上にあった寺院に金の亀に乗った観音像が安置されていたことからといわれます。

城の形式は連郭式平山城で、本丸、二の丸、三の丸と北側に山崎曲輪が配置され、殿さまの住居である御殿は二の丸だったそう。本丸に天守、西の丸と山崎曲輪に三重櫓が建てられましたが、山崎曲輪の三重櫓は明治初期に破却されたということ。

また、彦根城の建築物は、一国一城令により、ほかの廃止が決定した近江の城から移築したものが多く、天守は大津城から、佐和口多門櫓は佐和山城から、時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は長浜城から、西ノ丸三重櫓は小谷城からといった具合で、現在では天守は国宝で他の建物も国の重要文化財に。

城の北側には4代藩主直興(なおおき)によって整備された庭園で、別名「槻(けやき)御殿」とも言われる玄宮園と楽々園という大名庭園ものこっていて、「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されています。

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