
5-1、鶴ヶ城(若松城)の逸話
色々な逸話があります
5-2、茶室、麟閣(りんかく)

蒲生氏郷は、利休七哲の筆頭と言われ、千利休の高弟としても有名でした。氏郷は、利休が秀吉に処罰されたときに利休の子千少庵の庇護をしたということで、氏郷は少庵に命じて鶴ヶ城(若松城)本丸の大書院の側に、麟閣という数寄屋を作らせ、会津文化の向上に貢献させたそう。
その後、氏郷は秀吉に千家の再興を願い出て許され、少庵は京都に戻って子孫は表千家、裏千家、武者小路千家と3流派に分かれて現在も続いています。
また麟閣は、戊辰戦争後に市内に移築されていたが、1990年に本丸内の旧跡地に再移築、現在は福島県指定重要文化財に指定されているそうです。
5-3、「荒城の月」のモデル
滝廉太郎作曲、土井晩翠作詞の名曲、「荒城の月」は1874年に取り壊され、荒城となった鶴ヶ城(若松城)を土井晩翠が訪れたときに作られた詩だということで、鶴ヶ城(若松城)の本丸内には「荒城の月碑(こうじょうのつきひ)」が建てられてるということです。
奥州の抑えという重要地に建てられ、幕末に悲劇の舞台となった城
鶴ヶ城(若松城)は、中世からの名門葦名氏の城として古くから存在していましたが、安土桃山時代、秀吉の頃に蒲生氏郷が実質91万石の大大名として領主となって以後、それにふさわしい大きな城が築城されました。
蒲生氏の領主時代は短かったものの、氏郷は城つくりだけでなく、近江商人や松坂商人を招聘して城下町も発展させ、後の江戸時代の会津藩の基礎を築いたのですね。そしてその後は江戸時代にあの名君で3代将軍の異母弟の保科正之が会津松平家の藩祖として鶴ヶ城(若松城)主となり、親藩の松平家が幕末まで続きました。
保科正之は子孫に徳川家の恩を忘れないよう家訓を定め、また名君として幕閣の重鎮の役割以上に会津藩士の育成なども怠らなかったため、会津藩は幕末においても武勇優れた評判が高く、家訓を守れと誠実な養子の藩主容保は京都守護職を務めさせられる羽目となり、藩をあげて一生懸命京都でテロ対策につとめた結果、孝明天皇の絶大な信頼を得たのにもかかわらず、戊辰戦争では立場逆転の朝敵に。新政府軍の恨みがストレートに会津戦争につながり悲劇の城となったのは皮肉としか言いようがないでしょう。復興なった鶴ヶ城は、凛とした美しさとどこか悲し気な姿で様々な物語を伝えてくれています。