
3、鶴ヶ城(若松城)の全容は
1593年、望楼型7重(5重5階地下2階とも)の天守が竣工し「鶴ヶ城」と改名。
城の区域のある台地の西端に主郭があり、内濠をへだてた東側に二ノ丸、三ノ丸が、台地下の北側に北出丸、西側に西出丸、三ノ丸以外の各門は枡形石垣門だったということ。主郭は、天守閣と南と東に伸びる走長屋の多聞櫓で区分けされていて、南東側の居住区域の御殿を配置した本丸があり、その北から西側をL字に取り囲む区域が帯郭。
主郭の虎口は帯郭に接続し、天守閣の下にある鉄門から本丸に至るようになっています。現在の縄張は主郭の東、北、西の三方の虎口(桝形)の外側を馬出で防御しているそう。しかし元々は東西に伸びる舌状台地を堀切で区切った連郭式で、三の丸側が大手つまり正面だったが、後に城下の街道が整備されたときに、城の正面の大手も北側に変更し、防御のために北と西にあった馬出を出丸として拡張したということで、現在の城下町も、主として城の北側に広がっているということです。
近年おこなわれた発掘調査では、蒲生時代の石垣の基底部が確認、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土したそう。
また蒲生家、上杉家時代は連郭式縄張りだったが、加藤明成が西出丸と北出丸をあらたに設け、北西の守りを固め、会津地震で倒壊した天守を層塔型天守に改造されたが、その後、保科正之が入城して一部修築するものの、幕末までほぼそのままの形で使用されたそう。
4-1、鶴ヶ城(若松城)にゆかりの人々
有名な3人をご紹介しますね。
4-2、蒲生氏郷(がもううじさと)
Edo-period artist – http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10059.101.nishiaizu/html/00000-04.html, パブリック・ドメイン, リンクによる
1556年生まれで、近江日野城主で六角氏の重臣だった蒲生賢秀の息子です。幼い頃から人質として織田家で育ち、信長の小姓として仕え、信長はじめいろいろな武将から他の子と違う、賢い、将来すごい武将になると感心された逸話が多くある人でした。元服のときには信長がみずから烏帽子親になり、自分の弾正の忠の字を与えて忠三郎賦秀(ますひで、やすひで)と名乗らせ、自分の婿にすると次女と結婚させたほどの超期待株。
そして父とともに柴田勝家の寄騎となって14歳で初陣を飾り、その後も着々と戦功を挙げました。本能寺の変のときは、信長と信忠自刃の知らせを受けた安土城の留守居役の父とともに、安土城から信長の妻妾や家族を日野城に落ち延びさせてかくまったそう。もちろん父賢秀と氏郷には明智光秀からの誘いも来たが、信長への恩を理由に断固として拒否、光秀は日野城を攻める前に山崎の合戦で敗戦となったのでした。
その後は秀吉に仕えて戦功を挙げ、小牧長久手の合戦で殿を務めた功績で、伊勢松ヶ島12万石に加増転封となり羽柴姓を、紀州征伐、九州征伐、小田原征伐でも戦功を挙げて豊臣姓ももらい、ついに奥州会津をゲット。氏郷はキリシタンの洗礼を受けていたために、会津の領民にも改宗を勧め、会津若松には天子神社という教会跡があり、支城のあった猪苗代にはセミナリオも存在したといわれています。
また氏郷は、農業政策より商業政策を重視したので、旧領の近江商人のふるさと日野と、三重の松阪の商人を若松に招聘したということで、定期市を開設したり、楽市楽座を導入し、手工業を奨励したりと、江戸時代後の会津藩の地場産業の礎を築いたのですね。信長に認められていた期待の武将氏郷は、秀吉にもかなり恐れられていて、上方方面に置くよりもと会津に追いやられたという話もあるそうですが、1592年ころから病気がちとなり、1595年に伏見の屋敷で40歳で死去。息子の秀行が継承したが、家中不穏を理由に宇都宮に転封に。
4-3、保科正之(ほしなまさゆき)
1611年生まれ、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の庶子で、3代将軍家光の異母弟です。正之の母は秀忠の母の侍女でしたが、秀忠が正室お江を異常に恐れたため、正之は生まれてすぐに武田信玄次女の見性院にあずけられ、秀忠はお江生存中は親子対面もせずに、武田家家臣の縁で高遠藩主保科正光の養子として育ちました。
そして成人後に将軍家光が偶然正之の存在を知り、側近として仕えることに。家光は有能で家臣に徹する正之を可愛がって頼りにするようになり、1636年には出羽国山形藩20万石を、1643年には陸奥国会津藩23万石の藩主となり、正之の子孫は松平姓を名乗るようになりました。
正之は家光の遺言で4代将軍家綱の補佐をつとめて幕閣の重鎮として文治政治を推し進め、明暦の大火後、焼失した江戸城天守閣の再建よりも焼け出された江戸庶民の救済が大事としたりと善政をしいて、名君の名をほしいままに。また将軍家の恩を忘れないようにと、「家訓」を制定したことでも有名。1672年12月、江戸三田の藩邸で63歳で死去。
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4-4、松平容保(まつだいらかたもり)
unknown? – “”Aizu Wakamatsu-jo tenshukaku” (Dungeon, Aizu Wakamatsu Castle): Aizu Boshin Senshi: Kuchi-e oyobi chizu” in (日本語) (1933年) 会津戊辰戦史, 東京都 Retrieved on 24 March 2020. ; JPNO id=53010833. Image appears before the table of contents, and to the left of the list of pitures, no page number is shown but Jpeg id (0006.jp2-left) for the spread containing the image is available., パブリック・ドメイン, リンクによる
1836年生まれで、会津藩9代藩主で実質的に最後の藩主です。尾張徳川家の分家の高須松平家の出身で、長兄が尾張藩主徳川慶勝で弟が桑名藩主松平定敬などの高須4兄弟の一人。
容保は12歳で実の叔父の会津藩8代目容敬の養子となり、1852年2月に容敬が死去後、16歳で跡を継いで会津藩主に就任。容保は激動の幕末に主要な働きをしたひとりで、再三ことわったが、藩祖正之の家訓があるだろうと政治総裁職の越前福井藩主松平春嶽らに説得され、家臣たちと悲壮な覚悟の上に京都守護職として藩をあげて京都へ赴任、当時の孝明天皇の絶大な信頼を得て京都の治安維持に尽力しました。が、配下に置いた新選組の活躍もあり、京都で暗躍する長州藩を厳しく取り締まったため、また当時は坂本龍馬暗殺の疑いもあったので、戊辰戦争がぼっ発後は、再三新政府軍に対して降伏するも受け付けられず、会津戦争になり、1カ月の間鶴ヶ城 若松城に籠城して奮戦、数々の悲劇を生んだのちに降伏、容保は明治後は一切のことを語らずに1893年に57歳で死去。
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