今回は鶴ヶ城(若松城)を取り上げるぞ。幕末の会津戦争で有名な城ですが、どんな城だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、鶴ヶ城(若松城)について5分でわかるようにまとめた。

1-1、鶴ヶ城(若松城)とは

鶴鶴ヶ城(若松城)(つるがじょう/わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にある城で国の史跡です。地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれますが、この、鶴にちなんだ名の城が他地方にもあるために地元以外では若松城と呼ばれているそう。

また史料などでは黒川城、または会津城とも呼ばれるこの城について解説していきますね

2-1、鶴ヶ城(若松城)の歴史、もとは葦名氏の居城だった

鶴ヶ城(若松城)、もともとは南北朝時代の1384年に、蘆名氏(あしな)7代目当主の蘆名直盛が、小田垣の館、東黒川館という館を建てたのが始まりということ。諸説あるが、15世紀半ばまでには黒川城(小高木城)とその城下があり、代々蘆名氏の城だったそう。

そして戦国時代中後期には中興の祖と言われる蘆名盛氏が、黒川城を中心にした広大な版図を築いたのですが、1589年、伊達政宗が豊臣秀吉の制止を無視して蘆名氏を滅ぼし黒川城を手に入れました。しかし、政宗は翌年に秀吉に臣従して、会津を召し上げられたので城には手を入れてはいないそう。

2-2、蒲生氏郷が若松城と改名して近世城郭に改造

1590年の奥州仕置で、蒲生氏郷が伊勢から陸奥国会津に42万石(のちに検地と加増によって91万石にアップ)の大大名となり黒川上の城主となりました。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるためと、氏郷が有能すぎて秀吉に遠くへ追いやられたという配置だったのですが、氏郷は1592年から黒川を若松と改め、大大名の城にふさわしい城に改造して、城下町の整備もおこなったということ。

なお、この若松の名は、氏郷の故郷である滋賀県蒲生郡日野村にある蒲生氏の日野城の近くの、氏神神社の参道周辺にあった「若松の社」に由来し、前の知行地の松坂の松も込めているといわれています。

2-3、蒲生家の移封後、上杉家、再び蒲生家、加藤嘉明、そして保科正之が城主に

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1598年、蒲生氏郷死後、12歳で跡を継いだ息子の秀行は相続問題が起きたうえに重臣たちの家中騒動が治められないとされ、92万石から18万石に降格のうえに下野国宇都宮に移封となり、越後国春日山から上杉景勝が120万石で入封

しかし1600年に徳川家康が関ヶ原の戦い後、西軍に加担した景勝を30万石に減封して出羽国米沢に移封。翌年に家康の娘と結婚していたため、蒲生秀行が60万石に復帰して入封したが、1627年、跡を継いだ嫡男忠郷が嗣子がなく没したので忠郷の弟で秀行の次男の忠知が後嗣となって伊予国松山に移封されました。

そして伊予松山から交代に加藤嘉明が入封し、その息子の明成が、西出丸、北出丸などを造築、1611年には会津地震で倒壊した天守を今日の層塔型天守に組みなおさせました。しかし1643年、会津騒動で加藤明成は改易されたため、出羽国山形から3代将軍家光の異母弟の保科正之が23万石で入封し、以後、明治維新まで親藩会津松平家(保科氏から改名)の居城に。

2-4、幕末、会津戦争ののちに解体され、昭和、平成に復元

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1868年、戊辰戦争がぼっ発し、新政府軍は再三戦意のないことをあらわす会津藩に対し攻撃。やむなく会津戦争となり、藩主の松平容保以下、会津藩士は鶴ヶ城若松城に立てこもり、1カ月にわたって新政府軍に包囲され砲撃され、白虎隊など数々の悲劇を生んだ後に最終的に降伏し開城。戦後、天守を含む城の多くの傷んだ建造物の修復は行われず、しばらく放置されて解体。

現在の天守は1965年、鉄筋コンクリート造で外観復興再建されたもので、内部は「若松城天守閣郷土博物館」に。また、2000年に、天守閣に続く建物である干飯櫓、南走長屋が、江戸時代の工法と技術を用いて復元。2010年からは黒瓦の天守の屋根瓦を、保科正之のときに表面に釉薬を施して焼いた強度のある赤瓦に葺き替えた記録にもとづいて、赤瓦葺に復元する工事が行われて、2011年3月に竣工。本丸の御三階櫓も復元される予定だそう。

\次のページで「3、鶴ヶ城(若松城)の全容は」を解説!/

3、鶴ヶ城(若松城)の全容は

1593年、望楼型7重(5重5階地下2階とも)の天守が竣工し「鶴ヶ城」と改名

城の区域のある台地の西端に主郭があり、内濠をへだてた東側に二ノ丸、三ノ丸が、台地下の北側に北出丸、西側に西出丸、三ノ丸以外の各門は枡形石垣門だったということ。主郭は、天守閣と南と東に伸びる走長屋の多聞櫓で区分けされていて、南東側の居住区域の御殿を配置した本丸があり、その北から西側をL字に取り囲む区域が帯郭。

主郭の虎口は帯郭に接続し、天守閣の下にある鉄門から本丸に至るようになっています。現在の縄張は主郭の東、北、西の三方の虎口(桝形)の外側を馬出で防御しているそう。しかし元々は東西に伸びる舌状台地を堀切で区切った連郭式で、三の丸側が大手つまり正面だったが、後に城下の街道が整備されたときに、城の正面の大手も北側に変更し、防御のために北と西にあった馬出を出丸として拡張したということで、現在の城下町も、主として城の北側に広がっているということです。

近年おこなわれた発掘調査では、蒲生時代の石垣の基底部が確認、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土したそう。

また蒲生家、上杉家時代は連郭式縄張りだったが、加藤明成が西出丸と北出丸をあらたに設け、北西の守りを固め、会津地震で倒壊した天守を層塔型天守に改造されたが、その後、保科正之が入城して一部修築するものの、幕末までほぼそのままの形で使用されたそう。

4-1、鶴ヶ城(若松城)にゆかりの人々

有名な3人をご紹介しますね。

4-2、蒲生氏郷(がもううじさと)

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Edo-period artist - http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10059.101.nishiaizu/html/00000-04.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

1556年生まれで、近江日野城主で六角氏の重臣だった蒲生賢秀の息子です。幼い頃から人質として織田家で育ち、信長の小姓として仕え、信長はじめいろいろな武将から他の子と違う、賢い、将来すごい武将になると感心された逸話が多くある人でした。元服のときには信長がみずから烏帽子親になり、自分の弾正の忠の字を与えて忠三郎賦秀(ますひで、やすひで)と名乗らせ、自分の婿にすると次女と結婚させたほどの超期待株。

そして父とともに柴田勝家の寄騎となって14歳で初陣を飾り、その後も着々と戦功を挙げました。本能寺の変のときは、信長と信忠自刃の知らせを受けた安土城の留守居役の父とともに、安土城から信長の妻妾や家族を日野城に落ち延びさせてかくまったそう。もちろん父賢秀と氏郷には明智光秀からの誘いも来たが、信長への恩を理由に断固として拒否、光秀は日野城を攻める前に山崎の合戦で敗戦となったのでした。

その後は秀吉に仕えて戦功を挙げ、小牧長久手の合戦で殿を務めた功績で、伊勢松ヶ島12万石に加増転封となり羽柴姓を、紀州征伐、九州征伐、小田原征伐でも戦功を挙げて豊臣姓ももらい、ついに奥州会津をゲット。氏郷はキリシタンの洗礼を受けていたために、会津の領民にも改宗を勧め、会津若松には天子神社という教会跡があり、支城のあった猪苗代にはセミナリオも存在したといわれています。

また氏郷は、農業政策より商業政策を重視したので、旧領の近江商人のふるさと日野と、三重の松阪の商人を若松に招聘したということで、定期市を開設したり、楽市楽座を導入し、手工業を奨励したりと、江戸時代後の会津藩の地場産業の礎を築いたのですね。信長に認められていた期待の武将氏郷は、秀吉にもかなり恐れられていて、上方方面に置くよりもと会津に追いやられたという話もあるそうですが、1592年ころから病気がちとなり、1595年に伏見の屋敷で40歳で死去。息子の秀行が継承したが、家中不穏を理由に宇都宮に転封に。

4-3、保科正之(ほしなまさゆき)

1611年生まれ、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の庶子で、3代将軍家光の異母弟です。正之の母は秀忠の母の侍女でしたが、秀忠が正室お江を異常に恐れたため、正之は生まれてすぐに武田信玄次女の見性院にあずけられ、秀忠はお江生存中は親子対面もせずに、武田家家臣の縁で高遠藩主保科正光の養子として育ちました。

そして成人後に将軍家光が偶然正之の存在を知り、側近として仕えることに。家光は有能で家臣に徹する正之を可愛がって頼りにするようになり、1636年には出羽国山形藩20万石を、1643年には陸奥国会津藩23万石の藩主となり、正之の子孫は松平姓を名乗るようになりました。

正之は家光の遺言で4代将軍家綱の補佐をつとめて幕閣の重鎮として文治政治を推し進め、明暦の大火後、焼失した江戸城天守閣の再建よりも焼け出された江戸庶民の救済が大事としたりと善政をしいて、名君の名をほしいままに。また将軍家の恩を忘れないようにと、「家訓」を制定したことでも有名。1672年12月、江戸三田の藩邸で63歳で死去。

4-4、松平容保(まつだいらかたもり)

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unknown? - ""Aizu Wakamatsu-jo tenshukaku" (Dungeon, Aizu Wakamatsu Castle): Aizu Boshin Senshi: Kuchi-e oyobi chizu" in (日本語) (1933年) 会津戊辰戦史, 東京都 Retrieved on 24 March 2020.  ; JPNO id=53010833. Image appears before the table of contents, and to the left of the list of pitures, no page number is shown but Jpeg id (0006.jp2-left) for the spread containing the image is available., パブリック・ドメイン, リンクによる

1836年生まれで、会津藩9代藩主で実質的に最後の藩主です。尾張徳川家の分家の高須松平家の出身で、長兄が尾張藩主徳川慶勝で弟が桑名藩主松平定敬などの高須4兄弟の一人。

容保は12歳で実の叔父の会津藩8代目容敬の養子となり、1852年2月に容敬が死去後、16歳で跡を継いで会津藩主に就任。容保は激動の幕末に主要な働きをしたひとりで、再三ことわったが、藩祖正之の家訓があるだろうと政治総裁職の越前福井藩主松平春嶽らに説得され、家臣たちと悲壮な覚悟の上に京都守護職として藩をあげて京都へ赴任、当時の孝明天皇の絶大な信頼を得て京都の治安維持に尽力しました。が、配下に置いた新選組の活躍もあり、京都で暗躍する長州藩を厳しく取り締まったため、また当時は坂本龍馬暗殺の疑いもあったので、戊辰戦争がぼっ発後は、再三新政府軍に対して降伏するも受け付けられず、会津戦争になり、1カ月の間鶴ヶ城 若松城に籠城して奮戦、数々の悲劇を生んだのちに降伏、容保は明治後は一切のことを語らずに1893年に57歳で死去。

\次のページで「5-1、鶴ヶ城(若松城)の逸話」を解説!/

5-1、鶴ヶ城(若松城)の逸話

色々な逸話があります

5-2、茶室、麟閣(りんかく)

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蒲生氏郷は、利休七哲の筆頭と言われ、千利休の高弟としても有名でした。氏郷は、利休が秀吉に処罰されたときに利休の子千少庵の庇護をしたということで、氏郷は少庵に命じて鶴ヶ城(若松城)本丸の大書院の側に、麟閣という数寄屋を作らせ、会津文化の向上に貢献させたそう。

その後、氏郷は秀吉に千家の再興を願い出て許され、少庵は京都に戻って子孫は表千家、裏千家、武者小路千家と3流派に分かれて現在も続いています。

また麟閣は、戊辰戦争後に市内に移築されていたが、1990年に本丸内の旧跡地に再移築、現在は福島県指定重要文化財に指定されているそうです。

5-3、「荒城の月」のモデル

滝廉太郎作曲、土井晩翠作詞の名曲、「荒城の月」は1874年に取り壊され、荒城となった鶴ヶ城(若松城)を土井晩翠が訪れたときに作られた詩だということで、鶴ヶ城(若松城)の本丸内には「荒城の月碑(こうじょうのつきひ)」が建てられてるということです。

奥州の抑えという重要地に建てられ、幕末に悲劇の舞台となった城

鶴ヶ城(若松城)は、中世からの名門葦名氏の城として古くから存在していましたが、安土桃山時代、秀吉の頃に蒲生氏郷が実質91万石の大大名として領主となって以後、それにふさわしい大きな城が築城されました。

蒲生氏の領主時代は短かったものの、氏郷は城つくりだけでなく、近江商人や松坂商人を招聘して城下町も発展させ、後の江戸時代の会津藩の基礎を築いたのですね。そしてその後は江戸時代にあの名君で3代将軍の異母弟の保科正之が会津松平家の藩祖として鶴ヶ城(若松城)主となり、親藩の松平家が幕末まで続きました。

保科正之は子孫に徳川家の恩を忘れないよう家訓を定め、また名君として幕閣の重鎮の役割以上に会津藩士の育成なども怠らなかったため、会津藩は幕末においても武勇優れた評判が高く、家訓を守れと誠実な養子の藩主容保は京都守護職を務めさせられる羽目となり、藩をあげて一生懸命京都でテロ対策につとめた結果、孝明天皇の絶大な信頼を得たのにもかかわらず、戊辰戦争では立場逆転の朝敵に。新政府軍の恨みがストレートに会津戦争につながり悲劇の城となったのは皮肉としか言いようがないでしょう。復興なった鶴ヶ城は、凛とした美しさとどこか悲し気な姿で様々な物語を伝えてくれています。

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幕末日本史歴史江戸時代

3分で簡単「鶴ヶ城(若松城)」幕末の会津戦争の舞台となったお城をわかりやすく歴女が解説

今回は鶴ヶ城(若松城)を取り上げるぞ。幕末の会津戦争で有名な城ですが、どんな城だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、鶴ヶ城(若松城)について5分でわかるようにまとめた。

1-1、鶴ヶ城(若松城)とは

鶴鶴ヶ城(若松城)(つるがじょう/わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にある城で国の史跡です。地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれますが、この、鶴にちなんだ名の城が他地方にもあるために地元以外では若松城と呼ばれているそう。

また史料などでは黒川城、または会津城とも呼ばれるこの城について解説していきますね

2-1、鶴ヶ城(若松城)の歴史、もとは葦名氏の居城だった

鶴ヶ城(若松城)、もともとは南北朝時代の1384年に、蘆名氏(あしな)7代目当主の蘆名直盛が、小田垣の館、東黒川館という館を建てたのが始まりということ。諸説あるが、15世紀半ばまでには黒川城(小高木城)とその城下があり、代々蘆名氏の城だったそう。

そして戦国時代中後期には中興の祖と言われる蘆名盛氏が、黒川城を中心にした広大な版図を築いたのですが、1589年、伊達政宗が豊臣秀吉の制止を無視して蘆名氏を滅ぼし黒川城を手に入れました。しかし、政宗は翌年に秀吉に臣従して、会津を召し上げられたので城には手を入れてはいないそう。

2-2、蒲生氏郷が若松城と改名して近世城郭に改造

1590年の奥州仕置で、蒲生氏郷が伊勢から陸奥国会津に42万石(のちに検地と加増によって91万石にアップ)の大大名となり黒川上の城主となりました。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるためと、氏郷が有能すぎて秀吉に遠くへ追いやられたという配置だったのですが、氏郷は1592年から黒川を若松と改め、大大名の城にふさわしい城に改造して、城下町の整備もおこなったということ。

なお、この若松の名は、氏郷の故郷である滋賀県蒲生郡日野村にある蒲生氏の日野城の近くの、氏神神社の参道周辺にあった「若松の社」に由来し、前の知行地の松坂の松も込めているといわれています。

2-3、蒲生家の移封後、上杉家、再び蒲生家、加藤嘉明、そして保科正之が城主に

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1598年、蒲生氏郷死後、12歳で跡を継いだ息子の秀行は相続問題が起きたうえに重臣たちの家中騒動が治められないとされ、92万石から18万石に降格のうえに下野国宇都宮に移封となり、越後国春日山から上杉景勝が120万石で入封

しかし1600年に徳川家康が関ヶ原の戦い後、西軍に加担した景勝を30万石に減封して出羽国米沢に移封。翌年に家康の娘と結婚していたため、蒲生秀行が60万石に復帰して入封したが、1627年、跡を継いだ嫡男忠郷が嗣子がなく没したので忠郷の弟で秀行の次男の忠知が後嗣となって伊予国松山に移封されました。

そして伊予松山から交代に加藤嘉明が入封し、その息子の明成が、西出丸、北出丸などを造築、1611年には会津地震で倒壊した天守を今日の層塔型天守に組みなおさせました。しかし1643年、会津騒動で加藤明成は改易されたため、出羽国山形から3代将軍家光の異母弟の保科正之が23万石で入封し、以後、明治維新まで親藩会津松平家(保科氏から改名)の居城に。

2-4、幕末、会津戦争ののちに解体され、昭和、平成に復元

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1868年、戊辰戦争がぼっ発し、新政府軍は再三戦意のないことをあらわす会津藩に対し攻撃。やむなく会津戦争となり、藩主の松平容保以下、会津藩士は鶴ヶ城若松城に立てこもり、1カ月にわたって新政府軍に包囲され砲撃され、白虎隊など数々の悲劇を生んだ後に最終的に降伏し開城。戦後、天守を含む城の多くの傷んだ建造物の修復は行われず、しばらく放置されて解体。

現在の天守は1965年、鉄筋コンクリート造で外観復興再建されたもので、内部は「若松城天守閣郷土博物館」に。また、2000年に、天守閣に続く建物である干飯櫓、南走長屋が、江戸時代の工法と技術を用いて復元。2010年からは黒瓦の天守の屋根瓦を、保科正之のときに表面に釉薬を施して焼いた強度のある赤瓦に葺き替えた記録にもとづいて、赤瓦葺に復元する工事が行われて、2011年3月に竣工。本丸の御三階櫓も復元される予定だそう。

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