
その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、鶴ヶ城(若松城)とは
- 2-1、鶴ヶ城(若松城)の歴史、もとは葦名氏の居城だった
- 2-2、蒲生氏郷が若松城と改名して近世城郭に改造
- 2-3、蒲生家の移封後、上杉家、再び蒲生家、加藤嘉明、そして保科正之が城主に
- 2-4、幕末、会津戦争ののちに解体され、昭和、平成に復元
- 3、鶴ヶ城(若松城)の全容は
- 4-1、鶴ヶ城(若松城)にゆかりの人々
- 4-2、蒲生氏郷(がもううじさと)
- 4-3、保科正之(ほしなまさゆき)
- 4-4、松平容保(まつだいらかたもり)
- 5-1、鶴ヶ城(若松城)の逸話
- 5-2、茶室、麟閣(りんかく)
- 5-3、「荒城の月」のモデル
- 奥州の抑えという重要地に建てられ、幕末に悲劇の舞台となった城
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、鶴ヶ城(若松城)について5分でわかるようにまとめた。
1-1、鶴ヶ城(若松城)とは
鶴鶴ヶ城(若松城)(つるがじょう/わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にある城で国の史跡です。地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれますが、この、鶴にちなんだ名の城が他地方にもあるために地元以外では若松城と呼ばれているそう。
また史料などでは黒川城、または会津城とも呼ばれるこの城について解説していきますね
2-1、鶴ヶ城(若松城)の歴史、もとは葦名氏の居城だった
鶴ヶ城(若松城)、もともとは南北朝時代の1384年に、蘆名氏(あしな)7代目当主の蘆名直盛が、小田垣の館、東黒川館という館を建てたのが始まりということ。諸説あるが、15世紀半ばまでには黒川城(小高木城)とその城下があり、代々蘆名氏の城だったそう。
そして戦国時代中後期には中興の祖と言われる蘆名盛氏が、黒川城を中心にした広大な版図を築いたのですが、1589年、伊達政宗が豊臣秀吉の制止を無視して蘆名氏を滅ぼし黒川城を手に入れました。しかし、政宗は翌年に秀吉に臣従して、会津を召し上げられたので城には手を入れてはいないそう。
2-2、蒲生氏郷が若松城と改名して近世城郭に改造
1590年の奥州仕置で、蒲生氏郷が伊勢から陸奥国会津に42万石(のちに検地と加増によって91万石にアップ)の大大名となり黒川上の城主となりました。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるためと、氏郷が有能すぎて秀吉に遠くへ追いやられたという配置だったのですが、氏郷は1592年から黒川を若松と改め、大大名の城にふさわしい城に改造して、城下町の整備もおこなったということ。
なお、この若松の名は、氏郷の故郷である滋賀県蒲生郡日野村にある蒲生氏の日野城の近くの、氏神神社の参道周辺にあった「若松の社」に由来し、前の知行地の松坂の松も込めているといわれています。
2-3、蒲生家の移封後、上杉家、再び蒲生家、加藤嘉明、そして保科正之が城主に

1598年、蒲生氏郷死後、12歳で跡を継いだ息子の秀行は相続問題が起きたうえに重臣たちの家中騒動が治められないとされ、92万石から18万石に降格のうえに下野国宇都宮に移封となり、越後国春日山から上杉景勝が120万石で入封。
しかし1600年に徳川家康が関ヶ原の戦い後、西軍に加担した景勝を30万石に減封して出羽国米沢に移封。翌年に家康の娘と結婚していたため、蒲生秀行が60万石に復帰して入封したが、1627年、跡を継いだ嫡男忠郷が嗣子がなく没したので忠郷の弟で秀行の次男の忠知が後嗣となって伊予国松山に移封されました。
そして伊予松山から交代に加藤嘉明が入封し、その息子の明成が、西出丸、北出丸などを造築、1611年には会津地震で倒壊した天守を今日の層塔型天守に組みなおさせました。しかし1643年、会津騒動で加藤明成は改易されたため、出羽国山形から3代将軍家光の異母弟の保科正之が23万石で入封し、以後、明治維新まで親藩会津松平家(保科氏から改名)の居城に。
2-4、幕末、会津戦争ののちに解体され、昭和、平成に復元

1868年、戊辰戦争がぼっ発し、新政府軍は再三戦意のないことをあらわす会津藩に対し攻撃。やむなく会津戦争となり、藩主の松平容保以下、会津藩士は鶴ヶ城若松城に立てこもり、1カ月にわたって新政府軍に包囲され砲撃され、白虎隊など数々の悲劇を生んだ後に最終的に降伏し開城。戦後、天守を含む城の多くの傷んだ建造物の修復は行われず、しばらく放置されて解体。
現在の天守は1965年、鉄筋コンクリート造で外観復興再建されたもので、内部は「若松城天守閣郷土博物館」に。また、2000年に、天守閣に続く建物である干飯櫓、南走長屋が、江戸時代の工法と技術を用いて復元。2010年からは黒瓦の天守の屋根瓦を、保科正之のときに表面に釉薬を施して焼いた強度のある赤瓦に葺き替えた記録にもとづいて、赤瓦葺に復元する工事が行われて、2011年3月に竣工。本丸の御三階櫓も復元される予定だそう。
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