今回は安土城を取り上げるぞ。信長の作った有名な城ですが、どんな城だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、安土城について5分でわかるようにまとめた。

1-1、安土城とは

安土城(あづちじょう)は、織田信長が琵琶湖の東岸にある安土山(現滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)に築城した山城です。わずか10年しか存在しなかったこの安土城について、解説していきますね。

1-2、安土城は織田信長の築城

安土城は、織田信長が天下統一をめざし、それまでの岐阜城から拠点を移すために築いた城です。信長は1560年、桶狭間の戦いで今川義元に勝利、1567年には斎藤氏の稲葉城を攻め落として岐阜城と改めて美濃を平定し、翌年には尾張国を統一。

そして足利義昭を奉じて上洛、15代将軍に就任させたのち、近江北部と越前の浅井朝倉軍、武田信玄らに信長包囲網で危うい目に遭いましたが、浅井、朝倉氏を滅ぼし、足利義昭を追放、長篠合戦で武田勝頼を破りと、信長は天下統一にむかい西日本に目を向け、実際に秀吉を中国征伐に派遣していたころでした。そういうわけで信長は、家督と共に岐阜城を嫡男信忠に譲り、拠点を安土に移したのですね。

1-3、安土の場所を選んだ理由は

image by PIXTA / 55246826

このとき信長は43歳でしたが、岐阜城と改めた後に掲げた、「天下布武」のスローガンで天下統一を視野に入れていることを天下に示していたし、実際、安土城を築城する数年前から琵琶湖のほとりに坂本城や長浜城、大溝城などの城を築かせ、明智光秀や羽柴秀吉らの家臣たちに任せていたこともあって、これらの支城からも船で行き来できる安土城は都合がよかったのです。

これは今と違って当時の琵琶湖で水運が活発に行われていたことからで、現在の安土山は琵琶湖から数キロ離れていますが、信長の築城当時は三方を琵琶湖の内湖(琵琶湖の近くの琵琶湖から切り離されるようにしてできた湖のことで、近代に干拓されてなくなった)に囲まれていて、城からすぐに琵琶湖に出ることができたそう。

また安土は、当時の日本の中心だった京都に近く、北陸街道から京都への要衝という利便性があったので、当時信長が直面していた越前、加賀の一向一揆への備えや、越後の上杉謙信への警戒のためにも好都合な場所だったのですね。

そしてそのような要衝の地に大きな城を建てることは、信長の天下統一の象徴として示すことにもなったそう。

\次のページで「1-4、安土城築城に携わったのは」を解説!/

1-4、安土城築城に携わったのは

1576年 1月、信長は総普請奉行に丹羽長秀を任命して安土山に築城を開始

そのほか普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行は、羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一だったということで、3年後に完成

1-5、安土城の全容は

安土城は、標高199メートルの安土山に築かれ、山頂に約32メートルの天主がそびえたち、本丸、二の丸、三の丸が配置という自然の地形をいかした縄張りです。安土山麓から天主にいくためには、約180メートルの長さの大手道を通りますが、すべて石段でつくられ、まっすぐ伸びているのが特徴。安土城中枢部への入り口の黒金門跡周辺は、特に巨石が使用され、枡形の出入口(虎口)を抜けた後は左右どちらにも道があり、侵入者をここで防げる構造ということ。

そして安土城の山麓には家臣たちの屋敷があったことが発掘調査によって明らかに。屋敷は城の大手道の両側にあって、羽柴秀吉、前田利家と伝わる屋敷が残り、安土山の中腹には、信長の嫡子織田信忠、側近の武井夕庵(たけいせきあん)、森成利、甥の織田信澄らの屋敷跡の石碑があるということで、山頂の天主の信長の護衛のためにもなっていたということです。

2-1、安土城の特徴

安土城.jpg
投稿者がファイル作成 - ブレイズマン 08:56, 14 March 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

安土城は現在は礎石や発掘調査、少ない文献などでほとんど不明のことが多いのですが、そのなかでも、さすが織田信長の城というユニークなところをご紹介しますね。

2-2、豪華絢爛な天主に住んだ信長

安土城が、これまでの城と大きく異なるのは豪華絢爛な天主を持っていることです。また、近代城郭では「天守」と表記されることが多いのですが、安土城の場合は信長の家臣の太田牛一(おおだぎゅういち)が「信長公記」で「天主」と表記していたからだそう。

天主は城の中核をなしている建造物で、通常の天守は日常的な居住空間としては使用せず、有事の際の利用が通例なのに、「ルイス・フロイスの日本史」などからも、信長は天主に住んで生活していたということ。安土城の天主は、「望楼型」というタイプで、天主の上層と下層の建物の形が異なっていて入母屋造りの建物の上に望楼の物見櫓を乗せたスタイルで、5層7階(地上6階、地下1階)、八角形の望楼に金箔が施された瓦を使用してあり、最上階は、室内が金色で狩野永徳の金碧障壁画が飾られていて、5階は天井や柱がすべて朱塗り、5階は地下1階からの吹き抜けの空間があり、茶座席なども設けられ、下層の内部は黒漆塗りだったそう。

外観についても宣教師ルイス・フロイスが「ヨーロッパにもない」と驚嘆したと伝えられるほどで、その後の日本の近代城郭に大きな影響を与えました。

2-3、中央の礎石の代わりに宝塔があった

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日本建築では、天守閣などの高層の木造建築を建てる場合、中央に心柱を立てるものですが、安土城天主の礎石は他の礎石はすべて現存しているのに、中央部の1つが欠けているということです。発掘調査では、中央の穴に礎石がなく、穴からは焼け落ちた天主の一部と思われる炭と、壺のかけらのような破片が出土。穴の上には仏教の宝塔がまつられ、穴には舎利容器である壺が入っていたのではと推測されているそう。

信長と言えば、無宗教で信仰心がない合理的な印象がありますが、この礎石の一部に、絵画、後述する菩提寺の摠見寺(そうけんじ)の存在などと、安土城には意外にも宗教的要素が多く見られるということです。

\次のページで「2-4、城郭中枢部にお寺がある」を解説!/

2-4、城郭中枢部にお寺がある

安土城の天主台南西の百々橋口付近には、菩提寺の摠見寺が建立されています。城の中には、持仏堂や戦死者を弔う小堂などがあるのは珍しくないのですが、堂塔伽藍を備えたれっきとした寺院が建てられているのは、安土城だけだそう。

しかも城郭の隅っこではなくて、通常の城の出入り口からの通り道が境内となっているので、この入口から入った者は、摠見寺の境内を通り抜けなければ城に到達しないという場所にあるということです。

2-5、発見されない蛇石

「信長公記」によれば、当時信長の武将で築城も担当していた羽柴秀吉が、観音寺山と長命寺山の谷から大勢の人足を集めて大石を引き出し、石を引くための掛け声や歌声が天地にこだましていたと記述されているのですが、このなかでも巨石だったという「蛇石」は、10メートルあまりで約112トンあり、安土山に引き上げる途中で綱が切れて蛇石は横滑りし、人足150人あまりが挽き潰された逸話まであります。

が、この蛇石は、その後安土山頂まで引き上げられたということなのに、現在までに何度も発掘調査がされたが、いまだに未発見ということ。

2-6、日本初の天守閣と石垣と城下町

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これまでの山城では土塁だったが、この頃には石垣を積むのが流行し、その石垣を見せつけることで石積みの技術の高さ、城主の権威、富をあらわしていたということで、この安土城は日本の城つくり史上初の総石垣でつくられ、石垣のうえに天守を築いた初の城なのですね。

この安土城築城の築城技術が、その後、秀吉や家康をはじめとする安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将の築いた城にもちいられるようになり、その後日本国中に築城された近世城郭の模範に。この安土城の石垣を手がけた近江の琵琶湖西岸にある穴太(あのう、現滋賀県大津市)に住む石垣職人の穴太衆が、一躍有名となって、その後の全国で築かれた城の石垣普請に携わるようになり、石垣を使った城が主流になりました。

そして信長は、築城と同時に安土に城下町建設を開始、楽市楽座を設けて、町人の課役を免除し、商人たちへ安土の通行を義務づけ、国中の馬の売買を安土でおこなうようにするなどして、安土城だけでなく城下町の発展をたすけたということで、安土周辺の豊浦、常楽寺の湖岸一帯は琵琶湖水運の交通の要衝として繁栄しました。

2-7、安土城に天皇を迎えるつもりだった

「信長公記」には、安土城の屋敷の中に「御幸の間」「皇居の間」があったという記述があり、公家の山科言継卿記には「来年は天皇が安土へ行幸する予定」と書かれた言継の娘の手紙が記録されているそう。

また、安土城跡からは菊の紋章がついた瓦が発掘されていること、城のつくりも武家屋敷の建築物としては、礎石と柱との間隔が非常に長く、公卿屋敷を意識してあるのではということ、また、調査で建物を復元した結果、建物はコの字型になっていて、清涼殿と共通するということもあり、安土城の本丸御殿は天皇(当時は正親町天皇)を迎えるためにつくられたのではないかという推測がされているということです。

 

2-8、城特有の防御施設が少ない

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通常、日本の城では城内を巡る道は、敵の侵入をふせぐため、細く曲がりくねっていたり、籠城用の武者走り、石落とし、籠城したときのために井戸なども多く作られるものですが、安土城は大手門からの道が幅6メートルもあって広く、約180メートルも直線の道が続き、井戸や武者走り、石落としといった設備も極端に少ないということで、安土城は軍事施設としての防衛機能よりも、政治をおこなう政庁としての機能を優先させたのではといわれています。

\次のページで「3-1、安土城のその後」を解説!/

3-1、安土城のその後

京都で本能寺の変がぼっ発したとき、安土城には家臣の蒲生賢秀が留守居役として在城、信長と信忠自害の知らせを受けて、蒲生賢秀と氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子ら家族を安土から移動させて退去したということです。

そして安土城は明智光秀と羽柴秀吉らとの山崎合戦のあとの6月15日に出火し、天主とその周辺の主に本丸が焼失。これは光秀の重臣の明智秀満軍が敗走の際に放火した説と、秀満のあと伊勢国から入った信長の息子の織田信雄軍が秀満の残党を炙り出すために城下に放火して天主に延焼した説と、略奪目的で乱入した野盗または土民放火説落雷による焼失説があるということですが、本能寺の変以降、しばらくの間は織田氏の居城として、信長の嫡孫の三法師秀信が清洲会議の後入城したりと、主に二の丸を使うことが出来たということ。

その後は秀吉の養子の秀次が近江八幡城を築城するために、残った居館などが八幡山城に移築されて城下町もそのまま移転し、安土城は築城からわずか10年で1585年に廃城に

なお現在、城跡は国の特別史跡に指定され、周辺施設には復元された安土城天主上部が原寸大で展示、安土城再現計画もあるそう。

3-2、バチカンに贈られた安土城の屏風が行方不明

信長自らが指図して絵師の狩野永徳に描かせた安土城の金屏風が、宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノに贈られ、ヴァリニャーノが同行した天正遣欧使節の謁見のときに、ヨーロッパのバチカン教皇庁に贈られたのですが、この金屏風はその後の7年間は教皇庁に保存されている記録があるが、行方不明となって現在も捜索中だということ。

この金屏風が発見されれば唯一の安土城の姿をとどめたものとして大発見になるはず。

わずか数年で焼失した信長の築いたユニークな城

安土城は桶狭間合戦の勝利で戦国の世に一躍躍り出た織田信長が、美濃の斎藤、浅井、朝倉、甲斐の武田を破って京都に進出し、畿内から西をめざすために拠点に選んで築いた城でした。

当時の城は合戦で立て籠もるのが目的で居住性は二の次だったのに、信長は安土城に豪華な天主を初めて採用し、それも八角形という誰にもまねできない奇抜なデザインで、内装も朱や金を用い、襖絵なども描かせたりとド派手なものだったよう。そして石垣を用いた城づくりも取り入れたため、石垣作りに堪能な穴太衆は一躍全国で引っ張りだこになったし、琵琶湖を利用して船で他の支城にも行き来できるようになっていたり、それまでの常識にはなかった、城と共存して繁栄する街である城下町もはじめて作ったということで、安土は信長ならではの斬新なアイデア満載のスポットに。

安土城は完成後、わずか数年で本能寺の変で信長が討たれたあと、安土城の天主は焼失して10年で廃城となってしまいましたが、その後の城づくりに多大な影響を与える先進的な城だったのでした。

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安土桃山時代日本史歴史

3分で簡単「安土城」織田信長が作った豪華絢爛な幻の城をわかりやすく歴女が解説

今回は安土城を取り上げるぞ。信長の作った有名な城ですが、どんな城だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、安土城について5分でわかるようにまとめた。

1-1、安土城とは

安土城(あづちじょう)は、織田信長が琵琶湖の東岸にある安土山(現滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)に築城した山城です。わずか10年しか存在しなかったこの安土城について、解説していきますね。

1-2、安土城は織田信長の築城

安土城は、織田信長が天下統一をめざし、それまでの岐阜城から拠点を移すために築いた城です。信長は1560年、桶狭間の戦いで今川義元に勝利、1567年には斎藤氏の稲葉城を攻め落として岐阜城と改めて美濃を平定し、翌年には尾張国を統一。

そして足利義昭を奉じて上洛、15代将軍に就任させたのち、近江北部と越前の浅井朝倉軍、武田信玄らに信長包囲網で危うい目に遭いましたが、浅井、朝倉氏を滅ぼし、足利義昭を追放、長篠合戦で武田勝頼を破りと、信長は天下統一にむかい西日本に目を向け、実際に秀吉を中国征伐に派遣していたころでした。そういうわけで信長は、家督と共に岐阜城を嫡男信忠に譲り、拠点を安土に移したのですね。

1-3、安土の場所を選んだ理由は

image by PIXTA / 55246826

このとき信長は43歳でしたが、岐阜城と改めた後に掲げた、「天下布武」のスローガンで天下統一を視野に入れていることを天下に示していたし、実際、安土城を築城する数年前から琵琶湖のほとりに坂本城や長浜城、大溝城などの城を築かせ、明智光秀や羽柴秀吉らの家臣たちに任せていたこともあって、これらの支城からも船で行き来できる安土城は都合がよかったのです。

これは今と違って当時の琵琶湖で水運が活発に行われていたことからで、現在の安土山は琵琶湖から数キロ離れていますが、信長の築城当時は三方を琵琶湖の内湖(琵琶湖の近くの琵琶湖から切り離されるようにしてできた湖のことで、近代に干拓されてなくなった)に囲まれていて、城からすぐに琵琶湖に出ることができたそう。

また安土は、当時の日本の中心だった京都に近く、北陸街道から京都への要衝という利便性があったので、当時信長が直面していた越前、加賀の一向一揆への備えや、越後の上杉謙信への警戒のためにも好都合な場所だったのですね。

そしてそのような要衝の地に大きな城を建てることは、信長の天下統一の象徴として示すことにもなったそう。

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