
2-9、関ヶ原前哨戦で落城
家康は翌年の1600年6月には、諸大名を率いて会津征伐に向かい、小山評定で諸大名の意見をまとめ、打倒石田三成で関ヶ原の合戦へ。
この間、小早川秀秋、島津義弘連合軍が、家康の家臣の鳥居元忠が城代となり、松平家忠、近正、内藤家長ら1800の兵で守っていた伏見城を4万の兵で攻撃。伏見城は8月1日炎上して落城。このときに石田三成は城内の建物をことごとく焼き払ったということで、秀吉の建てた主要建築はすべて焼失しました。
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2-10、3城目は徳川家康が再建
徳川家康は関ヶ原合戦の勝利の翌年1601年3月に伏見城に入城し、1602年6月、城つくりの名人の藤堂高虎が普請奉行に起用されて再建開始。
縄張りは木幡山伏見城を踏襲したが、弾正丸、大蔵丸、得善丸、御花畑山荘と呼ばれる北西部の曲輪群とそのまわりの堀は放棄されたということです。そしてその年末頃にほぼ再建されたので家康は伏見城に帰城。そして大坂城下の屋敷から大名たちも伏見城下に戻ったが、関ヶ原の戦い直後に城下町は焼き払われていたので、その跡地に大名屋敷が与えられたそう。
2-11、家康、伏見城で征夷大将軍宣下を受ける
伏見城再建の翌年1603年に家康は、伏見城で征夷大将軍の宣下を受けました。
家康は征夷大将軍就任後、江戸城と伏見城を行き来し、伏見にいることが多かったそう。また以後、2代将軍秀忠、3代家光までが伏見城で将軍宣下式を行ったということです。また家康は1605年3月に伏見城で朝鮮使節と会見して、文禄、慶長の役で関係悪化した朝鮮と和議を成立。同年、伏見城の御殿建設にともなって家康は本丸から西の丸に移って、これまた再建された二条城に移ったということですが、新御殿では2代将軍秀忠の将軍宣下の儀式がおこなわれたそう。
その後も伏見城再建の工事は続けられたが、駿府城の改築で翌年頃には伏見城の工事は停止となり、器材や屋敷も駿府城へ移動。家康が駿府城へ移った後は松平定勝が城代となり、また大番等による在番や定番制に。
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2-12、一国一城令で廃城に
伏見城は大坂の陣後もしばらくは将軍の居館用として利用され続けていたのですが、一国一城令が発令されたため、二条城と伏見城の両方を維持するのは困難ということで、1619年には伏見城の廃城が決定。翌年から城割り(破城、城を壊すこと)が開始されました。
1623年7月、3代将軍家光の将軍宣下が実施されたときは、本丸部分を少し修復しておこなわれたそう。伏見城の天守は二条城に、他の建物などは淀城、福山城などに移築され、伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになったということで、現代での伏見桃山時代の名前の由来にもなり、伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになったそう。
2-13、大正時代に明治天皇陵がつくられた
伏見城跡は、明治時代になると宮内省の御料地とされましたが、明治天皇が崩御後、遺言で明治天皇の伏見桃山陵が、そして皇后の昭憲皇太后桃山東陵がつくられたので、無許可での立ち入り禁止となって伏見城の遺構調査は困難に。
2009年2月に、宮内庁の許可を得て、日本考古学協会が伏見桃山陵の本格的な調査を行ったときに、敷地内に4、5メートルの盛り土がされていることが判明、城郭を記した歴史的文献には存在しないので、未発見の古墳ともいわれているそう。
2-14、戦後、遊園地に模擬天守が建設

1964年、伏見城花畑跡に遊園地の伏見桃山城キャッスルランドが建設されて、園内に洛中洛外図屏風の伏見城を参考にした、5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などの鉄筋コンクリート製の模擬天守が、当時の金額で6億円をかけて建築されました。
しかし2003年1月にこの遊園地は経営母体の近鉄のリストラの一環で閉園、模擬天守は京都市民の運動で伏見のシンボルとして保存されることになって、京都市に贈与され、敷地も伏見桃山城運動公園として整備されたということ。ただし模擬天守は耐震基準を満たしていないために内部非公開だそう。
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