今回は伏見城を取り上げるぞ。秀吉はたくさん城を作ったがこの城についても、どんな城だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、伏見城について5分でわかるようにまとめた。

1、伏見城(ふしみじょう)とは

現在の京都市伏見区桃山地区にあった城で、豊臣秀吉が隠居城として築城したが一度地震で倒壊してのち、別の場所に建てられ、秀吉の死後は徳川家康が使用していました。現在建っているのは遊園地として太平洋戦争後に建てられた鉄筋コンクリートの伏見桃山城で別物です。ここでは伏見城について色々とご紹介していきます。

2-1、伏見城は3度築城

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狩野光信 - 1. Shouzou.com [1], Kōdai-ji temple warehouse, Kyoto, Japan, パブリック・ドメイン, リンクによる

伏見城はじつは3度にわたって築城され、最初と2度目は豊臣秀吉3度目は徳川家康による築城です。最初は指月伏見城(しげつ、現京都市伏見区桃山町泰長老あたり)、次が木幡山伏見城、3度目は2度目の城の再建で、それぞれをご紹介していきますね。

2-2、最初は指月伏見城、秀吉の隠居屋敷

伏見城の原形は、豊臣秀吉が1591年、関白の位と京都の政庁の聚楽第を甥で継承者の豊臣秀次に譲った際に、隠居所として伏見の地に築いた屋敷です。

この指月(しげつ)は、巨椋池(おぐらいけ、現在は干拓されて姿を消した)に近く、平安時代から観月の名所と知られていたところで、建築マニアの秀吉がこの付近を散策して場所を決めて着工したそう。秀吉は利休好みの嗜好でとか、文禄の役で名護屋在陣中から指示していたということ。

そしてこの隠居屋敷は、伊達政宗と対面したり、徳川家康、前田利家とのお茶会があったりという記録から、1593年9月には完成。その後、明国との講和交渉が起こり、明の使節を迎える施設が必要になったためと、秀頼が生まれたので秀頼に大坂城を与えるなどと予定が変更され、秀吉自身のための城として、伏見の隠居屋敷は大規模な城に改修されることになったそう。

2-3、秀吉、宇治川の流路を変え、大和街道をつくるなど大規模な土木工事も

伏見の桃山地区は京都洛中の南にあり、東山から連なる丘陵の最南端で南には巨椋池が広がっていて、宇治川の水運で大坂と京都とを結ぶ要衝の地だったので、秀吉はこの地に城を築いたのだそうです。

そして秀吉は城だけでなく、1594年10月頃から、宇治川の流路を巨椋池と分離して伏見に導いて、伏見城の外濠とし、城下に大坂に通ずる港を造り、巨椋池に小倉堤を築いて街道を通して新たな大和街道をつくるなど、大規模な土木工事も敢行。宇治橋を移して指月と向島の間に架けて豊後橋としたという言い伝えもあるということで、秀吉は都から大和や伊勢、西国への人の流れをすべて伏見城下に呼びこもうとしたということ。

伏見城は聚楽第と大坂城との間に位置していたので、二元統制を行っていた秀吉には好都合な場所で、そういう目的を果たすために大規模な土木工事もいとわず便利にしていったのですね。

なお、江戸時代には、伏見と大坂を結んだ三十石船が往来して伏見港は水上交通の中継地として賑わうようになり、幕末に有名になった寺田屋のような船宿も出来、角倉了以(すみのくらりょうい)らが高瀬川開削工事を行ったこともあって、京都、伏見間の物資輸送に伏見港は大きな役割を果たしたそう。

2-4、指月城の全容は

指月城の築城は1594年に本格的に開始されました。普請奉行は佐久間政実で、石垣などの石は讃岐国の小豆島産を、木材は土佐国や出羽国から調達されて、同年4月に淀城から天守と櫓を移建して10月には殿舎が完成。翌年に秀次切腹事件が起きて7月に聚楽第が破却されたので、聚楽第から建物が移築されて、宇治川の対岸の向島に伏見城の支城、向島城が築城。

そして築城開始から2年後の1594年に秀吉や北政所寧々らが入城して、さらにその2年後の1596年に完成したのですね。また、1594年末からは伏見の城下町の整備も行われ、秀吉の家臣団や大名屋敷も建設されたということ。

\次のページで「2-5、慶長伏見地震で倒壊」を解説!/

向島城(むこうじま)とは

巨椋池に浮かぶ水城で、秀吉が月見用の城として築いた城です。慶長伏見大地震で伏見城が倒壊後、秀吉は木幡山城が完成するまで、この城を仮の住まいとしたということで、秀吉の死後は徳川家康が一時的な居城に。なお、関ケ原の戦い後に家康が伏見城を再建後、向島城は廃城となったので、廃材は東本願寺伏見別院の建立に寄付されたそう。現在城址は宅地化されていて、本丸町、二ノ丸町などの地名が残るのみ。

2-5、慶長伏見地震で倒壊

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小倉商事 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

1596年閏7月12日、慶長伏見地震がぼっ発。このころの機内では大小の地震が頻発していたので、秀吉も「なまつ大事」と、伏見城の地震対策をおこなっていたが、大地震で完成したばかりの天守の上二層が倒壊、「当代記」によれば女﨟73名、中居500名が死亡する大惨事となったということで、秀吉と北政所寧々は伏見城にいたが無事。夜が明けて指月伏見城から北東約1キロのところにある高台の木幡山に仮の小屋を造って、秀吉らは避難生活を送ったということで、この地に次の木幡山伏見城が建てられることに。なおこの災害のため、10月27日には「慶長」に改元。

ということで、崩壊したのちに新たに別の場所に築城されたために、指月城の縄張りや城についての詳しいことは不明です。また、伏見城築城工事の動員数が、指月の面積に対して多すぎるとか、発掘調査でも丘陵の北側に堀が検出されず防備が弱い、当時の文献では「指月」と呼んだのが1例しかないなどで、伏見城は当初から木幡山一帯を主体としていたのではという説もあるそう。しかし最近、従来指月城があったといわれる場所から、秀吉時代のものと思われる石垣が発掘されたので、指月城は現在の指月の地にあった説が有力に。

2-6、2番目は、木幡山城(こはたやま)

指月伏見城は大地震で倒壊したが、幸い火災が起こらなかったということで、新しい櫓や殿舎の木材などは再利用可能な状態だったため、地震の2日後の閏7月には木幡山城の築城に着手し、10月には完成したということ。

しかし城つくりには大規模な土木工事で土台作りが不可欠なのに、木幡山城の完成ははやすぎるということで、木幡山城の築城は地震後に着手されたのではなく、それ以前にすでに木幡山移転計画があってすでに工事がすでに始まっていたのではといわれています。また地震の時に明国使節を迎えていたために、豊臣政権の威信がかかっていたという説も。

2-7、木幡山城の全容は

木幡山城は標高約105メートルの木幡山丘陵一帯にわたって建てられていて、1597年5月には天守閣と殿舎、10月には茶亭が完成。

完成した木幡山伏見城本丸部分は、東西約200メートル、南北約300メートルの長方形で、本丸西側には、側室淀殿の住む二の丸(西の丸)があり、北東側には側室松の丸殿の住む松の丸が、東側には名護屋丸、南側には四の丸(増田丸)、更に二の丸の南西側には、側室三の丸殿の住む三の丸、その北西側に治部少丸(石田三成丸)を配し、その南側に大手門があったと推定されていて、治部少丸の間際まであったという内堀は、現在は部分的に「治部池」として残っているそう。

また城南東部に山里丸、茶亭学問所があり、その先に宇治川とつながる舟入場があったということで、南方は宇治川で守られている一方で、北方の防御のために堀と防塁を設けたのですね。

堀は現在も濠川として残り、土塁はほとんど破壊されたが、伏見区深草丹下の宗春寺境内に残存。また、秀吉が築城した名護屋城の縄張りに似ているといわれています。

秀吉は1597年5月、天守閣完成の頃に移り、大坂城と伏見城を行き来し、晩年は伏見城で過ごすことが多くなった、といってもその翌年の8月に伏見城で死去。

2-8、秀吉没後の伏見城は家康が居城に

秀吉の死後、遺言で息子の秀頼と母淀殿は1599年正月に伏見城から大坂城に移ったため、大名たちも大坂屋敷へ移動しました。

が、五大老の一人である前田利家が同年3月3日に病死したのちに、家康は石田三成を同年3月10日に佐和山城へ追放して、留守居役として伏見城で政務をとるように。しかし家康も同年9月には大坂城に移ったため、伏見の大名屋敷のほとんどが大坂に移り、伏見城の城下町は荒廃したということです。

\次のページで「2-9、関ヶ原前哨戦で落城」を解説!/

2-9、関ヶ原前哨戦で落城

家康は翌年の1600年6月には、諸大名を率いて会津征伐に向かい、小山評定で諸大名の意見をまとめ、打倒石田三成で関ヶ原の合戦へ。

この間、小早川秀秋、島津義弘連合軍が、家康の家臣の鳥居元忠が城代となり、松平家忠、近正、内藤家長ら1800の兵で守っていた伏見城を4万の兵で攻撃。伏見城は8月1日炎上して落城。このときに石田三成は城内の建物をことごとく焼き払ったということで、秀吉の建てた主要建築はすべて焼失しました。

2-10、3城目は徳川家康が再建

徳川家康は関ヶ原合戦の勝利の翌年1601年3月に伏見城に入城し、1602年6月、城つくりの名人の藤堂高虎が普請奉行に起用されて再建開始

縄張りは木幡山伏見城を踏襲したが、弾正丸、大蔵丸、得善丸、御花畑山荘と呼ばれる北西部の曲輪群とそのまわりの堀は放棄されたということです。そしてその年末頃にほぼ再建されたので家康は伏見城に帰城。そして大坂城下の屋敷から大名たちも伏見城下に戻ったが、関ヶ原の戦い直後に城下町は焼き払われていたので、その跡地に大名屋敷が与えられたそう。

2-11、家康、伏見城で征夷大将軍宣下を受ける

伏見城再建の翌年1603年に家康は、伏見城で征夷大将軍の宣下を受けました。

家康は征夷大将軍就任後、江戸城と伏見城を行き来し、伏見にいることが多かったそう。また以後、2代将軍秀忠、3代家光までが伏見城で将軍宣下式を行ったということです。また家康は1605年3月に伏見城で朝鮮使節と会見して、文禄、慶長の役で関係悪化した朝鮮と和議を成立。同年、伏見城の御殿建設にともなって家康は本丸から西の丸に移って、これまた再建された二条城に移ったということですが、新御殿では2代将軍秀忠の将軍宣下の儀式がおこなわれたそう。

その後も伏見城再建の工事は続けられたが、駿府城の改築で翌年頃には伏見城の工事は停止となり、器材や屋敷も駿府城へ移動。家康が駿府城へ移った後は松平定勝が城代となり、また大番等による在番や定番制に。

2-12、一国一城令で廃城に

伏見城は大坂の陣後もしばらくは将軍の居館用として利用され続けていたのですが、一国一城令が発令されたため、二条城と伏見城の両方を維持するのは困難ということで、1619年には伏見城の廃城が決定。翌年から城割り(破城、城を壊すこと)が開始されました。

1623年7月、3代将軍家光の将軍宣下が実施されたときは、本丸部分を少し修復しておこなわれたそう。伏見城の天守は二条城に、他の建物などは淀城、福山城などに移築され、伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになったということで、現代での伏見桃山時代の名前の由来にもなり、伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになったそう。

2-13、大正時代に明治天皇陵がつくられた

伏見城跡は、明治時代になると宮内省の御料地とされましたが、明治天皇が崩御後、遺言で明治天皇の伏見桃山陵が、そして皇后の昭憲皇太后桃山東陵がつくられたので、無許可での立ち入り禁止となって伏見城の遺構調査は困難に。

2009年2月に、宮内庁の許可を得て、日本考古学協会が伏見桃山陵の本格的な調査を行ったときに、敷地内に4、5メートルの盛り土がされていることが判明、城郭を記した歴史的文献には存在しないので、未発見の古墳ともいわれているそう。

2-14、戦後、遊園地に模擬天守が建設

image by PIXTA / 63722470

1964年、伏見城花畑跡に遊園地の伏見桃山城キャッスルランドが建設されて、園内に洛中洛外図屏風の伏見城を参考にした、5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などの鉄筋コンクリート製の模擬天守が、当時の金額で6億円をかけて建築されました。

しかし2003年1月にこの遊園地は経営母体の近鉄のリストラの一環で閉園、模擬天守は京都市民の運動で伏見のシンボルとして保存されることになって、京都市に贈与され、敷地も伏見桃山城運動公園として整備されたということ。ただし模擬天守は耐震基準を満たしていないために内部非公開だそう。

\次のページで「3-1、伏見城の逸話」を解説!/

3-1、伏見城の逸話

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投稿者が撮影 - ブレイズマン (talk) 08:53, 28 April 2010 (UTC), CC 表示 3.0, リンクによる

色々な逸話があります。

3-2、地震加藤

慶長伏見大地震が起こったとき、加藤清正は石田三成の讒言で秀吉の怒りを買って閉門中だったのですが、一番に豊臣秀吉のいる伏見城へ駆けつけて、庭先に避難していた秀吉と北政所寧々を安心させ、閉門を解かれるという、歌舞伎とか講談にもなり、戦前の教科書にも載っていたという話が有名です。

しかし地震発生の2日後の日付の清正自身の書状が残っていて、この地震について領国に伝えているのですが、秀吉一家の無事とともに、自分は伏見の屋敷がまだ完成していなかったので被害をまぬがれたと記され、京都から胡麻を取り寄せる予定もあったそうで、清正は地震発生時には伏見や京都におらず、おそらくは大坂の屋敷に滞在していたので、この逸話は事実ではないとされています。

 

3-3、血天井

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常楽寺, パブリック・ドメイン, リンクによる

関ヶ原の戦いの際、家康は伏見城が捨て石になることを承知で、家臣で子供の頃からの側近の鳥居元忠らに伏見城を守らせたということ。

そして彼らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都の養源院や正伝寺などで、天井板として再利用されたと言い伝えがあり、血天井として有名になっています。しかし伏見城は戦いで焼失したために家康の家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録、お寺の天井に移築したということを裏付ける資料はないということです。正伝寺の天井板は科学的調査がされたことがあり、人血であることは確認できなかったが、血液型は数種検出されたというのですが。

秀吉の隠居所として建てられ、家康も利用し再建した城

伏見城は豊臣秀吉が甥の秀次に関白と聚楽第を譲った後、最初は隠居所として想定して建てられました。しかし予想外に息子秀頼が誕生したために、秀吉の当初の構想が狂い、大坂城は秀頼のものにし、跡継ぎとした秀次を排除したあとに聚楽第を破却するなどで伏見城の規模も豪華なものとなったのですね。

秀吉は天下統一したうえに金山や銀山も持っていたため財政豊富で建築マニアでもあったので、大坂城に聚楽第、そして伏見城と次々と建てられたのでしょう。また土木工事も行って、伏見と大坂を水運で結ぶことまでやってのけ、慶長伏見大地震で最初の指月城の倒壊後、別の場所に建てるというぜいたくさ。秀吉の死去後は家康が伏見城を使うようになったので、関ヶ原前哨戦では西軍に攻撃されて落城、焼失しましたが、家康がまた再建して征夷大将軍の儀式を行ったということ。

江戸時代には廃城となり桃が植えられたため、伏見城があった時代も安土桃山時代といわれるようになりましたが、明治天皇陵がつくられて立ち入り禁止となり、現在は学術調査もむずかしく遊園地の模擬天守をみて往事をしのぶことに。

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安土桃山時代日本史歴史

3分で簡単「伏見城」秀吉が作った京都伏見の隠居城をわかりやすく歴女が解説

今回は伏見城を取り上げるぞ。秀吉はたくさん城を作ったがこの城についても、どんな城だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、伏見城について5分でわかるようにまとめた。

1、伏見城(ふしみじょう)とは

現在の京都市伏見区桃山地区にあった城で、豊臣秀吉が隠居城として築城したが一度地震で倒壊してのち、別の場所に建てられ、秀吉の死後は徳川家康が使用していました。現在建っているのは遊園地として太平洋戦争後に建てられた鉄筋コンクリートの伏見桃山城で別物です。ここでは伏見城について色々とご紹介していきます。

2-1、伏見城は3度築城

Toyotomi Hideyoshi (Kodaiji).jpg
狩野光信 – 1. Shouzou.com [1], Kōdai-ji temple warehouse, Kyoto, Japan, パブリック・ドメイン, リンクによる

伏見城はじつは3度にわたって築城され、最初と2度目は豊臣秀吉3度目は徳川家康による築城です。最初は指月伏見城(しげつ、現京都市伏見区桃山町泰長老あたり)、次が木幡山伏見城、3度目は2度目の城の再建で、それぞれをご紹介していきますね。

2-2、最初は指月伏見城、秀吉の隠居屋敷

伏見城の原形は、豊臣秀吉が1591年、関白の位と京都の政庁の聚楽第を甥で継承者の豊臣秀次に譲った際に、隠居所として伏見の地に築いた屋敷です。

この指月(しげつ)は、巨椋池(おぐらいけ、現在は干拓されて姿を消した)に近く、平安時代から観月の名所と知られていたところで、建築マニアの秀吉がこの付近を散策して場所を決めて着工したそう。秀吉は利休好みの嗜好でとか、文禄の役で名護屋在陣中から指示していたということ。

そしてこの隠居屋敷は、伊達政宗と対面したり、徳川家康、前田利家とのお茶会があったりという記録から、1593年9月には完成。その後、明国との講和交渉が起こり、明の使節を迎える施設が必要になったためと、秀頼が生まれたので秀頼に大坂城を与えるなどと予定が変更され、秀吉自身のための城として、伏見の隠居屋敷は大規模な城に改修されることになったそう。

2-3、秀吉、宇治川の流路を変え、大和街道をつくるなど大規模な土木工事も

伏見の桃山地区は京都洛中の南にあり、東山から連なる丘陵の最南端で南には巨椋池が広がっていて、宇治川の水運で大坂と京都とを結ぶ要衝の地だったので、秀吉はこの地に城を築いたのだそうです。

そして秀吉は城だけでなく、1594年10月頃から、宇治川の流路を巨椋池と分離して伏見に導いて、伏見城の外濠とし、城下に大坂に通ずる港を造り、巨椋池に小倉堤を築いて街道を通して新たな大和街道をつくるなど、大規模な土木工事も敢行。宇治橋を移して指月と向島の間に架けて豊後橋としたという言い伝えもあるということで、秀吉は都から大和や伊勢、西国への人の流れをすべて伏見城下に呼びこもうとしたということ。

伏見城は聚楽第と大坂城との間に位置していたので、二元統制を行っていた秀吉には好都合な場所で、そういう目的を果たすために大規模な土木工事もいとわず便利にしていったのですね。

なお、江戸時代には、伏見と大坂を結んだ三十石船が往来して伏見港は水上交通の中継地として賑わうようになり、幕末に有名になった寺田屋のような船宿も出来、角倉了以(すみのくらりょうい)らが高瀬川開削工事を行ったこともあって、京都、伏見間の物資輸送に伏見港は大きな役割を果たしたそう。

2-4、指月城の全容は

指月城の築城は1594年に本格的に開始されました。普請奉行は佐久間政実で、石垣などの石は讃岐国の小豆島産を、木材は土佐国や出羽国から調達されて、同年4月に淀城から天守と櫓を移建して10月には殿舎が完成。翌年に秀次切腹事件が起きて7月に聚楽第が破却されたので、聚楽第から建物が移築されて、宇治川の対岸の向島に伏見城の支城、向島城が築城。

そして築城開始から2年後の1594年に秀吉や北政所寧々らが入城して、さらにその2年後の1596年に完成したのですね。また、1594年末からは伏見の城下町の整備も行われ、秀吉の家臣団や大名屋敷も建設されたということ。

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