今回は聚楽第を取り上げるぞ。秀吉が作った京都の豪邸だと思ったが、城だったのか、どんな城だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、聚楽第について5分でわかるようにまとめた。

1-1、聚楽第とは

聚楽第は豊臣秀吉が関白となったときに、政庁を兼ねた邸宅として天正15年(1587年)9月に京都洛中(現京都市上京区)につくられた、いわば秀吉の京都御殿です。天守閣もあったといわれ秀吉の趣味で贅を尽くして建てられた豪華な御殿で、付近には大名たちの屋敷も立ち並んでいたが、わずか8年で取り壊される羽目に。

ここではこの聚楽第について色々解説していきますね。

1-2、聚楽第の意味、読み方は

聚楽第は、聚楽亭、聚楽屋敷、聚楽城、聚楽邸、または聚楽館などとも表記され、また単に「聚楽」だけの文書もあるそうです。そして「聚楽」という名の由来は、「聚楽行幸記」によれば「長生不老の樂(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」、「フロイスの日本史」には「秀吉はこの城を聚楽(juraku)と命名した。それは彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」(松田毅・川崎桃太訳)とあるということで、この秀吉の御殿のほかには「聚楽」という言葉が使われていないため、秀吉の造語ではないかといわれています。

また、読みは現在は「じゅらくだい」といわれますが、他に「じゅらくてい」「じゅらくやしき」といろいろな説あり。「第」は音読みで「てい」、のちの正保年間(1645年から48年)に出版された小瀬甫庵(ほあん)の「太閤記」には「じゅらくてい」とふりがながあり、「聚楽亭(じゅらくてい)」「聚楽と号し里第(りてい)を構へ」ともあるために、当時から「じゅらくてい」という呼び方だったよう。

なお、第は邸宅、里第は公卿の私宅という意味があり、建造中は「内野御構」(うちのおんかまえ)と呼ばれていたということです。

1-3、聚楽第が出来るまで

本能寺の変後、山崎合戦で明智光秀を破り、柴田勝家をほろぼし、織田信雄と徳川家康とも戦い、紀州、四国征伐と着々と天下統一を成し遂げようとしていた秀吉は1583年に本拠地を大坂に定め、天下無双と言われた大坂城を築城し、一方で権大納言の位をもらって公家となり、内大臣にまでなったため、京都に「二条第」という屋敷を構えたということ。

これは妙顕寺を移転させて建てたため「妙顕寺城」ともいわれています。この二条第は周囲には堀をつくり天守閣もそなえていて、聚楽第完成までは秀吉の政庁として使われました。場所は現在の二条城の東(現京都市中京区小川押小路付近)で、「古城(ふるしろ)町」や「下古城(しもふるしろ)町」という地名が現存。

なお、帰国した天正遣欧少年使節を引き連れて聚楽第の秀吉を訪ねた巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、前日に豪華な「秀吉の旧屋敷」に泊ったという記録があるが、それはこの二条第ではないかといわれています。

2-1、聚楽第についてのご紹介

秀吉がなぜ聚楽第をつくったのか、どこにあったのか、形態はなど、いろいろご紹介しますね。

2-2、聚楽第の造成の目的、役割は

image by PIXTA / 50778849

秀吉が聚楽第を造営したのは、のちに徳川家康が征夷大将軍となって幕府を開いたのとちがい、朝廷をバックに豊臣の姓をもらって公家になり、最高位の関白の位を授けられて天下の政治を行うための政庁として必要だった、また室町幕府の3代将軍足利義満が住んだ北山第(現金閣寺)を意識したからともいわれています。

ということで、秀吉は関白に就任した翌年1586年2月に聚楽第の造営に取りかかり、翌年2月には主要な部分は出来上がって秀吉は公家と年賀を祝したということで、その後九州征伐に出陣したために、秀吉の聚楽第への移住は9月になったそう。

このとき、秀吉は関白の北政所で従二位となった寧々と母大政所が聚楽第へ移るために大変に華々しい行列で、北政所寧々が最高の貴婦人であることをアピール、かつ自らの権威を誇りました。そして室町幕府以来150年ぶりに後陽成天皇の行幸という一大セレモニーで、自らの権勢を世に知らしめたのですね。

また、聚楽第では公家たちを招いて連歌会、能見物、茶の湯の会などもおこなわれたようで、年賀、八朔、観月の会など年中行事も催され、朝廷や公家たちとの良好な関係を保つための社交場でもあったということ。

\次のページで「2-3、聚楽第はどこにあったか」を解説!/

2-3、聚楽第はどこにあったか

Jyuraku-tei sekihi 2.jpg
Contributor 投稿者 - Picture taken by the contributor solely for Wikipedia 投稿者が撮影, パブリック・ドメイン, リンクによる

大正時代に京都の各町の沿革、名所旧跡の所在や由来について記録された「京都坊目誌」では、聚楽第のあった範囲は、現在の京都市上京区内で、東西は堀川通から千本通まで、南北は二条通から一条通までといわれています。また文献などによっては聚楽第のあった範囲が異なることがありますが、聚楽第とその周辺が城下町よろしく、外堀と大名屋敷がある区域、城下町の聚楽町という町民の住む区域まであったため、周辺を含めるかどうかで違いがあるのですね。

1589年、秀吉配下の大名たちは在京を義務付けられて、正室を聚楽第城下の屋敷に住まわせたということで、「聚楽古城図」によれば、外郭内に秀吉の弟の豊臣秀長や後の豊臣秀次などの親族、前田利家、黒田孝高、細川忠興、蒲生氏郷、堀秀政などの秀吉が特に信頼する大名の屋敷が、外郭内の北御門近くには千利休の屋敷もあり、堀川通の東にも大名屋敷が広がっていたということです。

なお、聚楽第が建てられたところは、平安時代の大内裏の跡で当時は応仁の乱後ずっと焼け野原だったそう。

2-4、聚楽第は平城で、全容はよくわからないが、豪華絢爛

『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵)
三井文庫蔵 - 1. [1], 2. [2], パブリック・ドメイン, リンクによる

聚楽第は近年になって、やっと発掘調査と諸史料にもとづいた聚楽第の推定復元図が作成されましたが、聚楽第跡地は現在民家の密集地であり、聚楽第跡地での大規模な発掘調査はできないそう。それに正確な図面など史料も残っていないために、聚楽第に関しては、それぞれの建物や配置やなど正確なこと、具体的なことはほとんどわかっていないというのが実情です。

なので、当時の文献とか洛中洛外図から推定せざるを得ないのですが、聚楽第は本丸を中心に、西の丸、南二の丸の曲輪、のちに秀次が増築した北の丸が加わって三つの曲輪があり、堀を巡らせていたため、形態としては平城だったということ。

秀吉の趣味らしく建物には金箔瓦が用いられていて、建築技術の粋を凝らした内装が施され、庭には名木、奇石を並べてあったそう。そして白壁の櫓、天守とおぼしき重層のある建物(天守閣があった説となかった説あり)も、「聚楽第図屏風」や江戸初期の「洛中洛外図」などに描かれているということ。

秀次の家臣駒井重勝の「駒井日記」には、本丸の石垣上の壁の延長は計486間(1間は約1.818 1818メートル)、三つの曲輪も含め、四周に巡らされた柵の延長は計1031間、吉田兼見の「兼見卿記」では、堀の幅は二十間、深さは三間だったとしるされ、「聚楽行幸記」や「聚楽古城図」などには、石のついがきが山のごとく四周を巡っていたとあり、北側は元誓願寺通付近、東側は黒門通付近、南側は下立売通と出水通との中間に築かれていたと考えられ、西側は土屋町通付近と推定されています。

2-5、聚楽第で行われた主な行事

Go-yozei Tenno Juraku-dai Gyoko-zu.jpg
不明 - 堺市博物館蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

1588年、豊臣秀吉が関白に任ぜられたあと、当時の正親町上皇と後陽成天皇、公卿たちを招いて行った天皇行幸は、秀吉が天下人となった権威を示すとともに、その秀吉が臣従する天皇の権威を大々的に宣伝する目的もあったということです。

当日に秀吉が御所までお迎えに行って御所を出た行幸の行列は、天皇の鳳輦が聚楽第に到着しても、最後尾はまだ御所の門を出ていなかったほど。そして天皇を迎えたこの時の宴は、3日間の予定だったが、16歳の後陽成天皇があまりに楽しくてもっといたいと言われたため、さらに2日延長という異例の事態に。また秀吉が子々孫々まで天皇に忠誠を誓うと称して誓紙へ署判を提案し、当時は大納言だった徳川家康、内大臣の信長の息子織田信雄、秀吉の弟で権大納言の豊臣秀長、甥で跡継ぎの豊臣秀次、養子だった宇喜多秀家、前田利家の順で署名をしています。

そして1591年3月には、8年にわたって欧州へ派遣された天正少年使節が帰国後、聚楽第で秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏

それから、秀吉になかなか臣従しなかった徳川家康が、秀吉の妹朝日姫を実質人質に家康へ嫁入りさせ、実母の大政所を娘の見舞いと称して家康の居城へ送ったのち、やっと家康が上洛したときに秀吉が謁見したのが聚楽第ということです。

なお1592年、秀吉から関白職と聚楽第を譲られた甥で当時は継承者とされた豊臣秀次が、秀吉の後を継いだことを世に示すために、後陽成天皇の2度目の行幸を仰いでいます。

2-6、聚楽第破却後の遺構は

Karamon of Daitokuji (119).jpg
Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition - Japanese Temples and their Treasures (The Shimbi Shoin 1915), パブリック・ドメイン, リンクによる

秀吉は長男鶴松の夭折後、1591年に跡継ぎと決定した甥の秀次に関白と聚楽第を譲りましたが、2年後に秀頼が思いがけず誕生したため、聚楽第と秀次の運命が激変。

秀吉は跡を秀頼に譲ることばかり考えて耄碌したのか、1595年、秀次を捕縛し、高野山送りにして出家させさらに切腹にまで追い込んだ事件となりました。そして秀次の妻妾、幼い子供たちを処刑後、さらに逆臣秀次のイメージを強めるためか、秀次が住んでいた聚楽第を徹底的に破壊したと言われています。

しかし聚楽第の建物の多くは、その後秀吉が隠居所として建てた伏見城内へ移築されたそう。また、聚楽第の遺構と認められている建造物は大徳寺の唐門(国宝)だけですが、西本願寺の飛雲閣、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関、山口県萩市常念寺の山門なども、聚楽第から移築されたという伝承が。

ほかにも、智恵光院通出水下ルの京都市出水老人デイサービスセンターの北向かいに、加藤清正が寄贈したと伝えられる庭石が残っているとか、1992年には、ハローワーク西陣(大宮通中立売下ル)の建て替え工事で聚楽第の本丸東堀跡が発掘されて本丸の建物に葺かれていたと思われる金箔瓦約600点が出土し、その後国の重要文化財に指定されたそう。

2-7、聚楽第の跡の町名に名残も

この聚楽第の跡地は、江戸時代は聚楽村と呼ばれる農村だったが、近代以降に市街地化されました。

現在 は「聚楽第址」の石碑が 中立売通大宮西北角の聚楽第本丸東堀跡と、中立売通裏門南西角の聚楽第本丸西堀跡の2箇所にあり、当時の名残が残る町名がつけられたということで、「黒門通」は聚楽第の東門だったくろがねの門にちなんだもの、また「藤五郎町」「如水町」「小寺町」「浮田町(宇喜多)」「中村町」「飛弾殿町」「福島町」「直家(旧なおゑ)町」など秀吉の武将の名や、「北之御門町」「高台院(旧みだい)町」「東堀町」などが現在の町名に残っています。

なお、聚楽第が破壊された後、聚楽第城下町といえる聚楽町の住民たちは、町ごと伏見城下に移転させられたために、現在、京都市伏見区には聚楽町の地名が残り、伏見区内にはほかにも聚楽第ゆかりの朱雀町や神泉苑町の地名もあるということです。

\次のページで「3、秀吉、その後もうひとつ京都屋敷を建てる」を解説!/

3、秀吉、その後もうひとつ京都屋敷を建てる

秀吉は聚楽第を潰したために、御所に参内するために豊臣家の京都屋敷を新設したということで、現在の京都御所のなかの仙洞御所のあるあたりに、京都新城(京都三本木屋敷とも)を建造

これは秀吉が亡くなった後大坂城を出た北政所寧々が居住し、その後、後水尾天皇が退位後の仙洞御所の建築のために取り払われたということですが、ごく最近遺構が発掘されたそう。

秀吉の全盛期、わずか8年の間存在した豪華絢爛な京都市中に建てられた平城

聚楽第は関白となった秀吉が政庁と自分の居城として京都市中に建てた建造物で、金箔の瓦がきらめき、贅をつくして建てられた豪華絢爛な館として有名です。

秀吉は九州征伐の後、ここに住んで政務をおこない、大名たちも登城するために周りに大名屋敷を作らせて大名たちの夫人を住まわせるなど、京都の洛中に実質上秀吉の城下町が出来たのでした。そして秀吉は関白となって日本の支配者となった権威を象徴付けるために、自分以上の権威としての天皇を最大限に利用し、後陽成天皇の聚楽第行幸という一大イベントも行い、公卿たちと茶会や歌会などもおこなったりと、聚楽第の日々はまさに秀吉の絶頂期であったはず。

しかし造営からわずか5年後、秀吉は関白職とともに聚楽第も秀次に譲ったが、思いがけない秀頼の誕生により、秀次を排除し切腹させ、聚楽第もわずか8年であっという間に取り壊され、秀吉の栄華とともにいまだに全貌が明らかになっていない幻の御殿となり消え去ってしまったのでした。

" /> 3分で簡単「聚楽第」秀吉が作った京都の城?造成の目的、役割は?わかりやすく歴女が解説 – ページ 3 – Study-Z
安土桃山時代日本史歴史

3分で簡単「聚楽第」秀吉が作った京都の城?造成の目的、役割は?わかりやすく歴女が解説

3、秀吉、その後もうひとつ京都屋敷を建てる

秀吉は聚楽第を潰したために、御所に参内するために豊臣家の京都屋敷を新設したということで、現在の京都御所のなかの仙洞御所のあるあたりに、京都新城(京都三本木屋敷とも)を建造

これは秀吉が亡くなった後大坂城を出た北政所寧々が居住し、その後、後水尾天皇が退位後の仙洞御所の建築のために取り払われたということですが、ごく最近遺構が発掘されたそう。

秀吉の全盛期、わずか8年の間存在した豪華絢爛な京都市中に建てられた平城

聚楽第は関白となった秀吉が政庁と自分の居城として京都市中に建てた建造物で、金箔の瓦がきらめき、贅をつくして建てられた豪華絢爛な館として有名です。

秀吉は九州征伐の後、ここに住んで政務をおこない、大名たちも登城するために周りに大名屋敷を作らせて大名たちの夫人を住まわせるなど、京都の洛中に実質上秀吉の城下町が出来たのでした。そして秀吉は関白となって日本の支配者となった権威を象徴付けるために、自分以上の権威としての天皇を最大限に利用し、後陽成天皇の聚楽第行幸という一大イベントも行い、公卿たちと茶会や歌会などもおこなったりと、聚楽第の日々はまさに秀吉の絶頂期であったはず。

しかし造営からわずか5年後、秀吉は関白職とともに聚楽第も秀次に譲ったが、思いがけない秀頼の誕生により、秀次を排除し切腹させ、聚楽第もわずか8年であっという間に取り壊され、秀吉の栄華とともにいまだに全貌が明らかになっていない幻の御殿となり消え去ってしまったのでした。

1 2 3
Share: