3、秀吉、その後もうひとつ京都屋敷を建てる
秀吉は聚楽第を潰したために、御所に参内するために豊臣家の京都屋敷を新設したということで、現在の京都御所のなかの仙洞御所のあるあたりに、京都新城(京都三本木屋敷とも)を建造。
これは秀吉が亡くなった後大坂城を出た北政所寧々が居住し、その後、後水尾天皇が退位後の仙洞御所の建築のために取り払われたということですが、ごく最近遺構が発掘されたそう。
秀吉の全盛期、わずか8年の間存在した豪華絢爛な京都市中に建てられた平城
聚楽第は関白となった秀吉が政庁と自分の居城として京都市中に建てた建造物で、金箔の瓦がきらめき、贅をつくして建てられた豪華絢爛な館として有名です。
秀吉は九州征伐の後、ここに住んで政務をおこない、大名たちも登城するために周りに大名屋敷を作らせて大名たちの夫人を住まわせるなど、京都の洛中に実質上秀吉の城下町が出来たのでした。そして秀吉は関白となって日本の支配者となった権威を象徴付けるために、自分以上の権威としての天皇を最大限に利用し、後陽成天皇の聚楽第行幸という一大イベントも行い、公卿たちと茶会や歌会などもおこなったりと、聚楽第の日々はまさに秀吉の絶頂期であったはず。
しかし造営からわずか5年後、秀吉は関白職とともに聚楽第も秀次に譲ったが、思いがけない秀頼の誕生により、秀次を排除し切腹させ、聚楽第もわずか8年であっという間に取り壊され、秀吉の栄華とともにいまだに全貌が明らかになっていない幻の御殿となり消え去ってしまったのでした。