日本史

5分でわかる「聚楽第」秀吉が作った京都の城?造成の目的、役割は?わかりやすく歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は聚楽第を取り上げるぞ。秀吉が作った京都の豪邸だと思ったが、城だったのか、どんな城だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、聚楽第について5分でわかるようにまとめた。

1-1、聚楽第とは

聚楽第は豊臣秀吉が関白となったときに、政庁を兼ねた邸宅として天正15年(1587年)9月に京都洛中(現京都市上京区)につくられた、いわば秀吉の京都御殿です。天守閣もあったといわれ秀吉の趣味で贅を尽くして建てられた豪華な御殿で、付近には大名たちの屋敷も立ち並んでいたが、わずか8年で取り壊される羽目に。

ここではこの聚楽第について色々解説していきますね。

1-2、聚楽第の意味、読み方は

聚楽第は、聚楽亭、聚楽屋敷、聚楽城、聚楽邸、または聚楽館などとも表記され、また単に「聚楽」だけの文書もあるそうです。そして「聚楽」という名の由来は、「聚楽行幸記」によれば「長生不老の樂(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」、「フロイスの日本史」には「秀吉はこの城を聚楽(juraku)と命名した。それは彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」(松田毅・川崎桃太訳)とあるということで、この秀吉の御殿のほかには「聚楽」という言葉が使われていないため、秀吉の造語ではないかといわれています。

また、読みは現在は「じゅらくだい」といわれますが、他に「じゅらくてい」「じゅらくやしき」といろいろな説あり。「第」は音読みで「てい」、のちの正保年間(1645年から48年)に出版された小瀬甫庵(ほあん)の「太閤記」には「じゅらくてい」とふりがながあり、「聚楽亭(じゅらくてい)」「聚楽と号し里第(りてい)を構へ」ともあるために、当時から「じゅらくてい」という呼び方だったよう。

なお、第は邸宅、里第は公卿の私宅という意味があり、建造中は「内野御構」(うちのおんかまえ)と呼ばれていたということです。

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秀吉は学問はなかったはずだが、一流のアイデアとかイベントプランナーだったよな、しかも造語までしてるとは、さすがとしか言いようがないな

1-3、聚楽第が出来るまで

本能寺の変後、山崎合戦で明智光秀を破り、柴田勝家をほろぼし、織田信雄と徳川家康とも戦い、紀州、四国征伐と着々と天下統一を成し遂げようとしていた秀吉は1583年に本拠地を大坂に定め、天下無双と言われた大坂城を築城し、一方で権大納言の位をもらって公家となり、内大臣にまでなったため、京都に「二条第」という屋敷を構えたということ。

これは妙顕寺を移転させて建てたため「妙顕寺城」ともいわれています。この二条第は周囲には堀をつくり天守閣もそなえていて、聚楽第完成までは秀吉の政庁として使われました。場所は現在の二条城の東(現京都市中京区小川押小路付近)で、「古城(ふるしろ)町」や「下古城(しもふるしろ)町」という地名が現存。

なお、帰国した天正遣欧少年使節を引き連れて聚楽第の秀吉を訪ねた巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、前日に豪華な「秀吉の旧屋敷」に泊ったという記録があるが、それはこの二条第ではないかといわれています。

2-1、聚楽第についてのご紹介

秀吉がなぜ聚楽第をつくったのか、どこにあったのか、形態はなど、いろいろご紹介しますね。

2-2、聚楽第の造成の目的、役割は

image by PIXTA / 50778849

秀吉が聚楽第を造営したのは、のちに徳川家康が征夷大将軍となって幕府を開いたのとちがい、朝廷をバックに豊臣の姓をもらって公家になり、最高位の関白の位を授けられて天下の政治を行うための政庁として必要だった、また室町幕府の3代将軍足利義満が住んだ北山第(現金閣寺)を意識したからともいわれています。

ということで、秀吉は関白に就任した翌年1586年2月に聚楽第の造営に取りかかり、翌年2月には主要な部分は出来上がって秀吉は公家と年賀を祝したということで、その後九州征伐に出陣したために、秀吉の聚楽第への移住は9月になったそう。

このとき、秀吉は関白の北政所で従二位となった寧々と母大政所が聚楽第へ移るために大変に華々しい行列で、北政所寧々が最高の貴婦人であることをアピール、かつ自らの権威を誇りました。そして室町幕府以来150年ぶりに後陽成天皇の行幸という一大セレモニーで、自らの権勢を世に知らしめたのですね。

また、聚楽第では公家たちを招いて連歌会、能見物、茶の湯の会などもおこなわれたようで、年賀、八朔、観月の会など年中行事も催され、朝廷や公家たちとの良好な関係を保つための社交場でもあったということ。

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