リチャード・ニクソンは1968年に第37代アメリカ合衆国大統領に就任した人物。ベトナム戦争から米軍を完全に撤退させる決断をしたことでも知られている。アメリカを震撼させたスキャンダルであるウォーターゲート事件により辞任したことで、汚職のイメージも根強く残った。

米ソ対立の冷戦期の中心人物として、世界史のなかでもインパクトあるニクソンン。そんな彼の政治活動とその後の評価を世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史をたどるとき「ニクソン大統領」を避けて通ることはでいない。彼はベトナム戦争を終結させ、中国との緊張をやわらげることに貢献した。しかしウォーターゲート事件の悪印象から汚職政治家のイメージが今でも残っている。そんなニクソン大統領に関連するできごとをまとめてみた。

リチャード・ミルハウス・ニクソンとは?

image by PIXTA / 5368050

リチャード・ミルハウス・ニクソンは1913年にカリフォルニア南部のロサンゼルスの近くで生まれた政治家。国内外の政策で一定の成果を残したものの、ウォーターゲート事件により失脚。汚職のイメージが強い政治家でもあります。

アイルランド系の家に生まれる

ニクソンは5人兄弟の次男。父親と母親はともにアイルランド系の家柄でした。熱心なクエーカー教徒だった母親の影響を受けて父親も改宗。福音主義に従い子供たちを厳しくしつけました。

父親は事業に失敗するなど職を転々としていたこともあり、幼少期にニクソンは決して裕福とは言えない暮らしをしていました。ただ、家族のなかはよく幸せな暮らしをしていたと回想しています。

青年期は弁護士から海軍の士官に職を変える

ニクソンは家計を助けるためにアルバイトをしながらデューク大学のロースクールを卒業。カリフォルニア州の司法試験に合格して弁護士としての道を歩み始めます。

第二次世界大戦が激化するなかニクソンは愛国心の高まりから海軍の士官に応募。訓練を受けて戦地に赴きます。ニクソンは修士号と弁護士資格を持っていたことから戦闘要員にはなりませんでした。

カリフォルニア州を地盤に政治家になったニクソン

Nixonflyer1946.jpg
By 1946 Richard Nixon congressional campaign - At the Richard Nixon Presdential Library and Archive, Public Domain, Link

第二次世界大戦で軍人としての経験を積んだニクソンは、自分の故郷であるカリフォルニア州で地盤を築いて政治家になります。周りに勧められてまずは下院議員として政治家の道を歩み始めました。

下院議員時代は赤狩りを推進したニクソン

カリフォルニア州から共和党候補として出馬したニクソンは下院議員に当選。同じタイミングでマサチューセッツ州で当選したジョン・F・ケネディとは、その後、大統領選で競うことになります。

下院議員時代のニクソンは、当時のアメリカで激しくなっていた赤狩りを推進。赤狩りの急先鋒となっていた共和党上院議員のジョセフ・マッカーシーとともに反共活動を展開します。

反共の波に乗って上院議員に当選

ニクソンは赤狩りを積極的に進めることで反共主義者の支持を獲得。1950年に反共の波に乗るかたちで上院議員選挙に立候補、民主党の対立候補と大差をつけて当選を果たしました。

ただ、ニクソンの反共政策は行き過ぎた一面もあったようです。対立する政治家たちを継ぐ次と共産主義者と一方的に糾弾、それがリベラルなジャーナリストの反感を買い、のちのメディア攻撃のネタとなりました。

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テレビを利用して躍進した政治家ニクソン

Photograph of President Dwight D. Eisenhower and Vice President Richard M. Nixon posing for photographers on the... - NARA - 200428.tif
Abbie Rowe, 1905-1967, Photographer (NARA record: 8451352) - U.S. National Archives and Records Administration, パブリック・ドメイン, リンクによる

下院議員そして上院議員として政治家としてのキャリアを積んだニクソンは大統領選の副大統領候補に指名されます。そのときニクソンはテレビを有効活用することで窮地を脱することに成功しました。

政治資金の不正により追い詰められたニクソン

ニクソンはドワイト・D・アイゼンハワーの右腕として存在感を示すようになります。しかしニクソンは政治活動を始めたときから地元の有志により経済支援を受けており、それが糾弾されるようになりました。

ニクソンが経済支援を受けていた理由は、彼の家があまり裕福ではなかったこと。それを知った地元の支援者たちが基金をつくり、そこから政治活動費を捻出していました。

チェッカーズスピーチにより批判をかわす

不当に政治資金を得ていると批判されたニクソン。副大統領候補から降ろす案も出てきました。彼が巻き返すきっかけとなったのが「チェッカーズスピーチ」と呼ばれるテレビ演説です。

そこでニクソンは自らの潔白を訴えました。演説の内容はおもにニクソン家の経済状況。借金や私財リストを公表することで、自分はほとんど財産がなく、質素な生活をしていることを説明しました。

1960年の大統領選挙ではケネディと対立

Kennedy Nixon Debat (1960).jpg
United Press International - eBay photo front back, パブリック・ドメイン, リンクによる

ニクソンが自ら大統領に立候補したのが1960年。アイゼンハワーはあ高い支持率を持っていましたが3選は禁止。そこでアイゼンハワーを引き継ぐかたちでニクソンが大統領選挙に立候補しました。

テレビ討論会に病み上がりの姿で登場

このときの民主党の対立候補はジョン・F・ケネディ。当時、一般家庭に浸透しつつあったテレビを使って公開演説会が開かれました。そこでニクソンとケネディの明暗が分かれます。

ケネディは、もともと端正な顔立ちだったことに加え、スタイリストをつけてテレビ映えする外見で登場。それに対してニクソンは病み上がりでした。それが印象を大きく変え、支持率に影響を与えました。

テレビ映えを意識したケネディに敗北

ケネディは、当時の主要メディアとなっていたテレビを戦略的に活用します。討論会のまえにスピーチ、表情、ふるまいなどを徹底的にトレーニング。テレビのイメージ戦略の方法を確立しました。

とくにニクソンと大きく差をつけたのがファッションです。ケネディはモノクロテレビに合わせて黒のスーツを着用。ニクソンはグレーのスーツだったため、背景と一体化してしまい、印象がぼやけてしまいました。

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1968年の大統領選挙はベトナム戦争が追い風に

Richard M. Nixon being greeted by school children during a campaign stop. - NARA - 194445.tif
Jack E. Kightlinger, 1932-2009, Photographer (NARA record: 8451338) - U.S. National Archives and Records Administration, パブリック・ドメイン, リンクによる

大統領選のチャレンジに失敗したニクソンは、次の大統領選で再び立候補します。このときはちょうどベトナム戦争の是非が問われていたタイミング。ケネディ大統領に対する批判が高まっていました。

ベトナム反戦運動が激しくなっていたアメリカ

アメリカ軍は長期にわたってベトナム戦争にかかわってきましたが、ふくれあがる軍事費とは対照的に成果があらわれませんでした。国内の不況も後押しして、ベトナム反戦運動が激しくなっていきます。

アメリカ国内外では、若者を中心に反戦運動が組織的に展開されるようになりアメリカ政府の権威は失墜。国内は参戦派と反戦派に二分化されており、政治的にも不安定な状態になっていました。

第37代アメリカ合衆国大統領として積極的な外交を展開

ベトナム戦争からの撤退を訴えたニクソンは第37代大統領に当選。ベトナム戦争の「名誉ある撤退」を実現させ、米ソの冷戦による緊張を緩和する「デタント」を進めるなど、積極的な外交を展開するようになりました。

また、ベトナム戦争の影響により民主党の支持基盤が弱くなっていたアメリカ南部の勢力拡大にも成功。このときのニクソン大統領の南部対策が、のちのロナルド・レーガン政権の誕生に貢献することになります。

中国とのデタントを推進したニクソン

Nixon shakes hands with Chou En-lai.jpg
White House photo by Byron Schumaker - http://www.presidentialtimeline.org/html/record.php?id=304, パブリック・ドメイン, リンクによる

ニクソン大統領の功績のひとつが中国との緊張を緩和させたこと。反共の立場を長らくとっていましたが、大統領時代は中国との関係の正常化を推進しました。

中国との関係改善に力を入れる

朝鮮半島を二分する朝鮮戦争を通じてアメリカと中国の関係は悪化の一途をたどります。1949年に中華人民共和国が建国。共産党の一党独裁が敷かれたこともあり、反共政策が強力に推進されていたアメリカにとって、受け入れにくい国となっていました。

ニクソン大統領は反共的な立場をとる政治家。それにも関わらず中国との関係改善に力を入れたのは、ソ連を意識してのこと。中国とソ連は対立関係にあったため、中国と友好関係を築くことでソ連に対して優位に立とうと考えました。

ベトナム戦争の「名誉ある撤退」を実現

ニクソン大統領の政治活動を特徴づけるもうひとつの出来事がベトナム戦争からの撤退。北部を支持するアメリカと南部を支持するソ連が代理戦争を長らく展開していました。そこでアメリカ国内ではベトナム戦争に関わる意義について問題視されるようになります。

アメリカは長引く不況から脱出できない一方、軍事費はどんどんふくれあがる状態。世界的に反戦運動も展開されるようになりました。ニクソンは、敗北を認めないかたちで「名誉ある撤退」を決断。アメリカ軍をベトナムから引き上げることを決めました。

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ウォーターゲート事件で窮地に追い込まれたニクソン

image by PIXTA / 16667472

ニクソン大統領は外交政策で存在感を発揮しましたが、ウォーターゲート事件の責任をとり失脚。大統領職を辞任しました。ウォーターゲート事件の謎が解明されなかったこともあり、過去の影響を受け続けることになります。

ウォーターゲート事件とは?

ウォーターゲート事件とは、1972年にワシントンD.C.の民主党本部における盗聴事件と一連の不正行為。証拠の隠滅や司法への妨害など、立て続けに政治にかかわるスキャンダルが起こり、大スキャンダルとなりました。

犯人グループのなかにニクソン陣営の関係者がいることが発覚。それによりニクソン大統領も盗聴事件に関与しているのではないかと疑われました。さらにホワイトハウスが証拠隠滅を支持したという報道もなされます。

責任をとって大統領職を辞任

盗聴事件の犯人グループは逮捕され、裁判により有罪判決を受けます。捜査の過程で犯人たちは単独犯であることを主張することと引き換えにわいろをもらっていることも明らかになりました。

一連の不正の動きにニクソン陣営がかかわっている疑いから世論が反発。議会の大統領弾劾の発動も余儀なくされました。疑惑が深まり窮地に追い込まれたニクソンは、再選してすぐに大統領職を辞任しました。

ニクソン大統領のイメージはいまだ回復途中

ニクソン大統領は1994年に脳卒中で死去。それまで回顧録を出版したり講演活動を行ったりしましたが、ウォーターゲート事件の汚職イメージが消え去ることはありませんでした。実際にニクソン大統領が関与したかどうかはいまだに不明です。ウォーターゲート事件の影響もありニクソン大統領の政治家としての評価は決して高くありません。しかしながら、冷戦期のデタントやベトナム戦争終結など評価できる点が多いことも事実。一度、ウォーターゲート事件から離れてニクソン大統領の政治活動を見てみることも必要かもしれませんね。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

5分で分かる「ニクソン大統領」ウォーターゲート事件って?政治活動やその後の評価は?元大学教員がわかりやすく解説

リチャード・ニクソンは1968年に第37代アメリカ合衆国大統領に就任した人物。ベトナム戦争から米軍を完全に撤退させる決断をしたことでも知られている。アメリカを震撼させたスキャンダルであるウォーターゲート事件により辞任したことで、汚職のイメージも根強く残った。

米ソ対立の冷戦期の中心人物として、世界史のなかでもインパクトあるニクソンン。そんな彼の政治活動とその後の評価を世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。世界史をたどるとき「ニクソン大統領」を避けて通ることはでいない。彼はベトナム戦争を終結させ、中国との緊張をやわらげることに貢献した。しかしウォーターゲート事件の悪印象から汚職政治家のイメージが今でも残っている。そんなニクソン大統領に関連するできごとをまとめてみた。

リチャード・ミルハウス・ニクソンとは?

image by PIXTA / 5368050

リチャード・ミルハウス・ニクソンは1913年にカリフォルニア南部のロサンゼルスの近くで生まれた政治家。国内外の政策で一定の成果を残したものの、ウォーターゲート事件により失脚。汚職のイメージが強い政治家でもあります。

アイルランド系の家に生まれる

ニクソンは5人兄弟の次男。父親と母親はともにアイルランド系の家柄でした。熱心なクエーカー教徒だった母親の影響を受けて父親も改宗。福音主義に従い子供たちを厳しくしつけました。

父親は事業に失敗するなど職を転々としていたこともあり、幼少期にニクソンは決して裕福とは言えない暮らしをしていました。ただ、家族のなかはよく幸せな暮らしをしていたと回想しています。

青年期は弁護士から海軍の士官に職を変える

ニクソンは家計を助けるためにアルバイトをしながらデューク大学のロースクールを卒業。カリフォルニア州の司法試験に合格して弁護士としての道を歩み始めます。

第二次世界大戦が激化するなかニクソンは愛国心の高まりから海軍の士官に応募。訓練を受けて戦地に赴きます。ニクソンは修士号と弁護士資格を持っていたことから戦闘要員にはなりませんでした。

カリフォルニア州を地盤に政治家になったニクソン

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By 1946 Richard Nixon congressional campaign – At the Richard Nixon Presdential Library and Archive, Public Domain, Link

第二次世界大戦で軍人としての経験を積んだニクソンは、自分の故郷であるカリフォルニア州で地盤を築いて政治家になります。周りに勧められてまずは下院議員として政治家の道を歩み始めました。

下院議員時代は赤狩りを推進したニクソン

カリフォルニア州から共和党候補として出馬したニクソンは下院議員に当選。同じタイミングでマサチューセッツ州で当選したジョン・F・ケネディとは、その後、大統領選で競うことになります。

下院議員時代のニクソンは、当時のアメリカで激しくなっていた赤狩りを推進。赤狩りの急先鋒となっていた共和党上院議員のジョセフ・マッカーシーとともに反共活動を展開します。

反共の波に乗って上院議員に当選

ニクソンは赤狩りを積極的に進めることで反共主義者の支持を獲得。1950年に反共の波に乗るかたちで上院議員選挙に立候補、民主党の対立候補と大差をつけて当選を果たしました。

ただ、ニクソンの反共政策は行き過ぎた一面もあったようです。対立する政治家たちを継ぐ次と共産主義者と一方的に糾弾、それがリベラルなジャーナリストの反感を買い、のちのメディア攻撃のネタとなりました。

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