室町時代戦国時代日本史歴史

5分でわかる「小谷城」近江の戦国大名浅井氏の居城をわかりやすく歴女が解説

3-3、浅井久政

1526年生まれの浅井亮政の長男。1542年、父亮政が死去後に16歳で跡を継いだが、勇猛な父とは似ていなくて武勇に冴えなかったとか、暗愚の評判高かった人。父亮政は正室との間に生まれた娘で久政の異母姉の婿の田屋明政に家督を譲りたい気持ちがあったらしく、明政本人も久政の家督相続を承服せず反乱を起こした説(起こさなかった説も)、とにかく久政の家督相続は浅井家臣たちも納得しなかったそう。

そういうわけで久政の代には、浅井家は六角氏の攻勢に押されて配下となり、徹底した従属的姿勢をとるような弱腰だったので、多くの家臣たちが不満をもつようになり、1560年、嫡男で15歳になったばかりの賢政(のちの長政)が野良田の戦いで六角義賢に大勝し、浅井氏が六角氏から独立したため、家臣たちはクーデターを起こして久政は強制隠居となり、長政が家督を相続。久政は竹生島に幽閉されたということです。

しかし久政はその後も発言力を持っていたということで、朝倉か織田信長かどちらににつくか決断のときも、久政は強硬に朝倉に付くことを主張したため、息子長政がついに折れて信長を裏切ることに。1573年、小谷城落城の際に隠居所であった小丸で48歳で切腹。

3-4、浅井長政

1545年、久政の嫡男として六角氏の居城南近江の観音寺城下(現滋賀県近江八幡市安土町)で生まれました。幼名は猿夜叉丸で、当時の浅井氏は祖父亮政の代に手に入れた領地を失って六角氏に臣従していたため、生母小野殿と人質になっていたときに生まれたということ。

六角氏は長政の15歳での元服時に、六角氏当主義賢の一字をとって賢政と名乗らせ、六角氏の家臣平井定武の娘と婚姻させるなど、臣下として待遇。また父久政は浅井家家臣たちの人望も得られない人だったようで、1560年8月、賢政(新九郎)が15歳で軍を率い、六角軍を相手に野良田の戦いで見事に戦って勝利し、重臣たちが感動したということです。そして六角氏への服従態勢に不満を持っていた家臣達は、長政を奉じてクーデターを起こし、久政を竹生島に追放して隠居を強要、長政は家督を相続したのですね。長政は平井定武の娘を六角氏に返品、賢政の名のりも新九郎に戻して、きっぱりと六角氏から離反する意思を明確にしたそう。

そして尾張から美濃を狙っていた織田信長は1560年代(いつかははっきりしない)に長政に使者を送って同盟をうながし、これまた時期ははっきりとはしないものの、信長の妹で美人の誉れ高いお市の方とは1564年から1567年ころまでに結婚、結婚に際して、信長の一字をもらって長政と改名しました。

しかし1570年、信長が長政との約束を破り、越前の朝倉氏を攻撃したため、長政は信長との同盟をやぶって信長と戦うことになり、1573年、とうとう小谷城は落城、29歳で長政は自害。

3-5、お市の方

織田信長の妹(従妹説もあり)で、近隣国にまで聞こえた美貌の女性です。お市の方は政略結婚で浅井長政に嫁ぎ、3人の娘、茶々、お初、お江をもうけました。長政には男の子が2人いたのですが、お市の方の子ではないそう。

長政はたいへん大柄だったといわれますが、お市の方もかなりの大柄だったということで、大柄美男美女どうしで相思相愛。というのは、姉川の合戦後、信長が小谷城を包囲して3年かかって攻略している間も、お市の方はお初、お江を産んでいるからだということなんですね。

またお市の方は長政が信長を裏切って朝倉と結んだことを信長に両端をしばった小豆袋を送って警告したといわれていますが、これは後世の創作だということ。信長は小谷城攻めでも城の中にいるお市の方が心配だったようで、秀吉や弟秀長は、お市の方や娘たちの住む場所を攻撃しないよう、落城の際も助け出すように気を使ったといわれています。そしていよいよ落城というときには、長政はお市の方と娘たちを城から脱出させたのでした。お市の方は本能寺の変後、柴田勝家と再婚して北の庄城で再び落城を経験し37歳で自害。

3-6、浅井三姉妹

長政とお市の方の3人の娘たちは、浅井三姉妹と呼ばれています。お市の方と三姉妹は、小谷城落城後は信長の庇護のもと、織田家の城でゆっくりと暮らしていましたが、本能寺の変がぼっ発し、清須会議の後にお市の方は柴田勝家と再婚、三姉妹も母お市とともに柴田勝家の北の庄城へ行ったものの、羽柴秀吉に攻められて落城。母お市の方は勝家とともに自害したが、三姉妹は助け出されました。

その後、秀吉が三姉妹の後ろ盾となり、茶々は秀吉の側室となって鶴松と秀頼を産み、その後は大坂夏の陣で3度目の落城で自害次女のお初は浅井家のもと主君で従兄でもある京極高次と結婚三女の江(ごう)は、最初は従兄でもある佐治一成と結婚したが、秀吉に離婚させられて秀吉の甥の羽柴秀勝と2度目の結婚、一女完子を産むが、秀勝の死後、3度目に徳川家康の息子で二代将軍となる秀忠と結婚し3代将軍家光、秀頼と結婚した千姫らを生むことに。

なお、お江の娘豊臣完子が公家の九条家へ嫁いで生まれた子孫のおかげで長政の血が皇室にも受け継がれることに。

浅井家三代の居城で戦国時代最大の山城だった

小谷城は北近江に勢力をもっていた浅井家の居城として築城され、3代にわたる50年間に増強、戦国時代でも最大規模で難攻不落といわれるまでになった山城。しかも付近にいくつもの支城も築城し、眼下に主要な街道を一望できるという理想の城で万全の備えだったといわれています。

この北近江は山を一つ越えると日本海、すぐ南にある琵琶湖では水運の流通が盛んで京都も近い、おまけに農業なども盛んで、他地方から狙われて当然の垂涎の地で近江を制する者は天下を制すといわれたところだったのですね。そして3代目の浅井長政は親代々の同盟の朝倉氏につくか、新興勢力でお市の方との結婚で義兄となった織田信長との関係を強固にするかという選択に迫られたとき、信長についていればよかったのに、自慢の堅固な小谷城を信じて籠城。

しかし信長の家臣羽柴秀吉が支城を守る長政の家臣たちを次々と調略し、信長は虎御前山に城を作り軍道までこしらえてと、3年かけての近代的な戦争戦略にさしもの小谷城の堅固な守りは封じ込められて落城の悲劇に。小谷城の落城は山城が守るにやさしく攻めるに難しかった時代の終わりでもあり、以後は平山城、平城の時代となったということです。

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angelica