室町時代戦国時代日本史歴史

5分でわかる「小谷城」近江の戦国大名浅井氏の居城をわかりやすく歴女が解説

2-3、小谷城は先進的で大規模だった

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小谷城は、小谷山をすべて使って作られた城で、一帯の尾根筋や谷筋を活用して南北に長くのびていて、築城当時は現在の本丸跡よりさらに北にある支城の大嶽城(おおづく)付近に本丸があったそう。

城の構造は、本丸を中心とする主郭と居館のあった清水谷(きよみずだに)、それらを守る出丸、金吾丸、月所丸、焼尾丸、福寿丸、山崎丸の独立した砦というもの。また、本丸には二層天守が築かれていた可能性もあり、小谷城の天守が長浜城に、その後は彦根城の西の丸三重櫓として移築されたという伝承が。

そういうことで、今も山王丸のあと付近には大石垣が現存していること、多くの曲輪によって構成されていること、本丸とその奥にある中丸との間にあり、小谷城を南北ふたつの部分に分けることができる、大規模な工事で作られたとおぼしき5メートルから10メートルの巨大な堀切3重にめぐらされた土塁などのあとが残っていることからも、当時としては先進的で大規模な城であったと推察されています。

なお、山王丸から谷筋へ下って山道を登っていき、小谷城の主郭からは100メートル以上高い小谷山の頂上に位置している大嶽城(おおづく)は小谷城の支城で、小谷城の北からの備えとなっているそう。

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素人目には山に見えるが、専門家の目では色々とすごい跡がわかるんだろうな

2-4、小谷城の攻防は

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これだけ大規模な山城の小谷城だけではなく、長政はさらに小谷城周辺の山々に、横山城や丁野城、山本山城、佐和山城などの支城をつくり、家臣たちに守らせていました。しかし信長は秀吉に命じて横山城を落とし、周辺の支城を守る浅井方の諸将を次々と調略

そして小谷城の南側正面にある虎御前山に城を築いて、横山城との間に軍道まで作って物資の搬送や援軍が送れるようにしたということ。また、越前から小谷城への北国街道を封鎖したために、朝倉義景の援軍が小谷城に入れなかったなど、大規模な土木工事と調略、長期戦によってじわじわと小谷城を孤立させていったのですね。

そして1573年8月、嵐に乗じて信長は自ら浅見対馬守の手引きで小谷城の北の支城の大嶽城を攻撃して、落城に成功。翌日には撤退する朝倉軍を強襲して壊滅的な打撃を与え、信長は越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのちに虎御前山に帰陣、8月27日には羽柴秀吉と弟秀長の隊が、清水谷の急傾斜から小谷城の京極丸を急襲して陥落、本丸の長政と小丸の長政の父久政を分断して小丸を落城させて久政は自害。本丸の長政も9月1日に自刃して浅井氏は滅亡。

なお、小谷城は落城後、秀吉が城代となりましたが、秀吉は琵琶湖に近い長浜城を築いて城下町を形成したために小谷城は廃城となりました。

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やっぱ、信長と秀吉にかかると、土木工事とか調略とか半端ないことしてくれるんだな

3-1、小谷城にまつわる人々

浅井家三代の人々をご紹介しますね。

3-2、浅井亮政(あざいすけまさ)

1491年に、北近江の国人の浅井氏の庶流で蔵人家浅井直種の息子としてうまれ、浅井氏嫡流で従兄弟の直政の娘と結婚して、嫡流を継承しました。その後、主君の京極高清のお家騒動で、亮政は近江国衆浅見貞則とともに、高清の長男高延を後継者に推し、次男高吉と高清らを追い出し、京極家の主導のその中心的役割を担い、浅見貞則をも追い出して国人一揆の盟主となり、浅井氏の近江北での勢力を築き、小谷城も築城したのでした。

亮政の代から浅井氏の勢力拡大、南近江の守護六角定頼との対立なども起こり、主家の京極氏との関係も和解したり対立したりするように。1542年1月、52歳で死去。

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