今回は小谷城を取り上げるぞ。戦国時代の最大規模の山城だったんだって、どんな城だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小谷城について5分でわかるようにまとめた。

1-1、小谷城とは

Odanij26.jpg
投稿者が撮影 - ブレイズマン (talk) 11:08, 25 August 2008 (UTC), CC 表示 3.0, リンクによる

小谷城(おだにじょう)は、近江の国浅井郡(現滋賀県長浜市湖北町伊部)にあった戦国時代、最大級といわれた山城です。城跡は国の史跡に指定され、日本五大山城のひとつ。

標高約495mの小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれていた大規模な山城で、戦国大名浅井氏(あざい)三代の居城だったが、浅井長政の時代に織田信長に攻められて落城して廃城に。この小谷城について、ゆかりの人々などについて解説していきますね。

1-2、小谷城の築城はいつごろか

image by PIXTA / 10545227

浅井家の事績をあらわした「浅井三代記」によれば、「1516年(永正13年)9月28日に着工して、同年10月20日に完成」とあるのですが、「浅井三代記」は必ずしも信用できない箇所も多いということで確定ではないそう。

なので1525年に、六角定頼が近江の国の北地方に侵攻したときに、浅井亮政(すけまさ)が小谷城で篭城戦を行っているために、その1、2年前の築城説が有力だということです。なお、1538年に再度六角定頼が攻め込んだとき、浅井亮政は小谷城を出て美濃国に逃亡したことも。

北近江の浅井氏は守護大名京極氏の譜代家臣だった

浅井氏はもともとは近江守護京極氏の譜代家臣だったということで、小谷城を居城として周辺の領域を支配していました。守護大名だった京極氏は戦国時代には北近江三郡を支配する戦国大名化していたが、浅井家三代の初代亮政のころ、京極家で御家騒動がぼっ発、北近江の有力豪族の浅見氏を盟主に、国人衆によって京極家が牛耳られることに。しかし浅見氏が専制政治を行ったためには亮政は浅見氏を追放し、主君京極氏を傀儡政権として有力家臣たちも取り込んで実権を掌握したということです。

その後、亮政は勢力拡大をはかり、南近江の守護で京極家の本家筋の六角定頼と対立、定頼の勢力に押されたために、越前の朝倉氏と同盟を結んで、朝倉氏の支援で北近江の支配力を高めたということ。

2-1、小谷城の全貌は

Odanij14.jpg
投稿者が撮影 - ブレイズマン (talk) 10:28, 5 August 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

浅井亮政が築城し、孫の長政まで約50年浅井家の居城で、信長が3年かかってやっと攻め落とし、日本の中世の山城の代表的存在と言われる小谷城についてご紹介しますね。

2-2、小谷城の位置は理想的な場所

小谷城が築かれた小谷山は標高495メートルの急峻な山で、前面に虎御前山、山脇山、丁野山、西に高時川、背後に伊吹山系が控えているという、まさに自然の要害に囲まれた場所です。そして城下には、北陸と東海地方を結ぶ北国脇往還が通っていて、そこから南には、東山道に通じる小谷道が分かれ、少し行くと関ヶ原だということ。

\次のページで「2-3、小谷城は先進的で大規模だった」を解説!/

2-3、小谷城は先進的で大規模だった

image by PIXTA / 10559486

小谷城は、小谷山をすべて使って作られた城で、一帯の尾根筋や谷筋を活用して南北に長くのびていて、築城当時は現在の本丸跡よりさらに北にある支城の大嶽城(おおづく)付近に本丸があったそう。

城の構造は、本丸を中心とする主郭と居館のあった清水谷(きよみずだに)、それらを守る出丸、金吾丸、月所丸、焼尾丸、福寿丸、山崎丸の独立した砦というもの。また、本丸には二層天守が築かれていた可能性もあり、小谷城の天守が長浜城に、その後は彦根城の西の丸三重櫓として移築されたという伝承が。

そういうことで、今も山王丸のあと付近には大石垣が現存していること、多くの曲輪によって構成されていること、本丸とその奥にある中丸との間にあり、小谷城を南北ふたつの部分に分けることができる、大規模な工事で作られたとおぼしき5メートルから10メートルの巨大な堀切3重にめぐらされた土塁などのあとが残っていることからも、当時としては先進的で大規模な城であったと推察されています。

なお、山王丸から谷筋へ下って山道を登っていき、小谷城の主郭からは100メートル以上高い小谷山の頂上に位置している大嶽城(おおづく)は小谷城の支城で、小谷城の北からの備えとなっているそう。

2-4、小谷城の攻防は

Odanij27.jpg
Copyright © 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省, Attribution, リンクによる

これだけ大規模な山城の小谷城だけではなく、長政はさらに小谷城周辺の山々に、横山城や丁野城、山本山城、佐和山城などの支城をつくり、家臣たちに守らせていました。しかし信長は秀吉に命じて横山城を落とし、周辺の支城を守る浅井方の諸将を次々と調略

そして小谷城の南側正面にある虎御前山に城を築いて、横山城との間に軍道まで作って物資の搬送や援軍が送れるようにしたということ。また、越前から小谷城への北国街道を封鎖したために、朝倉義景の援軍が小谷城に入れなかったなど、大規模な土木工事と調略、長期戦によってじわじわと小谷城を孤立させていったのですね。

そして1573年8月、嵐に乗じて信長は自ら浅見対馬守の手引きで小谷城の北の支城の大嶽城を攻撃して、落城に成功。翌日には撤退する朝倉軍を強襲して壊滅的な打撃を与え、信長は越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのちに虎御前山に帰陣、8月27日には羽柴秀吉と弟秀長の隊が、清水谷の急傾斜から小谷城の京極丸を急襲して陥落、本丸の長政と小丸の長政の父久政を分断して小丸を落城させて久政は自害。本丸の長政も9月1日に自刃して浅井氏は滅亡。

なお、小谷城は落城後、秀吉が城代となりましたが、秀吉は琵琶湖に近い長浜城を築いて城下町を形成したために小谷城は廃城となりました。

3-1、小谷城にまつわる人々

浅井家三代の人々をご紹介しますね。

3-2、浅井亮政(あざいすけまさ)

1491年に、北近江の国人の浅井氏の庶流で蔵人家浅井直種の息子としてうまれ、浅井氏嫡流で従兄弟の直政の娘と結婚して、嫡流を継承しました。その後、主君の京極高清のお家騒動で、亮政は近江国衆浅見貞則とともに、高清の長男高延を後継者に推し、次男高吉と高清らを追い出し、京極家の主導のその中心的役割を担い、浅見貞則をも追い出して国人一揆の盟主となり、浅井氏の近江北での勢力を築き、小谷城も築城したのでした。

亮政の代から浅井氏の勢力拡大、南近江の守護六角定頼との対立なども起こり、主家の京極氏との関係も和解したり対立したりするように。1542年1月、52歳で死去。

\次のページで「3-3、浅井久政」を解説!/

3-3、浅井久政

1526年生まれの浅井亮政の長男。1542年、父亮政が死去後に16歳で跡を継いだが、勇猛な父とは似ていなくて武勇に冴えなかったとか、暗愚の評判高かった人。父亮政は正室との間に生まれた娘で久政の異母姉の婿の田屋明政に家督を譲りたい気持ちがあったらしく、明政本人も久政の家督相続を承服せず反乱を起こした説(起こさなかった説も)、とにかく久政の家督相続は浅井家臣たちも納得しなかったそう。

そういうわけで久政の代には、浅井家は六角氏の攻勢に押されて配下となり、徹底した従属的姿勢をとるような弱腰だったので、多くの家臣たちが不満をもつようになり、1560年、嫡男で15歳になったばかりの賢政(のちの長政)が野良田の戦いで六角義賢に大勝し、浅井氏が六角氏から独立したため、家臣たちはクーデターを起こして久政は強制隠居となり、長政が家督を相続。久政は竹生島に幽閉されたということです。

しかし久政はその後も発言力を持っていたということで、朝倉か織田信長かどちらににつくか決断のときも、久政は強硬に朝倉に付くことを主張したため、息子長政がついに折れて信長を裏切ることに。1573年、小谷城落城の際に隠居所であった小丸で48歳で切腹。

3-4、浅井長政

1545年、久政の嫡男として六角氏の居城南近江の観音寺城下(現滋賀県近江八幡市安土町)で生まれました。幼名は猿夜叉丸で、当時の浅井氏は祖父亮政の代に手に入れた領地を失って六角氏に臣従していたため、生母小野殿と人質になっていたときに生まれたということ。

六角氏は長政の15歳での元服時に、六角氏当主義賢の一字をとって賢政と名乗らせ、六角氏の家臣平井定武の娘と婚姻させるなど、臣下として待遇。また父久政は浅井家家臣たちの人望も得られない人だったようで、1560年8月、賢政(新九郎)が15歳で軍を率い、六角軍を相手に野良田の戦いで見事に戦って勝利し、重臣たちが感動したということです。そして六角氏への服従態勢に不満を持っていた家臣達は、長政を奉じてクーデターを起こし、久政を竹生島に追放して隠居を強要、長政は家督を相続したのですね。長政は平井定武の娘を六角氏に返品、賢政の名のりも新九郎に戻して、きっぱりと六角氏から離反する意思を明確にしたそう。

そして尾張から美濃を狙っていた織田信長は1560年代(いつかははっきりしない)に長政に使者を送って同盟をうながし、これまた時期ははっきりとはしないものの、信長の妹で美人の誉れ高いお市の方とは1564年から1567年ころまでに結婚、結婚に際して、信長の一字をもらって長政と改名しました。

しかし1570年、信長が長政との約束を破り、越前の朝倉氏を攻撃したため、長政は信長との同盟をやぶって信長と戦うことになり、1573年、とうとう小谷城は落城、29歳で長政は自害。

3-5、お市の方

織田信長の妹(従妹説もあり)で、近隣国にまで聞こえた美貌の女性です。お市の方は政略結婚で浅井長政に嫁ぎ、3人の娘、茶々、お初、お江をもうけました。長政には男の子が2人いたのですが、お市の方の子ではないそう。

長政はたいへん大柄だったといわれますが、お市の方もかなりの大柄だったということで、大柄美男美女どうしで相思相愛。というのは、姉川の合戦後、信長が小谷城を包囲して3年かかって攻略している間も、お市の方はお初、お江を産んでいるからだということなんですね。

またお市の方は長政が信長を裏切って朝倉と結んだことを信長に両端をしばった小豆袋を送って警告したといわれていますが、これは後世の創作だということ。信長は小谷城攻めでも城の中にいるお市の方が心配だったようで、秀吉や弟秀長は、お市の方や娘たちの住む場所を攻撃しないよう、落城の際も助け出すように気を使ったといわれています。そしていよいよ落城というときには、長政はお市の方と娘たちを城から脱出させたのでした。お市の方は本能寺の変後、柴田勝家と再婚して北の庄城で再び落城を経験し37歳で自害。

3-6、浅井三姉妹

長政とお市の方の3人の娘たちは、浅井三姉妹と呼ばれています。お市の方と三姉妹は、小谷城落城後は信長の庇護のもと、織田家の城でゆっくりと暮らしていましたが、本能寺の変がぼっ発し、清須会議の後にお市の方は柴田勝家と再婚、三姉妹も母お市とともに柴田勝家の北の庄城へ行ったものの、羽柴秀吉に攻められて落城。母お市の方は勝家とともに自害したが、三姉妹は助け出されました。

その後、秀吉が三姉妹の後ろ盾となり、茶々は秀吉の側室となって鶴松と秀頼を産み、その後は大坂夏の陣で3度目の落城で自害次女のお初は浅井家のもと主君で従兄でもある京極高次と結婚三女の江(ごう)は、最初は従兄でもある佐治一成と結婚したが、秀吉に離婚させられて秀吉の甥の羽柴秀勝と2度目の結婚、一女完子を産むが、秀勝の死後、3度目に徳川家康の息子で二代将軍となる秀忠と結婚し3代将軍家光、秀頼と結婚した千姫らを生むことに。

なお、お江の娘豊臣完子が公家の九条家へ嫁いで生まれた子孫のおかげで長政の血が皇室にも受け継がれることに。

浅井家三代の居城で戦国時代最大の山城だった

小谷城は北近江に勢力をもっていた浅井家の居城として築城され、3代にわたる50年間に増強、戦国時代でも最大規模で難攻不落といわれるまでになった山城。しかも付近にいくつもの支城も築城し、眼下に主要な街道を一望できるという理想の城で万全の備えだったといわれています。

この北近江は山を一つ越えると日本海、すぐ南にある琵琶湖では水運の流通が盛んで京都も近い、おまけに農業なども盛んで、他地方から狙われて当然の垂涎の地で近江を制する者は天下を制すといわれたところだったのですね。そして3代目の浅井長政は親代々の同盟の朝倉氏につくか、新興勢力でお市の方との結婚で義兄となった織田信長との関係を強固にするかという選択に迫られたとき、信長についていればよかったのに、自慢の堅固な小谷城を信じて籠城。

しかし信長の家臣羽柴秀吉が支城を守る長政の家臣たちを次々と調略し、信長は虎御前山に城を作り軍道までこしらえてと、3年かけての近代的な戦争戦略にさしもの小谷城の堅固な守りは封じ込められて落城の悲劇に。小谷城の落城は山城が守るにやさしく攻めるに難しかった時代の終わりでもあり、以後は平山城、平城の時代となったということです。

" /> 3分で簡単「小谷城」近江の戦国大名浅井氏の居城をわかりやすく歴女が解説 – Study-Z
室町時代戦国時代日本史歴史

3分で簡単「小谷城」近江の戦国大名浅井氏の居城をわかりやすく歴女が解説

今回は小谷城を取り上げるぞ。戦国時代の最大規模の山城だったんだって、どんな城だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小谷城について5分でわかるようにまとめた。

1-1、小谷城とは

Odanij26.jpg
投稿者が撮影 – ブレイズマン (talk) 11:08, 25 August 2008 (UTC), CC 表示 3.0, リンクによる

小谷城(おだにじょう)は、近江の国浅井郡(現滋賀県長浜市湖北町伊部)にあった戦国時代、最大級といわれた山城です。城跡は国の史跡に指定され、日本五大山城のひとつ。

標高約495mの小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれていた大規模な山城で、戦国大名浅井氏(あざい)三代の居城だったが、浅井長政の時代に織田信長に攻められて落城して廃城に。この小谷城について、ゆかりの人々などについて解説していきますね。

1-2、小谷城の築城はいつごろか

image by PIXTA / 10545227

浅井家の事績をあらわした「浅井三代記」によれば、「1516年(永正13年)9月28日に着工して、同年10月20日に完成」とあるのですが、「浅井三代記」は必ずしも信用できない箇所も多いということで確定ではないそう。

なので1525年に、六角定頼が近江の国の北地方に侵攻したときに、浅井亮政(すけまさ)が小谷城で篭城戦を行っているために、その1、2年前の築城説が有力だということです。なお、1538年に再度六角定頼が攻め込んだとき、浅井亮政は小谷城を出て美濃国に逃亡したことも。

北近江の浅井氏は守護大名京極氏の譜代家臣だった

浅井氏はもともとは近江守護京極氏の譜代家臣だったということで、小谷城を居城として周辺の領域を支配していました。守護大名だった京極氏は戦国時代には北近江三郡を支配する戦国大名化していたが、浅井家三代の初代亮政のころ、京極家で御家騒動がぼっ発、北近江の有力豪族の浅見氏を盟主に、国人衆によって京極家が牛耳られることに。しかし浅見氏が専制政治を行ったためには亮政は浅見氏を追放し、主君京極氏を傀儡政権として有力家臣たちも取り込んで実権を掌握したということです。

その後、亮政は勢力拡大をはかり、南近江の守護で京極家の本家筋の六角定頼と対立、定頼の勢力に押されたために、越前の朝倉氏と同盟を結んで、朝倉氏の支援で北近江の支配力を高めたということ。

2-1、小谷城の全貌は

Odanij14.jpg
投稿者が撮影 – ブレイズマン (talk) 10:28, 5 August 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

浅井亮政が築城し、孫の長政まで約50年浅井家の居城で、信長が3年かかってやっと攻め落とし、日本の中世の山城の代表的存在と言われる小谷城についてご紹介しますね。

2-2、小谷城の位置は理想的な場所

小谷城が築かれた小谷山は標高495メートルの急峻な山で、前面に虎御前山、山脇山、丁野山、西に高時川、背後に伊吹山系が控えているという、まさに自然の要害に囲まれた場所です。そして城下には、北陸と東海地方を結ぶ北国脇往還が通っていて、そこから南には、東山道に通じる小谷道が分かれ、少し行くと関ヶ原だということ。

\次のページで「2-3、小谷城は先進的で大規模だった」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: