
その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1、大坂城五人衆とは
- 2-1、関ヶ原合戦から大坂の陣へ至るまで
- 2-2、家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開府
- 2-3、方広寺の鐘事件
- 2-4、大坂冬の陣では
- 2-5、和議で堀を埋め立てられ裸城に
- 2-6、大坂夏の陣ぼっ発
- 3、大坂五人衆についてのご紹介
- 3-1、1人目 元土佐領主「長宗我部盛親」
- 3-2、2人目 昌幸の次男「真田信繁(幸村)」
- 3-3、3人目 信長の家臣「毛利勝永(かつなが)」
- 3-4、4人目 宇喜多秀家の重臣「明石全登」
- 3-5、5人目 黒田官兵衛の家臣「後藤又兵衛基次」
- 3-6、治長の弟「大野治房(はるふさ)」
- 3-7、秀頼の乳兄弟「木村重成」
- 豊臣恩顧と武名を残すためにがんばった悲劇の名将たち
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大坂五人衆について5分でわかるようにまとめた。
1、大坂城五人衆とは
大坂城五人衆(おおさかじょうごにんしゅう)は、慶長19年(1614年)と慶長20年(1615年)の大坂の陣で、大坂城の豊臣方の中心となった5人の武将のことです。彼らは豊臣家の家臣ではなくて、豊臣家が募集した浪人 (牢人)だったので、またの呼び名は大坂牢人五人衆。
そしてこのうち特に元大名だった真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永の3人を大坂城三人衆、大名の家臣だった明石全登、後藤又兵衛基次の2人を加えて大坂城五人衆に。彼らは後藤又兵衛をのぞき、1600年の関ヶ原の戦いで西軍についたが、敗戦で改易となって浪人となり、秀吉への恩顧のために大坂の陣にはせ参じた人たちです。 そして五人衆に豊臣秀頼の家臣のなかで特に印象的な武将の木村重成と大野治房をくわえて大坂七将星ともいうそう。
2-1、関ヶ原合戦から大坂の陣へ至るまで
それでは関ヶ原合戦から大坂の陣にいたるまでと、大坂の陣ついて簡単にご紹介します。
2-2、家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開府
1600年の関ヶ原の合戦で、東軍の徳川家康は石田三成の西軍を下し、戦後、西軍に属した武将たちを改易、減封、東軍の武将に新たな領地を与えたりと、220万石あった豊臣秀頼の領地を摂津、河内、和泉の65万石まで削減。
そして1603年に朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開き、2年後には将軍職を跡継ぎの秀忠に譲り隠居して徳川家の天下を公にしたのですね。また同年には秀吉の遺言を実行するとして、秀忠とお江の娘で淀殿には姪になる7歳の千姫を11歳の秀頼と結婚させました。
家康は徳川家が世襲で征夷大将軍となって江戸幕府の政権維持の方向でしたが、まだ秀吉恩顧の大名も多数いるうえ、巨大な城塞の大坂城に秀吉以来の莫大な富を持つ若い秀頼がいる限り、安心できない状態だったのですね。
1611年、69歳の家康は後水尾天皇の即位式のために、駿府城から4年ぶりに上洛し、孫娘千姫の婿でもある17歳の秀頼と二条城で会見。この会見で親しく話したわけではないが、秀頼は大柄だったせいもあり、家康は思った以上の秀頼の成長にかなり将来を危惧したそう。また、この後立て続けに浅野長政、幸長親子、加藤清正、池田輝政といった秀吉恩顧の大名らが次々に死去したこと、大坂城では相変わらず秀頼母の淀殿と周辺が実権を握っていたため、豊臣家は孤立していくように。
こちらの記事もおすすめ

これは分かりやすい!「関ヶ原の戦い」の流れを物語感覚で元塾講師が5分でわかりやすく解説
\次のページで「2-3、方広寺の鐘事件」を解説!/