今回は大坂五人衆を取り上げるぞ。有名な人たちですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大坂五人衆について5分でわかるようにまとめた。

1、大坂城五人衆とは

大坂城五人衆(おおさかじょうごにんしゅう)は、慶長19年(1614年)と慶長20年(1615年)の大坂の陣で、大坂城の豊臣方の中心となった5人の武将のことです。彼らは豊臣家の家臣ではなくて、豊臣家が募集した浪人 (牢人)だったので、またの呼び名は大坂牢人五人衆。

そしてこのうち特に元大名だった真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永の3人を大坂城三人衆大名の家臣だった明石全登、後藤又兵衛基次の2人を加えて大坂城五人衆に。彼らは後藤又兵衛をのぞき、1600年の関ヶ原の戦いで西軍についたが、敗戦で改易となって浪人となり、秀吉への恩顧のために大坂の陣にはせ参じた人たちです。 そして五人衆に豊臣秀頼の家臣のなかで特に印象的な武将の木村重成と大野治房をくわえて大坂七将星ともいうそう。

2-1、関ヶ原合戦から大坂の陣へ至るまで

それでは関ヶ原合戦から大坂の陣にいたるまでと、大坂の陣ついて簡単にご紹介します。

2-2、家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開府

1600年の関ヶ原の合戦で、東軍の徳川家康は石田三成の西軍を下し、戦後、西軍に属した武将たちを改易、減封、東軍の武将に新たな領地を与えたりと、220万石あった豊臣秀頼の領地を摂津、河内、和泉の65万石まで削減。

そして1603年に朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開き、2年後には将軍職を跡継ぎの秀忠に譲り隠居して徳川家の天下を公にしたのですね。また同年には秀吉の遺言を実行するとして、秀忠とお江の娘で淀殿には姪になる7歳の千姫を11歳の秀頼と結婚させました。

家康は徳川家が世襲で征夷大将軍となって江戸幕府の政権維持の方向でしたが、まだ秀吉恩顧の大名も多数いるうえ、巨大な城塞の大坂城に秀吉以来の莫大な富を持つ若い秀頼がいる限り、安心できない状態だったのですね。

1611年、69歳の家康は後水尾天皇の即位式のために、駿府城から4年ぶりに上洛し、孫娘千姫の婿でもある17歳の秀頼と二条城で会見。この会見で親しく話したわけではないが、秀頼は大柄だったせいもあり、家康は思った以上の秀頼の成長にかなり将来を危惧したそう。また、この後立て続けに浅野長政、幸長親子、加藤清正、池田輝政といった秀吉恩顧の大名らが次々に死去したこと、大坂城では相変わらず秀頼母の淀殿と周辺が実権を握っていたため、豊臣家は孤立していくように。

\次のページで「2-3、方広寺の鐘事件」を解説!/

2-3、方広寺の鐘事件

家康は莫大な大坂城の富を軍資金に使われないように、秀吉の供養のためと称して淀殿に全国の神社仏閣の改築や修理をすすめ、淀殿はほいほいと惜しげもなく寄進したということ(しかしそれでも豊富な金銀があったそう)。

そういうわけで、秀吉が東大寺の大仏に代わる大仏として創建したが、1596年の慶長伏見大地震で崩壊した方広寺の大仏も再建、この方広寺の梵鐘の銘文のなかの「国家安康」「君臣豊楽」が徳川家康の家と康を分断してあるのが家康への冒瀆と、インネンをつけられることになったのですね。

そして豊臣家は旧恩のある大名や浪人などに声をかけ、戦いの準備に突入。浪人を含めた豊臣家の兵力は約10万人で、その中には真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤又兵衛、明石全登、毛利勝永らの五人衆がいたが、諸大名では福島正則が兵糧を大坂の蔵屋敷から摂取を黙認したのみだったということ。

徳川軍は、1614年10月11日、家康の本隊と秀忠が約6万の軍を率いて江戸を出発、秀忠は関ヶ原での遅れを取り戻すためか、17日で東海道をひた走って来たために兵が疲労困憊し、急ぎすぎと家康にまた叱責された話は有名です。このとき幕府が動員した兵力は約20万人で、福島正則、黒田長政といった万一にも大坂方に寝返りそうな大名は江戸城でお留守番だったそう。

2-4、大坂冬の陣では

大坂冬の陣は1614年12月に木津川口の戦いで開始し鴫野、今福、博労淵、野田、福島などで戦闘が行われたが、豊臣軍は数ヶ所の砦を放棄して大坂城に撤収。そして真田丸の戦いで豊臣軍は徳川軍を撃破と優勢に。

大坂城は10年、20年の籠城戦に耐えうる巨大な要塞のため、家康は心理作戦と講和に持ち込むために、大坂城築城時の大工の棟梁に淀殿の居室を聞き、そのあたりを狙って大砲を撃ち込んだところ、淀殿の目の前で侍女が大砲に当たって死んだため、勇ましく武装して見回り籠城兵を鼓舞していたといわれる生涯において3度目の籠城となる淀殿は、ひどいヒステリーを起こし、主戦派の浪人衆止めるのも聞かずにあっさり講和になったということです。

2-5、和議で堀を埋め立てられ裸城に

豊臣側の出した講和の主な条件としては、本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀の埋め立て、淀殿を人質とせず、代わりに大野治長、淀殿叔父の織田有楽斎の人質を出すこと。家康側は、秀頼の身の安全と本領安堵、城中の浪人たちについては不問ということで合意。

さっそく堀が埋め立てられ、真田丸も破壊され大坂城は内堀と本丸だけの裸城に。

2-6、大坂夏の陣ぼっ発

家康は大坂城の浪人たちに不穏な動きありとして豊臣側に武装解除を通牒したが、豊臣側は拒否し、1615年、夏の陣がぼっ発。

大坂城は裸城となったため、籠城戦は無理で野戦となったのですが、幕府軍15万5000人に対して、豊臣軍は7万8000人だったといわれ、数的にも不利なために豊臣軍は幕府軍の総大将家康の首を取る、という一点にターゲットを絞ったということ。

開戦直後は郡山城の戦いで、大野治房隊が大和郡山城を落とし、兵器の供給や修理など徳川軍(幕府)の総合的な軍事業務を行なう基地だった堺を焼き討ち、これは冬の陣で淀殿の居室を家康に教えた大阪城築城時の大工の棟梁への仕返しだったという説もあり。

その後は樫井の戦い、道明寺の戦い、八尾、若江の戦いで、豊臣軍は次々と敗れ名将たちを失い、大坂城近郊に追い詰められたあげく、最終決戦の天王寺口の戦い、岡山口の戦いで奮戦したが、総大将の秀頼が一度も出馬しないまま、真田隊を壊滅させた家康の孫の松平忠直の越前勢の一番乗りで、城内に続々と乱入、内通で城の大台所から出火して天守閣も焼け落ちて落城。秀頼と母淀殿と側近たちは山里曲輪の隅っこの糒蔵に立てこもって助命嘆願に千姫を送ったが、大砲と銃を撃ち込まれて自害したということです。

3、大坂五人衆についてのご紹介

大坂五人衆、そして木村重成と大野治房についてご紹介しますね。

3-1、1人目 元土佐領主「長宗我部盛親」

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立花左近 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

1575年生まれ、四国を統一した長曾我部元親の4男で末子です。元親には将来を嘱望された長男の信親がいたのですが、若くして戸次川の戦いで戦死。期待が大きかっただけに元親は呆然自失したそう。そして他家に養子にやった次男三男を差し置いて、末子の盛親を信親の娘と結婚させて跡継ぎに。

1599年に元親が死去後、盛親は24歳で長曾我部家を相続。関ヶ原合戦前には東軍に付くべく家康に使者を送ったが、近江の石田三成領の検問で土佐なまり丸出しでひっかかり、やむなく西軍に付いたという説と、増田長盛が烏帽子親だった関係で西軍に付いた説が。そして関ヶ原合戦に西軍として参加したものの、吉川広家隊の空弁当のせいで一戦もせずに土佐へ帰国して、家康に謝意をあらわしたのですが、帰国直後に勃発した重臣たちの浦戸一揆についてとがめられ、土佐国を改易となり、京の町で厳重な幕府の監視下に置かれながら、旧長宗我部家臣団からの仕送りや、京都の寺子屋で子どもを教えていたともいわれています。

そして大坂の陣の前に豊臣側から、戦に勝てば土佐一国の贈与を条件として、盛親は徳川方に味方して豊臣と戦いたいと幕府側を油断させ、旧臣と共に大坂城に入城したのですね。

大坂の陣での活躍

盛親はもとは土佐一国の主だったため、大阪城に集まった浪人衆の中では別格。大阪冬の陣では、大坂城南側の八丁目口、谷町口の守備を担当し、真田丸の戦いでは真田信繁とともに真田丸で徳川軍を撃破

夏の陣での盛親は約5千の兵をひきいて5月6日の八尾、若江の戦いに参戦し、約5千の藤堂高虎隊と対決して先鋒は壊滅したが、盛親は本隊を堤防に伏せさせて、勢いに乗って前進してきた藤堂本隊を一斉に攻撃、藤堂隊は大混乱に陥り侍大将らが次々討ち取られたということ。しかし若江で戦っていた木村重成隊全滅の知らせで、盛親隊は大坂城へ撤退、この撤退戦での被害が大きく、翌日の戦闘は不能になったということで、盛親は大坂城近くの京橋口を守備していたときに大坂城が落城。

盛親は逃れて八幡に潜んだが捕まって二条城城外で晒されたのち、京を引き回されて六条河原で41歳で斬首に。盛親はなぜ自害しなかったと聞かれて、命は惜しい、生きていればこの手で家康を討てると言ったということですが、長宗我部家は滅亡に。

3-2、2人目 昌幸の次男「真田信繁(幸村)」

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1567年または1570年、甲府の生まれ。父は真田昌幸(1611年没)3万8千石、兄信之は東軍に付き、信繫は次男、父とは別に1万9千石をもらっていました。真田家はもとは甲斐の武田信玄に仕えた家でしたが、豊臣秀吉に臣従、信繫は人質となって秀吉に仕え、馬廻り衆を務めて源次と呼ばれて可愛がられ、秀吉の影響を受けたということ。

真田昌幸は長男信之の正室に徳川家康の養女(本多平八郎忠勝の娘)を迎え、信繫の正室は大谷刑部の娘だった関係で、関ヶ原合戦では、家族会議の後に長男は東軍に付き、父と弟は西軍に付き、どちらに転んでも真田家は残るという選択をしたのですが、昌幸と信繫が居城上田城に籠り、中山道を進む38000の秀忠軍を迎え撃って足止め、関ヶ原本戦に間に合わなかった話は有名です。

関ヶ原後、父昌幸と弟幸村は兄らの助命嘆願で、高野山配流となって九度山に住居していましたが、大坂方から使者が黄金200枚、銀30貫を贈って招聘、信繁は国許(上田)の父昌幸の旧臣たちにも参戦を呼びかけて、嫡男大助幸昌と共九度山を脱出して大坂城に。大坂で信繁が指揮を執った隊は、赤備えだったということ。

なお、大坂城に真田が入場したと聞いた家康は、ちょうど席を立って部屋を出ようとしていたのか、襖にかけた手が震えてガタガタと音がしたほどだったが、息子の方でござると聞き、ガクッと安心したという、真田の名前だけで家康を恐れさせた話が伝わっています。

大坂の陣での活躍

信繁は当初、大坂城籠城案に反対して、京都を支配下に抑えて、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで出て家康の軍勢を迎え撃つよう主張し、浪人衆は賛成したが、豊臣上層部は籠城一択に。やむなく信繫は難航不落の大坂城の唯一の欠点といわれる手薄な南方に出城の真田丸を築いて補強することに。これは兄が徳川方のため、裏切りの疑いもかけられた信繫の苦肉の策でもあったよう。真田丸では激闘が行われ、豊臣方はさんざん徳川方を翻弄してがんばったが、結局は講和に。冬の陣の講和後に真田丸は堀の埋め立てで取り壊されたということ。また、家康は1615年2月、叔父の真田信伊を派遣し、信繫に信州で10万石を提示して寝返るよう説得したが、信繫は秀頼に恩があると断ったため、家康は再度、信濃一国ではとしつこく食い下がったが、信繫は日本国の半分でも気持ちは変わらないと怒ったそう。

そして大坂夏の陣では、5月6日の道明寺の戦いに参加したが、濃霧のために到着が遅れたためか、先に出陣した後藤又兵衛基次隊が壊滅し、信繫隊は伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させたが、又兵衛を戦死させたことで責任を感じた信繫は討ち死にを覚悟したほど落ち込み、毛利勝永が励ましたそう。そして信繫隊は殿を務め、追撃する伊達政宗隊を撃破し、豊臣軍を撤収をさせたのですが、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と徳川軍を嘲笑しつつ悠然と撤収したということで、後世に語り継がれることに。

また信繁は、兵士の士気を高めるために総大将たる秀頼本人の出陣を訴えたが、秀頼の母淀殿ら、側近たちがあえなく阻止。5月7日に最後の作戦として信繁は大野治房、明石全登、毛利勝永らと家康の本陣を襲撃を計画。勝永隊が本多忠朝隊と必死の攻防のなか、信繫は家康本陣に突撃を開始、徳川勢は一時総崩れとなったということで、家康が切腹を覚悟するほどだったそう。しかし多勢に無勢で徳川軍が盛り返し、信繫隊もついに撤退を余儀なくされ、勝永隊も退却となり天王寺口での豊臣方の敗北が決定的に。

信繁は四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で休んでいたところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」と49歳で討ち取られたということ。

3-3、3人目 信長の家臣「毛利勝永(かつなが)」

天正6年(1578年)生まれ、織田信長家臣のころから秀吉に仕えていた毛利勝信の息子で、当時森吉政と名乗っていたが、秀吉の九州平定後に豊前国小倉の領主となり、毛利元就家にあやかって毛利に改姓。勝永は、肥前、豊前の国人一揆鎮圧や朝鮮出兵でも武功を挙げるなどで、秀吉が死去したときに形見分けで「貞真の刀」を譲られたそう。

関ヶ原の戦いでは父勝信とともに西軍で前哨戦の伏見城攻略に大きく貢献して3千石加増されたが、本戦では毛利輝元の家臣と共に安国寺恵瓊の指揮下で活躍の場なくして西軍が敗れたうえに、本拠地の豊前小倉城も東軍の黒田官兵衛孝高に落とされたので、改易処分に

勝永は肥前の加藤清正に預けられた後、土佐の山内一豊の元で流人となったが、1千石知行という厚遇を。しかし1614年、豊臣家から誘われ、嫡男勝家と土佐を船で脱出して大坂城に入城、歓喜を持って迎えられたと言われています。

大坂の陣での活躍

勝永は大阪冬の陣では大阪城西部の今橋付近の守備に当たりましたが、目立った武功はなし。

そして大坂夏の陣では、5月6日の道明寺の戦いに、後藤又兵衛基次、真田信繁らと参加。豊臣方は平野に陣を張ったが、6日早朝に陣を出た後藤又兵衛隊が、真田、毛利隊の到着前に10倍の兵力を誇る徳川軍の伊達政宗隊と道明寺で開戦し、奮闘した又兵衛は討ち死にして後藤隊は壊滅状態に。戦場についた真田隊は勢いに乗った伊達政宗軍と互角に戦うも誉田でも豊臣方が敗北したために全軍撤退となったということ。

このときに後藤又兵衛の戦死に責任を感じて落ち込み、討ち死にの覚悟をした真田信繁に対して、勝永が「ここで死んでも意味はない。秀頼公の前で華々しく散ろう」と励ましたのですね。そして翌日の天王寺、岡山の戦いでの勝永は、約4千の兵を率いて四天王寺に布陣して、3倍もの徳川軍に対し猛攻、本多忠朝隊を撃破して大将本多忠朝を討ち取り、本多勢の救援にきた小笠原秀政、忠脩(ただなが)親子の隊も粉砕し、秀政、忠脩親子も討ち取るという大活躍で、徳川軍は大混乱におちいって、その隙をついて真田信繁が茶臼山の家康の本陣を突撃し、家康は一時は切腹を覚悟したそう。しかし圧倒的多数の徳川軍の兵力で真田隊は壊滅して他の隊も撃破され、勝永隊は退却の際の殿を務め、みごとに大坂城に撤退。

勝永はその後、秀頼らが籠った籾倉で秀頼の介錯をおこない、37歳で自害したといわれています。

3-4、4人目 宇喜多秀家の重臣「明石全登」

1569年前後に保木城で生まれたといわれ、備前国保木城主の明石行雄(景親)の息子です。全登は法号で、たけのり、てるずみ、なりとよなど、色々な読み方があるそうで、ほかにも「ぜんとう」説、クリスチャンネームの「じゅすと」説も。通称は掃部(かもん)。全登の父行雄は天神山城主の浦上宗景の家臣だったが、1575年、浦上氏滅亡の際に宇喜多直家に呼応して寝返った後は、宇喜多家に仕えたということで、行雄は弟の景行と、直家と息子秀家に仕えて4万石の知行まで出世。嫡子全登も行雄の跡継ぎとして和気郡(現備前市吉永町)大俣城の城主で宇喜多家の家老となり、1599年の宇喜多騒動で執政が殺害され、4人の重臣が出奔後、全登が宇喜多家を取り仕切ることになったそう。はじめは3万3110石の知行が、秀家は秀吉の養子だったため、全登は秀吉の直臣も兼ねた知行として10万石取りに。

関ヶ原合戦では西軍の宇喜多秀家に従って出陣し先鋒をつとめ、宇喜多勢は福島正則を相手に善戦、しかし小早川秀秋の裏切りをきっかけに敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて大坂城へ退くように進言して殿軍を務めたそう。主君秀家は捕らえられて八丈島へ遠島となり、浪人となった全登はキリシタン大名でもあり母方の親戚でもある黒田官兵衛孝高の保護を受けたが、官兵衛死後の消息は諸説あり。

大坂の陣での活躍

1614年、大坂冬の陣では、全登は信仰上の問題で豊臣方に参陣。

夏の陣では、道明寺の戦いに出たということで、この戦いでは後藤又兵衛基次が突出して戦死、敗戦となったが、全登の隊は幕府軍の水野勝成、神保相茂、伊達政宗勢と交戦して混乱におとしいれて政宗と相茂が同士討ちに。

この戦いで全登は負傷し、天王寺、岡山の最後の戦いでは、300余名の決死隊を率いた全登と旧蒲生氏郷家臣の小倉行春が家康本陣への突入を狙ったが、天王寺口での友軍の壊滅で包囲網の一角を突破して戦場を離脱、その後の消息は不明に。水野勝成の家臣、または石川忠総が討ち取った説と落ち延びた伝説も多いということで、キリシタンのため自害はしないために伝説が生まれたかも。

3-5、5人目 黒田官兵衛の家臣「後藤又兵衛基次」

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尾形洞谷(おがたどうこく) - 『黒田二十四騎図画帖』, パブリック・ドメイン, リンクによる

1560年、姫路近郊の生まれで、別所氏家臣でその後小寺氏に仕えた後藤新左衛門基国の次男。父が討ち死に後、黒田官兵衛孝高の手元で育てられたらしく、官兵衛が可愛がったといわれています。1578年、官兵衛が荒木村重により有岡城に幽閉されたときに黒田家家臣一同の誓紙への署名を、又兵衛の伯父藤岡九兵衛が拒否したので、又兵衛も一族とともに黒田家を追放となって仙石秀久に仕えたが、1586年頃から、又兵衛は黒田家家臣の栗山善助利安の与力として黒田家の家臣として復帰。

又兵衛は官兵衛の息子長政より8歳年上で、はっきりいって官兵衛の息子の長政よりも有能果敢な武士だったということで、その後は九州征伐や朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでも戦功をあげ、大隅城主となって1万石以上も知行するように。本人も主君である長政が歯がゆかったらしく、バカにしたような言動が多かったということで、長政は父官兵衛の死後、又兵衛を奉公構いにしました。奉公構いというのは、旧主の許しがない限り次に雇ってもらえないという通達で、又兵衛の勇猛さはどの大名も雇いたいと思うほどで、実際、池田輝政や細川忠興の庇護に置かれたこともありましたが、長政が本気で阻止するためにどこにも雇われず浪人に。そして又兵衛のところにも大坂城から誘いがあり、大坂の陣で最後の一旗揚げるチャンスと一番にはせ参じたのでした。

ずっと後の「武功雑話」では、家康が大阪城で警戒するべき人物として「御宿政友(勘兵衛)と後藤又兵衛のみ」と断言したといわれるほど又兵衛の評価は高かったということ。世代的に言っても大坂城五人衆の中でも最年長であり、戦での実績と経験、知名度もトップだったと言えるでしょう。

\次のページで「3-6、治長の弟「大野治房(はるふさ)」」を解説!/

大坂の陣での活躍

又兵衛は、大阪冬の陣では遊軍として6千の兵を率いて、大坂城の東側に陣取った上杉景勝軍、佐竹義宜軍と激戦をおこなって、真田丸の戦いでも八丁目口、谷町口に布陣して勝利に大きく貢献したそう。

大坂夏の陣での又兵衛は、5月6日に行われた道明寺の戦いに参戦、平野に陣を張り早朝に陣を立って藤井寺に到着したが、味方の真田信繁、毛利勝永の両隊が濃霧で遅れたため、又兵衛隊は信繁、勝永隊の到着を待たずに道明寺へと進軍し、10倍以上の伊達政宗隊らを相手に小松山を下りて突撃し、又兵衛は腰を撃たれて動けなくなりながらも、槍で戦ったが多勢に無勢、ついに55歳で敵に討ち取られる前に家臣に首をはねさせて首は家臣が近くの田に埋めたといわれています。

3-6、治長の弟「大野治房(はるふさ)」

生年不詳で大野定長(佐渡守)の子として誕生。母は淀殿の乳母で、大坂城の奥取締の大蔵卿局、長兄が治長(修理)、弟に治胤(道犬)、治純(壱岐守)。毛利勝永とは従兄弟の関係という説もあるそう。

治房は幼少より秀頼に仕えた近習の1人で、秀吉の存命中はぱっとしなかったが、秀吉死後に北政所寧々が大坂城を去ってから淀殿の側近として大坂城を牛耳った大野一族の一人。

大坂の陣での活躍

大坂冬の陣では主要な武将のひとりとして籠城戦の総指揮を執り、大坂城の西側の船場方面の守備を統括して塙団右衛門直之、米田是季らと本町橋から蜂須賀隊への夜襲を敢行して勝利。治房は兄治長とは違い、主戦派だったということで、和議を叫ぶ淀殿のイエスマンの兄治長らと対立しました。結局、和睦が成立したが、兄治長が城内で暗殺未遂で負傷した事件は、治房が襲撃させたのではといわれています。

そして大坂夏の陣での治房は、大和郡山城の攻略のため2千余の兵をひきいて、ほとんど空城の郡山城を攻撃して筒井定慶を逐って城下を焼き払ったのですが、これは淀殿の指図だったそう。また治房は槙島玄蕃らと、住吉と堺に火を放って、徳川方の水軍向井忠勝、九鬼守隆らと交戦。さらに紀伊、和泉で一揆を煽動して豊臣軍の紀伊攻撃に呼応させようと和歌山城を目指したが、樫井が戦場となったためにそちらへ急行、しかし間に合わずに大坂へ退却。

最後の決戦での治房は、岡山口の主将として4600の兵をひきいて、徳川軍の先鋒の前田隊を攻撃、支援のための井伊隊、藤堂隊の動きと混乱に乗じて徳川秀忠の本陣にせまり、旗本先手を突き崩して大混乱に陥れたが、秀忠軍が反撃に転じて形勢不利となり、敗兵を収容しつつ城内に撤退。その後、治房は城が炎上すると玉造口から逃亡したということで、以後の消息は不明。京都で捕縛され斬首説、逃げずに焼死説、秀頼の息子国松を連れて逃げたが土民に殺された説、播磨国に逃げて池田家臣にかくまわれた説など。

3-7、秀頼の乳兄弟「木村重成」

1593年ころの生まれで、父は豊臣秀次の家老で秀次事件に連座して切腹し、長兄も処刑。しかし重成は幼少で助命されました。そして母の宮内卿の局が秀頼の乳母となったため、秀頼の乳兄弟、40人の小姓のひとりとして側近く仕えることに。

聡明で礼儀作法や言動も申し分ないために秀頼の信頼が厚く、元服後には豊臣家の重臣となって重要な会議などにも出席、豊臣姓も下賜されたそう。家康との関係が険悪になったときには、大野治長、渡辺糺らと開戦を主張、家老待遇の片桐且元を大坂城から追放したひとりに。

大坂の陣での活躍

豊臣家臣たちのなかでは、浪人軍団を蔑む風潮もあったが、重成は有能な若者らしく真田信繁、後藤又兵衛らに一目も二目も置いて尊敬し、秀頼とのパイプ役になっていたという話もあり、1614年、大坂冬の陣での初陣のとき、後藤又兵衛に引き回しを頼んで一緒に今福砦の攻防戦に参加し、5000の兵を率いて、8000の佐竹義宣相手に対等に戦って渋江政光を討ち取り、その際に味方の大井某が倒れていたので、重成が殿を務めて味方に命じて大井を運ばせた話。また、真田丸の戦いでも武名をあげたそう。

そして徳川勢のなかに真田六文銭の旗印を見つけ、必ず和議になるからと、信繫の兄真田信之の代理で出陣していた甥の真田信吉と真田信政を、鉄砲で狙撃しないように兵に命じた逸話もあるそう。また、冬の陣後の和議には秀頼の正使として堂々と振る舞い、調印のための家康の血判が薄いとクレームをつけ、家康に血判を押しなおさせた話も有名です。

重成は夏の陣では豊臣軍の主力として長宗我部盛親と八尾、若江(東大阪市南部)の戦いで、藤堂高虎、井伊直孝の軍と対戦し、藤堂軍の右翼を破ったが、井伊軍との戦闘の末に22歳で戦死。家康が重成の首実検をした際、頭髪に香が焚きこめてあったので、若武者の心構えに感嘆したそう。

豊臣恩顧と武名を残すためにがんばった悲劇の名将たち

大坂五人衆は大坂城の豊臣秀頼の名で招聘され、大坂冬の陣と夏の陣で果敢に戦った有名な武将たち。

戦国時代は浪人を雇うなど普通だったはずだし、関ヶ原合戦時に九州で知将黒田官兵衛孝高は、金銭で近隣の百姓や浪人を雇って上手にまとめていくつもの城を落とした話もあるのですが、もう関ヶ原から10年以上たったせいか、大坂城の豊臣家の家臣たちはせっかくはせ参じた名のある有能な五人衆の意見を取り入れず、浪人と軽んじたり寝返りを疑ったりする体たらくで、豊臣家は豊富な軍資金と巨大な要塞と有能な武将をもってしても、滅びへの道を転がって行くことに。

そういうわけで関ヶ原合戦の裏切りが勝敗の決め手になったのとおなじく、大坂の陣も名将たちが必死にがんばったのにもかかわらず、総大将の秀頼は一度も出陣しないという異常事態で、名将たちは報われないまま、最後に家康の本陣をめざして猛進して死ぬほど家康を脅かしたが、結局は悲劇の討ち死にを遂げ、後世にまで名を残して伝説となったということなんですね。

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日本史歴史江戸時代

3分で簡単「大坂城五人衆」大坂の陣で戦った名将たちをわかりやすく歴女が解説

今回は大坂五人衆を取り上げるぞ。有名な人たちですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大坂五人衆について5分でわかるようにまとめた。

1、大坂城五人衆とは

大坂城五人衆(おおさかじょうごにんしゅう)は、慶長19年(1614年)と慶長20年(1615年)の大坂の陣で、大坂城の豊臣方の中心となった5人の武将のことです。彼らは豊臣家の家臣ではなくて、豊臣家が募集した浪人 (牢人)だったので、またの呼び名は大坂牢人五人衆。

そしてこのうち特に元大名だった真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永の3人を大坂城三人衆大名の家臣だった明石全登、後藤又兵衛基次の2人を加えて大坂城五人衆に。彼らは後藤又兵衛をのぞき、1600年の関ヶ原の戦いで西軍についたが、敗戦で改易となって浪人となり、秀吉への恩顧のために大坂の陣にはせ参じた人たちです。 そして五人衆に豊臣秀頼の家臣のなかで特に印象的な武将の木村重成と大野治房をくわえて大坂七将星ともいうそう。

2-1、関ヶ原合戦から大坂の陣へ至るまで

それでは関ヶ原合戦から大坂の陣にいたるまでと、大坂の陣ついて簡単にご紹介します。

2-2、家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開府

1600年の関ヶ原の合戦で、東軍の徳川家康は石田三成の西軍を下し、戦後、西軍に属した武将たちを改易、減封、東軍の武将に新たな領地を与えたりと、220万石あった豊臣秀頼の領地を摂津、河内、和泉の65万石まで削減。

そして1603年に朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開き、2年後には将軍職を跡継ぎの秀忠に譲り隠居して徳川家の天下を公にしたのですね。また同年には秀吉の遺言を実行するとして、秀忠とお江の娘で淀殿には姪になる7歳の千姫を11歳の秀頼と結婚させました。

家康は徳川家が世襲で征夷大将軍となって江戸幕府の政権維持の方向でしたが、まだ秀吉恩顧の大名も多数いるうえ、巨大な城塞の大坂城に秀吉以来の莫大な富を持つ若い秀頼がいる限り、安心できない状態だったのですね。

1611年、69歳の家康は後水尾天皇の即位式のために、駿府城から4年ぶりに上洛し、孫娘千姫の婿でもある17歳の秀頼と二条城で会見。この会見で親しく話したわけではないが、秀頼は大柄だったせいもあり、家康は思った以上の秀頼の成長にかなり将来を危惧したそう。また、この後立て続けに浅野長政、幸長親子、加藤清正、池田輝政といった秀吉恩顧の大名らが次々に死去したこと、大坂城では相変わらず秀頼母の淀殿と周辺が実権を握っていたため、豊臣家は孤立していくように。

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