今回はイザベラ・デステを取り上げるぞ。イタリア・ルネサンス時代の女性ですが、どんな人だったかいろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、イザベラ・デステについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、 イザベラ・デステの生い立ち

イザベラ・デステはイタリア北部のフェラーラの領主で貴族のデステ家に生まれ、当時のイタリアで最高の教育を受け、マントヴァ候夫人として政治や外交にも手腕を発揮、文芸のパトロンとなりファッションなども注目された人。

ルネサンス時代、最も優れた貴婦人と言われた女性の生涯をご紹介しますね。

1-2、イザベラはフェラーラの生まれ

image by PIXTA / 11363945

イザベラは1474年5月18日にフェラーラ(イタリア北部)で生まれました。父はフェラーラ公でデステ家のエルコレ1世デステ、母は正妻のエレオノーラ・ディ・ナポリ(エレオノーラ・ダラゴン)ナポリ王女です。

きょうだいは6人で弟が4人、妹は1人、イザベラは両親のお気に入りだったそう。

イザベラの親戚関係はルネサンスの有名人だらけ
イザベラの妹ベアトリーチェは、ミラノ公ルドヴィーゴ・スフォルツァ(カテリーナ・スフォルツァの叔父)と結婚、弟アルフォンソの最初の妻はカテリーナ・スフォルツァの妹で、2度目の妻はルクレツィア・ボルジアです。

1-3、イザベラは聡明な美少女だった

イザベラは幼いころから大切にされて高度な教育を受け、古典文学に精通した聡明な少女として成長しました。

お父様のエルコレは、まさにルネサンス時代の君主で芸術の庇護者だったため、フランス系フランドル人の音楽家を大勢招聘、詩人のボイアールドを家臣としたり、詩人ルドヴィーコ・アリオストを家令として雇ったりしていたので、イザベラは子供の頃から宮廷に出入りする画家、音楽家、学者たち文化人と交流できる環境で育ったわけです。イザベラは古典文学について議論をし、ときには他国の大使たちと国政に関する意見を交わしたとか、歴史や語学にも造詣があったそう。

2-1、イザベラ、マントヴァ候と結婚

image by PIXTA / 30604475

イザベラは、6歳で8歳年上のマントヴァ候、ゴンザーガ家の跡継ぎのジャン・フランシスコと婚約しました。ジャン・フランシスコは勇敢な人物というのがイザベラの気に入り、政略結婚にも関わらず関係は良好だったそう。

イザベラは婚約中に何度もジャン・フランシスコと会い、手紙もやりとりしていて、もらった詩、ソネットなどを大事に保管するなど関係は良好で、マントヴァ候夫人としての将来への準備も万端となった1490年、イザベラが16歳のときにマントヴァ候フランチェスコ2世となったジャン・フランシスコと正式にご結婚、その後8人の子供が誕生しました。

\次のページで「2-2、イザベラ、夫の不在中にマントヴァの内政も任される」を解説!/

2-2、イザベラ、夫の不在中にマントヴァの内政も任される

マントヴァ侯夫人として入城したイザベラは民衆から大歓迎されました。また夫は傭兵隊長でもあり、ヴェネツィア共和国軍の最高司令官を兼務していたので、会議や戦争でマントヴァを離れてヴェネツィアを訪れたりと、夫が領国不在の間、イザベラがマントヴァの内政を司るようになったということです。

また、イザベラは夫の妹で義妹にあたるウルビーノ公夫人エリザベッタ(イザベラより3歳年上)と親友になり、一緒に読書や小旅行などもするようになったそうで、エリザベッタが亡くなる1526年まで手紙のやり取りが続いたそう。

2-3、夫のジャン・フランシスコ、フランス王シャルル8世を撃破。

1494年、フランス王シャルル8世が、ヴァロワ=アンジュー家からナポリを継承したと主張して、イタリアに遠征してはじまった第一次イタリア戦争では、メディチ家をフィレンツェから追放、翌年にはナポリを占領したが、教皇アレクサンデル6世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、アラゴン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟を結んで対抗。

周辺国をすべて敵にまわしたフランス軍はイタリア各地を逃げまどい、ミラノ近郊で連合軍に捕捉されたのですね。このときにマントヴァ侯ジャン・フランシスコは連合軍の総大将としてフォルノーヴォの戦いで、フランス軍を撃破したということです。

2-4、イザベラ、フランス軍のマントヴァへの不可侵を約束させる

1499年、フランス王ルイ12世が、父オルレアン公からミラノを継承したと主張して、ミラノ出身のジャン・ジャコモ・トリヴルツィオが最高司令官のフランス軍が再びイタリアに侵攻。

1500年にスフォルツァ家のイザベラの妹ベアトリーチェの夫でイザベラの義弟のイル・モーロを幽閉しミラノ公国を征服したとき、イザベラはミラノ公国でフランス王ルイ12世と会見し、マントヴァへのフランス軍の不可侵を約束させたということです。ルイ12世はこのとき、イザベラの魅力と優れた知性に感銘を受けたそうで、イザベラはルイ12世から歓待を受け、フランスの占領下のミラノ難民の保護を依頼。

2-5、夫が捕虜の間、イザベラが事実上の領主に

1509年、夫ジャン・フランシスコが敵の捕虜となってヴェネツィアに幽閉されました。このとき、イザベラがマントヴァ全軍を掌握、1512年に夫が釈放されるまでマントヴァを守り、同年にマントヴァ会議が開かれ、フィレンツェとミラノ公国に関する諸問題が討議されたときは、議長役をつとめたということ。

イザベラは統治者として夫よりも果断で有能なのはあきらかだったので、ジャン・フランシスコが釈放後、イザベラの政治手腕の賞賛ばかり聞かされて憤慨、結婚生活が破綻する羽目に。イザベラはその後は夫にかまわず各地へ旅行することが多くなり、1519年3月、夫ジャン・フランシスコが梅毒で死去するまで気ままな生活をつづけたということ。

2-6、イザベラ、摂政に

1519年、イザベラは45歳で未亡人となり、嫡男フェデリーコ2世がマントヴァ侯位を継承しました。そしてイザベラは摂政として実質的なマントヴァの統治者として、マキャヴェッリの「君主論」を規範とし、建築、農業、産業などを学んで卓越した政治手腕を発揮したということ。

マントヴァの臣民はイザベラに敬意と愛情の念を捧げたといわれ、イザベラはマントヴァだけでなくイタリア全土に大きな影響力を持つようになり、またイタリアでのマントヴァの地位の向上に一役買うことに。

そしてイザベラは息子のマントヴァ侯フェデリーコ2世と神聖ローマ皇帝カール5世の伯母ジューリア・ダラゴーナとの結婚をまとめ、マントヴァを侯国から公国へランクアップにも尽力し、次男エルコレを枢機卿にすることに成功。

2-7、イザベラ、ローマ略奪でも活躍

image by PIXTA / 37474979

1527年、イザベラはマントヴァからローマへ行ったのですが、当時のローマは、神聖ローマ皇帝カール5世軍が侵攻したが、傭兵に給料を払わなかったために起きた兵士らによる有名なローマ略奪の真っ最中でした。

イザベラは自分のローマの邸宅を避難民収容所に開放して、皇帝軍がら逃れてきた約2000名の難民を迎え入れたのですが、イザベラの息子のマントヴァ侯フェデリーコ2世が神聖ローマ皇帝寄りだったので、イザベラの邸宅は皇帝軍の攻撃から免れていたのですね。イザベラは、邸宅の難民の安全を確保できるように全力を尽くして、騒動が沈静化してローマが安定したのを見届けてマントヴァへ戻ったそう。

\次のページで「2-8、イザベラの晩年は、芸術家の保護につとめた」を解説!/

2-8、イザベラの晩年は、芸術家の保護につとめた

晩年のイザベラはマントヴァを文化の中心としての隆盛を目標に、女学校の創設、マントヴァ家の邸宅を優れた美術品を収蔵する美術館として開放したということです。イザベラは60歳代となっても活動力は衰えず、再び政治活動に従事するようになり、1539年2月13日に64歳で死去するまで、エミリア=ロマーニャのソラローロの統治者としての務めを果たし、イザベラの生存中もその死後も、詩人、歴代ローマ教皇、各国の政治指導者たちから賛辞の的だったそう。

3-1、イザベラの逸話

イザベラが家族や友人たちと交わした膨大な量の書簡が現存しているため、イザベラの生涯は当時の女性としては、異例なまでに明確に伝わっているそうです。

3-2、夫とルクレツィア・ボルジアとの不倫関係

イザベラの弟アルフォンソは、1501年にローマ教皇アレクサンデル6世の娘ルクレツィア・ボルジアと結婚、この結婚式はイザベラが取り仕切りました。

ルクレツィアのほうは義姉になるイザベラと仲良くなろうと試みたが、イザベラはルクレツィアを最初から敵とみなし、ライバル視していたということ。そしてルクレツィアと弟の結婚後1年にして、ルクレツィアとイザベラの夫が不倫関係にイザベラはこの不倫関係を黙認していたが、精神的には参っていたということです。またルクレツィアと弟との結婚前、ルクレツィアの兄チェーザレ・ボルジアから娘ルイーズ・ボルジアとイザベラの2歳の嫡男フェデリーコ2世・ゴンザーガとの婚約を申し込まれたが、断ったそう。

3-3、ダ・ヴィンチに肖像画を断られる

Da Vinci Isabella d'Este.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ - Web Gallery of Art:   画像  Info about artwork, パブリック・ドメイン, リンクによる

イザベラはレオナルド・ダ・ヴィンチに自身の肖像画制作を依頼していたが、ダ・ヴィンチが描いたのは一枚のドローイングだけで、彩色はしてもらえなかったそう(ダ・ヴィンチはイザベラの妹のベアトリーチェの彩色付きの肖像画は描いた)。

そしてイザベラはダ・ヴィンチに手紙で、夫がこのドローイングを他人に譲ってしまったから新たな肖像画を描いてほしいと要求、また自身の肖像画以外の絵画の依頼もしたにもかかわらず応じてもらえなかったということです。

3-4、ファッション・リーダーとして地元産業にも貢献

イザベラはファッションでも第一人者であり、毛皮をあしらった(蚤よけ)最上質の衣服などを着用し、自分で香水の調香を行ったそう。イザベラはシンプルな装いを好み、少年のような被り物と胸元を広く開け豪華な刺繍が施されたドレスはイタリアだけでなく、フランス王宮でももてはやされて、フランス王ルイ12世の王妃アンヌ・ド・ブルターニュが、その後もフランソワ1世やカール5世の宮廷でも、イザベラとおなじ服装をまとった人形を送れと依頼してきたということです。

イザベッラは定期的にヴェネツィアとフェラーラで豪華な織物を購入、マントヴァにビロードやサテン、ダマスク織を作る工房を設立したり、刺繍の熟練工を採用、またかつらやマントヴァの名品となった女性用の被り物スクフィオット(肖像画の被り物)を数多く作らせたし、高価な織物も多数製作させたということで、イザベラは豪華な衣装をみせびらかすだけでなく、地元の産業に貢献したということですね。

\次のページで「3-5、肖像画を若く描けと画家にクレーム」を解説!/

3-5、肖像画を若く描けと画家にクレーム

Tizian 056.jpg
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, リンクによる

イザベラは国政をとる余暇に文芸活動に親しんだということで、読書、あちこちに手紙を書きつづり、リュート演奏も好んだそう。そして美術作品の収集や、哲学者、詩人、画家たちの庇護にも積極的で、ティツィアーノ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ベッリーニらを後援したのですが、このティッツァーノの描いたイザベラの肖像画は、じつはイザベラ60歳直前に描かれたそうです。

最初は年相応に描かれたが、イザベラは気に入らず、16歳に見えるように描かなければ牢獄入りだと脅したので、やむを得ずティッツァーノが描きなおしたという話は有名。

ルネサンスを代表する教養も実力もある女性

イザベラ・デステはフェラーラ公の娘として生まれ、ルネッサンス時代としては最高の教育を受けて芸術にも造詣の深い教養ある女性として育ちました。そして6歳のときから婚約していたゴンザーガ家の領主と16歳まで交流して愛をはぐくみ、領主夫人としての心構えもバッチリで満を持して幸せな結婚、夫の留守の間は内政からなにから取り仕切って有能さを発揮しました。

ときはルネサンスのイタリア、周辺には歴史に残る人物ばかりで、夫はなんとイザベラの弟の妻である、あのルクレツィア・ボルジアと不倫関係に陥るわ、スフォルツア家のイル・モーロと結婚した妹ベアトリーチェには富をみせびらかされるわ、ダ・ヴィンチには下絵しか描いてもらえなかったなどという、喜んでいいか悲しんでいいかわからない出来事に遭遇。

そして夫が数年間捕虜で不在中、イザベラが見事に領主として仕切ったのが仇となり結婚生活が破綻してしまうということもありましたが、イザベラのファッションセンスはイタリアだけでなくフランスやスペインまでにも影響を与えたし、内政や外交で手腕を発揮して最高のファースト・レディーといわれ、領民にも敬愛され芸術家のパトロンとなったということで、美貌だけではなく教養も政治手腕もあるルネサンスを代表する貴婦人と歴史に名を残したのでした。

" /> 3分で簡単「イザベラ・デステ」イタリア・ルネサンスを代表する女性をわかりやすく歴女が解説 – Study-Z
イタリアヨーロッパの歴史世界史歴史

3分で簡単「イザベラ・デステ」イタリア・ルネサンスを代表する女性をわかりやすく歴女が解説

今回はイザベラ・デステを取り上げるぞ。イタリア・ルネサンス時代の女性ですが、どんな人だったかいろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、イザベラ・デステについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、 イザベラ・デステの生い立ち

イザベラ・デステはイタリア北部のフェラーラの領主で貴族のデステ家に生まれ、当時のイタリアで最高の教育を受け、マントヴァ候夫人として政治や外交にも手腕を発揮、文芸のパトロンとなりファッションなども注目された人。

ルネサンス時代、最も優れた貴婦人と言われた女性の生涯をご紹介しますね。

1-2、イザベラはフェラーラの生まれ

image by PIXTA / 11363945

イザベラは1474年5月18日にフェラーラ(イタリア北部)で生まれました。父はフェラーラ公でデステ家のエルコレ1世デステ、母は正妻のエレオノーラ・ディ・ナポリ(エレオノーラ・ダラゴン)ナポリ王女です。

きょうだいは6人で弟が4人、妹は1人、イザベラは両親のお気に入りだったそう。

イザベラの親戚関係はルネサンスの有名人だらけ
イザベラの妹ベアトリーチェは、ミラノ公ルドヴィーゴ・スフォルツァ(カテリーナ・スフォルツァの叔父)と結婚、弟アルフォンソの最初の妻はカテリーナ・スフォルツァの妹で、2度目の妻はルクレツィア・ボルジアです。

1-3、イザベラは聡明な美少女だった

イザベラは幼いころから大切にされて高度な教育を受け、古典文学に精通した聡明な少女として成長しました。

お父様のエルコレは、まさにルネサンス時代の君主で芸術の庇護者だったため、フランス系フランドル人の音楽家を大勢招聘、詩人のボイアールドを家臣としたり、詩人ルドヴィーコ・アリオストを家令として雇ったりしていたので、イザベラは子供の頃から宮廷に出入りする画家、音楽家、学者たち文化人と交流できる環境で育ったわけです。イザベラは古典文学について議論をし、ときには他国の大使たちと国政に関する意見を交わしたとか、歴史や語学にも造詣があったそう。

2-1、イザベラ、マントヴァ候と結婚

image by PIXTA / 30604475

イザベラは、6歳で8歳年上のマントヴァ候、ゴンザーガ家の跡継ぎのジャン・フランシスコと婚約しました。ジャン・フランシスコは勇敢な人物というのがイザベラの気に入り、政略結婚にも関わらず関係は良好だったそう。

イザベラは婚約中に何度もジャン・フランシスコと会い、手紙もやりとりしていて、もらった詩、ソネットなどを大事に保管するなど関係は良好で、マントヴァ候夫人としての将来への準備も万端となった1490年、イザベラが16歳のときにマントヴァ候フランチェスコ2世となったジャン・フランシスコと正式にご結婚、その後8人の子供が誕生しました。

\次のページで「2-2、イザベラ、夫の不在中にマントヴァの内政も任される」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: