世界史

5分でわかる「カテリーナ・スフォルツァ」の生涯!イタリアの女傑と呼ばれるのはなぜ?わかりやすく歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回はカテリーナ・スフォルツァを取り上げるぞ。スカートをまくしあげて言ったセリフが有名らしいが、実際はどうだったかとか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

angelica

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、カテリーナ・スフォルツァについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、カテリーナ・スフォルツァはミラノ公の娘

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カテリーナ・スフォルツァは1463年にミラノで生まれました。父はミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、母はルクレツィア・ランドリアーニ、カテリーナは婚外子です。

兄弟は嫡出子の4人の弟妹、のちの当主ジャン・ガレアッツォ・マリーア、エルメス、ビアンカ・マリーア(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の皇后)、アンナ・マリーア(フェッラーラのアルフォンソ1世デステと結婚)と、同母兄弟が兄と弟と妹の3人。

1-2、カテリーナの出生の背景に美貌の母

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ピエロ・デル・ポッライオーロPQEa2M3YbdqfcA at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, リンクによる

このころのイタリアはルネサンス時代でネポティズム(縁故主義)が全盛だったせいもあり、ほかのヨーロッパの国々と違って正式な結婚以外でうまれた庶子たちも嫡出子たちとほとんど変わらない扱いで、一緒に育てられたということです。

カテリーナの場合、母ルクレツィアはランドリアーニ伯爵の夫人となって2人の娘を生んだ、ピエロ・デル・ポッライオーロの肖像画で有名な美人で、夫と知り合いで当時16歳のガレアッツォ・マリーアが20歳だったルクレツィアの美貌に一目惚れ、1460年頃、ルクレツィアを欺いて自分の城砦に呼び寄せて暴行して側室になれと強要したそう。

スフォルツァ家とは
スフォルツァ家は、15世紀中頃から 16世紀初めにかけてミラノを支配したイタリア貴族の家系で、ムツィオ・アッテンドロ (1369~1424)が、スフォルツァ (暴れ者とか、威服者、力強いという意味) と呼ばれてコンドッティエーリ (傭兵隊長) としてミラノ,ナポリの諸国に仕えたのが最初。

息子のフランチェスコはミラノ公ビスコンティの娘と結婚し,ビスコンティの死後に共和国が樹立すると征服してミラノ公となり、ジェノバも支配下におきました。カテリーナの父ガレアッツォ・マリーアはフランチェスコの息子で、3代目

1-3、カテリーナの子供時代は

カテリーナは最初は母ルクレツィア・ランドリアーニのもとで育てられましたが、1466年に父がミラノ公爵を継承したのでルクレツィアの生んだカテリーナらの子供たちはミラノの宮廷に連れてこられて、祖母ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティに養育されました。そして2年後に父がボナ・ディ・サヴォイアと結婚したので、継母に養育されるように。

カテリーナは古典的な教育と、化学や狩猟、傭兵一族スフォルツアの名にふさわしく、政略や軍略を学んだということです。

2-1、カテリーナ、教皇の甥と最初の結婚

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1473年、カテリーナは11歳で、教皇シクストゥス4世の甥(じつは庶子)で40歳のジローラモ・リアリオ伯爵と政略結婚しました。正式な結婚は14歳のときで、ジローラモは教皇領司令官の地位をもらい、ローマの司法権もにぎっていたので、カテリーナと共にローマで暮らしていました。カテリーナはローマの宮廷では、最も社交的な女性として歓迎されましたが、夫の方は最も冷酷な人物と評判で、パッツィ家の陰謀事件の黒幕ともいわれていて、のちに登場するボルジア家そこのけの悪徳貴族だったということ。そしてシクストゥス4世の兄弟が若くして亡くなるとジローラモの権勢は拡大し、シクストゥス4世が買収したイタリア北部のエミリア=ロマーニャ州ボローニャ県にある、イーモラとフォルリの領主をゲット。

しかし1484年にシクストゥス4世が急死後に、ローマでは市民の暴動が起き、ジローラモは教皇の陰で好き勝手していたので、ローマ市民たちは居館のオルシーニ宮殿に侵入して破壊行為も行ったそう。このとき妊娠7ヶ月のカテリーナは馬に乗り兵士たちをひきいてバチカンのサンタンジェロ城へ行き、兵士たちの指揮をとってすべての道に大砲を向けてバチカンを守ったということです。 夫のジローラモは反乱側の枢機卿と交渉し手和平を成立、リアリオ家の領土などと地位の維持を確約し、一家は領地のあるフォルリへ移住することに。

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