今回はカテリーナ・スフォルツァを取り上げるぞ。スカートをまくしあげて言ったセリフが有名らしいが、実際はどうだったかとか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、カテリーナ・スフォルツァについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、カテリーナ・スフォルツァはミラノ公の娘

image by PIXTA / 60509507

カテリーナ・スフォルツァは1463年にミラノで生まれました。父はミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、母はルクレツィア・ランドリアーニ、カテリーナは婚外子です。

兄弟は嫡出子の4人の弟妹、のちの当主ジャン・ガレアッツォ・マリーア、エルメス、ビアンカ・マリーア(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の皇后)、アンナ・マリーア(フェッラーラのアルフォンソ1世デステと結婚)と、同母兄弟が兄と弟と妹の3人。

1-2、カテリーナの出生の背景に美貌の母

Piero del Pollaiuolo - Profile Portrait of a Young Lady - Gemäldegalerie Berlin - Google Art Project.jpg
ピエロ・デル・ポッライオーロ - PQEa2M3YbdqfcA at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, リンクによる

このころのイタリアはルネサンス時代でネポティズム(縁故主義)が全盛だったせいもあり、ほかのヨーロッパの国々と違って正式な結婚以外でうまれた庶子たちも嫡出子たちとほとんど変わらない扱いで、一緒に育てられたということです。

カテリーナの場合、母ルクレツィアはランドリアーニ伯爵の夫人となって2人の娘を生んだ、ピエロ・デル・ポッライオーロの肖像画で有名な美人で、夫と知り合いで当時16歳のガレアッツォ・マリーアが20歳だったルクレツィアの美貌に一目惚れ、1460年頃、ルクレツィアを欺いて自分の城砦に呼び寄せて暴行して側室になれと強要したそう。

スフォルツァ家とは
スフォルツァ家は、15世紀中頃から 16世紀初めにかけてミラノを支配したイタリア貴族の家系で、ムツィオ・アッテンドロ (1369~1424)が、スフォルツァ (暴れ者とか、威服者、力強いという意味) と呼ばれてコンドッティエーリ (傭兵隊長) としてミラノ,ナポリの諸国に仕えたのが最初。

息子のフランチェスコはミラノ公ビスコンティの娘と結婚し,ビスコンティの死後に共和国が樹立すると征服してミラノ公となり、ジェノバも支配下におきました。カテリーナの父ガレアッツォ・マリーアはフランチェスコの息子で、3代目

1-3、カテリーナの子供時代は

カテリーナは最初は母ルクレツィア・ランドリアーニのもとで育てられましたが、1466年に父がミラノ公爵を継承したのでルクレツィアの生んだカテリーナらの子供たちはミラノの宮廷に連れてこられて、祖母ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティに養育されました。そして2年後に父がボナ・ディ・サヴォイアと結婚したので、継母に養育されるように。

カテリーナは古典的な教育と、化学や狩猟、傭兵一族スフォルツアの名にふさわしく、政略や軍略を学んだということです。

2-1、カテリーナ、教皇の甥と最初の結婚

image by PIXTA / 37476106

1473年、カテリーナは11歳で、教皇シクストゥス4世の甥(じつは庶子)で40歳のジローラモ・リアリオ伯爵と政略結婚しました。正式な結婚は14歳のときで、ジローラモは教皇領司令官の地位をもらい、ローマの司法権もにぎっていたので、カテリーナと共にローマで暮らしていました。カテリーナはローマの宮廷では、最も社交的な女性として歓迎されましたが、夫の方は最も冷酷な人物と評判で、パッツィ家の陰謀事件の黒幕ともいわれていて、のちに登場するボルジア家そこのけの悪徳貴族だったということ。そしてシクストゥス4世の兄弟が若くして亡くなるとジローラモの権勢は拡大し、シクストゥス4世が買収したイタリア北部のエミリア=ロマーニャ州ボローニャ県にある、イーモラとフォルリの領主をゲット。

しかし1484年にシクストゥス4世が急死後に、ローマでは市民の暴動が起き、ジローラモは教皇の陰で好き勝手していたので、ローマ市民たちは居館のオルシーニ宮殿に侵入して破壊行為も行ったそう。このとき妊娠7ヶ月のカテリーナは馬に乗り兵士たちをひきいてバチカンのサンタンジェロ城へ行き、兵士たちの指揮をとってすべての道に大砲を向けてバチカンを守ったということです。 夫のジローラモは反乱側の枢機卿と交渉し手和平を成立、リアリオ家の領土などと地位の維持を確約し、一家は領地のあるフォルリへ移住することに。

\次のページで「2-2、カテリーナの夫ジローラモが暗殺、反乱に発展」を解説!/

パッツィ家の陰謀とは
教皇シクストゥス4世がイーモラとフォルリを買収して息子の領地としたことで、近隣のフィレンツェのメディチ家とライバルとなり対立。シクストゥス4世は教皇庁の金融を担当していたメディチ銀行の地位を奪って、同じフィレンツェに本拠を置くメディチ家のライバルのパッツィ銀行に委譲したので、メディチ家とパッツィ家の対立が激化。

1478年4月、ライバルであるメディチ家当主のロレンツォ・デ・メディチらをサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でのミサで、ピサ大司教とパッツィ銀行ローマ支店長らが襲撃して、ロレンツォの庶弟のジュリアーノが殺害された事件で、カテリーナの夫ジローラモが黒幕とされるそう。

2-2、カテリーナの夫ジローラモが暗殺、反乱に発展

新教皇にイノケンティウス8世が選ばれると、夫ジローラモの教皇領司令官の実権ははく奪され、新教皇の庶子がイーモラとフォルリの領主に据える陰謀が。

そしてイーモラとフォルリの領地では、夫ジローラモは領主として税金をしぼり取るだけしぼりとり、領民を苦しめていたのですが、カテリーナ25歳のとき、1488年に夫のジローラモがフォルリのシニョーリア宮殿で反乱によって役人チェッコ・オルシーニら3名の主導で暗殺。裸にされて窓から放り投げられた遺体は、八つ裂きにされるというすごさだったそう。この事件の黒幕はロレンツィオ・デ・メディチだったという説も。

2-3、カテリーナらも捕虜に

カテリーナは窓から家臣のルドヴィーコ・エルコラーニに、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオと実家の異母弟であるジャン・ガレアッツォ・スフォルツァに知らせるよう指示。そして家臣たちには、ラヴァルディーノ城の要塞に集結し死守するよう命令しました。

このあと、居住していたシニョーリア宮殿は略奪され、カテリーナは母ルクレツィア・ランドリアーニ、異母姉ビアンカ・ランドリアーニとステッラ・ランドリアーニ、継子を含む6人の子供たちと共に捕虜となってオルシーニ邸に連行

2-4、カテリーナ、反乱軍に立ち向かう

捕虜となったカテリーナは、籠城している兵士たちを降伏するよう説得すると言って拘束を解かれて城内に入りました。

しかし、いつまで待っても兵士もカテリーナも出てこないので、反乱軍がカテリーナの5人の子供たちを連れてきて、城壁の向こうにむかって、出てこなければ殺すぞと脅したところ、城壁の上にカテリーナが姿を現して、おもむろにスカートをまくり上げて、「子供なんて、ここからいくらでも出てくる」と叫んだと言われています。この出来事でカテリーナは、イタリアどころかヨーロッパ中に「イタリアの女傑(ヴィラゴ・ディタリア)」と勇名がとどろいたということです。

そして反乱軍はあっけにとられて戦意を喪失している間に、カテリーナの実家の叔父ルドヴィーコ・イル・モーロ(ダ・ヴィンチの初期のパトロンで、「最後の晩餐」を依頼)からの援軍がやってきたため、反乱軍は散り散りに逃亡。

カテリーナは事前に敵に捕らわれる前に兵士たちに籠城するよう命令し、実家のスフォルツア家に援軍を頼む使者を送って、時間稼ぎをしていたということで、これはまんまと成功し、カテリーナの子供たちも無事に保護

その後、カテリーナは反逆者たち全員とその家族を投獄し、壮絶な拷問にかけ、夫とおなじように裸で窓から投げ捨てて八つ裂きにしたといわれていますが、この当時としては普通であって、それほど過酷に思われることではなかったそうです。

Caterina Sforza.jpg
ロレンツォ・ディ・クレディ - http://www.asn-ibk.ac.at/bildung/faecher/geschichte/maike/monalisa/genealogy/073.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

カテリーナ伝説の真実は
このカテリーナがスカートをまくり上げて言い放った言葉は大変に有名で、カテリーナが女傑、女虎といわれた根拠にもなっているのですが、事実とは異なると言われています。

実際は、カテリーナが城塞に入ったのちに、城内の兵士の代表が城壁にあらわれて、カテリーナとオルシーニ派の貴族たちとの人質交換を申し出、反乱軍のオルシーニ兄弟らが、カテリーナの子供たちや異父姉たち人質を連れだし、槍や短剣を突きつけて脅したが、カテリーナは姿を現さずに兵士の代表がカテリーナがジローラモ・リアリオの子を妊娠中だと宣言したということ。この現場を目撃していたコベッリとベルナルディのあらわした年代記には、カテリーナは城から出なかったと記載され、当時の文献からはカテリーナが妊娠中であったとあるそうです。

そしてカテリーナがスカートをめくりあげて言ったという話は、あのマキアヴェッリが「政略論」第3巻第6章で記述しているのが最初らしく、マキャヴェッリが劇的に表現した創作ではということ。

この根拠は、12世紀のイングランドで、ヘンリー2世の母マティルダ王女側についていた貴族のジョン・マーシャルが、スティーブン王に息子のウイリアム(のちの初代ペンブルック伯)を人質に捕られて寝返るよう脅された時に、やはり息子ならもっと立派なのをいくらでも作れる、ハンマーも金とこも持っていると言ったという伝説があり、暴君ネロの母アグリッピナは、息子の皇帝が派遣した近衛兵に殺されるときに、股(または腹)に指をさし「刺すならここを刺すがいい。ネロはここから生まれてきたのだから」と言ったという伝説もあるので、これを基にした創作、または言い回しのひとつで慣用句かもという話も。

\次のページで「2-5、カテリーナ、幼い長男オッタヴィアーノの摂政に」を解説!/

2-5、カテリーナ、幼い長男オッタヴィアーノの摂政に

しかしカテリーナの夫暗殺後の反乱軍に対する行動は、カテリーナの有能さがあらわれた出来事と見なされたようで、教皇イノケンティウス8世は、カテリーナの長男で10歳のオッタビアーノ・リアリオをイーモラとフォルリの領主として承認、カテリーナはその後見人となって事実上の女領主として取り仕切るようになりました。

カテリーナは自ら兵士を組織し、城壁の守りを強固にするために、それまでの重税でただでさえ困窮している領民にさらに重税を課したということです。

3-1、ジャコモ・フェオと2度目の結婚

未亡人となったカテリーナは、8歳年下の守備隊長で美青年のジャコモ・フェオと恋に落ちたということです。カテリーナは身分違いで反対されるのにもかまわず結婚、フェオ可愛さに重要な役職を与えたため、フェオはカテリーナの長男で領主のオッタビアーノに対しても義父として傲慢にふるまうようになり、カテリーナの政治にも口を出すように。

またカテリーナは母方の親族のランドリアーニ一族を各砦の城代に置いたりしたために、リアリオ家の支持者たちは、カテリーナの専横ぶりが本来の領主のオッタビアーノの立場を弱めると心配、結局、フェオはオッタヴィアーノの側近に1495年に暗殺されたということ。なお、カテリーナとフェオの間には2人の子供が誕生。

言うまでもなく、カテリーナはフェオの死を嘆き悲しみ激怒して、フェオの暗殺に関わった家臣たち、家族や幼い子供たちに至るまで捕らえて拷問して虐殺

カテリーナのあまりの残虐な行為に、民衆はドン引きし、支持を失ったということです。

3-2、ジョヴァンニ・デ・メディチと3度目の結婚

1496年、フィレンツェの大使でメディチ家の分家筋にあたるジョヴァンニ・デ・メディチ(イル・ポポラーノ)29歳がイーモラを訪問したとき、33歳のカテリーナは一目ぼれし、ジョヴァンニもカテリーナのとりこになったそう。またカテリーナは実家のミラノ以外にも強力な後ろ盾が必要だったために、メディチ家とフィレンツェの支援を期待したということで、1497年に結婚、しかし2年後にジョヴァンニは病死。

2人の間にはルドヴィーコという男児が生まれたのですが、ジョヴァンニが亡くなったのちにカテリーナは息子に2度目の洗礼を受けさせてジョヴァンニと改名。この子は11歳でカテリーナが亡くなった後、メディチ家出身の教皇レオ10世に軍人として育てられました。そしてイタリア戦争では教皇軍の指揮を執って皇帝カール5世に立ち向かい、コンドッティエーレ(傭兵隊長)、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(教皇の死で喪章をつけたため、黒帯、黒備えのジョヴァンニ)と呼ばれ、息子のコジモはトスカナ大公となり、子孫はヨーロッパの王族と姻戚関係に。

4-1、カテリーナ、チェーザレ・ボルジアと戦う

1494年、フランス王シャルル8世がナポリに侵攻してイタリア戦争がぼっ発、カテリーナの叔父ミラノ公ルドビーコ・スフォルツア(イル・モーロ)はフランス王を誘った張本人で、教皇アレクサンデル6世とリアリオ枢機卿は反対する立場だったということで、フォルリは小さな都市ながら地理的に南北の通路の要衝だったため中立を保ち、フランス軍の通過を認めざるを得なかったとういことです。

その後アレクサンデル6世が反フランス連合を結成して、フランス軍をイタリアから追い出すことができたが、1499年11月に、アレクサンデル6世が宣戦布告し、息子のチェーザレ・ボルジアがルイ12世からのフランスの応援部隊とスイス、スペイン、イタリア各地のコンドッティエーレ(傭兵)で構成された15000の教皇軍を率いて、イーモラ及びフォルリへ向けて進軍。カテリーナは、チェーザレの侵攻前、教皇アレクサンデル6世にあてて毒薬入りの手紙(疫病の患部にこすりつけた手紙を)を送ったものの、アレクサンデル6世には届かずに未遂に。

カテリーナはチェーザレの侵攻前に、子供たちや財産をフィレンツェに送り、フォルリでの防戦準備をしたが、領内は親チェーザレ派と反チェーザレ派に2分された状態だったそう。そしてカテリーナは鉄壁の要塞で果敢に戦ったのですが、2か月にわたる攻防の末に、なんとカテリーナの悪政に苦しむ領民たちが自らの手で城塞の門を開いてチェーザレ・ボルジア軍をひきいれたため、カテリーナ軍は敗北し、カテリーナは捕虜となりました。

マキャヴェッリは「君主論」の中で、カテリーナが城塞ではなく、人心を得るべきだったと書いているそう。

\次のページで「4-2、カテリーナ、領民に拒否されフィレンツェへ」を解説!/

4-2、カテリーナ、領民に拒否されフィレンツェへ

image by PIXTA / 36959720

カテリーナはローマへ連れていかれ、サンタンジェロ城に幽閉。4年後の1503年、ボルジア家のアレクサンデル6世が死去し、チェーザレも重病でボルジア家の力が凋落。

この機に乗じて、グイドバルドやバリオーニといった貴族たちは、チェーザレに奪い取られた元々の領土をとりもどして、領主に返り咲いたのですが、なんとカテリーナとリアーリオ家の領地であるイーモラやフォルリはカテリーナの帰還を拒んでチェーザレについたということです。ということで、カテリーナは教皇ユリウス2世(デラ・ロベーレ枢機卿)に領地の返還を望んだが、領民に拒否されたためにイーモラとフォルリの放棄に同意したうえで釈放。

その後は、フィレンツェに亡命して子供たちと再会し、落ち着いた生活を送ったということで、1506年、46歳で肺炎で死去。サンタ・マリア・デ・ムラーテ修道院に埋葬されたが、その後修道院もろとも墓も取り壊されて行方不明だそう。

ルネサンス時代の女傑として名を残した

カテリーナ・スフォルツァは傭兵隊長から成りあがったミラノ公爵と有名な美女の母との庶子として生まれました。当時の風潮として庶子ではあっても大事に育てられ、ときのローマ教皇シクストゥス4世の庶子と政略結婚。ローマの社交界をにぎわしたが、ローマ教皇シクストゥス4世の死後、ローマを追われて夫の領地のあるイタリア北部へ引っ込んで暮らすことに。

しかし陰謀家で圧政を敷いた夫が暗殺され反乱がおこったときに、カテリーナは反乱軍を相手にあっけにとられる行動で反乱を鎮圧し、また夫の復讐で暗殺者とその家族たちを処刑しちゃったために女傑といわれることに。その後も美形の家臣と結婚したが、この二度目の夫が横暴で息子の側近に暗殺されるとまたカテリーナは怒り狂って残酷な復讐をし、圧政も敷いたために領民から総スカンを食う羽目に。そしてあのチェーザレ・ボルジアが攻めてきても逃げることなく戦った勇敢さは讃えられたが、領民に嫌われて裏切られたために敗北、捕虜になりました。

カテリーナがスカートをまくり上げて言ったことはマキャヴェッリの創作で史実ではないようですが、勇猛果敢、裏を返せば傲慢で横暴な女領主としての行動はほんとうだったということで、やはりマキャヴェッリの「城塞にお金を使うより人心をとらえたほうがよかった」という批判に尽きるような気がしますね。

" /> 3分で簡単「カテリーナ・スフォルツァ」の生涯!イタリアの女傑と呼ばれるのはなぜ?わかりやすく歴女が解説 – Study-Z
イタリアヨーロッパの歴史世界史歴史

3分で簡単「カテリーナ・スフォルツァ」の生涯!イタリアの女傑と呼ばれるのはなぜ?わかりやすく歴女が解説

今回はカテリーナ・スフォルツァを取り上げるぞ。スカートをまくしあげて言ったセリフが有名らしいが、実際はどうだったかとか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパ史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、カテリーナ・スフォルツァについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、カテリーナ・スフォルツァはミラノ公の娘

image by PIXTA / 60509507

カテリーナ・スフォルツァは1463年にミラノで生まれました。父はミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、母はルクレツィア・ランドリアーニ、カテリーナは婚外子です。

兄弟は嫡出子の4人の弟妹、のちの当主ジャン・ガレアッツォ・マリーア、エルメス、ビアンカ・マリーア(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の皇后)、アンナ・マリーア(フェッラーラのアルフォンソ1世デステと結婚)と、同母兄弟が兄と弟と妹の3人。

1-2、カテリーナの出生の背景に美貌の母

Piero del Pollaiuolo - Profile Portrait of a Young Lady - Gemäldegalerie Berlin - Google Art Project.jpg
ピエロ・デル・ポッライオーロPQEa2M3YbdqfcA at Google Cultural Institute, zoom level maximum, パブリック・ドメイン, リンクによる

このころのイタリアはルネサンス時代でネポティズム(縁故主義)が全盛だったせいもあり、ほかのヨーロッパの国々と違って正式な結婚以外でうまれた庶子たちも嫡出子たちとほとんど変わらない扱いで、一緒に育てられたということです。

カテリーナの場合、母ルクレツィアはランドリアーニ伯爵の夫人となって2人の娘を生んだ、ピエロ・デル・ポッライオーロの肖像画で有名な美人で、夫と知り合いで当時16歳のガレアッツォ・マリーアが20歳だったルクレツィアの美貌に一目惚れ、1460年頃、ルクレツィアを欺いて自分の城砦に呼び寄せて暴行して側室になれと強要したそう。

スフォルツァ家とは
スフォルツァ家は、15世紀中頃から 16世紀初めにかけてミラノを支配したイタリア貴族の家系で、ムツィオ・アッテンドロ (1369~1424)が、スフォルツァ (暴れ者とか、威服者、力強いという意味) と呼ばれてコンドッティエーリ (傭兵隊長) としてミラノ,ナポリの諸国に仕えたのが最初。

息子のフランチェスコはミラノ公ビスコンティの娘と結婚し,ビスコンティの死後に共和国が樹立すると征服してミラノ公となり、ジェノバも支配下におきました。カテリーナの父ガレアッツォ・マリーアはフランチェスコの息子で、3代目

1-3、カテリーナの子供時代は

カテリーナは最初は母ルクレツィア・ランドリアーニのもとで育てられましたが、1466年に父がミラノ公爵を継承したのでルクレツィアの生んだカテリーナらの子供たちはミラノの宮廷に連れてこられて、祖母ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティに養育されました。そして2年後に父がボナ・ディ・サヴォイアと結婚したので、継母に養育されるように。

カテリーナは古典的な教育と、化学や狩猟、傭兵一族スフォルツアの名にふさわしく、政略や軍略を学んだということです。

2-1、カテリーナ、教皇の甥と最初の結婚

image by PIXTA / 37476106

1473年、カテリーナは11歳で、教皇シクストゥス4世の甥(じつは庶子)で40歳のジローラモ・リアリオ伯爵と政略結婚しました。正式な結婚は14歳のときで、ジローラモは教皇領司令官の地位をもらい、ローマの司法権もにぎっていたので、カテリーナと共にローマで暮らしていました。カテリーナはローマの宮廷では、最も社交的な女性として歓迎されましたが、夫の方は最も冷酷な人物と評判で、パッツィ家の陰謀事件の黒幕ともいわれていて、のちに登場するボルジア家そこのけの悪徳貴族だったということ。そしてシクストゥス4世の兄弟が若くして亡くなるとジローラモの権勢は拡大し、シクストゥス4世が買収したイタリア北部のエミリア=ロマーニャ州ボローニャ県にある、イーモラとフォルリの領主をゲット。

しかし1484年にシクストゥス4世が急死後に、ローマでは市民の暴動が起き、ジローラモは教皇の陰で好き勝手していたので、ローマ市民たちは居館のオルシーニ宮殿に侵入して破壊行為も行ったそう。このとき妊娠7ヶ月のカテリーナは馬に乗り兵士たちをひきいてバチカンのサンタンジェロ城へ行き、兵士たちの指揮をとってすべての道に大砲を向けてバチカンを守ったということです。 夫のジローラモは反乱側の枢機卿と交渉し手和平を成立、リアリオ家の領土などと地位の維持を確約し、一家は領地のあるフォルリへ移住することに。

\次のページで「2-2、カテリーナの夫ジローラモが暗殺、反乱に発展」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: