

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、筒井順慶について5分でわかるようにまとめた。
1-1、筒井順慶の生い立ち
筒井順慶(つついじゅんけい)は、天文18年(1549年)に大和国の筒井城主で戦国大名、筒井順昭(じゅんしょう)の長男として生まれました。母は正室の山田道安の娘大方殿です。きょうだいは姉妹が3人。諱は藤勝から藤政、剃髪して陽舜房順慶。
なお、明智光秀が順慶の兄という説もあるそう。
こちらの記事もおすすめ

「明智光秀」を元塾講師がわかりやすく解説!5分でわかる本能寺の変だけじゃない「明智光秀」の一生 – Study-Z ドラゴン桜と学ぶWebマガジン
1-2、筒井氏は、僧兵が武士化した家
筒井氏はもとは大神神社の神官大神氏の一族と言われていて、大和の国の有力寺院だった興福寺の一乗院に属していた有力宗徒で、代々興福寺一条院方の衆徒の頭、棟梁として菅符衆徒という立場の衆徒を取り締まる地位にあったということ。
いわば僧兵の武士化で順慶の父順昭の代に大和国最大の武士団となって、筒井城を拠点にした戦国大名にランクアップ。順昭は、大和に勢力を持っていた春日大社の神人の家柄の越智氏に対抗して、当時畿内の実力者だった木沢長政と手を結んで勢力を拡大し、木沢長政の死後、長政の残存勢力を破って、袂を分かっていた十市遠忠と講和しました。
ということで、順昭は大和一国をほぼ手中に収め、筒井氏の全盛期だったのですが、1549年4月、病気(天然痘、脳腫瘍説あり)を苦にして45人の供衆を連れて比叡山に入り、当時2歳だった順慶に跡を譲って翌年に28歳で死去。
「元の黙阿弥」は実話だった
「元の黙阿弥」(または木阿弥)とは、ものごとが振り出しにもどるとか、よくなったのにまた元の状態になってしまうという意味で使われていますが、この話のもととなったのが、順慶の父順昭の病死カモフラージュ事件。
1550年、順慶の父の順昭が亡くなる前、自分の跡は2歳の息子の順慶が継ぐことを家臣に誓わせ、自分の死を1年間(数年という説も)は秘して、自分の身代わりの影武者を置くように命令、ということで奈良にいた順昭とよく似た盲目の黙阿弥をつれてきて、病床で寝かせることにしたのですね。そして父順昭はこっそりと葬られ、黙阿弥が順昭として病床にという状態になったが、他勢力は順昭が生きていると思いこみ、筒井城に攻め込めなかったそう。その間に筒井家家臣はいろいろと手を打ち、準備万端のあとで順昭の死を発表したということです。
なお、黙阿弥は病気の殿様として扱われて良い暮らしを体験、しかし影武者の役割終えたのちは何の報酬もなく、ふたたび元の生活に戻ったために「元の黙阿弥」という言葉が出来たという話です。

順慶の父は、病床で寝ているという偽装だけで存在感があったということか
1-3、順慶の子供の頃、大和の国の状況は
当時の大和国は「大和四家」と呼ばれる筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏、僧兵を擁した興福寺の勢力が強いところで、守護職が存在していなかったのですが、1559年から三好長慶の寵臣だった松永弾正久秀が侵攻、1562年、筒井氏と協力関係だった十市遠勝(とおちとおかつ)が久秀に降伏、自分の娘と重臣の息子を人質として久秀の多聞山城に送って旧領を維持するなどで、筒井氏にとって厳しい情勢のなか、筒井家は父の弟の順政(じゅんせい)が順慶の後見人となっていたが、1564年に叔父の順政が病死。
2-1、順慶、叔父の死で松永久秀に城を追われる
投稿者が撮影 – ブレイズマン (talk) 09:47, 29 November 2008 (UTC), CC 表示-継承 3.0, リンクによる
1565年8月、三好義継と三好三人衆、松永久通(久秀の息子)の軍勢が将軍足利義輝を暗殺した永禄の変がぼっ発しました。しかし11月に、松永久秀と三好三人衆が決裂、大和の国を狙っていた久秀は、後ろ盾の叔父が亡くなり基盤が揺らいでいる順慶の筒井城(現奈良県大和郡山市筒井町)を奇襲攻撃。
順慶の筒井家の影響下にあった箸尾高春、高田当次郎が筒井家を見限って寝返ったため、16歳の順慶は居城筒井城を追われるはめに。居城を追われた順慶は、一族の布施左京進のいる大和布施城(現奈良県葛城市)に逃走。一部には河内国へ逃れたという信ぴょう性のない話も。 こののち順慶は、布施氏のもとで力を蓄えたのち、離反した高田当次郎の居城である高田城を攻撃しました。
以来、順慶と久秀の13年に及ぶ抗争がスタートすることに。
こちらの記事もおすすめ

三好長慶の後を継いだ「三好義継」とは?なぜ三好政権を滅ぼした?わかりやすく歴女が解説 – Study-Z ドラゴン桜と学ぶWebマガジン
2-2、順慶、三好三人衆とむすび、筒井城奪還に成功

順慶は1566年に、久秀軍に対しての反撃を開始しました。順慶は三好三人衆と結託し、筒井城の奪還を企図し、4月11日から21日にかけて両軍の間での戦闘で美濃庄城を孤立させて降伏させたそう。
そして5月19日、久秀は河内で同盟関係であった畠山氏、遊佐氏と合流し、堺で三好義継との間で戦闘が行われたのですが、その間に、順慶は隙をついて筒井城の奪還を画策して、筒井城周囲の久秀の陣所を焼き払いました。しかし堺で戦闘中の久秀は、筒井城の救援には向かえず、久秀の友人の堺の会合衆だった能登屋、臙脂屋(べにや)に斡旋させて三好義継と和睦を結んだあと、5月30日に失踪。
順慶は筒井城の周囲の陣を焼き払い、外堀を埋め、本格的に城の奪還に着手し、6月8日には筒井城を奪還したそう。筒井城を奪還した順慶は春日大社に参詣、宗慶大僧都を戒師として得度し藤政から陽舜房順慶と改名。翌年には再び三好三人衆、篠原長房と結んで奈良の東大寺大仏殿を占拠し要塞化、多聞城の久秀と対峙したが、10月10日久秀軍が東大寺に討ち入り、大仏殿が久秀軍の失火で焼け落ち大仏の首が落ちて仏像が溶ける事態となったが、このときは久秀側の勝利に。 その後、順慶は1568年に信貴山の戦いで信貴山城を奪取。
3-1、信長の上洛で、順慶対久秀の戦いも激化
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛、畿内の勢力に多大な影響を与えました。信長包囲網に加わった三好三人衆は、信長が9月に駆逐、三好三人衆が奉じた14代将軍足利義栄も一度も上洛できずに病死したため、義昭が15代将軍に就任し、機内は信長が平定。
久秀は信長と将軍義昭にさっさと臣従し、足利幕府の直臣となって、大和一国を「切り取り次第」とされたそう。久秀は、信長軍の佐久間信盛、細川藤孝らの援軍で、わずか4カ月で信貴山城を奪い返したということで、信長への対応の遅れもあり、劣勢となった順慶を見限って、家臣たちのうち菅田備前守などが順慶から離反、七條を焼き討ちしたということです。
そして久秀は、郡山辰巳衆を統率して再び筒井城を奪取、順慶は叔父の福住順弘の下福住城に逃げ、新たに辰市城を築いて勢力回復に専念後、十市城を攻め落とし、久秀方の城の窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城するなど、久秀と渡り合うための準備をたなど勢力をじわじわ盛り返してきました。
その一方で、信長と久秀との関係が悪化し、久秀は武田信玄と通じて篠原長房や有岡城の荒木村重らと結託し、和田惟政らの城を攻めたので、足利義昭は順慶に接近、九条家の娘を養女として順慶に嫁がせたそう。順慶は1571年には辰市城(現奈良県奈良市)を築かせて、この城に攻めてきた久秀、三好義継連合軍を破り、筒井城を奪還。なお、筒井城に順慶が入ったことで松永の信貴山城と多聞山城は連絡が分断されることになり、久秀にとっては不利な状況に。この年、順慶は明智光秀の仲介で信長に臣従し、佐久間信盛の仲介で信長に臣従した久秀と和睦。
こちらの記事もおすすめ

室町幕府最後の将軍「足利義昭」をわかりやすく歴女が解説 – Study-Z ドラゴン桜と学ぶWebマガジン
3-2、順慶、光秀の与力に
順慶は、1575年2月、信長の娘か妹を妻に迎え(光秀の娘を信長の養女とした説も)、信長の武将の原田直政(塙ばん直政)が大和守護に任命されたので、順慶はその与力となって、同年5月の長篠の戦いには信長軍に鉄砲隊50人を供出し、8月の越前一向一揆攻略では、原田直政が率いた大和軍勢の隊で参戦しましたが、原田直政が翌年5月に石山本願寺戦の三津寺砦攻めで戦死したため、順慶が大和の国支配を任され、明智光秀の与力となったということ。
5月22日には、人質として差し出していた順慶の母が帰国したため、母の帰国を許可されたことの返礼も兼ねて、順慶は築城中の安土城を訪問、信長に拝謁し、太刀二振に柿、布などを献上、信長から縮緬や馬を賜ったそう。
こちらの記事もおすすめ

戦国最強と呼ばれていた武田氏が敗れた「長篠の戦い」を戦国通サラリーマンが5分で解説 – Study-Z ドラゴン桜と学ぶWebマガジン
3-3、順慶、信長に反乱した久秀攻めの先鋒に

1577年、順慶は信長方の他の諸将と共に紀州征伐に赴いて、雑賀一揆の反乱を鎮圧。そして松永久秀が信長に対して再度反乱を企てたため、順慶は信貴山城攻めの先鋒となって片岡城を陥落させたのちに信貴山城へ総攻撃をおこない、10月10日、遂に信貴山城は陥落、久秀父子は切腹または焼死。久秀は、信長が久秀親子の助命と引き換えに欲しがった古天明平蜘蛛の茶釜を爆発で粉々にしちゃったという話はこのときのこと。
また「大和軍記」によれば、信貴山城陥落の際、順慶が本願寺の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩して落城に貢献、「大和志科」には、順慶が久秀の遺骸を回収して、達磨寺に手厚く葬ったとあるそう。なお、「和洲諸将軍伝」では、久秀の遺骸を回収し葬った人物は入江大五良と記述。
久秀父子の滅亡で大和は平定されたため、信長の命令で龍王山城を破却し、4月には、播磨攻めに参戦して6月には神吉頼定が籠城していた神吉城(かんき、現兵庫県加古川市)を攻撃し、10月には、石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を制圧。1579年には、荒木村重が信長に反逆したため有岡城攻めに参加と、目まぐるしく転戦したということです。
3-4、順慶、郡山城を築城、大和国を任される
1580年、順慶は居城を筒井城から郡山城へ移転する計画を立てたのですが、8月に信長に本城以外の城の破却を促す命令が出たため、順慶は筒井城などの支城を破却し、築城した郡山城に移転しました。これは筒井城が低地だったので、水害に遭いやすかったからだそう。
同年9月、明智光秀と滝川一益が奉行として派遣され、順慶とともに信長から命じられた大和一帯の差出検地を行ったが、10月、もと筒井家配下だったが、松永久秀に追従していた者たちが、信長に一度離反した咎をもって光秀らの主導で処断を受けたそう。そして順慶は11月7日付「国中一円筒井存知」の信長朱印状で、正式に大和一国が任され、郡山城に入城。
同年、天正伊賀の乱がぼっ発し、順慶は信長の次男織田信雄隊に属して、9月に大和から伊賀へと進攻して、蒲生氏郷隊と比自山の裾野に布陣したが、伊賀衆の夜襲のために3700の手勢半数を失ったということで、順慶も危ないところを、伊賀の地理に精通していた家臣の菊川清九郎に救われたということです。
こちらの記事もおすすめ

織田四天王の一人「滝川一益」清州会議が運命を左右した?そんな勇将を歴女が解説 – Study-Z ドラゴン桜と学ぶWebマガジン
明智光秀との関係
順慶は信長に臣従するとき、光秀が仲介者だったこと、その後は光秀の与力として戦陣で一緒に過ごすことが多かったよう。そして光秀に築城技術など色々なことを教えてもらい、また光秀と順慶は茶湯、謡曲、歌道など文化、教養面に秀でていたため、信長の武将の中でも光秀との関係は深かったということです。
なお、光秀の娘を順慶の養子の定次の嫁に迎えた、または光秀の息子の一人を順慶の養子にして姻戚関係があったという話もあるのですが、明智家も筒井家も滅びてしまったために資料が少なく確認がとれないということ。
4-1、本能寺の変後の順慶の去就は
1582年、本能寺の変がぼっ発。信長を倒した光秀は、順慶にとって信長への臣従を斡旋してくれた恩人であり、縁戚関係にもありました。光秀は当然、順慶の協力を期待して書状を送ったはず。
順慶は大和郡山城にいて、どうすべきか、福住順弘、布施左京進、慈明寺順国、箸尾高春、島清興(左近)、松倉重信といった一族や重臣を集めて軍議。その後も評定を重ねて、河内国へ軍を差し向ける計画もあったが、結局は食料を備蓄させて篭城することになり、6月10日には誓紙を書いて羽柴秀吉への恭順を決意、同日に光秀の家臣藤田伝五郎が光秀への加勢を促すために郡山城を訪れときは追い返したということです。
このときになかなか動かない順慶を威嚇する目的で、山城、摂津、河内の国を見おろす位置にある洞ヶ峠(現京都府八幡市)に陣を敷いたのは、光秀の方だったそう。順慶は辰市近隣(奈良県北東部)まで派兵しましたが、積極的には動かず、また消極的ながら近江に兵を出して光秀に協力したともいわれていて、6月11日には、大和の国では順慶が郡山で切腹したという噂など、流言蜚語が飛びかったということです。
こちらの記事もおすすめ
「洞ヶ峠を決め込む」の真実
洞ヶ峠を決め込むというのは、信念を持たずに形勢をうかがって、 優勢なほうに荷担しようと待機する日和見的な態度に使われています。
これが、本能寺の変後に光秀が順慶に書状を送り味方になるよう要請してきたとき、順慶が天王山が南に見える洞ヶ峠に陣取って、光秀と秀吉との山崎合戦の戦況をみて有利な方に味方しようとしたことから日和見主義の代名詞として筒井順慶の洞ヶ峠が使われるようになったのですね。しかし実際は、洞ヶ峠に陣取ったのは大和郡山城の順慶にプレッシャーを与えるための光秀のほうだったということで、言われていることと史実は違う典型的な例かも。

なるほど、世間的には光秀に味方しなかったことが日和見で、場所は違うという虚実取り混ぜた話が出来上がったのかも
4-2、順慶、山崎合戦に勝利した秀吉に臣従

光秀は順慶が動かないので下鳥羽に軍を返し、6月13日に山崎の合戦で秀吉と戦って敗れ、落ち武者狩りの手にかかって死亡。
その翌日に、順慶は大和を出立して京都醍醐へ赴き羽柴秀吉に拝謁したが、秀吉には遅い参陣を叱責されたため、秀吉の叱責で順慶が体調を崩したという噂が奈良一円に伝播したということです。そして6月27日には、織田家の後継者を選別する清洲会議がおこなわれ、秀吉は信長嫡孫の三法師を抱いて出席して織田家の後継者の後見人となったが、順慶は他の武将達と共に待機。7月11日には、秀吉への臣従の証として、養子で従弟、甥でもある定次を人質として差し出し、順慶は秀吉の家臣として大和の所領は安堵されました。
順慶は1584年頃から胃痛を訴えて床に臥すことが多かったのですが、同年の小牧、長久手の戦いへの出陣を促されて、病気をおして伊勢、美濃へ転戦したのち大和に帰還、程なく36歳で病死。筒井家は22歳の甥の定次が継承しました。
5-1、順慶の死後の筒井家は
筒井家のその後、有名な重臣についてご紹介しますね。
\次のページで「5-2、島左近」を解説!/