今回はそんな「道鏡」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。
ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平安時代は得意分野。
権勢を強める藤原氏
日本史序盤に必ずと言っていいほど出てくる「藤原氏」。藤原氏の隆盛の発端がちょうど「道鏡」と時代を同じくするころでした。
そのきっかけは、藤原不比等の娘・光明子が日本史上初皇族出身ではない皇后となったことに始まります。天然痘の流行によって一時的に藤原氏の力が弱まるものの、聖武天皇と光明子こと「光明皇后」の間に生まれた孝謙(こうけん)天皇に譲位されると、光明皇后が信頼を寄せる甥の「藤原仲麻呂」を重用したのです。
このころの光明皇后の権勢はすさまじく、皇后を後ろ盾とした藤原仲麻呂は橘諸兄らライバルを失脚させ次々と朝廷から追い出しました。さらには藤原仲麻呂と懇意だった大炊王(おおいおう)を皇太子に擁立。強引に孝謙天皇から大炊王へ譲位させ、淳仁天皇(大炊王)が即位します。孝謙天皇も母(光明皇后)がそう言うのなら、と従っていたようです。
淳仁天皇のもとで藤原仲麻呂は政権を握り、徳治政策と同時に官名などを当時の中国を支配していた「唐」っぽく改めさせる「唐風政策」を推し進めていました。その一環として自らの名前もまた藤原仲麻呂から「恵美押勝(えみのおしかつ)」へと改めます。
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揺らぎ始める藤原仲麻呂と道鏡の出現
760年、藤原仲麻呂はついに皇族以外ではじめての太政大臣(現代でいう内閣総理大臣)に任命されました。さて、脂が乗りに乗った藤原仲麻呂ですが、ここで不運なことに後ろ盾となってくれていた光明皇后が崩御してしまいます。さらに不運は続き、光明上皇とのパイプ役だった妻や、藤原仲麻呂の腹心の部下たちが相次いで亡くなってしまったことで、藤原仲麻呂の朝廷での立場が揺らぎ始めたのです。
一方、光明皇后の崩御の翌年の天平宝字五年(761年)、平城京の修理のために近江国(滋賀県大津)の保良宮(ほらのみや、大津京)へと臨時で都を遷していました。
このとき孝謙上皇は病にかかり、看病禅師として孝謙上皇に仕え、看病と回復の祈祷を行ったのが僧侶の「道鏡」です。
なぜ僧侶が病気の看護を行ったかというと、仏教では五明と呼ばれる五つの分野の学問を修めなければならず、そのなかに医学や薬学が含まれていたのでした。なので、僧侶は医者の知識もばっちり持っていたんですね。奈良時代の看病禅師は僧侶は、医学の知識に加えて呪術的な力を持つ僧侶でした。
孝謙上皇の出家
道鏡の看病によって回復した孝謙上皇は、やがて道鏡を寵愛するようになりました。そうして、平城京の修理が終わると孝謙上皇は天皇の住まいの内裏には戻らず、華寺に移り住みます。法華寺は藤原不比等の邸宅跡に建てられた光明皇后ゆかりの寺院で、奈良時代には日本の総国分尼寺とされました。
加えて、そのころの日本の多くの国々は飢饉にみまわれ、政治もあまりうまくいっていません。光明皇后の崩御以降、孝謙上皇と淳仁天皇・藤原仲麻呂の仲は悪化しており、ここで孝謙上皇は法華寺に役人たちを呼び集めてこのように言いました。
「淳仁天皇に皇位を譲ったのにもかかわらず、淳仁天皇は藤原仲麻呂にそそのかされて私(孝謙上皇)に不孝を働いている。なので、これから淳仁天皇は国家の小事のみを行い、大事なことは私が決める」
これは淳仁天皇の王権を否定し、孝謙上皇が政務を行うという宣言でした。
そうして、孝謙上皇は法華寺で出家します。普通、僧侶になると俗世を離れて修行するものですが、孝謙上皇は僧侶の修行するために出家したのではありません。尼僧となることで宮廷のしきたりから自由になると同時に、男の役人が入りにくい尼寺の法華寺にいることで余計な口出しをさせないようにするためでした。
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