平安時代日本史歴史

5分でわかる「鳥羽上皇」保元の乱の原因を作った天皇を歴史オタクがわかりやすく解説

「天皇」は皇室の家督を継いだ現役の長者。「上皇」は天皇の座を譲って引退した元天皇を指します。

ちなみに、「上皇」を「法皇」と言い換えることがありますが、「法皇」は出家した上皇に贈られる称号のこと。なので、たとえば「鳥羽上皇」が出家したなら、「鳥羽法皇」と呼ばれるようになります。

孫の代でも治天の君・白河法皇

白河法皇の院政が力を増したのは、幼い鳥羽天皇が即位したときのことでした。このころ、摂関家の当主・藤原師通が亡くなり、跡を継いだ若輩の藤原忠実では力足りません。それで鳥羽天皇の御代になっても、白河法皇が実際の政務を執っていたのです。

その間の1117年、鳥羽天皇は白河法皇の養女・藤原璋子(ふじわらのたまこ、のちの待賢門院)を中宮(皇后と同資格の后)に迎えました。鳥羽天皇は十五歳、藤原璋子は十七歳のころのことです。鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の間に五男二女をもうけ、その長子として生まれたのが顕仁親王、のちの「崇徳天皇」でした。

そうして、1123年。鳥羽天皇は白河法皇から顕仁親王(崇徳天皇)への譲位を促され、退位します。このとき即位した崇徳天皇はわずか三歳。またもや幼すぎる天皇の誕生ですね。そして、当然のようにまだまだ元気な白河法皇が引き続き実権を握りました。

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平安時代の後半、藤原氏の摂関政治から権力を取り戻し、「院政」を行った白河法皇。鳥羽天皇はその孫にあたり、鳥羽天皇が現役の天皇のころも政務は祖父の白河法皇がとり続けたんだ。そして、鳥羽天皇の次代、曾孫の崇徳天皇になるまで長い間治天の君としての権勢を誇ったぞ。

2.鳥羽天皇と息子・崇徳天皇の微妙な関係

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偉大な祖父の崩御

息子・堀川天皇、孫・鳥羽天皇、ひ孫の崇徳天皇の三代に渡って院政を敷き、摂関家を退けた白河法皇でしたが、やはり寿命を克服することはできません。1129年の夏、77歳の白河法皇は自らの崩御とともに43年に渡る長い院政に幕を下ろしたのでした。

白河法皇の崩御後、次に院政を敷いたのが鳥羽上皇です。すでに息子の崇徳天皇へと譲位したあとで、しかも崇徳天皇は当時十歳。まだまだ政務は行えません。院政を執った鳥羽上皇は、要職を鳥羽上皇の側近で固め、また、新しく藤原得子(ふじわらのなりこ、のちの美福門院)を皇后に迎えて寵愛しました。

その後、崇徳天皇が成長して23歳になると、崇徳天皇に譲位を迫り、母親違いの弟・躰仁親王(近衛天皇)を即位させます。近衛天皇の母はもちろん鳥羽上皇が寵愛する藤原得子です。

院政をめぐる鳥羽上皇と崇徳上皇

ここでおさらいがてら「院政」について簡単に説明すると、院政を敷くためには、天皇位を経験していることと、現天皇の親ないし、祖父などの尊属でなければなりません。鳥羽上皇は近衛天皇の父ですが、崇徳上皇は兄。つまり、鳥羽上皇に院政の資格はあっても、崇徳上皇にその資格はないのです。

崇徳上皇からしてみれば、現役天皇の頃は曾祖父と父の院政によって一切自分の思うように政務を取れず、退位したあとも弟が相手では院政も行えません。鳥羽上皇が院政を続け、崇徳上皇は一切の実権を与えられなかったのでした。

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