平安時代、「院政」を引き継いだ「鳥羽天皇」は藤原氏一強の時代から離れ、天皇の権勢を強めた「白河法皇」の皇子です。ところが、のちに平家の台頭の発端となる「保元の乱」の原因を作った天皇でもある。

今回はそんな「鳥羽天皇」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平安時代は得意分野。

1.祖父「白河法皇」の影に隠れた幼少期

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幼くして天皇へ

平安時代後期、1103年に堀川天皇の皇子として生まれた「鳥羽(とば)天皇」。

鳥羽天皇は生まれてしばらくもしないうちに母親を失くし、祖父「白河法皇」の下で育ちます。そうして、生後わずか七ヶ月で立太子。早くから堀河天皇の皇太子とされたのです。そして、鳥羽天皇が五歳のころに堀河天皇が崩御したため、鳥羽天皇は即位します。

しかし、当然ながらたった五歳の鳥羽天皇に政治ができるはずがありません。そこで代わりに政務をとることになったのが摂政と関白を担う藤原家……ではなく、祖父の白河法皇でした。

白河法皇の「院政」

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奈良時代、天皇の外戚になることで絶大な権力を誇った藤原氏でしたが、平安時代後半になると藤原氏の娘を母親としない後三条天皇の登場によって状況は変わりました。後三条天皇は天皇自らが政治の中心となる「親政」を行い、徐々に藤原氏の力を削いでいったのです。

その後三条天皇の皇子が白河法皇(当時は白河天皇)でした。白河法皇の母親は藤原氏出身でしたが、関白を置くだけは置いて後三条天皇と同じように親政を行ったのです。

そうして、白河法皇は堀河天皇に譲位し、太上天皇となったあとの白河法皇が幼い天皇の後見となって政治を執りました。藤原氏から実権を取り戻し、白河法皇が引き続き政務に当たったこれが、「院政」のはじまりとされています。

「院政」の「院」は上皇がいる場所、あるいは上皇自身のことを指す言葉であり、また上皇は天皇のおわす御所ではなく「院」で政治を行ったことから「院政」と呼ばれました。

現役の天皇自身の王権を超越した権力を持つ太上天皇(上皇、法皇)を天皇家の実質的な当主として「治天の君」と呼びます。

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「天皇」は皇室の家督を継いだ現役の長者。「上皇」は天皇の座を譲って引退した元天皇を指します。

ちなみに、「上皇」を「法皇」と言い換えることがありますが、「法皇」は出家した上皇に贈られる称号のこと。なので、たとえば「鳥羽上皇」が出家したなら、「鳥羽法皇」と呼ばれるようになります。

孫の代でも治天の君・白河法皇

白河法皇の院政が力を増したのは、幼い鳥羽天皇が即位したときのことでした。このころ、摂関家の当主・藤原師通が亡くなり、跡を継いだ若輩の藤原忠実では力足りません。それで鳥羽天皇の御代になっても、白河法皇が実際の政務を執っていたのです。

その間の1117年、鳥羽天皇は白河法皇の養女・藤原璋子(ふじわらのたまこ、のちの待賢門院)を中宮(皇后と同資格の后)に迎えました。鳥羽天皇は十五歳、藤原璋子は十七歳のころのことです。鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の間に五男二女をもうけ、その長子として生まれたのが顕仁親王、のちの「崇徳天皇」でした。

そうして、1123年。鳥羽天皇は白河法皇から顕仁親王(崇徳天皇)への譲位を促され、退位します。このとき即位した崇徳天皇はわずか三歳。またもや幼すぎる天皇の誕生ですね。そして、当然のようにまだまだ元気な白河法皇が引き続き実権を握りました。

2.鳥羽天皇と息子・崇徳天皇の微妙な関係

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偉大な祖父の崩御

息子・堀川天皇、孫・鳥羽天皇、ひ孫の崇徳天皇の三代に渡って院政を敷き、摂関家を退けた白河法皇でしたが、やはり寿命を克服することはできません。1129年の夏、77歳の白河法皇は自らの崩御とともに43年に渡る長い院政に幕を下ろしたのでした。

白河法皇の崩御後、次に院政を敷いたのが鳥羽上皇です。すでに息子の崇徳天皇へと譲位したあとで、しかも崇徳天皇は当時十歳。まだまだ政務は行えません。院政を執った鳥羽上皇は、要職を鳥羽上皇の側近で固め、また、新しく藤原得子(ふじわらのなりこ、のちの美福門院)を皇后に迎えて寵愛しました。

その後、崇徳天皇が成長して23歳になると、崇徳天皇に譲位を迫り、母親違いの弟・躰仁親王(近衛天皇)を即位させます。近衛天皇の母はもちろん鳥羽上皇が寵愛する藤原得子です。

院政をめぐる鳥羽上皇と崇徳上皇

ここでおさらいがてら「院政」について簡単に説明すると、院政を敷くためには、天皇位を経験していることと、現天皇の親ないし、祖父などの尊属でなければなりません。鳥羽上皇は近衛天皇の父ですが、崇徳上皇は兄。つまり、鳥羽上皇に院政の資格はあっても、崇徳上皇にその資格はないのです。

崇徳上皇からしてみれば、現役天皇の頃は曾祖父と父の院政によって一切自分の思うように政務を取れず、退位したあとも弟が相手では院政も行えません。鳥羽上皇が院政を続け、崇徳上皇は一切の実権を与えられなかったのでした。

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崇徳上皇を取り巻く事情

けれど、ここで崇徳上皇は不満の声をあげません。なぜなら、崇徳上皇の皇子・重仁親王を藤原得子の養子としていたからです。藤原得子が重仁親王を我が子のようにかわいがっていたことから、重仁親王が次の皇太子の最有力候補と目されていました。

養子に出したとはいえ、重仁親王は崇徳上皇の子。重仁親王が即位すれば、実父の崇徳上皇の院政への道が開けますね。そういうわけで、崇徳上皇は弟への譲位を甘んじて受け入れたのです。

1155年、病弱だった近衛天皇はわずか17歳で崩御してしまうと、子どものいなかった近衛天皇の次を誰にするかで議会が開かれました。重仁親王は次の皇太子として有力視されていましたが、しかし、鳥羽法皇(1142年に出家)は重仁親王ではなく、藤原得子のもうひとりの養子・守仁親王(のちの二条天皇)をいずれ即位させるために、まずは中継ぎとして守仁親王の父・雅仁親王(後白河天皇)を即位させます。雅仁親王は鳥羽法皇と藤原璋子の皇子。崇徳上皇とは血を分けた兄弟にあたりますね。

弟の雅仁親王が即位、さらにその次は雅仁親王の皇子守仁親王の即位が決まったことで、これまで崇徳上皇が期待していた院政への道が完全に断たれてしまったのでした。

亡き白河法皇の女性問題

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なぜ鳥羽上皇はそこまでして崇徳上皇に政権が渡らないようにしたのか?

――それは、かつての白河法皇の女性問題に起因します。

その昔、白河法皇がまだ若いころのこと。皇后・藤原賢子との夫婦中はとても仲睦まじかったといいます。しかし、皇后・賢子が若くして亡くなってしまうと、その反動からでしょうか、白河上皇は誰彼構わず関係を持つようになってしまいました。

そんななか、白河法皇はとてもかわいらしい女の子を養女として迎え入れます。その少女こそがのちに鳥羽天皇へと入内(皇后や中宮になる人が正式に内裏に入ること)する藤原璋子でした。

成長した藤原璋子は子どものころからの期待にそぐわぬ美貌の持ち主として有名で……そして、白河法皇と養父子を越えた関係になっていたという良からぬウワサがありました。ウワサの真偽はともかく、そういう話があったせいで藤原璋子の評判は良くありません。当然、嫁入り先にと声をかけた藤原忠通も難色を示して断られてしまいます。それで白河法皇は藤原璋子を孫の鳥羽天皇へと入内させたのです。

よく考えなくても、祖父と関係のあった(かもしれない)女性を孫に嫁がせるなんてとんでもない話ですよね……。

鳥羽天皇と藤原璋子の複雑な関係

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鳥羽天皇は心中複雑だったかもしれませんが、藤原璋子との間に七人の子どもを授かりました。しかし、それでも藤原璋子の黒いウワサは付きまといます。ふたりの長子だった崇徳天皇は、実は藤原璋子と白河法皇の子どもでないか、と新しいウワサが広がり鳥羽天皇もそれを疑ったのです。

こちらのウワサも真実かどうかは不明ですが、鳥羽天皇が疑っていた証拠でしょうか、白河法皇の崩御後、鳥羽上皇は藤原璋子に代わって藤原得子を寵愛しはじめ、成人した崇徳天皇から近衛天皇へ譲位させました。

養父の白河法皇を亡くして傷心の藤原璋子ですが、そこへ泣きっ面に蜂とばかりに藤原璋子が藤原得子を呪詛(呪う)した、というまたもや黒いウワサが流れ出します。こうして人望と権勢を失った藤原璋子は出家し、44歳でこの世を去りました。

けれど、藤原璋子の臨終の際に駆けつけた鳥羽法皇が、彼女の死に大声を上げて泣き叫んだ、と藤原頼長の『台記』に書き残されています。関係が冷え切ったあとなのに、大泣き……。もしかすると、鳥羽法皇の藤原璋子への気持ちはこのときもまだ健在で、藤原璋子のウワサがなければ一生を寄り添うパートナーになっていたのかもしれませんね。

3.鳥羽法皇の崩御、保元の乱へ

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鳥羽法皇の皇子「後白河天皇」

鳥羽法皇は藤原得子の養子・守仁親王(のちの二条天皇)をいずれは天皇に即位させようとしましたね。けれど、いったん中継ぎとして守仁親王の父親「雅仁親王(後白河天皇)」を即位させます。これは当時、父親が存命中にもかかわらず父を飛ばして孫に皇位を継承することがあまりよく思われていなかったからです。

後白河天皇の即位は、鳥羽法皇は守仁親王が天皇になったあとも院政をする気がある、あるいは、徹底的に崇徳上皇に院政をさせないためとされています。

さて、中継ぎとして即位した後白河天皇。もし後白河天皇が政治に意欲的だったなら鳥羽法皇も気が気でなかったかもしれません。しかし、後白河法皇は当時の宮廷で流行した「今様」という歌謡にどっぷりはまって親王時代から遊びほうけている、いわゆるチャランポランな息子です。崇徳上皇と比べてどちらがコントロールしやすいかは一目瞭然。後白河天皇の御代でも最高の権力者は相変わらず鳥羽法皇のままでした。

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権力者・鳥羽法皇の崩御

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しかし、後白河天皇即位後の翌年に今度は鳥羽法皇が病で崩御してしまいます。そして、鳥羽法皇に散々押さえつけられていた崇徳上皇の不満がここで爆発しました。こうして起こったのが、崇徳上皇VS後白河天皇による「保元の乱」です。

「保元の乱」は天皇家のみならず、崇徳上皇と後白河天皇のどちら側につくかで臣下たちも真っ二つに分かれて争います。

まず、貴族の代表ともいえる藤原摂関家。当時、藤原摂関家は関白の座を巡って父子、兄弟間で対立していました。そこへ次男・藤原頼長が近衛天皇を呪詛していたと疑われて朝廷から追放される事件があり、重ねて崇徳上皇と藤原頼長が共謀しているとのウワサも流れ始めます。最初はそういうつもりもなかったかもしれませんが、ウワサによって崇徳上皇と藤原頼長は手を取り合うほかなく、藤原頼長が崇徳上皇の陣営に加わったのです。反対に、藤原頼長と対立していた兄・藤原忠通は後白河天皇側へとつきました。

さらに武士たちも源為義とその息子たちが崇徳上皇側へ、平清盛率いる平氏と源義朝(源頼朝の父)らが後白河天皇について参戦します。

こうして始まった「保元の乱」は武士同士の武力衝突に至り、後白河天皇側の勝利で幕を閉じたのでした。

院政を継承した鳥羽上皇

藤原氏の力を抑え、再び天皇家を中心とした政治「院政」を受け継いだ「鳥羽天皇」。しかし、息子「崇徳天皇」を冷遇し続け、ついには「保元の乱」の原因をつくってしまいます。「保元の乱」は平家の台頭のきっかけ、ひいては武家政権への契機をつくった戦いです。せっかく政権を取り戻し権勢を誇った鳥羽上皇でしたが、再び手放す要因をつくってしまったのは、なんとも皮肉な話ですね。

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平安時代日本史歴史

3分で簡単「鳥羽上皇」保元の乱の原因を作った天皇を歴史オタクがわかりやすく解説

平安時代、「院政」を引き継いだ「鳥羽天皇」は藤原氏一強の時代から離れ、天皇の権勢を強めた「白河法皇」の皇子です。ところが、のちに平家の台頭の発端となる「保元の乱」の原因を作った天皇でもある。

今回はそんな「鳥羽天皇」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平安時代は得意分野。

1.祖父「白河法皇」の影に隠れた幼少期

Emperor Toba.jpg
安楽寿院, パブリック・ドメイン, リンクによる

幼くして天皇へ

平安時代後期、1103年に堀川天皇の皇子として生まれた「鳥羽(とば)天皇」。

鳥羽天皇は生まれてしばらくもしないうちに母親を失くし、祖父「白河法皇」の下で育ちます。そうして、生後わずか七ヶ月で立太子。早くから堀河天皇の皇太子とされたのです。そして、鳥羽天皇が五歳のころに堀河天皇が崩御したため、鳥羽天皇は即位します。

しかし、当然ながらたった五歳の鳥羽天皇に政治ができるはずがありません。そこで代わりに政務をとることになったのが摂政と関白を担う藤原家……ではなく、祖父の白河法皇でした。

白河法皇の「院政」

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奈良時代、天皇の外戚になることで絶大な権力を誇った藤原氏でしたが、平安時代後半になると藤原氏の娘を母親としない後三条天皇の登場によって状況は変わりました。後三条天皇は天皇自らが政治の中心となる「親政」を行い、徐々に藤原氏の力を削いでいったのです。

その後三条天皇の皇子が白河法皇(当時は白河天皇)でした。白河法皇の母親は藤原氏出身でしたが、関白を置くだけは置いて後三条天皇と同じように親政を行ったのです。

そうして、白河法皇は堀河天皇に譲位し、太上天皇となったあとの白河法皇が幼い天皇の後見となって政治を執りました。藤原氏から実権を取り戻し、白河法皇が引き続き政務に当たったこれが、「院政」のはじまりとされています。

「院政」の「院」は上皇がいる場所、あるいは上皇自身のことを指す言葉であり、また上皇は天皇のおわす御所ではなく「院」で政治を行ったことから「院政」と呼ばれました。

現役の天皇自身の王権を超越した権力を持つ太上天皇(上皇、法皇)を天皇家の実質的な当主として「治天の君」と呼びます。

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