「治天の君」というキーワードを聞いたことはあるか?これは天皇や上皇のなかで最も重要な意味を持つ役割だった。その歴史は古く、平安時代にまでさかのぼるぞ。

今回はそんな「治天の君」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。「治天の君」の重要ポイントとなるのは平安時代でちょうど得意分野。

1.ちょっと複雑な「治天の君」

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「治天の君」とは?

「天を治める君」と書く「治天の君」。「治天」とは文字通り「国家を治める」という意味を持ちます。それを行う「君」は「君主」のことですね。こと日本においては「天皇」や、天皇を引退した「上皇」のことを指します。

その両方を考慮すると「治天の君」とは、「政治を主導している天皇、あるいは上皇」のことになりますね。

ここでおさらいがてら「天皇」と「上皇(太上天皇)」のふたつの用語の違いを平たく説明すると、「天皇」は皇室の家督を継いだ現役の長者。「上皇」は天皇の座を譲って引退した元天皇です。ちなみに、「上皇」を「法皇」と言い換えることがありますが、「法皇」は出家した上皇に贈られる称号のこと。なので、たとえば「白河上皇」が出家したなら、「白河法皇」と呼ばれるようになります。

ところで、「治天の君」は「政治を主導している天皇、あるいは上皇」とご説明いたしましたが、天皇と上皇がふたり同時に治天の君となることはありません。「治天の君」は実質的な朝廷の君主であり、常にひとりだけなのです。

「治天の君」という言葉の登場

「治天」という言葉は、日本神話の時代から存在していたとされています。神話の時代が終わったあと、「治天」は天皇家の継承として使われていましたが、飛鳥時代に「律令」(簡単に言うと「法律」のこと)が整備されて使われなくなっていきました。

それが再び日の目を見たのが、平安時代後期になってのこと。このころ、朝廷では大きな変化が起こったのです。

2.藤原氏による摂関政治

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藤原氏の隆盛の始まり

平安時代の政治形態をひも解くにはまず、「藤原氏」についてお話ししなければなりません。そもそも日本史に重要人物として藤原氏が初めて登場したのは「藤原不比等」でした。

「藤原不比等」は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿であり、「大化の改新」の中心人物「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」の息子でした。

彼は父の死後、後ろ盾のない状態だったにもかかわらず、自らの力で出世を果たして政治的立場を強めていきます。そうして、藤原不比等は娘・藤原宮子を文武天皇の夫人に、さらにもうひとりの娘・光明子を聖武天皇の后としました。

この当時、貴族の娘が天皇の夫人のひとりとなるのは名誉なことではあれど、他の貴族も普通にしていたことです。しかし、夫人と違って「皇后」だけは天皇家の血を引いた特別な女性でなければなりませんでした。これはその当時、もし天皇が早くに亡くなってしまった場合に、皇后が夫に代わって天皇に即位することがあったためです。百人一首で有名な飛鳥時代の「持統天皇」がそのように即位した女性天皇ですね。

藤原不比等が娘たちを天皇の夫人にしたのはよくあることですが、しかし、ここで彼は前述のルールを退けて、光明子を聖武天皇の皇后にしようとしました。

いくら強い権力を持つ藤原不比等とはいえ、もちろんそんな暴挙に周りからは反対の声があがります。朝廷で皇后にする、しないの争いが巻き起こるなか、残念ながら藤原不比等自身は病で亡くなってしまうものの、その息子たちによって光明子は念願の皇后となったのでした。

絶大な力を持つようになった藤原氏

皇族以外から初の皇后となった光明子。彼女以降、皇后は絶対に皇族でなければならないというルールが取り払われました(その代り皇后が即位することもなくなります)。

そうすると、、皇太子(次の天皇)となるのは光明子の子ども、つまりは藤原氏の血を引く天皇が生まれるということになりますね。藤原氏は天皇の外戚となり、ますます権力を強めていきました。そうして始まったのが藤原氏による「摂関政治」です。

「摂関政治」は、まず、天皇と藤原氏の娘の子どもを天皇を即位させることから始まります。そうして、即位した天皇が幼いうちは天皇の祖父(外戚)にあたる藤原氏が「摂政」という官職について天皇の代わりに政務を行い、天皇が成長したのちは天皇を補佐する「関白」となりました。

言わずもがな、摂政も関白も朝廷において重要な役職で、藤原氏が政治の実権を独占することになります。それほどのものですから、摂政や関白の座を巡って藤原氏のなかで骨肉の争いが繰り広げられることも多々ありました。

摂関政治の衰え

朝廷における藤原氏一強状態は1068年の後三条天皇の即位まで続きます。なぜここで藤原氏の勢力が衰え始めたのかを見ていきましょう。

これまで藤原氏の母を持つ天皇が即位したことによって藤原氏は外戚として権力を保持していました。しかし、天皇が藤原氏の血を引かない人物となればどうなるでしょう?

そして、新たに即位した後三条天皇は、170年ぶり即位した藤原氏を外戚としない天皇です。

案の定、後三条天皇はこれまでの天皇たちと違って関白の進言を採用せず、天皇自らが政治の中心となる「親政」を行っていきました。しかも、タイミングの悪いことに摂関を担う藤原氏は関白を巡っての争いが兄弟間で起こり、天皇に対抗するどころではありませんでした。

摂関政治の力が衰えるなか、後三条天皇は白河天皇へと譲位。白河天皇の母親は藤原氏の出身でしたので、ここでまた摂関政治が返り咲くかと思いきや、そこは後の祭り。白河天皇は関白を置いたものの、後三条天皇と同じように親政を行いました。

上皇による「院政」の始まり

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さらに事態が動いたのは1086年。白河天皇はわずか八歳の息子に譲位し、堀河天皇とします。従来なら、摂政に任命された藤原氏が幼い天皇に代わって政務を行うところですが、太上天皇となった白河上皇が堀河天皇の後見となって自ら政治を行ったのです。

ところで、摂政や関白は天皇に代わって政務を行ったり、天皇へ献言したりと、天皇に対して有効な役職ですよね。言い換えれば、「天皇にのみ口出しできる」ということ。今回の場合、摂政や関白は新しく即位した堀河天皇には意見できますが、天皇を引退した白河上皇には何も言えません。加えて、荘園整理令などで藤原氏の衰退が重なったことで、藤原氏はもう絶大な力を誇った昔の藤原氏ではなかったのです。

藤原氏から実権を取り戻し、白河上皇が引き続き政務に当たったこれが、「院政」のはじまりとされています。「院政」の「院」は上皇がいる場所、あるいは上皇自身のことを指す言葉であり、上皇は御所ではなく「院」で政治を行ったことから「院政」と呼ばれました。また、白河上皇の「院政」の成立とともに摂関政治が廃れていきます。

ただし、摂政関白が完全になくなったわけではなく、全盛期の勢いはなけれど明治まで存続しました。戦国時代の豊臣秀吉が関白になったのは有名な話ですよね。

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再び現れた「治天の君」

白河上皇が政権を取り戻して以降、政権を握った実質的な皇室の当主が「治天の君」と呼ばれるようになりました。政権を持たない上皇を「治天の君」とはいいません。だから、「治天の君」はただひとりなんですね。

ただ、「治天の君」となるためには二つの条件があります。まず、天皇に即位したことがあること。次に、現役天皇の直接の親、あるいは祖父であることです。

そもそも、白河上皇が「院政」を開始したことが「治天の君」の復活ですよね。そのため、「院政」が「治天の君」の大きなキーポイントとなります。

盛り上がる院政の力

白河上皇は息子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、さらに曾孫の崇徳天皇の三代に渡って、実に43年もの長い間院政を行い続けました。その力は絶大で、白河上皇の思い通りにならないものは「加茂川の水(洪水)、サイコロの出目、比叡山の僧兵」だけだったとまで言われています。

また、「治天の君」による仏教保護政策で寺社が発展、そこに付随する思想や芸術、建築など、平安時代末期から鎌倉時代成立までの日本の文化を「院政期文化」といいました。

3.白河上皇以降の「治天の君」

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禍根を残した譲位

「院政」が開始され、上皇が政治の実権を握るようになったあとのこと。摂関政治であれば、藤原氏による役職争いがありましたが、今度は「治天の君」を巡って上皇同士、もしくは法皇が争うようになりました。現代と違って、当時は上皇はたくさんいましたし、場合によっては「治天の君」となるために早く譲位してしまう天皇もいます。

白河上皇の後に「治天の君」となったのは鳥羽上皇です。しかし、鳥羽上皇は息子の崇徳天皇があまり好きではありませんでした。それでさっさと崇徳天皇を譲位させた後、崇徳天皇の弟・近衛天皇を即位させて院政を続けたのです。

院政を阻まれた崇徳上皇

問題が起こったのは、鳥羽天皇の崩御後。当時、すでに近衛天皇は亡く、兄の後白河天皇が皇位を継いでいました。

このとき崇徳上皇は太上天皇として「院政」を行いたかったのですが、前章で説明した通り、「院政」を敷いて「治天の君」となるためには、天皇位を経験していることと、現役天皇の親か祖父でなければなりません。しかし、後白河天皇は崇徳上皇の子ではなく弟。そのうえ、後白河天皇の次はその息子の守仁親王(のちの二条天皇)が即位することが決まっていました。こうなると、崇徳上皇は「院政」のふたつ目の条件「現役天皇の親であること」がクリアできません。

天皇時代から徹底して実権を握らせてもらえなかった崇徳上皇。その鬱憤のたまったところへ藤原摂関家の兄弟争いが加わったことで派閥ができ、気付けば抜き差しならない状況へと発展してしまったのでした。

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政権をかけた「保元の乱」

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崇徳上皇と後白河天皇の対立はもはや朝廷内でおさまらなくなり、ついに「保元の乱」へと発展します。さらに、ふたりの皇族のうしろには貴族だけでなく、武力衝突となった場合に戦う武士たちがついていました。

このとき後白河天皇側についていたのが「平清盛」です。「保元の乱」は後白河天皇の勝利となり、平清盛はこのあとメキメキと頭角を現すわけですね。一方、敗戦した崇徳上皇は讃岐国(香川県)へと配流となり、そこで壮絶な死を遂げることになります。

かつて藤原氏が繰り広げたような骨肉の争いが、このように皇族間でも起こりました。しかし、そこは日本の中心の皇室。その規模は藤原氏内の争いよりも大きく、「保元の乱」は武力衝突にまで発展してしまった結果ですね。

鎌倉時代以降、弱まる権力

平清盛の台頭に始まり、とうとう武士が中心となる鎌倉時代が訪れます。しかし、鎌倉幕府があるからといって朝廷がなくなったわけではありません。「治天の君」として後を受け継いだ後鳥羽上皇による「承久の乱」でさらに衰えたものの、朝廷も天皇も院政も存続していました。

ただし、鎌倉時代以降の「治天の君」にかつてのような決定権はなく、重要なことは幕府と一緒に決めるという状態です。つまり、「治天の君」による専制政治ではなくなっていたという状況ですね。

院政と治天の君の事実上の終わり

「院政」は近代まで存在していましたが、政治形態として事実上の終わりを迎えたのは室町時代でした。最後に国政にたずさわったのは、後小松上皇。後小松上皇は南北に分裂していた朝廷を統一して最初に即位した天皇です。

後小松上皇は称光天皇に譲位後、「治天の君」として院政を開始。そして、後小松上皇の崩御とともに「院政」と、「治天の君」のふたつの制度は実質的な終わりをむかえました。

政権を巡る中心地

平安時代、藤原氏の台頭によって天皇家は実質的な政権を失くした状態にありました。その状況を一変させたのは、170年ぶりに藤原氏を母親としない後三条天皇です。後三条天皇、そして、その息子・白河天皇によって藤原氏の力を削り、白河上皇の時代にとうとう院政が開始されました。院政を行った上皇を「治天の君」といい、事実上皇室の当主となります。

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平安時代日本史歴史

3分で簡単皇室の当主「治天の君」誰のこと?どんな役割があった?歴史オタクがわかりやすく解説

「治天の君」というキーワードを聞いたことはあるか?これは天皇や上皇のなかで最も重要な意味を持つ役割だった。その歴史は古く、平安時代にまでさかのぼるぞ。

今回はそんな「治天の君」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。「治天の君」の重要ポイントとなるのは平安時代でちょうど得意分野。

1.ちょっと複雑な「治天の君」

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「治天の君」とは?

「天を治める君」と書く「治天の君」。「治天」とは文字通り「国家を治める」という意味を持ちます。それを行う「君」は「君主」のことですね。こと日本においては「天皇」や、天皇を引退した「上皇」のことを指します。

その両方を考慮すると「治天の君」とは、「政治を主導している天皇、あるいは上皇」のことになりますね。

ここでおさらいがてら「天皇」と「上皇(太上天皇)」のふたつの用語の違いを平たく説明すると、「天皇」は皇室の家督を継いだ現役の長者。「上皇」は天皇の座を譲って引退した元天皇です。ちなみに、「上皇」を「法皇」と言い換えることがありますが、「法皇」は出家した上皇に贈られる称号のこと。なので、たとえば「白河上皇」が出家したなら、「白河法皇」と呼ばれるようになります。

ところで、「治天の君」は「政治を主導している天皇、あるいは上皇」とご説明いたしましたが、天皇と上皇がふたり同時に治天の君となることはありません。「治天の君」は実質的な朝廷の君主であり、常にひとりだけなのです。

「治天の君」という言葉の登場

「治天」という言葉は、日本神話の時代から存在していたとされています。神話の時代が終わったあと、「治天」は天皇家の継承として使われていましたが、飛鳥時代に「律令」(簡単に言うと「法律」のこと)が整備されて使われなくなっていきました。

それが再び日の目を見たのが、平安時代後期になってのこと。このころ、朝廷では大きな変化が起こったのです。

2.藤原氏による摂関政治

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