安土桃山時代日本史歴史

5分でわかる「小早川秀秋」の生涯ー関ヶ原合戦で裏切ったのはなぜ?わかりやすく歴女が解説

3-2、関ヶ原の戦いでの秀秋

Site of Kobayakawa Hideaki's Position.jpg
立花左近投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

秀秋は、1600年8月から9月の関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城の戦いに、西軍として参戦、伏見城が陥落した後は、伊勢方面に向かう進路を取っていたのに、突然方向を変え関から近江に向かい、近江や伊勢で鷹狩りをしたり、近江の高宮(現滋賀県)で数日すごしたりと、東軍か西軍どちらにつくともわからない道筋をたどり、突如として美濃(現在の岐阜県)に向かい進軍したそう。

そして決戦の前日の9月14日、1万5000の軍勢で、関ヶ原の南西の松尾山城に入っていた伊藤盛正を追い出して入城しました。松尾山は、関ヶ原が一望できる場所で、戦の様子を見るのには最もよい場所なんですね。
この秀秋の行動は、西軍の三成らとの申し合わせではなく突発的だったようで、三成は、大垣城を出、大谷吉継は松尾山のふもとに陣を移動しさらに大谷吉継の指揮下の脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らの陣も集めて秀秋の陣を見張ったということです。

3-3、家康が秀秋の陣に鉄砲を撃ち込んで裏切りを促した説は

image by PIXTA / 53777348

通説では、関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろで、午前中は西軍有利に戦況が進展していたため、東軍の総大将の家康はたびたび使者を送ったにも関わらず、西軍を攻撃せずに傍観し続ける秀秋にイライラを募らせ、秀秋の陣へ鉄砲を撃ってさっさと動けと催促、それに慌てた秀秋軍が行動を起こし、秀秋が寝返ると、大谷吉継の指揮下にいた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保も次々と寝返って、大谷軍を攻撃。大谷吉継は必死に応戦したが、多勢に無勢で押されてしまって大谷軍は殲滅し、大谷吉継は観念して自刃。この秀秋の寝返りによって硬直していた戦局は一気に東軍へと流れを変えて決着がついたと言われています。

しかし現在ではこの有名な家康の威嚇射撃を裏付ける史料がなく、またもし撃ち込んだとしても、銃声がたしかに聞こえたか、またその銃声が家康の催促だと気が付いただろうかと指摘されているということ。また新史料の発見によって、本戦開始は午前10時ころで、秀秋陣はけっして傍観していたのではなく、開戦直後から東軍側として西軍を攻撃していたとする説も出ているそう。

しかし理由はどうあれ、豊臣家の養子として大名になったのに合戦中に裏切りを行った秀秋の評判は、当時も今も卑劣な行為として歴史に残ることに。 

裏切り行為をしなかった家臣も存在

なお、秀秋の重臣だった松野重元は、東軍へ寝返ろうとした秀秋に不満で、主君秀秋に反発して不戦を貫いて戦線を離脱し、出奔。が、軍令違反に問われず、むしろ豊臣家を裏切らなかった忠義者として評価を受けて、関ヶ原合戦後は田中吉政に仕官したという話があります。

4-1、秀秋、岡山藩55万石に

秀秋は、関ヶ原合戦後の論功行賞で、備前、美作、備中の東半分、もとは宇喜多秀家領だった岡山55万石に移封となりました。戦後まもなく秀秋から秀詮に改名、岡山城に入った秀秋は家臣の知行割り当て、寺社寄進領の安堵といった施策を行い、伊岐遠江守、林丹波守長吉ら側近勢力を拡充したそう。

4-2、家老たちが次々と出奔

秀秋には秀吉から付けられた家老たちと、養父の隆景の小早川家の家臣たちがいましたが、関ヶ原後、岡山城に入り藩政を行うようになったものの、秀秋の乱行が目立ったため、家老の稲葉正成、杉原重政らがたまりかねて諫言したところ、逆切れした秀秋の命令で村山越中により杉原は上意討ちにされたということ。

なので、1601年には5人の家老のうち、長年家老を勤めた重臣稲葉正成(春日局の夫)、松野道円、徳川家康からの付家老滝川出雲は出奔。これは秀秋の旧来の家臣団層と岡山への転封加増で新たに台頭した側近との対立といわれますが、アルコール依存症で肝硬変による肝性脳症が進行していたといわれる秀秋の乱行で、重臣に見限られたとしか思えないですよね。

なお、上意討ちをした村山越中は、その後、岡山城の金蔵から金を盗んで出奔し、3年後に岡山藩主池田忠継に仕えたが、1616年に私闘で殺人を犯したために池田家を去って、加賀前田家に仕官。しかしその後も争いが絶えなかったため、当主前田利常に暇を出されて備中松山の友人に会うために備中まで行き、高梁川の河原で休憩しているときに、復讐のためひたすら修行していた杉原重政の息子の重季に仇討ちされたそう。

4-3、秀秋、21歳で死去

関ヶ原の戦いから2年後の1602年10月15日、秀秋は21歳で急死。

秀秋の死後、小早川家は跡継ぎなくして断絶により改易。これは徳川政権初の無嗣改易に。なお、秀秋の旧臣たちは関ヶ原での裏切りを責められ仕官先がなかったと言われますが、実際には違っていたということで、最後まで秀秋に仕えた後に幕府に召し出されて大名となった平岡頼勝のほかにも、加賀の前田家、紀伊徳川家の家臣となった者もあり、稲葉正成は離縁した妻春日局が3代将軍家光の乳母になった関係で幕臣に。

次のページを読む
1 2 3 4
Share:
angelica