
その辺のところを安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、小早川秀秋は近江の国の生まれ
- 1-2、秀秋、叔母の寧々の養子となる
- 1-3、秀秋、7歳でアルコール依存症に
- 2-1、秀秋、小早川隆景の養子となる
- 2-2、秀秋、筑前30万石を相続
- 2-3、秀秋、慶長の役の蔚山城の話は
- 2-4、秀秋、越前転封に
- 2-5、秀吉の死去後、59万石に
- 3-1、関ヶ原前夜の秀秋
- 3-2、関ヶ原の戦いでの秀秋
- 3-3、家康が秀秋の陣に鉄砲を撃ち込んで裏切りを促した説は
- 4-1、秀秋、岡山藩55万石に
- 4-2、家老たちが次々と出奔
- 4-3、秀秋、21歳で死去
- 4-4、兄ふたりも秀秋と同日同所で謎の死をとげる
- 天下分け目の関ヶ原で裏切り行為で歴史に名を残す
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小早川秀秋について5分でわかるようにまとめた。
1-1、小早川秀秋は近江の国の生まれ

小早川秀秋(こばやかわ ひであき)は、天正10年(1582年)、当時、長浜城主だった秀吉に仕えていた木下家定の5男として近江国の長浜で生まれました。父は北政所寧々の兄弟(兄か弟か不明)で、母は杉原家次の娘で北政所寧々の従妹です。
幼名は辰之助、諱は秀俊から小早川秀秋、関ヶ原後に秀詮(ひであき)、通称は金吾中納言。きょうだいは兄が4人弟が3人の8人兄弟。
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1-2、秀秋、叔母の寧々の養子となる
kamoseiro – 自ら撮影, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
秀秋は、1585年に義理の叔父の羽柴秀吉の養子になって、幼少から叔母の北政所寧々に育てられました。1589年には、秀吉の後継者候補としてわずか7歳で元服、木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗るように。そして病死した秀勝(信長の4男の於次丸で秀吉の養子)の領地だった丹波亀山城10万石を与えられ、7歳で大名になったわけですね。
そういうことで、1588年4月の後陽成天皇の聚楽第への行幸では、内大臣織田信雄を筆頭に6人の大名が連署した起請文の宛所が金吾殿(秀秋)となっていて、このときに秀秋は秀吉の代理で天皇への誓いを受け取るなど、公式行事でも華々しい扱いをされるようになりました。
1-3、秀秋、7歳でアルコール依存症に
秀秋は、史料では1591年には豊臣姓を名乗っていることが確認され、翌年、従三位権中納言兼左衛門督に叙任して、丹波中納言に。まだ11歳の子供なのに大人扱いされ、とんとん拍子に官位をあげてもらった秀秋は、秀吉配下の諸大名から秀次に次ぐ豊臣家の継承者とみられ、秀秋に取り入るための接待攻勢で毎晩酒を飲み続けるようになったそう。
秀秋と親交の深かった近衛信尹(三藐院(さんみゃくいん)流の書家としても有名、連歌を通じて武将と交流があった上流公家)は、秀秋は少年時代は蹴鞠や舞などの芸事に才能があったし、貧者に施しをするやさしい少年だったのに、酒の味を覚えてからは友人達と飲み明かす日々で北政所寧々の悩みの種となったと、秀秋が亡くなったときに追悼文に書いたということで、ほかの史料などをみても、秀秋はなんと若年性アルコール依存症にかかっていたということです。
2-1、秀秋、小早川隆景の養子となる
秀秋は、係累の少ない秀吉が自分の身内や北政所寧々の身内から集めた次世代の子たちの一人で、秀吉の有力な跡継ぎ候補だったのですが、1593年、秀吉に実子秀頼が誕生後は、他の養子たちと同じく養子先を探すことに。
そういう状況で、若いころから秀吉のもとで軍略家として貢献してきた黒田官兵衛孝高が、少々お節介に動きました。秀吉は官兵衛のすごさを誰よりもよく知っていたので、貢献に見合わないわずか15万石しか与えなかったのですが、秀吉は、官兵衛に百万石も与えれば天下をとられてしまうと言い、また官兵衛は官兵衛で天下取りの野心はなく、自分の才略を試したいという気持ちはあるが無欲だったそう。もちろん官兵衛のような賢い人は、秀吉に貢献度をアピールしてもっと知行を与えよと言えばどうなるかわかっていたということで、秀吉がそう言っていると聞いただけでさっさと隠居して知行地の九州に引きこもることにしたのですが、隠居すると言った官兵衛に秀吉は、隠居料をあげるから御伽衆になれと話し相手にしていたのですね。
ということで、この黒田官兵衛孝高が、この秀頼誕生後に豊臣家の将来を考えて、まず秀次には秀吉の代わりに朝鮮半島に出陣したほうがいいとアドバイスしたが、秀次は官兵衛の言うことを聞かなかったので、今度は秀秋の養子先を考え、秀吉に打診したのちに、跡継ぎのいない毛利輝元の養子はどうかと分家筋の小早川隆景に持ちかけたということ。隆景は、大あわてで秀吉が毛利家と名ざししたかどうかの確認をとり、そうでないことがわかると、輝元の跡継ぎとして父元就の晩年の庶子で庶弟の穂井田元清の嫡男秀元を秀吉に紹介、そして秀秋を自身の小早川家の養子に貰い受けたいと申し出て認められ、毛利本家を守った話は有名です。
そういうわけで1594年、秀吉の命により秀秋は隆景と養子縁組したので、養父の小早川隆景は、この養子縁組で秀吉の親戚となったこともあって官位は中納言にまでアップし、豊臣政権下での小早川家の家格も跳ね上がることに。
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