今回は小早川秀秋を取り上げるぞ。関ヶ原合戦で裏切ったことしか知らないが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小早川秀秋について5分でわかるようにまとめた。

1-1、小早川秀秋は近江の国の生まれ

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小早川秀秋(こばやかわ ひであき)は、天正10年(1582年)、当時、長浜城主だった秀吉に仕えていた木下家定の5男として近江国の長浜で生まれました。父は北政所寧々の兄弟(兄か弟か不明)で、母は杉原家次の娘で北政所寧々の従妹です。

幼名は辰之助、諱は秀俊から小早川秀秋、関ヶ原後に秀詮(ひであき)、通称は金吾中納言。きょうだいは兄が4人弟が3人の8人兄弟。

1-2、秀秋、叔母の寧々の養子となる

亀山城(丹波国)石垣
kamoseiro - 自ら撮影, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

秀秋は、1585年に義理の叔父の羽柴秀吉の養子になって、幼少から叔母の北政所寧々に育てられました。1589年には、秀吉の後継者候補としてわずか7歳で元服、木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗るように。そして病死した秀勝(信長の4男の於次丸で秀吉の養子)の領地だった丹波亀山城10万石を与えられ、7歳で大名になったわけですね。

そういうことで、1588年4月の後陽成天皇の聚楽第への行幸では、内大臣織田信雄を筆頭に6人の大名が連署した起請文の宛所が金吾殿(秀秋)となっていて、このときに秀秋は秀吉の代理で天皇への誓いを受け取るなど、公式行事でも華々しい扱いをされるようになりました。

1-3、秀秋、7歳でアルコール依存症に

秀秋は、史料では1591年には豊臣姓を名乗っていることが確認され、翌年、従三位権中納言兼左衛門督に叙任して、丹波中納言に。まだ11歳の子供なのに大人扱いされ、とんとん拍子に官位をあげてもらった秀秋は、秀吉配下の諸大名から秀次に次ぐ豊臣家の継承者とみられ、秀秋に取り入るための接待攻勢で毎晩酒を飲み続けるようになったそう。

秀秋と親交の深かった近衛信尹(三藐院(さんみゃくいん)流の書家としても有名、連歌を通じて武将と交流があった上流公家)は、秀秋は少年時代は蹴鞠や舞などの芸事に才能があったし、貧者に施しをするやさしい少年だったのに、酒の味を覚えてからは友人達と飲み明かす日々で北政所寧々の悩みの種となったと、秀秋が亡くなったときに追悼文に書いたということで、ほかの史料などをみても、秀秋はなんと若年性アルコール依存症にかかっていたということです。

2-1、秀秋、小早川隆景の養子となる

秀秋は、係累の少ない秀吉が自分の身内や北政所寧々の身内から集めた次世代の子たちの一人で、秀吉の有力な跡継ぎ候補だったのですが、1593年、秀吉に実子秀頼が誕生後は、他の養子たちと同じく養子先を探すことに

そういう状況で、若いころから秀吉のもとで軍略家として貢献してきた黒田官兵衛孝高が、少々お節介に動きました。秀吉は官兵衛のすごさを誰よりもよく知っていたので、貢献に見合わないわずか15万石しか与えなかったのですが、秀吉は、官兵衛に百万石も与えれば天下をとられてしまうと言い、また官兵衛は官兵衛で天下取りの野心はなく、自分の才略を試したいという気持ちはあるが無欲だったそう。もちろん官兵衛のような賢い人は、秀吉に貢献度をアピールしてもっと知行を与えよと言えばどうなるかわかっていたということで、秀吉がそう言っていると聞いただけでさっさと隠居して知行地の九州に引きこもることにしたのですが、隠居すると言った官兵衛に秀吉は、隠居料をあげるから御伽衆になれと話し相手にしていたのですね。

ということで、この黒田官兵衛孝高が、この秀頼誕生後に豊臣家の将来を考えて、まず秀次には秀吉の代わりに朝鮮半島に出陣したほうがいいとアドバイスしたが、秀次は官兵衛の言うことを聞かなかったので、今度は秀秋の養子先を考え、秀吉に打診したのちに、跡継ぎのいない毛利輝元の養子はどうかと分家筋の小早川隆景に持ちかけたということ。隆景は、大あわてで秀吉が毛利家と名ざししたかどうかの確認をとり、そうでないことがわかると、輝元の跡継ぎとして父元就の晩年の庶子で庶弟の穂井田元清の嫡男秀元を秀吉に紹介、そして秀秋を自身の小早川家の養子に貰い受けたいと申し出て認められ、毛利本家を守った話は有名です。

そういうわけで1594年、秀吉の命により秀秋は隆景と養子縁組したので、養父の小早川隆景は、この養子縁組で秀吉の親戚となったこともあって官位は中納言にまでアップし、豊臣政権下での小早川家の家格も跳ね上がることに。

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2-2、秀秋、筑前30万石を相続

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不詳 - 高台寺, パブリック・ドメイン, リンクによる

1595年、秀秋は義理の兄の秀次切腹事件に連座させられ、居城の丹波亀山城が没収されたのですが、同年に養父の隆景が主な家臣を連れて備後国三原へ帰って隠居したので、秀秋は養父隆景の所領の筑前国30万7千石を相続することになりました。

2-3、秀秋、慶長の役の蔚山城の話は

1597年2月、秀吉からの軍令で15歳の秀秋は朝鮮半島への渡海が決定し、釜山浦で前線からの注進を取り次ぐ任務につくことに。 そしてこの年の6月、養父の小早川隆景が死去、秀秋は、朝鮮在陣中に秀俊から秀秋へ改名。

秀秋は、同年12月23日から翌年の1月4日にかけての蔚山城(うるさん)で籠城していた加藤清正の援軍として参加し、作戦に従わず自ら先頭に立って戦って勝利に貢献したので、帰国後に秀吉は激賞。しかし石田三成があまり褒めすぎると秀頼様に良くないという讒言によって、秀吉の態度が急転直下激怒に変わり、越前北ノ庄15万石への減封転封になり、秀秋は石田三成を恨むようになったそう。また転封について徳川家康が秀吉にとりなしたために、秀秋は家康に恩義を感じたことで、後の関ヶ原合戦での裏切りにつながったと言われています。

が、一次史料では秀秋が蔚山城の戦いに参加したことが確認できず、秀秋が戦いに参加した話は1672年に書かれた「朝鮮物語」しかないそう。秀秋は1597年12月以前より再三秀吉から帰国要請があり、翌年の1月末に帰国の途に。秀秋は帰国したが、500人ほどの小早川勢の残留部隊が寺沢広高の指揮下で釜山の守備に就き、秀秋に遅れて5月中には帰国しています。

2-4、秀秋、越前転封に

帰国した秀秋は、秀吉から越前北ノ庄15万石への減封転封命令をうけ、以前の領地の筑前国は太閤蔵入地の秀吉の直轄地となり、石田三成と浅野長政が代官になったのですが、この秀秋の半分という大幅減封の理由は蔚山城の戦いの話が事実でないならば、まったく不明。

そして転封と大幅減封で、秀秋は多くの家臣を解雇せざるを得ず途方に暮れ、家康に泣きついた話があり、家康のアドバイスによって少しずつ領地を返還し、100人ほどの家臣が知行地を失ったときに秀吉が死去したということです。

なお、秀秋が丹波亀山城主となって以来の家老で守役だった山口宗永は、もともと秀秋と折り合いが良くなかったが、越前減封時に加賀大聖寺の独立大名に取り立てられ、秀秋のもとを去ったそう。

2-5、秀吉の死去後、59万石に

1598年8月秀吉が死去、秀吉の遺言をもとにして、翌年の2月に徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行されて、秀秋は旧領の筑前、筑後に復帰が認められて、所領も59万石に大幅増加しました。秀秋は、家康が秀吉にとりなしてくれたこと、そして所領を復活してもらったことなどで恩義を感じたということです。

3-1、関ヶ原前夜の秀秋

秀秋は59万石の大名で秀吉の身内として、まだ19歳とはいえ豊臣政権下では重要な存在だったので、石田三成と徳川家康の対立が深まると、双方の陣営から味方になるように言ってくるのは当然でした。

そして東軍、家康側からは、秀秋の家老の稲葉正成(のちの春日局の夫)と平岡頼勝(妻が黒田長政の従妹)に対して、親戚筋の東軍の黒田長政からの調略が行われていたということで、黒田長政と浅野幸長の連名で「我々は北政所(高台院)様の為に動いている」と書かれた連書状が現存(しかし最近になって、北政所寧々は西軍を支持していた説が浮上)。もちろん家康からも、秀秋本人、稲葉、平岡両家老のもとにも何通も書状が届いていたうえに、開戦直前に、家康の重臣の井伊直政、本多平八郎忠勝から、東軍に寝返れば上方に2ヵ国を与える内容の書状が来ていたそう。
ともあれ、関ヶ原本戦が開始する前から秀秋軍は西軍を裏切って東軍に付くことを黒田長政を通じて家康に伝えていたが、念のために長政は大久保猪之助を、家康は奥平貞治を目付として派遣して秀秋軍を監視していたということです。

また、西軍の石田三成、大谷吉継らも秀秋に対して、当時7歳だった豊臣秀頼が成人するまでの間の関白就任と、上方2ヶ国の加増を約束、さらに秀秋の家老たちには、10万石と黄金300枚という条件を出したという史料もあるそうですが、「関原軍記大成」(1713年)収録の書状で原本はなく文体などから偽文書の可能性もあるということ。
なお、家康も三成も、秀秋よりも家老たちがほとんどのことを牛耳っていることを理解していたので、家老たちにも破格の条件を出していたのですね。

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3-2、関ヶ原の戦いでの秀秋

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立花左近 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

秀秋は、1600年8月から9月の関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城の戦いに、西軍として参戦、伏見城が陥落した後は、伊勢方面に向かう進路を取っていたのに、突然方向を変え関から近江に向かい、近江や伊勢で鷹狩りをしたり、近江の高宮(現滋賀県)で数日すごしたりと、東軍か西軍どちらにつくともわからない道筋をたどり、突如として美濃(現在の岐阜県)に向かい進軍したそう。

そして決戦の前日の9月14日、1万5000の軍勢で、関ヶ原の南西の松尾山城に入っていた伊藤盛正を追い出して入城しました。松尾山は、関ヶ原が一望できる場所で、戦の様子を見るのには最もよい場所なんですね。
この秀秋の行動は、西軍の三成らとの申し合わせではなく突発的だったようで、三成は、大垣城を出、大谷吉継は松尾山のふもとに陣を移動しさらに大谷吉継の指揮下の脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らの陣も集めて秀秋の陣を見張ったということです。

3-3、家康が秀秋の陣に鉄砲を撃ち込んで裏切りを促した説は

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通説では、関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろで、午前中は西軍有利に戦況が進展していたため、東軍の総大将の家康はたびたび使者を送ったにも関わらず、西軍を攻撃せずに傍観し続ける秀秋にイライラを募らせ、秀秋の陣へ鉄砲を撃ってさっさと動けと催促、それに慌てた秀秋軍が行動を起こし、秀秋が寝返ると、大谷吉継の指揮下にいた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保も次々と寝返って、大谷軍を攻撃。大谷吉継は必死に応戦したが、多勢に無勢で押されてしまって大谷軍は殲滅し、大谷吉継は観念して自刃。この秀秋の寝返りによって硬直していた戦局は一気に東軍へと流れを変えて決着がついたと言われています。

しかし現在ではこの有名な家康の威嚇射撃を裏付ける史料がなく、またもし撃ち込んだとしても、銃声がたしかに聞こえたか、またその銃声が家康の催促だと気が付いただろうかと指摘されているということ。また新史料の発見によって、本戦開始は午前10時ころで、秀秋陣はけっして傍観していたのではなく、開戦直後から東軍側として西軍を攻撃していたとする説も出ているそう。

しかし理由はどうあれ、豊臣家の養子として大名になったのに合戦中に裏切りを行った秀秋の評判は、当時も今も卑劣な行為として歴史に残ることに。 

裏切り行為をしなかった家臣も存在

なお、秀秋の重臣だった松野重元は、東軍へ寝返ろうとした秀秋に不満で、主君秀秋に反発して不戦を貫いて戦線を離脱し、出奔。が、軍令違反に問われず、むしろ豊臣家を裏切らなかった忠義者として評価を受けて、関ヶ原合戦後は田中吉政に仕官したという話があります。

4-1、秀秋、岡山藩55万石に

秀秋は、関ヶ原合戦後の論功行賞で、備前、美作、備中の東半分、もとは宇喜多秀家領だった岡山55万石に移封となりました。戦後まもなく秀秋から秀詮に改名、岡山城に入った秀秋は家臣の知行割り当て、寺社寄進領の安堵といった施策を行い、伊岐遠江守、林丹波守長吉ら側近勢力を拡充したそう。

4-2、家老たちが次々と出奔

秀秋には秀吉から付けられた家老たちと、養父の隆景の小早川家の家臣たちがいましたが、関ヶ原後、岡山城に入り藩政を行うようになったものの、秀秋の乱行が目立ったため、家老の稲葉正成、杉原重政らがたまりかねて諫言したところ、逆切れした秀秋の命令で村山越中により杉原は上意討ちにされたということ。

なので、1601年には5人の家老のうち、長年家老を勤めた重臣稲葉正成(春日局の夫)、松野道円、徳川家康からの付家老滝川出雲は出奔。これは秀秋の旧来の家臣団層と岡山への転封加増で新たに台頭した側近との対立といわれますが、アルコール依存症で肝硬変による肝性脳症が進行していたといわれる秀秋の乱行で、重臣に見限られたとしか思えないですよね。

なお、上意討ちをした村山越中は、その後、岡山城の金蔵から金を盗んで出奔し、3年後に岡山藩主池田忠継に仕えたが、1616年に私闘で殺人を犯したために池田家を去って、加賀前田家に仕官。しかしその後も争いが絶えなかったため、当主前田利常に暇を出されて備中松山の友人に会うために備中まで行き、高梁川の河原で休憩しているときに、復讐のためひたすら修行していた杉原重政の息子の重季に仇討ちされたそう。

4-3、秀秋、21歳で死去

関ヶ原の戦いから2年後の1602年10月15日、秀秋は21歳で急死。

秀秋の死後、小早川家は跡継ぎなくして断絶により改易。これは徳川政権初の無嗣改易に。なお、秀秋の旧臣たちは関ヶ原での裏切りを責められ仕官先がなかったと言われますが、実際には違っていたということで、最後まで秀秋に仕えた後に幕府に召し出されて大名となった平岡頼勝のほかにも、加賀の前田家、紀伊徳川家の家臣となった者もあり、稲葉正成は離縁した妻春日局が3代将軍家光の乳母になった関係で幕臣に。

\次のページで「4-4、兄ふたりも秀秋と同日同所で謎の死をとげる」を解説!/

4-4、兄ふたりも秀秋と同日同所で謎の死をとげる

聖護院道澄の残した記録では、秀秋は上方からの帰国の途上で行った鷹狩の最中に体調を崩して3日後に死去したということで、秀秋の裏切りで討ち死した大谷吉継の祟りといわれましたが、当時の伝説的名医で有名人も多く診察した曲直瀬玄朔の診察を受けていたので、秀秋の病状については診療録の「医学天正記」の「黄疸」の章に記録されていて、7歳からの飲酒歴によるアルコール依存症からの内臓疾患、肝硬変が死因といわれています。

が、秀秋の実兄の木下信濃守俊定は関ヶ原の合戦で西軍に属して改易となったので、弟の秀秋の岡山藩に寄食して、備前国内で和気郡など5000石を知行をもらっていたが、秀秋と同じ日同じ場所で病死。またもうひとりの兄の木下延貞は、生来病弱だったので兄弟の中で唯一領地も官位もなく、実父の木下肥後守家定や後には実兄の木下俊定のもとで寄食していたのですが、その後弟秀秋のもとにいたということで、何とこの兄も秀秋と同日に同じ場所で亡くなったということです。まだ20代前半の若い3兄弟が同じ日に同じ場所で亡くなったなんて謎ですよね。

天下分け目の関ヶ原で裏切り行為で歴史に名を残す

小早川秀秋は北政所寧々の甥としてうまれ、早くから子供のない叔母の寧々と叔父の秀吉に可愛がられて育ちました。しかし天下人となった秀吉は、ただでさえ係累が少ないというのに次の世代の担い手の養子たちを地位にふさわしく厳しく教育せず、高い位を与えて継承者とほのめかすものだから、まわりにちやほやされまくって、はっきりいってロクな子が育たなかったが、特に秀秋は若年性アルコール依存症となったよう。

賢婦人の北政所寧々が見放すほどの粗暴で落ち着きがない恥ずかしい子だったということで、秀頼誕生後は毛利家に押し付けられるのを小早川隆景が本家を守るために犠牲になって秀秋を養子にしたことが美談になったほど。そして朝鮮出兵で何があったのか、秀吉の怒りを買い減封されたときに徳川家康の世話になったこと、北政所寧々が家康につけと言ったことなどで、関ヶ原でははじめは西軍に付いたが、東軍に寝返ったことで勝利に貢献し、また裏切り行為が歴史にくっきりと残ることに。

秀秋は関ヶ原勝利への貢献度が認められて岡山55万石をゲットしましたが、アルコールの害もあり精神的にも裏切り行為はダメージとなり、重臣たちに見限られるほどの乱行となり、2年後にわずか21歳で兄2人と一緒という謎の死を遂げました。秀吉は跡継ぎとして養子にしたはずが、まさか豊臣家を潰すことになるとは思わなかったでしょう。

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安土桃山時代日本史歴史

3分で簡単「小早川秀秋」の生涯ー関ヶ原合戦で裏切ったのはなぜ?わかりやすく歴女が解説

今回は小早川秀秋を取り上げるぞ。関ヶ原合戦で裏切ったことしか知らないが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、小早川秀秋について5分でわかるようにまとめた。

1-1、小早川秀秋は近江の国の生まれ

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小早川秀秋(こばやかわ ひであき)は、天正10年(1582年)、当時、長浜城主だった秀吉に仕えていた木下家定の5男として近江国の長浜で生まれました。父は北政所寧々の兄弟(兄か弟か不明)で、母は杉原家次の娘で北政所寧々の従妹です。

幼名は辰之助、諱は秀俊から小早川秀秋、関ヶ原後に秀詮(ひであき)、通称は金吾中納言。きょうだいは兄が4人弟が3人の8人兄弟。

1-2、秀秋、叔母の寧々の養子となる

亀山城(丹波国)石垣
kamoseiro – 自ら撮影, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

秀秋は、1585年に義理の叔父の羽柴秀吉の養子になって、幼少から叔母の北政所寧々に育てられました。1589年には、秀吉の後継者候補としてわずか7歳で元服、木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗るように。そして病死した秀勝(信長の4男の於次丸で秀吉の養子)の領地だった丹波亀山城10万石を与えられ、7歳で大名になったわけですね。

そういうことで、1588年4月の後陽成天皇の聚楽第への行幸では、内大臣織田信雄を筆頭に6人の大名が連署した起請文の宛所が金吾殿(秀秋)となっていて、このときに秀秋は秀吉の代理で天皇への誓いを受け取るなど、公式行事でも華々しい扱いをされるようになりました。

1-3、秀秋、7歳でアルコール依存症に

秀秋は、史料では1591年には豊臣姓を名乗っていることが確認され、翌年、従三位権中納言兼左衛門督に叙任して、丹波中納言に。まだ11歳の子供なのに大人扱いされ、とんとん拍子に官位をあげてもらった秀秋は、秀吉配下の諸大名から秀次に次ぐ豊臣家の継承者とみられ、秀秋に取り入るための接待攻勢で毎晩酒を飲み続けるようになったそう。

秀秋と親交の深かった近衛信尹(三藐院(さんみゃくいん)流の書家としても有名、連歌を通じて武将と交流があった上流公家)は、秀秋は少年時代は蹴鞠や舞などの芸事に才能があったし、貧者に施しをするやさしい少年だったのに、酒の味を覚えてからは友人達と飲み明かす日々で北政所寧々の悩みの種となったと、秀秋が亡くなったときに追悼文に書いたということで、ほかの史料などをみても、秀秋はなんと若年性アルコール依存症にかかっていたということです。

2-1、秀秋、小早川隆景の養子となる

秀秋は、係累の少ない秀吉が自分の身内や北政所寧々の身内から集めた次世代の子たちの一人で、秀吉の有力な跡継ぎ候補だったのですが、1593年、秀吉に実子秀頼が誕生後は、他の養子たちと同じく養子先を探すことに

そういう状況で、若いころから秀吉のもとで軍略家として貢献してきた黒田官兵衛孝高が、少々お節介に動きました。秀吉は官兵衛のすごさを誰よりもよく知っていたので、貢献に見合わないわずか15万石しか与えなかったのですが、秀吉は、官兵衛に百万石も与えれば天下をとられてしまうと言い、また官兵衛は官兵衛で天下取りの野心はなく、自分の才略を試したいという気持ちはあるが無欲だったそう。もちろん官兵衛のような賢い人は、秀吉に貢献度をアピールしてもっと知行を与えよと言えばどうなるかわかっていたということで、秀吉がそう言っていると聞いただけでさっさと隠居して知行地の九州に引きこもることにしたのですが、隠居すると言った官兵衛に秀吉は、隠居料をあげるから御伽衆になれと話し相手にしていたのですね。

ということで、この黒田官兵衛孝高が、この秀頼誕生後に豊臣家の将来を考えて、まず秀次には秀吉の代わりに朝鮮半島に出陣したほうがいいとアドバイスしたが、秀次は官兵衛の言うことを聞かなかったので、今度は秀秋の養子先を考え、秀吉に打診したのちに、跡継ぎのいない毛利輝元の養子はどうかと分家筋の小早川隆景に持ちかけたということ。隆景は、大あわてで秀吉が毛利家と名ざししたかどうかの確認をとり、そうでないことがわかると、輝元の跡継ぎとして父元就の晩年の庶子で庶弟の穂井田元清の嫡男秀元を秀吉に紹介、そして秀秋を自身の小早川家の養子に貰い受けたいと申し出て認められ、毛利本家を守った話は有名です。

そういうわけで1594年、秀吉の命により秀秋は隆景と養子縁組したので、養父の小早川隆景は、この養子縁組で秀吉の親戚となったこともあって官位は中納言にまでアップし、豊臣政権下での小早川家の家格も跳ね上がることに。

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