
3-6、秀長の死後の豊臣家
秀長の死後、まもなく秀吉の嫡男鶴松が3歳で死去、そして、千利休切腹事件、秀頼が生まれた後、秀次切腹事件、朝鮮出兵がぼっ発。このころになると往年の秀吉とは別人のよう、耄碌したといわれていますが、秀吉に異論を唱えることが出来、諸大名との調整も上手にやってきた秀長がいれば、このようなことは起きなかったのではといわれています。
もし秀長が長生きをしていたならば、秀吉は性急に秀次に関白を譲る必要もなかったはずで、秀次ではなく秀長に関白を譲ったとしても、秀頼が生まれた後、秀長は秀次のような扱いを受けるようなことはしなかっただろうし、秀吉は安心して秀頼が成人するまで秀長に豊臣政権の運営を任せることが出来たでしょう。
秀長さえいれば、石田三成ら文治派と加藤清正ら武闘派との対立もなく、徳川家康が、江戸幕府をひらく隙もなかったのではと、秀長はまさに歴史タラレバの真骨頂というべき存在。なお、秀長の病状が記述されているという「医学天正記」を現代医学から推測すると、胃腸系のヒ素中毒の可能性で暗殺説も。
兄秀吉の補佐を上手にこなし、長生きしていればと惜しまれた賢弟
豊臣秀長は、秀吉の3歳下の弟としてうまれ、22歳ころまで尾張の国中村で母とともに静かに農業を営んでいましたが、兄秀吉が織田信長のもとで出世して故郷に錦を飾る目的で帰郷、弟の秀長を最初の部下にしたことで秀長の人生が180度転換。
秀長は穏やかな物腰で人の意見をよく聞くために、秀吉の与力の黒田如水や竹中半兵衛、蜂須賀小六などから学ぶことも多かったようで、その後は軍の総大将もそつなくこなし、調停や内政などでも力を発揮、諸大名との付き合いも上手で、秀吉へのとりなしなどにも重宝され、なによりも兄秀吉の補佐に徹して自分の野心をもたないので、気が付けば兄秀吉の副官としてなくてはならぬ存在に。しかし残念ながら1591年に病死したために秀吉を抑える人がおらず、歯止めをかけるストッパー不在で、その後の豊臣家は滅亡一直線に。
生前の秀長は、秀吉の副官に徹して自分の存在を消し、自分の手柄をすべて兄秀吉のものにしたといわれたほどでしたが、亡くなった後には、秀長が存命だったならば、秀次切腹事件や関ヶ原の合戦、大坂の陣も起こらなかった、豊臣家はおろか歴史が代わっていただろうといわれているなんて、いかに豊臣政権での存在が大きかったかということで、これも皮肉なことではないでしょうか。