
2-7、秀長、九州平定の総大将に
秀長は、1587年の九州平定では日向方面の総大将として出陣し、耳川の戦いで高城を包囲、島津義弘が宮部継潤の陣に夜襲を仕掛けた根白坂の戦いでは、秀長の家臣藤堂高虎、戸川達安らが合流したために島津軍の夜襲は失敗して薩摩に撤退。その後に、島津家久が秀長を訪ねて講和になりました。秀長はこの功績で8月に従二位権大納言に。
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2-8、秀長、病気になる
豊臣政権の中枢で、秀吉の右腕として欠かせない存在だった秀長ですが、1586年頃から体調を崩しがちとなり、湯治に行ったりしていたが、1589年2月に大坂城で諸大名と共に、秀吉に新年祝賀の太刀進上を行う儀式に出席を最後に大坂城を訪れることはなく、翌年の小田原征伐には参加できず、1591年1月、郡山城内で52歳で病死。家督は養嗣子の甥秀保が継承しました(しかし1595年に病死して断絶)。
3-1、秀長の逸話
不明 author – 奈良県大和郡山市春岳院所蔵品。This is a collection of the Syungakuin in Japan Yamatokooriyama-shi, Nara., パブリック・ドメイン, リンクによる
後の世に書かれた「武功夜話」では、秀長について、常に温和で朴訥、邪心はまったくないと評されたということで、色々な逸話があります。
3-2、信長の怒りもスルー
1577年9月、上杉謙信との手取川(現石川県)の戦いで、秀吉は戦闘直前に勝家と口論して、無許可で戦線を離脱しました。合戦は敗戦となったこともあり、もちろん信長激怒。軍規違反を犯した秀吉は、信長の手討ちも覚悟する状況で、釈明のために主だった家臣とともに信長の許へ。
秀吉が釈明している間、控えの間の秀吉の家臣たちは大半の者が緊張を隠せなくてうろうろする中、秀長と竹中半兵衛だけは落ち着いて座っていたそう。結局、秀吉は許されて、播磨方面へ赴任。
3-3、藤堂高虎を使いこなす
秀長は温厚な性格で、誰からも好かれていて、家臣たちも秀長に心服したという人徳のある人だったのですが、あの8人もの主君を渡り歩いたという藤堂高虎は、1576年に21歳で秀長に仕えたということ。
以後、秀長は高虎を重用し、高虎も秀長のもとで安土城の築城に参加するなどして築城術を学び、猿岡山城(現和歌山県紀の川市粉河、さるおかやま)、和歌山城の築城では、高虎は初めて普請奉行に任命されたということで、秀長が亡くなるまで15年間、高虎は秀長に忠実に仕えたということです。
3-4、蓄財家だった
秀長は、秀吉の補佐役として金銭管理なども重要な役割だったようで、播磨、但馬攻略では生野銀山に目をつけていち早く確保したそう。鳥取城の攻囲戦で、相場より数倍高い価格で米を買い占め、備中高松城の水攻めのときは、労働者を高い日銭で雇うなども、秀長の仕事だったといわれています。
また九州征伐で大名に割高な兵糧を売ろうとして秀吉に止められたとか、1588年には、紀伊の雑賀で材木管理担当の代官吉川平介が、秀長に命じられて売買するはずの熊野の材木2万本の代金を着服、吉川は秀吉に処刑されたあと、秀長も責任を問われて、秀吉に翌年の年頭の挨拶を拒否されるという事件も。
「落日の豊臣政権」によれば、秀長は奈良で「高利貸し」を行っていた話もあるそうで、秀長が亡くなったとき、郡山城には金56000余枚、銀は2間四方の部屋にいっぱい備蓄されていた話は有名です。 しかし当時から評判だった秀長の温厚な性格、まったく野心なく兄秀吉に尽くした人生を考えると、これはやはり自分のために私腹を肥やしたのではなくてひたすら兄秀吉のために貯め込んだとみて間違いないということ。
3-5、結婚が意外に遅く、子孫もなし
秀長は、早婚のはずの戦国時代にしては、22歳ころの中村での百姓時代も独身だったし、その後は秀吉の補佐で忙しかったのか、正室を迎えたのが45歳の頃で、相手はお寺で見初めた尼僧を還俗させた女性、側室もひとりだったそう。
そして1男2女が生まれたが、息子の小一郎は夭折し、娘お菊は養子とした甥秀保と結婚したが早世、もう一人の娘は毛利秀元と結婚したということです。また、丹羽長秀の三男の仙丸を信長の死後に秀吉が長秀を取り込む目的で、秀長の養子としたが、1588年に秀吉は、甥の秀保を秀長の跡継ぎにしたので、当時秀長の家臣だった藤堂高虎が仙丸をもらって養子にしたという話も。
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