
その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、豊臣秀長は、尾張の生まれ
- 1-2、秀長、兄秀吉に従って武士になる
- 2-1、秀長、兄の補佐として活躍
- 2-2、秀長、播磨平定で但馬方面の責任者に
- 2-3、中国大返しでは殿を、山崎合戦でも大活躍
- 2-3、秀次、紀州64万石の大名に
- 2-4、秀長、四国征伐の総大将に
- 2-5、秀長、大和100万石に加増
- 2-6、秀長、豊臣政権で重要な位置に
- 2-7、秀長、九州平定の総大将に
- 2-8、秀長、病気になる
- 3-1、秀長の逸話
- 3-2、信長の怒りもスルー
- 3-3、藤堂高虎を使いこなす
- 3-4、蓄財家だった
- 3-5、結婚が意外に遅く、子孫もなし
- 3-6、秀長の死後の豊臣家
- 兄秀吉の補佐を上手にこなし、長生きしていればと惜しまれた賢弟
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、豊臣秀長について5分でわかるようにまとめた。
1-1、豊臣秀長は、尾張の生まれ

豊臣秀長(ひでなが)は、天文9年(1540年)に尾張国愛知郡中村(現名古屋市中村区)で生まれました。父は竹阿弥、母は仲で、秀吉の3歳下の異父弟(同父弟説もあり)、きょうだいは、姉のとも、秀吉、妹の旭です。
幼名は小竹(竹阿弥の子のこちく)といわれ、通称は小一郎、兄秀吉の出世に従って、木下長秀、羽柴秀長、豊臣秀長に。のちに大和の国を領地に大納言の位をもらったため、大和大納言(やまとだいなごん)と呼ばれることが多いです。
秀吉が継父の竹阿弥とあわずに10歳くらいで家出したため、秀長は子供時代には秀吉とはほとんど関わりがなく成長したそう。
1-2、秀長、兄秀吉に従って武士になる
秀長は22歳ころまで故郷の中村で百姓として田畑を耕して暮らしていたが、結婚はしていなかったということ。そして兄秀吉は家出して転々とした後、織田信長に仕えて草履取りから足軽組頭となり、後の北政所寧々と結婚したのですね。
秀吉は出世して部下も雇える身分となったために、自分の出世を見せびらかして家来を募集するために、帰郷。このときに弟秀長を武士にならないかと誘い、秀長はいったんは断ったものの、結局は兄秀吉に従うことに。当時の秀吉のもとには、蜂須賀小六や竹中半兵衛重治らが次々と配属するようになっていたのですが、温厚で人の話を良く聞いたと言われる秀長なので、百姓から武士への転身に際して、有能な彼らのアドバイスをよく聞いたはず。
2-1、秀長、兄の補佐として活躍
秀長の初陣は、秀吉が責任者となった美濃鵜沼城攻めといわれていて、斎藤竜興の稲葉山城を攻めたとき、秀吉が裏手から、秀長が正面から攻撃して稲葉山城を落としたという話については事実かどうかは不明だそう。秀長は、合戦に参加する秀吉の代わりに留守城の守りを固めることが多かったということです。
また、1570年、信長が浅井長政の裏切りに遭い、絶体絶命のピンチで秀吉が殿を受け持ち命からがら退却した「金ケ崎の退き口」といわれる戦いでも、秀長は秀吉を補佐。秀吉が羽柴姓になると秀長も羽柴姓を名乗り、1573年の小谷城攻めでは、長政の本丸と長政父の浅井久政の京極丸を分断する竹中半兵衛の策を取り入れて、秀長が500名の軍勢で京極丸を夜襲して落城に成功という功績で秀吉から8500石の知行をもらったということ。
浅井氏滅亡後に秀吉が功績で長浜城主となったのちは、秀長が城代を務めたそう。1574年には、越前一向一揆との対決で出陣できなかった秀吉に代わって、長島一向一揆討伐に出陣したりということも。
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2-2、秀長、播磨平定で但馬方面の責任者に
秀吉は1577年から、信長の命令で播磨平定と中国征伐の責任者となり、黒田官兵衛孝高の姫路城を譲られて居城にしたのですが、このときに秀長は但馬方面と山陰道の責任者となって但馬城などを落とし、生野銀山を管轄していた竹田城をとって、城代に任命されました。このころに書かれた秀吉直筆の黒田官兵衛孝高宛の手紙には、官兵衛のことを「小一郎」(秀長の通称)同然と思っていると書かれているということです。
そしてあの別所長治の三木城攻めにも参加、1年余りの籠城戦の末、三木城は1580年に落城。そして1581年3月、毛利家の吉川経家が鳥取城に入城したのちに、秀吉は鳥取城を取り囲んで兵糧攻めが開始し、秀長も鳥取城を包囲する陣の一つを指揮したということです。
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2-3、中国大返しでは殿を、山崎合戦でも大活躍

その後、秀長は秀吉の備中攻めにも参加、1582年4月、秀吉軍は備中高松城を包囲して黒田官兵衛孝高の案で水攻めを行ったとき、秀長は鼓山付近(現岡山市北区)に陣を張ったということです。この備中高松城水攻めの陣中で本能寺の変の情報を得て、秀吉は大急ぎで毛利方と講和し、高松城主の清水宗治の切腹を見届けた後、中国大返しで必死で姫路城を目指して駆けたのですが、このとき秀長が殿軍(しんがり)を務めたということ。
そして明智光秀との山崎合戦での秀長は、黒田官兵衛孝高とともに6000の兵を率いて天王山の守備隊をひきいて大活躍したそう。さらにその後、清須会議を経て織田家の扱いなどで秀吉は、織田家の宿老の柴田勝家と対立し、1583年、賤ヶ嶽の合戦がぼっ発したのですが、秀長は秀吉不在時の賤ヶ嶽戦線の大将代理を務めたということで、秀吉の不在をついての柴田方の攻撃に対して秀長は善戦し、秀吉が帰還後に勝利をもたらしたのですね。この功績で秀長は美濃守に任官して、播磨、但馬の2ヶ国を拝領し、姫路城と有子山城を居城にしたということ。
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2-3、秀次、紀州64万石の大名に
Kumiko Korezumi – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
1584年、徳川家康との間で起こった小牧、長久手の合戦で、秀長は守山に進軍し、家康と連合を組んでいる織田信雄(のぶかつ)を監視する役目を担い、信雄との講和交渉では秀吉の名代で直接交渉をおこなったそう。このとき、甥の秀次が大失態をおかして秀吉に叱責を受けたので、秀長は翌年の紀伊、四国への遠征では副将として秀次とともに行動して、秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力しました。
秀長は、紀州制圧後に功績として紀伊、和泉などの約64万石余の領地を与えられ、難しい紀州を統治することになり、居城となる和歌山城の築城に際して、家臣の藤堂高虎を普請奉行に任命、また検地を行って安定した税収確保のための基盤を作ったのですが、これは数年後に秀吉が全国的に実施した太閤検地の先駆けに。
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2-4、秀長、四国征伐の総大将に
1585年6月、秀長は四国攻めでは病気で出陣できなかった秀吉の代理として、10万を超える軍勢の総大将となって淡路から攻め入ったが、長宗我部氏の抵抗も激しく、また毛利氏、宇喜多氏との合同軍のために侵攻が遅れたのですね。なので、秀吉が出陣すると言ってきたが、秀長は断って、無事に四国平定を成し遂げたということ。
なお、長曾我部元親は秀長を通じて秀吉に降伏したため、土佐20万石を安堵されるという温情措置になったといわれています。
2-5、秀長、大和100万石に加増

1585年閏8月、秀長は長宗我部元親を降した功績で、紀伊国、河内国に大和国を加増され、合計100万石で大和郡山城を居城とすることになりました。このころに豊臣姓も与えられ、従二位、大納言の官位を得て、大和大納言と称されるように。
大和は寺院が多い国で、寺社領にくわえて公卿らの領地も多く、戦乱で武士たちに領地を横領された昔々の荘園の土地を返還しろという社寺の訴えも多かったので、秀長の調停手腕が期待されたうえでの加増だったということ。このややこしい訴訟沙汰に対して秀長は、訴えた者双方の話をよく聞いたうえで公正な裁決を下したとか、金銀を握らせて上手におさめたということです。
また「諸家単一文書」によれば、秀長は検地をおこなって寺社の石高の水増しをただしたり、僧兵を擁している寺院に対して武装解除を進めるなどで、大和、奈良地方の宗教勢力の力を削いだということ。そして大和郡山を繁栄させるため、奈良での商売を禁止して大和郡山の商工業の保護を行ったということで、業者に自治権を与えて城下町のにぎわいを促進、現在も伝わっている陶器の「赤膚焼(あかはだやき)」も秀長が始めたそう。
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2-6、秀長、豊臣政権で重要な位置に
1586年 10月、徳川家康は、秀吉と秀長の妹旭姫44歳との政略結婚のあとも上洛しなかったのですが、母の大政所が旭姫訪問と称して岡崎城へ実質上の人質となって赴いたため、やっと家康は上洛。家康は大坂に到着後、仲の良かった秀長邸に宿泊。そしてその晩、秀吉自らがお忍びで秀長邸におもむき、家康の前にあらわれて臣従を求めたという話は本当らしく、あちこちの史料に載っているそう。
また同年、九州の大友宗麟が島津氏の圧迫で窮地に陥ったために、秀吉に介入と救済を求めて上洛したとき、秀吉は宗麟をもてなして、「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べたということで、このころには秀長が豊臣政権の大名統制の権限を一手に握っていたということがわかるということなんですね。
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