今回は豊臣秀長を取り上げるぞ。秀吉の弟がいたなんて知らなかったが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、豊臣秀長について5分でわかるようにまとめた。

1-1、豊臣秀長は、尾張の生まれ

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豊臣秀長(ひでなが)は、天文9年(1540年)に尾張国愛知郡中村(現名古屋市中村区)で生まれました。父は竹阿弥、母は仲で、秀吉の3歳下の異父弟(同父弟説もあり)、きょうだいは、姉のとも、秀吉、妹の旭です。

幼名は小竹(竹阿弥の子のこちく)といわれ、通称は小一郎、兄秀吉の出世に従って、木下長秀、羽柴秀長、豊臣秀長に。のちに大和の国を領地に大納言の位をもらったため、大和大納言(やまとだいなごん)と呼ばれることが多いです。

秀吉が継父の竹阿弥とあわずに10歳くらいで家出したため、秀長は子供時代には秀吉とはほとんど関わりがなく成長したそう。

1-2、秀長、兄秀吉に従って武士になる

秀長は22歳ころまで故郷の中村で百姓として田畑を耕して暮らしていたが、結婚はしていなかったということ。そして兄秀吉は家出して転々とした後、織田信長に仕えて草履取りから足軽組頭となり、後の北政所寧々と結婚したのですね。

秀吉は出世して部下も雇える身分となったために、自分の出世を見せびらかして家来を募集するために、帰郷。このときに弟秀長を武士にならないかと誘い、秀長はいったんは断ったものの、結局は兄秀吉に従うことに。当時の秀吉のもとには、蜂須賀小六や竹中半兵衛重治らが次々と配属するようになっていたのですが、温厚で人の話を良く聞いたと言われる秀長なので、百姓から武士への転身に際して、有能な彼らのアドバイスをよく聞いたはず。

2-1、秀長、兄の補佐として活躍

秀長の初陣は、秀吉が責任者となった美濃鵜沼城攻めといわれていて、斎藤竜興の稲葉山城を攻めたとき、秀吉が裏手から、秀長が正面から攻撃して稲葉山城を落としたという話については事実かどうかは不明だそう。秀長は、合戦に参加する秀吉の代わりに留守城の守りを固めることが多かったということです。

また、1570年、信長が浅井長政の裏切りに遭い、絶体絶命のピンチで秀吉が殿を受け持ち命からがら退却した「金ケ崎の退き口」といわれる戦いでも、秀長は秀吉を補佐。秀吉が羽柴姓になると秀長も羽柴姓を名乗り、1573年の小谷城攻めでは、長政の本丸と長政父の浅井久政の京極丸を分断する竹中半兵衛の策を取り入れて、秀長が500名の軍勢で京極丸を夜襲して落城に成功という功績で秀吉から8500石の知行をもらったということ。

浅井氏滅亡後に秀吉が功績で長浜城主となったのちは、秀長が城代を務めたそう。1574年には、越前一向一揆との対決で出陣できなかった秀吉に代わって、長島一向一揆討伐に出陣したりということも。

2-2、秀長、播磨平定で但馬方面の責任者に

秀吉は1577年から、信長の命令で播磨平定と中国征伐の責任者となり、黒田官兵衛孝高の姫路城を譲られて居城にしたのですが、このときに秀長は但馬方面と山陰道の責任者となって但馬城などを落とし、生野銀山を管轄していた竹田城をとって、城代に任命されました。このころに書かれた秀吉直筆の黒田官兵衛孝高宛の手紙には、官兵衛のことを「小一郎」(秀長の通称)同然と思っていると書かれているということです。

そしてあの別所長治の三木城攻めにも参加、1年余りの籠城戦の末、三木城は1580年に落城。そして1581年3月、毛利家の吉川経家が鳥取城に入城したのちに、秀吉は鳥取城を取り囲んで兵糧攻めが開始し、秀長も鳥取城を包囲する陣の一つを指揮したということです。

2-3、中国大返しでは殿を、山崎合戦でも大活躍

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その後、秀長は秀吉の備中攻めにも参加、1582年4月、秀吉軍は備中高松城を包囲して黒田官兵衛孝高の案で水攻めを行ったとき、秀長は鼓山付近(現岡山市北区)に陣を張ったということです。この備中高松城水攻めの陣中で本能寺の変の情報を得て、秀吉は大急ぎで毛利方と講和し、高松城主の清水宗治の切腹を見届けた後、中国大返しで必死で姫路城を目指して駆けたのですが、このとき秀長が殿軍(しんがり)を務めたということ。

そして明智光秀との山崎合戦での秀長は、黒田官兵衛孝高とともに6000の兵を率いて天王山の守備隊をひきいて大活躍したそう。さらにその後、清須会議を経て織田家の扱いなどで秀吉は、織田家の宿老の柴田勝家と対立し、1583年、賤ヶ嶽の合戦がぼっ発したのですが、秀長は秀吉不在時の賤ヶ嶽戦線の大将代理を務めたということで、秀吉の不在をついての柴田方の攻撃に対して秀長は善戦し、秀吉が帰還後に勝利をもたらしたのですね。この功績で秀長は美濃守に任官して、播磨、但馬の2ヶ国を拝領し、姫路城と有子山城を居城にしたということ。

2-3、秀次、紀州64万石の大名に

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Kumiko Korezumi - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

1584年、徳川家康との間で起こった小牧、長久手の合戦で、秀長は守山に進軍し、家康と連合を組んでいる織田信雄(のぶかつ)を監視する役目を担い、信雄との講和交渉では秀吉の名代で直接交渉をおこなったそう。このとき、甥の秀次が大失態をおかして秀吉に叱責を受けたので、秀長は翌年の紀伊、四国への遠征では副将として秀次とともに行動して、秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力しました。

秀長は、紀州制圧後に功績として紀伊、和泉などの約64万石余の領地を与えられ、難しい紀州を統治することになり、居城となる和歌山城の築城に際して、家臣の藤堂高虎を普請奉行に任命、また検地を行って安定した税収確保のための基盤を作ったのですが、これは数年後に秀吉が全国的に実施した太閤検地の先駆けに。

2-4、秀長、四国征伐の総大将に

1585年6月、秀長は四国攻めでは病気で出陣できなかった秀吉の代理として、10万を超える軍勢の総大将となって淡路から攻め入ったが、長宗我部氏の抵抗も激しく、また毛利氏、宇喜多氏との合同軍のために侵攻が遅れたのですね。なので、秀吉が出陣すると言ってきたが、秀長は断って、無事に四国平定を成し遂げたということ。

なお、長曾我部元親は秀長を通じて秀吉に降伏したため、土佐20万石を安堵されるという温情措置になったといわれています。

2-5、秀長、大和100万石に加増

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1585年閏8月、秀長は長宗我部元親を降した功績で、紀伊国、河内国に大和国を加増され、合計100万石で大和郡山城を居城とすることになりました。このころに豊臣姓も与えられ、従二位、大納言の官位を得て、大和大納言と称されるように。

大和は寺院が多い国で、寺社領にくわえて公卿らの領地も多く、戦乱で武士たちに領地を横領された昔々の荘園の土地を返還しろという社寺の訴えも多かったので、秀長の調停手腕が期待されたうえでの加増だったということ。このややこしい訴訟沙汰に対して秀長は、訴えた者双方の話をよく聞いたうえで公正な裁決を下したとか、金銀を握らせて上手におさめたということです。

また「諸家単一文書」によれば、秀長は検地をおこなって寺社の石高の水増しをただしたり、僧兵を擁している寺院に対して武装解除を進めるなどで、大和、奈良地方の宗教勢力の力を削いだということ。そして大和郡山を繁栄させるため、奈良での商売を禁止して大和郡山の商工業の保護を行ったということで、業者に自治権を与えて城下町のにぎわいを促進、現在も伝わっている陶器の「赤膚焼(あかはだやき)」も秀長が始めたそう。

2-6、秀長、豊臣政権で重要な位置に

1586年 10月、徳川家康は、秀吉と秀長の妹旭姫44歳との政略結婚のあとも上洛しなかったのですが、母の大政所が旭姫訪問と称して岡崎城へ実質上の人質となって赴いたため、やっと家康は上洛。家康は大坂に到着後、仲の良かった秀長邸に宿泊。そしてその晩、秀吉自らがお忍びで秀長邸におもむき、家康の前にあらわれて臣従を求めたという話は本当らしく、あちこちの史料に載っているそう。

また同年、九州の大友宗麟が島津氏の圧迫で窮地に陥ったために、秀吉に介入と救済を求めて上洛したとき、秀吉は宗麟をもてなして、「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べたということで、このころには秀長が豊臣政権の大名統制の権限を一手に握っていたということがわかるということなんですね。

\次のページで「2-7、秀長、九州平定の総大将に」を解説!/

2-7、秀長、九州平定の総大将に

秀長は、1587年の九州平定では日向方面の総大将として出陣し、耳川の戦いで高城を包囲、島津義弘が宮部継潤の陣に夜襲を仕掛けた根白坂の戦いでは、秀長の家臣藤堂高虎、戸川達安らが合流したために島津軍の夜襲は失敗して薩摩に撤退。その後に、島津家久が秀長を訪ねて講和になりました。秀長はこの功績で8月に従二位権大納言に。

2-8、秀長、病気になる

豊臣政権の中枢で、秀吉の右腕として欠かせない存在だった秀長ですが、1586年頃から体調を崩しがちとなり、湯治に行ったりしていたが、1589年2月に大坂城で諸大名と共に、秀吉に新年祝賀の太刀進上を行う儀式に出席を最後に大坂城を訪れることはなく、翌年の小田原征伐には参加できず、1591年1月、郡山城内で52歳で病死。家督は養嗣子の甥秀保が継承しました(しかし1595年に病死して断絶)。

3-1、秀長の逸話

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不明 author - 奈良県大和郡山市春岳院所蔵品。This is a collection of the Syungakuin in Japan Yamatokooriyama-shi, Nara., パブリック・ドメイン, リンクによる

後の世に書かれた「武功夜話」では、秀長について、常に温和で朴訥、邪心はまったくないと評されたということで、色々な逸話があります。

3-2、信長の怒りもスルー

1577年9月、上杉謙信との手取川(現石川県)の戦いで、秀吉は戦闘直前に勝家と口論して、無許可で戦線を離脱しました。合戦は敗戦となったこともあり、もちろん信長激怒。軍規違反を犯した秀吉は、信長の手討ちも覚悟する状況で、釈明のために主だった家臣とともに信長の許へ。

秀吉が釈明している間、控えの間の秀吉の家臣たちは大半の者が緊張を隠せなくてうろうろする中、秀長と竹中半兵衛だけは落ち着いて座っていたそう。結局、秀吉は許されて、播磨方面へ赴任。

3-3、藤堂高虎を使いこなす

秀長は温厚な性格で、誰からも好かれていて、家臣たちも秀長に心服したという人徳のある人だったのですが、あの8人もの主君を渡り歩いたという藤堂高虎は、1576年に21歳で秀長に仕えたということ。

以後、秀長は高虎を重用し、高虎も秀長のもとで安土城の築城に参加するなどして築城術を学び、猿岡山城(現和歌山県紀の川市粉河、さるおかやま)、和歌山城の築城では、高虎は初めて普請奉行に任命されたということで、秀長が亡くなるまで15年間、高虎は秀長に忠実に仕えたということです。

3-4、蓄財家だった

秀長は、秀吉の補佐役として金銭管理なども重要な役割だったようで、播磨、但馬攻略では生野銀山に目をつけていち早く確保したそう。鳥取城の攻囲戦で、相場より数倍高い価格で米を買い占め備中高松城の水攻めのときは、労働者を高い日銭で雇うなども、秀長の仕事だったといわれています。

また九州征伐で大名に割高な兵糧を売ろうとして秀吉に止められたとか、1588年には、紀伊の雑賀で材木管理担当の代官吉川平介が、秀長に命じられて売買するはずの熊野の材木2万本の代金を着服、吉川は秀吉に処刑されたあと、秀長も責任を問われて、秀吉に翌年の年頭の挨拶を拒否されるという事件も。

「落日の豊臣政権」によれば、秀長は奈良で「高利貸し」を行っていた話もあるそうで、秀長が亡くなったとき、郡山城には金56000余枚、銀は2間四方の部屋にいっぱい備蓄されていた話は有名です。 しかし当時から評判だった秀長の温厚な性格、まったく野心なく兄秀吉に尽くした人生を考えると、これはやはり自分のために私腹を肥やしたのではなくてひたすら兄秀吉のために貯め込んだとみて間違いないということ。

3-5、結婚が意外に遅く、子孫もなし

秀長は、早婚のはずの戦国時代にしては、22歳ころの中村での百姓時代も独身だったし、その後は秀吉の補佐で忙しかったのか、正室を迎えたのが45歳の頃で、相手はお寺で見初めた尼僧を還俗させた女性、側室もひとりだったそう。

そして1男2女が生まれたが、息子の小一郎は夭折し、娘お菊は養子とした甥秀保と結婚したが早世、もう一人の娘は毛利秀元と結婚したということです。また、丹羽長秀の三男の仙丸を信長の死後に秀吉が長秀を取り込む目的で、秀長の養子としたが、1588年に秀吉は、甥の秀保を秀長の跡継ぎにしたので、当時秀長の家臣だった藤堂高虎が仙丸をもらって養子にしたという話も。

\次のページで「3-6、秀長の死後の豊臣家」を解説!/

3-6、秀長の死後の豊臣家

秀長の死後、まもなく秀吉の嫡男鶴松が3歳で死去、そして、千利休切腹事件、秀頼が生まれた後、秀次切腹事件、朝鮮出兵がぼっ発。このころになると往年の秀吉とは別人のよう、耄碌したといわれていますが、秀吉に異論を唱えることが出来、諸大名との調整も上手にやってきた秀長がいれば、このようなことは起きなかったのではといわれています。

もし秀長が長生きをしていたならば、秀吉は性急に秀次に関白を譲る必要もなかったはずで、秀次ではなく秀長に関白を譲ったとしても、秀頼が生まれた後、秀長は秀次のような扱いを受けるようなことはしなかっただろうし、秀吉は安心して秀頼が成人するまで秀長に豊臣政権の運営を任せることが出来たでしょう。

秀長さえいれば、石田三成ら文治派と加藤清正ら武闘派との対立もなく、徳川家康が、江戸幕府をひらく隙もなかったのではと、秀長はまさに歴史タラレバの真骨頂というべき存在。なお、秀長の病状が記述されているという「医学天正記」を現代医学から推測すると、胃腸系のヒ素中毒の可能性で暗殺説も。

兄秀吉の補佐を上手にこなし、長生きしていればと惜しまれた賢弟

豊臣秀長は、秀吉の3歳下の弟としてうまれ、22歳ころまで尾張の国中村で母とともに静かに農業を営んでいましたが、兄秀吉が織田信長のもとで出世して故郷に錦を飾る目的で帰郷、弟の秀長を最初の部下にしたことで秀長の人生が180度転換。

秀長は穏やかな物腰で人の意見をよく聞くために、秀吉の与力の黒田如水や竹中半兵衛、蜂須賀小六などから学ぶことも多かったようで、その後は軍の総大将もそつなくこなし、調停や内政などでも力を発揮、諸大名との付き合いも上手で、秀吉へのとりなしなどにも重宝され、なによりも兄秀吉の補佐に徹して自分の野心をもたないので、気が付けば兄秀吉の副官としてなくてはならぬ存在に。しかし残念ながら1591年に病死したために秀吉を抑える人がおらず、歯止めをかけるストッパー不在で、その後の豊臣家は滅亡一直線に。

生前の秀長は、秀吉の副官に徹して自分の存在を消し、自分の手柄をすべて兄秀吉のものにしたといわれたほどでしたが、亡くなった後には、秀長が存命だったならば、秀次切腹事件や関ヶ原の合戦、大坂の陣も起こらなかった、豊臣家はおろか歴史が代わっていただろうといわれているなんて、いかに豊臣政権での存在が大きかったかということで、これも皮肉なことではないでしょうか。

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戦国時代日本史歴史

3分で簡単「豊臣秀長」の生涯ー秀吉の弟で補佐に徹した大和大納言をわかりやすく歴女が解説

今回は豊臣秀長を取り上げるぞ。秀吉の弟がいたなんて知らなかったが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、豊臣秀長について5分でわかるようにまとめた。

1-1、豊臣秀長は、尾張の生まれ

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豊臣秀長(ひでなが)は、天文9年(1540年)に尾張国愛知郡中村(現名古屋市中村区)で生まれました。父は竹阿弥、母は仲で、秀吉の3歳下の異父弟(同父弟説もあり)、きょうだいは、姉のとも、秀吉、妹の旭です。

幼名は小竹(竹阿弥の子のこちく)といわれ、通称は小一郎、兄秀吉の出世に従って、木下長秀、羽柴秀長、豊臣秀長に。のちに大和の国を領地に大納言の位をもらったため、大和大納言(やまとだいなごん)と呼ばれることが多いです。

秀吉が継父の竹阿弥とあわずに10歳くらいで家出したため、秀長は子供時代には秀吉とはほとんど関わりがなく成長したそう。

1-2、秀長、兄秀吉に従って武士になる

秀長は22歳ころまで故郷の中村で百姓として田畑を耕して暮らしていたが、結婚はしていなかったということ。そして兄秀吉は家出して転々とした後、織田信長に仕えて草履取りから足軽組頭となり、後の北政所寧々と結婚したのですね。

秀吉は出世して部下も雇える身分となったために、自分の出世を見せびらかして家来を募集するために、帰郷。このときに弟秀長を武士にならないかと誘い、秀長はいったんは断ったものの、結局は兄秀吉に従うことに。当時の秀吉のもとには、蜂須賀小六や竹中半兵衛重治らが次々と配属するようになっていたのですが、温厚で人の話を良く聞いたと言われる秀長なので、百姓から武士への転身に際して、有能な彼らのアドバイスをよく聞いたはず。

2-1、秀長、兄の補佐として活躍

秀長の初陣は、秀吉が責任者となった美濃鵜沼城攻めといわれていて、斎藤竜興の稲葉山城を攻めたとき、秀吉が裏手から、秀長が正面から攻撃して稲葉山城を落としたという話については事実かどうかは不明だそう。秀長は、合戦に参加する秀吉の代わりに留守城の守りを固めることが多かったということです。

また、1570年、信長が浅井長政の裏切りに遭い、絶体絶命のピンチで秀吉が殿を受け持ち命からがら退却した「金ケ崎の退き口」といわれる戦いでも、秀長は秀吉を補佐。秀吉が羽柴姓になると秀長も羽柴姓を名乗り、1573年の小谷城攻めでは、長政の本丸と長政父の浅井久政の京極丸を分断する竹中半兵衛の策を取り入れて、秀長が500名の軍勢で京極丸を夜襲して落城に成功という功績で秀吉から8500石の知行をもらったということ。

浅井氏滅亡後に秀吉が功績で長浜城主となったのちは、秀長が城代を務めたそう。1574年には、越前一向一揆との対決で出陣できなかった秀吉に代わって、長島一向一揆討伐に出陣したりということも。

2-2、秀長、播磨平定で但馬方面の責任者に

秀吉は1577年から、信長の命令で播磨平定と中国征伐の責任者となり、黒田官兵衛孝高の姫路城を譲られて居城にしたのですが、このときに秀長は但馬方面と山陰道の責任者となって但馬城などを落とし、生野銀山を管轄していた竹田城をとって、城代に任命されました。このころに書かれた秀吉直筆の黒田官兵衛孝高宛の手紙には、官兵衛のことを「小一郎」(秀長の通称)同然と思っていると書かれているということです。

そしてあの別所長治の三木城攻めにも参加、1年余りの籠城戦の末、三木城は1580年に落城。そして1581年3月、毛利家の吉川経家が鳥取城に入城したのちに、秀吉は鳥取城を取り囲んで兵糧攻めが開始し、秀長も鳥取城を包囲する陣の一つを指揮したということです。

2-3、中国大返しでは殿を、山崎合戦でも大活躍

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その後、秀長は秀吉の備中攻めにも参加、1582年4月、秀吉軍は備中高松城を包囲して黒田官兵衛孝高の案で水攻めを行ったとき、秀長は鼓山付近(現岡山市北区)に陣を張ったということです。この備中高松城水攻めの陣中で本能寺の変の情報を得て、秀吉は大急ぎで毛利方と講和し、高松城主の清水宗治の切腹を見届けた後、中国大返しで必死で姫路城を目指して駆けたのですが、このとき秀長が殿軍(しんがり)を務めたということ。

そして明智光秀との山崎合戦での秀長は、黒田官兵衛孝高とともに6000の兵を率いて天王山の守備隊をひきいて大活躍したそう。さらにその後、清須会議を経て織田家の扱いなどで秀吉は、織田家の宿老の柴田勝家と対立し、1583年、賤ヶ嶽の合戦がぼっ発したのですが、秀長は秀吉不在時の賤ヶ嶽戦線の大将代理を務めたということで、秀吉の不在をついての柴田方の攻撃に対して秀長は善戦し、秀吉が帰還後に勝利をもたらしたのですね。この功績で秀長は美濃守に任官して、播磨、但馬の2ヶ国を拝領し、姫路城と有子山城を居城にしたということ。

2-3、秀次、紀州64万石の大名に

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Kumiko Korezumi投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

1584年、徳川家康との間で起こった小牧、長久手の合戦で、秀長は守山に進軍し、家康と連合を組んでいる織田信雄(のぶかつ)を監視する役目を担い、信雄との講和交渉では秀吉の名代で直接交渉をおこなったそう。このとき、甥の秀次が大失態をおかして秀吉に叱責を受けたので、秀長は翌年の紀伊、四国への遠征では副将として秀次とともに行動して、秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力しました。

秀長は、紀州制圧後に功績として紀伊、和泉などの約64万石余の領地を与えられ、難しい紀州を統治することになり、居城となる和歌山城の築城に際して、家臣の藤堂高虎を普請奉行に任命、また検地を行って安定した税収確保のための基盤を作ったのですが、これは数年後に秀吉が全国的に実施した太閤検地の先駆けに。

2-4、秀長、四国征伐の総大将に

1585年6月、秀長は四国攻めでは病気で出陣できなかった秀吉の代理として、10万を超える軍勢の総大将となって淡路から攻め入ったが、長宗我部氏の抵抗も激しく、また毛利氏、宇喜多氏との合同軍のために侵攻が遅れたのですね。なので、秀吉が出陣すると言ってきたが、秀長は断って、無事に四国平定を成し遂げたということ。

なお、長曾我部元親は秀長を通じて秀吉に降伏したため、土佐20万石を安堵されるという温情措置になったといわれています。

2-5、秀長、大和100万石に加増

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1585年閏8月、秀長は長宗我部元親を降した功績で、紀伊国、河内国に大和国を加増され、合計100万石で大和郡山城を居城とすることになりました。このころに豊臣姓も与えられ、従二位、大納言の官位を得て、大和大納言と称されるように。

大和は寺院が多い国で、寺社領にくわえて公卿らの領地も多く、戦乱で武士たちに領地を横領された昔々の荘園の土地を返還しろという社寺の訴えも多かったので、秀長の調停手腕が期待されたうえでの加増だったということ。このややこしい訴訟沙汰に対して秀長は、訴えた者双方の話をよく聞いたうえで公正な裁決を下したとか、金銀を握らせて上手におさめたということです。

また「諸家単一文書」によれば、秀長は検地をおこなって寺社の石高の水増しをただしたり、僧兵を擁している寺院に対して武装解除を進めるなどで、大和、奈良地方の宗教勢力の力を削いだということ。そして大和郡山を繁栄させるため、奈良での商売を禁止して大和郡山の商工業の保護を行ったということで、業者に自治権を与えて城下町のにぎわいを促進、現在も伝わっている陶器の「赤膚焼(あかはだやき)」も秀長が始めたそう。

2-6、秀長、豊臣政権で重要な位置に

1586年 10月、徳川家康は、秀吉と秀長の妹旭姫44歳との政略結婚のあとも上洛しなかったのですが、母の大政所が旭姫訪問と称して岡崎城へ実質上の人質となって赴いたため、やっと家康は上洛。家康は大坂に到着後、仲の良かった秀長邸に宿泊。そしてその晩、秀吉自らがお忍びで秀長邸におもむき、家康の前にあらわれて臣従を求めたという話は本当らしく、あちこちの史料に載っているそう。

また同年、九州の大友宗麟が島津氏の圧迫で窮地に陥ったために、秀吉に介入と救済を求めて上洛したとき、秀吉は宗麟をもてなして、「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べたということで、このころには秀長が豊臣政権の大名統制の権限を一手に握っていたということがわかるということなんですね。

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