今回は豊臣秀次を取り上げるぞ。秀吉の甥だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、豊臣秀次について5分でわかるようにまとめた。

1-1、豊臣秀次は、尾張の生まれ

豊臣秀次(ひでつぐ)は、永禄11年(1568年)、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)の同母姉のとも(瑞竜院日秀)と弥助(後の三好吉房)夫婦の長男として、尾張国知多郡大高村で生まれました。当時の弥助は馬貸しか、馬丁だったとされ、秀次も幼名はなくて最初の名は治兵衛(じへえ)。兄弟は弟が二人で、秀勝と秀保。

1-2、秀次、叔父秀吉の調略で人質に

1572年当時、秀次の叔父の秀吉は織田信長の武将として、浅井、朝倉軍との対戦中で、3年かかったという小谷城攻めを行っていました。秀吉は信長の命令で、小谷城攻略のため、陥落させた横山城(小谷城の側にある支城)に在城中で、周辺の浅井の家臣への調略の責任者。

ということで秀吉は、宮部城の宮部継潤(けいじゅん)を織田方に寝返らせるのに成功し、継潤の安全を保障するために当時4歳だった秀次を人質に送り込んだのですね。秀次は名目上、継潤の養子となり、通称を次兵衛尉、諱を吉継と改めたそう。そしてこのとき、宮部家家臣だった田中久兵衛吉政が傅役に。この吉政は秀次の側近として長く仕え、後には家康のもとで大名に出世しました。

1573年9月、小谷城は落城して浅井氏は滅亡。信長は秀吉の功績を認めて小谷城を与えましたが、宮部継潤も秀吉の与力になったので秀次は宮部家の養子(人質)ではなくなり、羽柴姓に復帰したのではということです。なお、翌年、秀吉は小谷城を放棄して、琵琶湖沿岸の今浜を長浜(現滋賀県長浜市)と改めて長浜城を築城し城下町をつくったそう。

1-3、秀次、三好家の養子に

当時、畿内と四国に勢力を持っていたのは、三好家の家臣三好三人衆と松永久秀。三好家の一族で三好長慶の叔父にあたる三好康長も、三好三人衆らと信長包囲網に属して信長に対抗していましたが、1575年、信長に攻められて松井友閑を通じて降伏、一転して信長の四国征伐の先鋒となって、信長の3男信孝を養子にすることが決定、しかし本能寺の変がぼっ発して白紙状態に。

その後三好康長は、明智光秀を破った秀吉に接近し、甥の秀次を養子にしました。秀次が康長の養子となった時期は諸説あって、本能寺の変の前の1575年から本能寺の変後の1583年ころとはっきりせず。とにかく秀吉は信長が目指した四国征伐を引き継ぎ、瀬戸内から四国をおさえて、土佐の梟雄長宗我部氏の行動を阻止するために、三好氏を取り込む目的で秀次を養子に出したのですね。

そういうわけで、秀次は通称を孫七郎、諱を信吉と、名門三好家の姓を名乗るように。康長は茶道などにも造詣のある文化人だったので、秀次はこのころ、養父の影響で文化的な教養を得たのではと言われています。しかし養父の康長は、若江城を居城として河内半国を治めていたが、本能寺の変後の消息は不明、康長の実子の康俊も同時期に姿を消してしまったため、1583年頃には秀次が三好家の家臣団を率いる立場となって河内北山2万石の大名に。また秀次の父の弥助も三好武蔵守吉房と名乗るようになったそう。

1-4、清須会議の前に、池田信興の娘と結婚

秀次は、1582年の山崎の戦いの直前、中国大返しで大急ぎで光秀討伐にかけつけた秀吉に真っ先に味方した池田恒興の娘(若政所)と14歳で婚約、翌年輿入れして正室に、また恒興の3男輝政が秀吉の養子になりました。そして秀吉が明智光秀を破った後、信長の後継者を決める清洲会議では、関東で足止めされていた滝川一益の代わりに恒興が宿老の1人として出席。

なお、池田恒興は信長の乳兄弟、信長の乳母だった恒興母は信長の父信虎の側室となって娘を生んでいるという、かなり織田家に近い武将です。ほかにも、信長の嫡男信忠の側室で信長の嫡孫の三法師の母と池田恒興の長男元助の妻が姉妹なので、三法師は元助の義理甥になり、森長可も恒興の娘婿であったなど、秀次と恒興娘との縁組は池田家と秀吉との関係を密にするということになり、秀吉の多数派工作の一端に。この頃、秀次には池田氏の所領から三田城が譲渡されたそう。

その後、秀吉が天下人の地位を確立すると、秀次は子供のない秀吉の跡継ぎとしてみられるようになり、1584年ころには三好家を出て羽柴信吉と改めたということです。

2-1、秀次、小牧、長久手の戦いで大失敗

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Bariston - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

秀次は、天下人秀吉の甥として期待されたが、小牧、長久手の戦いでは大失態を。秀次は岳父の池田恒興と義兄にあたる森長可が三河国に攻め入る策を秀吉に強く提案、秀次自身はこの別働隊の総大将を志願したのですが、4月9日、白山林で家康軍の榊原康政、大須賀康高らに奇襲されてあえなく壊滅。秀次は、恒興と嫡男元助に森長可ら重要な武将を次々と討ち死にさせ、自分ひとりが落ち延びたということで、秀吉激怒。家臣を見殺しにした大たわけと、5箇条の折檻状を送って厳しく訓戒しました。

この折檻状の中で秀吉は、自分の甥としての覚悟と分別を持つように求めて、それに応えるならば何れの国でも知行を認めるが、今回のような無分別なことをすれば「一門の恥であるから手討ちにする」とまで。また、秀吉の世継ぎの於次丸秀勝(秀次の弟)は病身で、将来は秀次に継がせる考えもあるが、秀次の覚悟次第として重ねて自覚を持つように要求。

なお、この小牧、長久手の合戦は、秀次のせいで家康に勝てる戦を負けてしまったため、秀吉は後々までも家康に遠慮せざるを得なくなったというかなり重要なターニングポイント。

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2-2、秀次、20万石の大名に

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投稿者がファイル作成 - ブレイズマン (talk) 11:59, 9 February 2011 (UTC), パブリック・ドメイン, リンクによる

秀次は、1585年、秀吉の紀伊雑賀征伐に出陣、今度は叔父秀長がつき、共に副将を任されて、3月の千石堀城の戦いで一揆勢を皆殺しにして落城に貢献、太田城攻囲にも参加。同年6月の四国征伐では、病気中の秀吉にかわり秀次の叔父の秀長が総大将となり、秀次は副将として3万の軍勢で阿波国土佐泊に上陸、黒田孝高、宇喜多秀家らと合流したせいもあり、比江山親興の岩倉城を落城させました。

1585年7月頃には、秀吉の関白就任に前後して、秀吉の偏諱を受けて秀次と改名。そして四国平定後の国替え、加増では秀次は20万石、秀次に付いた宿老の 山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏らが23万石で、近江5郡が与えられ、蒲生郡(現近江八幡市)に八幡山城を築くことに。この城の縄張りは、すべて秀吉の指図で書状で指示されたそう。秀次は、領内の内政では善政をしき、近江八幡に「水争い裁き」の逸話などが残っているそうだが、当時17歳だったので宿老の田中吉政の功績が大きいと言われていて、この時点での秀次はおとなしく秀吉の指示に従い、秀吉がつけてくれた家臣のいうことを聞いていたようです。

2-3、秀次、尾張へ転封、奥州征伐の総大将に

1588年4月、秀次は、聚楽第への後陽成天皇の行幸の際、忠誠を誓う署判の序列では、徳川家康(大納言)、織田信雄(内大臣)、豊臣秀長(権大納言)についで4番目で、4月19日には従二位となり、1590年の小田原征伐に副将として出陣したが、秀吉は指南役として徳川家康をつけました。

その後、小田原城開城が一段落すると7月には奥州平定に出発、白河を経て黒川まで行ったそう。そして翌年、九戸政実の乱がぼっ発し、秀吉は南部信直の援軍要請で、秀次を総大将に伊達政宗、徳川家康、上杉景勝、蒲生氏郷らが出陣。なお、秀次不在中の小田原攻めの論功行賞では、織田信雄が東海道五カ国への移封を拒否して改易後、秀次は信雄領の尾張国、伊勢国北部5郡などが加増され、旧領と合わせて100万石の大大名となり、秀次は居城を清洲城に移し、宿老たちも東海道の諸国に転封されました。

2-4、秀次、鶴松の死去で後継者に

1591年1月秀吉の弟秀長、8月には秀吉の嫡男鶴松が相次いで死去したため、秀次は11月、それ以前に秀吉の養嗣子となったとされています。この頃、秀吉は関白職を辞して、唐入り(征明遠征)に専心、日本の統治を秀次に任せると言い出したということ。そして関白職を世襲するため、秀次の官位は11月に権大納言、12月には内大臣にと急激にアップ。

秀吉は自分の甥である秀次の器量を誰よりもよく知っていたようで、5か条の訓戒状を秀次に出して天下人としての心得を説き、「女狂いは、秀吉の真似をしてはいけない」と誓わせた話は有名です。

12月に、秀次は関白に就任して、同時に豊臣氏(豊臣は姓でなくて源平藤橘の他に新たに創設されたもの)の氏長者に。関白就任以後、秀次は政庁である聚楽第を主な住居として政務を執ることになりましたが、諸事は秀吉が定めた「御法度」「御置目」に従うように決められていて秀吉が依然として実権を握っていたのは言うまでもありません。

2-5、秀吉、正式に秀次に継承

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不明 author - Toyotomi Hidetsugu large.jpg 瑞雲寺所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

1592年1月、秀次は左大臣に補任され、2月には聚楽第へ2回目の後陽成天皇行幸があり、秀次が迎えたが、これは秀吉から秀次への権力世襲を内外に示したものということです。このころ秀吉は、朝鮮征伐で名護屋城に行っており、秀吉の隠居地として築城された伏見城の築城作業も、秀次がおこない、8月に亡くなった秀吉母で秀次の祖母の大政所の葬儀も秀次が取り仕切ったのですね。

そして12月、元号が文禄に改元されたのですが、これは秀次の関白世襲にあわせ、秀吉から秀次への継承を記念しての改元だったそう。

2-6、秀頼誕生で秀次の地位危うしに

秀吉が、秀次への継承をおこなった後、肥前国名護屋から戻った淀殿の懐妊が判明、1593年8月に大坂城二の丸で男の子の秀頼(拾)を出産。秀吉は大変な喜びようで、秀次に関白を譲ったのを後悔したということ。

秀吉は、日本を5つに分けて、4つを秀次、残り1つを秀頼に譲ると申し渡し、生まれたばかりの秀頼と秀次の娘を婚約させるなど、あの手この手を考えていたということですが、秀次はこのころ、やはり精神的に不安定だったらしく喘息治療のため熱海温泉へ湯治に行ったそう。しかし表面的には秀次は北政所寧々と吉野に花見に行ったり、大坂城で秀吉が能を待ったのを見物したり、吉野に花見に行ったりと仲良く過ごしていたよう。

そして秀次は1594年にも朝鮮半島に出陣予定があったが、秀吉の渡海延期の後、喘息もあって渡海していなかったのですが、この秀頼誕生で地位が危うくなった秀次に対し、黒田官兵衛如水が、このままではダメ、秀吉の代わりに朝鮮に渡海するようにすすめ、そうしなければ地位を失うだろうと忠告したのですが、秀次は聞き入れなかったといわれています。

\次のページで「3-1、秀次、謀反の疑いをかけられる」を解説!/

3-1、秀次、謀反の疑いをかけられる

1595年6月末、突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がり、7月3日(または6月26日)、聚楽第に石田三成、前田玄以、増田長盛らの秀吉の奉行が訪れて、謀反の真偽を詰問して、誓紙を提出するよう要求。秀次は謀反の疑いを否定して誓紙を書いたそう。しかし「御湯殿上日記」では7月3日に、秀次が朝廷に白銀3000枚、第一皇子(覚深法親王)に500枚、准三宮(勧修寺晴子と近衛前子)に各500枚、八条宮智仁親王(秀吉の猶子)に300枚、聖護院道澄に500枚を献納したということで、これはとりもなおさず、秀吉から自分へ政権交代した場合に承認してもらうためだったということ。

ついに秀吉は秀次に父子での話し合いをしようと伏見へ来ることを命じたが、秀次は応じなかったため、数日後に前の宿老たちの前田玄以、山内一豊、宮部継潤、中村一氏、堀尾吉晴が使者として訪れて、秀次に伏見への出頭を促したが、秀次は応じなかったのですね。そして北政所寧々の側近の尼の孝蔵主(こうぞうす)が、侍医や小姓衆など僅かな供廻りだけで伏見に来るようにと優しくさとしたところ、秀次は安心して伏見に出頭、しかしこれがおびき出すための謀略であったとされていて、秀次は伏見に到着すると登城も拝謁も許されずに、木下吉隆(半介)の邸宅に閉じ込められることに。

3-2、秀次、高野山で切腹

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秀次は秀吉からの上使に「御対面及ばざる条、まず高野山へ登山然るべし」と告げられ、すぐに剃髪して伏見を出立、7月10日に、高野山青巌寺に入って隠棲することになったが、15日に福島正則らの検使が兵を率いてやってきて、秀次は28歳で切腹という最期に

なお、この頃の常識として、出家した人に切腹を申し付けるということはなかったので、この切腹は秀吉の命令ではなく、秀次が自主的におこなったという見方もあるそう。

3-3、秀次の妻妾、子供たちも処刑

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Daderot - 投稿者自身による作品, CC0, リンクによる

聚楽第にいた秀次の大勢の妻妾、子供たちは7月8日に捕えられ、家臣宅に監禁されたのち、監視役をつけられて11日に丹波亀山城に移送、そして16日、秀吉は福島正則らが持ち帰った秀次の首を検分したのちの8月2日、三条河原で処刑されました。

このなかには前大納言菊亭晴季の娘の正室一の台もいて、北政所寧々の助命嘆願も叶わず真っ先に処刑されたそう。結局、幼い若君4名と姫君、側室、侍女、乳母ら39名の全員が斬首、子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なるというあまりにひどい光景に、集まった観衆は奉行に罵詈雑言があびせるわ、見物を後悔した者もいるわという状況だったということです。

なお、この大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられ、秀次悪逆塚、畜生塚と呼ばれ鴨川の洪水の後も放置状態だったが、1611年、豪商角倉了以が河川改修の際、石版を発見して供養のために瑞泉寺を建立し、悪逆の文字を削って供養塔が再建。

3-4、聚楽第、近江八幡山城も破却

秀吉は、秀次の縁故の人物を虐殺、家臣たちもそれぞれ処罰後に、秀次の住んでいた聚楽第や近江八幡山城まで徹底的に破却したということで、現在も聚楽第の遺構はほとんど残っていないそう。当時の近江八幡山城は、京極高次が城主であったが、城館を破壊して高次は大津城に移転。近江八幡山城の一部を大津城に移築した説も。

3-5、秀次事件に連座した人たち

 大名預かりとなっていた秀次の家老7名は全員が切腹。他にも遠流となった家臣もいて、許された者の多くは他の大名たち、徳川家康、石田三成、前田利家らに仕えたということ。木村常陸介重茲が摂津国の大門寺で斬首され、財産没収となり、重茲の妻子は法院の預かりとなった後に三条河原で磔にされたが、末子の重成は母が秀頼の乳母で秀頼に仕えることに。

また秀次と相婿で義兄弟の関係だった浅野幸長は、秀次を弁護したため能登国に配流となり、その父浅野長政も秀吉の勘気を蒙ったが、秀吉の死後復帰したそう。

奥州の大名最上義光は、娘の駒姫が秀次の側室として京都に着いたばかりだったが、前田利家や徳川家康の助命嘆願にもかかわらず、三条河原で処刑され、義光も咎められたが後に許されたそう。またこの悲運の駒姫は、秀吉が助命嘆願を聞き入れて、三条河原に使者が着いたときにはすでに処刑の後だったという話も。

4-1、秀次事件で難を免れた人たち

秀次事件に関係し、秀吉の不興を買った大名たちは、ほとんどが徳川家康の助けを受けて難を逃れたため、のちの関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属すことになりました。

\次のページで「4-2、細川忠興」を解説!/

4-2、細川忠興

細川忠興は、秀次の家老の前野景定(切腹)に娘が嫁いでいたことと、秀次に黄金200枚の借金があったのですが、大急ぎで娘を離縁させて、徳川家康に取り成しを頼んで、結局、秀次への借金は秀吉に返すことで難を逃れたといわれています。

4-3、山内一豊

秀次の宿老の一人である山内一豊は、秀次に諫言していたことが評価されておとがめなしとなり、徳川家康よりとなって関ヶ原後に土佐一国の主となりました。

4-4、若政所と池田輝政

秀次の正室として、一の台と呼ばれる菊亭大納言の姫が処刑され、父の大納言も越後へ遠流の刑となりましたが、山崎合戦のあとに秀次と結婚した池田恒興の娘で輝政の妹の若政所は助かったうえ、輝政のもとへ返されて特別丁寧に扱われたということで池田家も何のおとがめもなし。若政所はこの秀次事件の前に亡くなっているという説もありますが、助命された文書もあり、その後は不明ながらも1601年に死去。

4-5、伊達政宗

奥州の覇者伊達政宗は秀次と懇意で、秀次の家老の粟野秀用は元は政宗の家臣だったなどから、秀次の謀反の一味の可能性があると見なされたそう。秀次の事件が明らかになってから、懇意の施薬院全宗からすぐに大坂に来て弁明すべしと忠告されたので、岩出山城から急ぎ上京。そして前田玄以、施薬院全宗らの詰問使の訪問を受けたが、政宗は豊臣家の2代目の関白秀次に誠心誠意奉公しようとしたのだと自己弁護したので、秀吉は政宗を許したそう。

4-6、秀次の遺児

秀次の遺児の中では、淡輪徹斎の娘の小督局との娘で生後1ヶ月のお菊は、母の従兄弟後藤興義に預けられていて助かり、後に真田信繁(幸村)の側室隆清院となった娘とその同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も難を逃れました。

秀吉の甥に生まれ、利用された挙句、秀頼誕生で排除

豊臣秀次は、実父は馬貸しか馬丁だったが、歴史上の偉人となった叔父秀吉の手駒とされ、幼い頃から養子という名の人質とされることで人生をスタート。けっこう不安定な子供時代を送ったが、叔父の秀吉が天下人となり跡継ぎがないために、数少ない係累の筆頭である秀次はちやほやされはじめ、異常な期待もされて若くして武将として結果を求められ、秀吉も、秀次を跡取りとしてそれらしく整えるのに必死になるという毎日に。

しかしいかんせん秀次には秀吉のような器量もなく、また上手に立ち回って身の程をわきまえて叔父に従うという裁量もなく、成長するにつれて側に仕えている有能な家臣の言うことも聞かなくなったよう。そして秀頼が生まれてからはただただ邪魔ものとされ、謀反を企てたとされ排除の方向に。結局秀次は、秀吉の命令で高野山へ送られて出家の後、わずか28歳で切腹、その後秀吉の憎しみは秀次の幼子や異常に多い側室たちにもうつったのか、ほとんどが処刑。秀次が住んだというだけで、聚楽第や近江八幡城も潰してしまい、秀次の側近も色々処罰を受け、ただでさえ数少ない秀吉の係累はいなくなり、また処罰を免れた武将たちも徳川家康に助けてもらったせいで秀吉後の勢力図、プレ関ヶ原にも影響を与えることに。

そしてそこまでするなんていったい秀次は何をしたのだと謎になり、殺生関白のあだ名のついた悪行もあげつらわれるが、ほとんどは資料がなく後付けで事実かどうかは不明。昔から身のほどに合わない位をもらうと位負けといい、とんでもない報復があるというそうですが、後継者がいなかった秀吉が必死で出来の悪い甥を後継者にしたてたが、晩年に出来た「実子」の秀頼の安泰を願うあまり暴走しちゃった、秀吉の犠牲者という見方も出来るかも。

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安土桃山時代日本史歴史

3分で簡単「豊臣秀次」の生涯ー殺生関白と言われた秀吉の甥をわかりやすく歴女が解説

4-2、細川忠興

細川忠興は、秀次の家老の前野景定(切腹)に娘が嫁いでいたことと、秀次に黄金200枚の借金があったのですが、大急ぎで娘を離縁させて、徳川家康に取り成しを頼んで、結局、秀次への借金は秀吉に返すことで難を逃れたといわれています。

4-3、山内一豊

秀次の宿老の一人である山内一豊は、秀次に諫言していたことが評価されておとがめなしとなり、徳川家康よりとなって関ヶ原後に土佐一国の主となりました。

4-4、若政所と池田輝政

秀次の正室として、一の台と呼ばれる菊亭大納言の姫が処刑され、父の大納言も越後へ遠流の刑となりましたが、山崎合戦のあとに秀次と結婚した池田恒興の娘で輝政の妹の若政所は助かったうえ、輝政のもとへ返されて特別丁寧に扱われたということで池田家も何のおとがめもなし。若政所はこの秀次事件の前に亡くなっているという説もありますが、助命された文書もあり、その後は不明ながらも1601年に死去。

4-5、伊達政宗

奥州の覇者伊達政宗は秀次と懇意で、秀次の家老の粟野秀用は元は政宗の家臣だったなどから、秀次の謀反の一味の可能性があると見なされたそう。秀次の事件が明らかになってから、懇意の施薬院全宗からすぐに大坂に来て弁明すべしと忠告されたので、岩出山城から急ぎ上京。そして前田玄以、施薬院全宗らの詰問使の訪問を受けたが、政宗は豊臣家の2代目の関白秀次に誠心誠意奉公しようとしたのだと自己弁護したので、秀吉は政宗を許したそう。

4-6、秀次の遺児

秀次の遺児の中では、淡輪徹斎の娘の小督局との娘で生後1ヶ月のお菊は、母の従兄弟後藤興義に預けられていて助かり、後に真田信繁(幸村)の側室隆清院となった娘とその同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も難を逃れました。

秀吉の甥に生まれ、利用された挙句、秀頼誕生で排除

豊臣秀次は、実父は馬貸しか馬丁だったが、歴史上の偉人となった叔父秀吉の手駒とされ、幼い頃から養子という名の人質とされることで人生をスタート。けっこう不安定な子供時代を送ったが、叔父の秀吉が天下人となり跡継ぎがないために、数少ない係累の筆頭である秀次はちやほやされはじめ、異常な期待もされて若くして武将として結果を求められ、秀吉も、秀次を跡取りとしてそれらしく整えるのに必死になるという毎日に。

しかしいかんせん秀次には秀吉のような器量もなく、また上手に立ち回って身の程をわきまえて叔父に従うという裁量もなく、成長するにつれて側に仕えている有能な家臣の言うことも聞かなくなったよう。そして秀頼が生まれてからはただただ邪魔ものとされ、謀反を企てたとされ排除の方向に。結局秀次は、秀吉の命令で高野山へ送られて出家の後、わずか28歳で切腹、その後秀吉の憎しみは秀次の幼子や異常に多い側室たちにもうつったのか、ほとんどが処刑。秀次が住んだというだけで、聚楽第や近江八幡城も潰してしまい、秀次の側近も色々処罰を受け、ただでさえ数少ない秀吉の係累はいなくなり、また処罰を免れた武将たちも徳川家康に助けてもらったせいで秀吉後の勢力図、プレ関ヶ原にも影響を与えることに。

そしてそこまでするなんていったい秀次は何をしたのだと謎になり、殺生関白のあだ名のついた悪行もあげつらわれるが、ほとんどは資料がなく後付けで事実かどうかは不明。昔から身のほどに合わない位をもらうと位負けといい、とんでもない報復があるというそうですが、後継者がいなかった秀吉が必死で出来の悪い甥を後継者にしたてたが、晩年に出来た「実子」の秀頼の安泰を願うあまり暴走しちゃった、秀吉の犠牲者という見方も出来るかも。

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