4-2、細川忠興
細川忠興は、秀次の家老の前野景定(切腹)に娘が嫁いでいたことと、秀次に黄金200枚の借金があったのですが、大急ぎで娘を離縁させて、徳川家康に取り成しを頼んで、結局、秀次への借金は秀吉に返すことで難を逃れたといわれています。
4-3、山内一豊
秀次の宿老の一人である山内一豊は、秀次に諫言していたことが評価されておとがめなしとなり、徳川家康よりとなって関ヶ原後に土佐一国の主となりました。
こちらの記事もおすすめ
賢夫人のおかげで土佐藩主となった「山内一豊」をわかりやすく歴女が解説
4-4、若政所と池田輝政
秀次の正室として、一の台と呼ばれる菊亭大納言の姫が処刑され、父の大納言も越後へ遠流の刑となりましたが、山崎合戦のあとに秀次と結婚した池田恒興の娘で輝政の妹の若政所は助かったうえ、輝政のもとへ返されて特別丁寧に扱われたということで池田家も何のおとがめもなし。若政所はこの秀次事件の前に亡くなっているという説もありますが、助命された文書もあり、その後は不明ながらも1601年に死去。
こちらの記事もおすすめ
姫路城を現在の形に作り上げた戦国武将「池田輝政」をわかりやすく歴女が解説
4-5、伊達政宗
奥州の覇者伊達政宗は秀次と懇意で、秀次の家老の粟野秀用は元は政宗の家臣だったなどから、秀次の謀反の一味の可能性があると見なされたそう。秀次の事件が明らかになってから、懇意の施薬院全宗からすぐに大坂に来て弁明すべしと忠告されたので、岩出山城から急ぎ上京。そして前田玄以、施薬院全宗らの詰問使の訪問を受けたが、政宗は豊臣家の2代目の関白秀次に誠心誠意奉公しようとしたのだと自己弁護したので、秀吉は政宗を許したそう。
4-6、秀次の遺児
秀次の遺児の中では、淡輪徹斎の娘の小督局との娘で生後1ヶ月のお菊は、母の従兄弟後藤興義に預けられていて助かり、後に真田信繁(幸村)の側室隆清院となった娘とその同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も難を逃れました。
こちらの記事もおすすめ
大坂の陣「真田丸」で名を馳せた真田幸村…人気実力共にスター武将を歴女がわかりやすく解説
秀吉の甥に生まれ、利用された挙句、秀頼誕生で排除
豊臣秀次は、実父は馬貸しか馬丁だったが、歴史上の偉人となった叔父秀吉の手駒とされ、幼い頃から養子という名の人質とされることで人生をスタート。けっこう不安定な子供時代を送ったが、叔父の秀吉が天下人となり跡継ぎがないために、数少ない係累の筆頭である秀次はちやほやされはじめ、異常な期待もされて若くして武将として結果を求められ、秀吉も、秀次を跡取りとしてそれらしく整えるのに必死になるという毎日に。
しかしいかんせん秀次には秀吉のような器量もなく、また上手に立ち回って身の程をわきまえて叔父に従うという裁量もなく、成長するにつれて側に仕えている有能な家臣の言うことも聞かなくなったよう。そして秀頼が生まれてからはただただ邪魔ものとされ、謀反を企てたとされ排除の方向に。結局秀次は、秀吉の命令で高野山へ送られて出家の後、わずか28歳で切腹、その後秀吉の憎しみは秀次の幼子や異常に多い側室たちにもうつったのか、ほとんどが処刑。秀次が住んだというだけで、聚楽第や近江八幡城も潰してしまい、秀次の側近も色々処罰を受け、ただでさえ数少ない秀吉の係累はいなくなり、また処罰を免れた武将たちも徳川家康に助けてもらったせいで秀吉後の勢力図、プレ関ヶ原にも影響を与えることに。
そしてそこまでするなんていったい秀次は何をしたのだと謎になり、殺生関白のあだ名のついた悪行もあげつらわれるが、ほとんどは資料がなく後付けで事実かどうかは不明。昔から身のほどに合わない位をもらうと位負けといい、とんでもない報復があるというそうですが、後継者がいなかった秀吉が必死で出来の悪い甥を後継者にしたてたが、晩年に出来た「実子」の秀頼の安泰を願うあまり暴走しちゃった、秀吉の犠牲者という見方も出来るかも。