3-1、秀次、謀反の疑いをかけられる
1595年6月末、突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がり、7月3日(または6月26日)、聚楽第に石田三成、前田玄以、増田長盛らの秀吉の奉行が訪れて、謀反の真偽を詰問して、誓紙を提出するよう要求。秀次は謀反の疑いを否定して誓紙を書いたそう。しかし「御湯殿上日記」では7月3日に、秀次が朝廷に白銀3000枚、第一皇子(覚深法親王)に500枚、准三宮(勧修寺晴子と近衛前子)に各500枚、八条宮智仁親王(秀吉の猶子)に300枚、聖護院道澄に500枚を献納したということで、これはとりもなおさず、秀吉から自分へ政権交代した場合に承認してもらうためだったということ。
ついに秀吉は秀次に父子での話し合いをしようと伏見へ来ることを命じたが、秀次は応じなかったため、数日後に前の宿老たちの前田玄以、山内一豊、宮部継潤、中村一氏、堀尾吉晴が使者として訪れて、秀次に伏見への出頭を促したが、秀次は応じなかったのですね。そして北政所寧々の側近の尼の孝蔵主(こうぞうす)が、侍医や小姓衆など僅かな供廻りだけで伏見に来るようにと優しくさとしたところ、秀次は安心して伏見に出頭、しかしこれがおびき出すための謀略であったとされていて、秀次は伏見に到着すると登城も拝謁も許されずに、木下吉隆(半介)の邸宅に閉じ込められることに。
3-2、秀次、高野山で切腹
秀次は秀吉からの上使に「御対面及ばざる条、まず高野山へ登山然るべし」と告げられ、すぐに剃髪して伏見を出立、7月10日に、高野山青巌寺に入って隠棲することになったが、15日に福島正則らの検使が兵を率いてやってきて、秀次は28歳で切腹という最期に。
なお、この頃の常識として、出家した人に切腹を申し付けるということはなかったので、この切腹は秀吉の命令ではなく、秀次が自主的におこなったという見方もあるそう。
3-3、秀次の妻妾、子供たちも処刑
聚楽第にいた秀次の大勢の妻妾、子供たちは7月8日に捕えられ、家臣宅に監禁されたのち、監視役をつけられて11日に丹波亀山城に移送、そして16日、秀吉は福島正則らが持ち帰った秀次の首を検分したのちの8月2日、三条河原で処刑されました。
このなかには前大納言菊亭晴季の娘の正室一の台もいて、北政所寧々の助命嘆願も叶わず真っ先に処刑されたそう。結局、幼い若君4名と姫君、側室、侍女、乳母ら39名の全員が斬首、子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なるというあまりにひどい光景に、集まった観衆は奉行に罵詈雑言があびせるわ、見物を後悔した者もいるわという状況だったということです。
なお、この大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられ、秀次悪逆塚、畜生塚と呼ばれ鴨川の洪水の後も放置状態だったが、1611年、豪商角倉了以が河川改修の際、石版を発見して供養のために瑞泉寺を建立し、悪逆の文字を削って供養塔が再建。
3-4、聚楽第、近江八幡山城も破却
秀吉は、秀次の縁故の人物を虐殺、家臣たちもそれぞれ処罰後に、秀次の住んでいた聚楽第や近江八幡山城まで徹底的に破却したということで、現在も聚楽第の遺構はほとんど残っていないそう。当時の近江八幡山城は、京極高次が城主であったが、城館を破壊して高次は大津城に移転。近江八幡山城の一部を大津城に移築した説も。
3-5、秀次事件に連座した人たち
大名預かりとなっていた秀次の家老7名は全員が切腹。他にも遠流となった家臣もいて、許された者の多くは他の大名たち、徳川家康、石田三成、前田利家らに仕えたということ。木村常陸介重茲が摂津国の大門寺で斬首され、財産没収となり、重茲の妻子は法院の預かりとなった後に三条河原で磔にされたが、末子の重成は母が秀頼の乳母で秀頼に仕えることに。
また秀次と相婿で義兄弟の関係だった浅野幸長は、秀次を弁護したため能登国に配流となり、その父浅野長政も秀吉の勘気を蒙ったが、秀吉の死後復帰したそう。
奥州の大名最上義光は、娘の駒姫が秀次の側室として京都に着いたばかりだったが、前田利家や徳川家康の助命嘆願にもかかわらず、三条河原で処刑され、義光も咎められたが後に許されたそう。またこの悲運の駒姫は、秀吉が助命嘆願を聞き入れて、三条河原に使者が着いたときにはすでに処刑の後だったという話も。
4-1、秀次事件で難を免れた人たち
秀次事件に関係し、秀吉の不興を買った大名たちは、ほとんどが徳川家康の助けを受けて難を逃れたため、のちの関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属すことになりました。
\次のページで「4-2、細川忠興」を解説!/










