
その辺のところを安土桃山時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、豊臣秀次は、尾張の生まれ
- 1-2、秀次、叔父秀吉の調略で人質に
- 1-3、秀次、三好家の養子に
- 1-4、清須会議の前に、池田信興の娘と結婚
- 2-1、秀次、小牧、長久手の戦いで大失敗
- 2-2、秀次、20万石の大名に
- 2-3、秀次、尾張へ転封、奥州征伐の総大将に
- 2-4、秀次、鶴松の死去で後継者に
- 2-5、秀吉、正式に秀次に継承
- 2-6、秀頼誕生で秀次の地位危うしに
- 3-1、秀次、謀反の疑いをかけられる
- 3-2、秀次、高野山で切腹
- 3-3、秀次の妻妾、子供たちも処刑
- 3-4、聚楽第、近江八幡山城も破却
- 3-5、秀次事件に連座した人たち
- 4-1、秀次事件で難を免れた人たち
- 4-2、細川忠興
- 4-3、山内一豊
- 4-4、若政所と池田輝政
- 4-5、伊達政宗
- 4-6、秀次の遺児
- 秀吉の甥に生まれ、利用された挙句、秀頼誕生で排除
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、安土桃山時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、豊臣秀次について5分でわかるようにまとめた。
1-1、豊臣秀次は、尾張の生まれ
豊臣秀次(ひでつぐ)は、永禄11年(1568年)、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)の同母姉のとも(瑞竜院日秀)と弥助(後の三好吉房)夫婦の長男として、尾張国知多郡大高村で生まれました。当時の弥助は馬貸しか、馬丁だったとされ、秀次も幼名はなくて最初の名は治兵衛(じへえ)。兄弟は弟が二人で、秀勝と秀保。
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1-2、秀次、叔父秀吉の調略で人質に
1572年当時、秀次の叔父の秀吉は織田信長の武将として、浅井、朝倉軍との対戦中で、3年かかったという小谷城攻めを行っていました。秀吉は信長の命令で、小谷城攻略のため、陥落させた横山城(小谷城の側にある支城)に在城中で、周辺の浅井の家臣への調略の責任者。
ということで秀吉は、宮部城の宮部継潤(けいじゅん)を織田方に寝返らせるのに成功し、継潤の安全を保障するために当時4歳だった秀次を人質に送り込んだのですね。秀次は名目上、継潤の養子となり、通称を次兵衛尉、諱を吉継と改めたそう。そしてこのとき、宮部家家臣だった田中久兵衛吉政が傅役に。この吉政は秀次の側近として長く仕え、後には家康のもとで大名に出世しました。
1573年9月、小谷城は落城して浅井氏は滅亡。信長は秀吉の功績を認めて小谷城を与えましたが、宮部継潤も秀吉の与力になったので秀次は宮部家の養子(人質)ではなくなり、羽柴姓に復帰したのではということです。なお、翌年、秀吉は小谷城を放棄して、琵琶湖沿岸の今浜を長浜(現滋賀県長浜市)と改めて長浜城を築城し城下町をつくったそう。
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1-3、秀次、三好家の養子に
当時、畿内と四国に勢力を持っていたのは、三好家の家臣三好三人衆と松永久秀。三好家の一族で三好長慶の叔父にあたる三好康長も、三好三人衆らと信長包囲網に属して信長に対抗していましたが、1575年、信長に攻められて松井友閑を通じて降伏、一転して信長の四国征伐の先鋒となって、信長の3男信孝を養子にすることが決定、しかし本能寺の変がぼっ発して白紙状態に。
その後三好康長は、明智光秀を破った秀吉に接近し、甥の秀次を養子にしました。秀次が康長の養子となった時期は諸説あって、本能寺の変の前の1575年から本能寺の変後の1583年ころとはっきりせず。とにかく秀吉は信長が目指した四国征伐を引き継ぎ、瀬戸内から四国をおさえて、土佐の梟雄長宗我部氏の行動を阻止するために、三好氏を取り込む目的で秀次を養子に出したのですね。
そういうわけで、秀次は通称を孫七郎、諱を信吉と、名門三好家の姓を名乗るように。康長は茶道などにも造詣のある文化人だったので、秀次はこのころ、養父の影響で文化的な教養を得たのではと言われています。しかし養父の康長は、若江城を居城として河内半国を治めていたが、本能寺の変後の消息は不明、康長の実子の康俊も同時期に姿を消してしまったため、1583年頃には秀次が三好家の家臣団を率いる立場となって河内北山2万石の大名に。また秀次の父の弥助も三好武蔵守吉房と名乗るようになったそう。
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1-4、清須会議の前に、池田信興の娘と結婚
秀次は、1582年の山崎の戦いの直前、中国大返しで大急ぎで光秀討伐にかけつけた秀吉に真っ先に味方した池田恒興の娘(若政所)と14歳で婚約、翌年輿入れして正室に、また恒興の3男輝政が秀吉の養子になりました。そして秀吉が明智光秀を破った後、信長の後継者を決める清洲会議では、関東で足止めされていた滝川一益の代わりに恒興が宿老の1人として出席。
なお、池田恒興は信長の乳兄弟、信長の乳母だった恒興母は信長の父信虎の側室となって娘を生んでいるという、かなり織田家に近い武将です。ほかにも、信長の嫡男信忠の側室で信長の嫡孫の三法師の母と池田恒興の長男元助の妻が姉妹なので、三法師は元助の義理甥になり、森長可も恒興の娘婿であったなど、秀次と恒興娘との縁組は池田家と秀吉との関係を密にするということになり、秀吉の多数派工作の一端に。この頃、秀次には池田氏の所領から三田城が譲渡されたそう。
その後、秀吉が天下人の地位を確立すると、秀次は子供のない秀吉の跡継ぎとしてみられるようになり、1584年ころには三好家を出て羽柴信吉と改めたということです。
2-1、秀次、小牧、長久手の戦いで大失敗
Bariston – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
秀次は、天下人秀吉の甥として期待されたが、小牧、長久手の戦いでは大失態を。秀次は岳父の池田恒興と義兄にあたる森長可が三河国に攻め入る策を秀吉に強く提案、秀次自身はこの別働隊の総大将を志願したのですが、4月9日、白山林で家康軍の榊原康政、大須賀康高らに奇襲されてあえなく壊滅。秀次は、恒興と嫡男元助に森長可ら重要な武将を次々と討ち死にさせ、自分ひとりが落ち延びたということで、秀吉激怒。家臣を見殺しにした大たわけと、5箇条の折檻状を送って厳しく訓戒しました。
この折檻状の中で秀吉は、自分の甥としての覚悟と分別を持つように求めて、それに応えるならば何れの国でも知行を認めるが、今回のような無分別なことをすれば「一門の恥であるから手討ちにする」とまで。また、秀吉の世継ぎの於次丸秀勝(秀次の弟)は病身で、将来は秀次に継がせる考えもあるが、秀次の覚悟次第として重ねて自覚を持つように要求。
なお、この小牧、長久手の合戦は、秀次のせいで家康に勝てる戦を負けてしまったため、秀吉は後々までも家康に遠慮せざるを得なくなったというかなり重要なターニングポイント。
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