「足利義視」は室町時代の後半、室町幕府の将軍家出身で、8代将軍足利義政の弟だった。なぜ将軍の弟をわざわざ話題にするのかと不思議でしょう?実は、彼は室町時代の大内乱「応仁の乱」の火種となった人間なんです。

というわけで、今回は室町時代後半のキーパーソン「足利義視」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。武士について勉強すると室町時代は見逃せない。また「応仁の乱」が勃発したからこそ戦国時代への時代変遷が加速。今回の記事ではその「足利義視」にスポットを当てて勉強し、まとめた。

1.還俗して後継者になって!

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僧侶だった足利義視

今回のテーマとなる「足利義視(あしかがよしみ)」は、6代目将軍「足利義教(よしのり)」の10番目の息子であり、7代目将軍「足利義勝(よしかつ)」、8代目将軍「足利義政(よしまさ)」とは腹違いの弟にあたります。しかし、足利義視は何と言っても10番目の息子、そして、正室の子でもありませんでしたから、なかなか将軍の座というものが回ってくるものではありませんよね。それで彼は、彼の母親が仕えていた父・足利義教の正室の兄にあたる「正親町三条実雅」という公家の養子となっていました。

そうして、そのあとの1443年、足利義視は出家して「義尋(ぎじん)」と改名し、天台宗は浄土寺(京都市左京区銀閣町)の門跡となります。門跡というのは、その宗派の開祖の教えを受け継ぐ寺院、あるいは僧侶のこと。つまり、足利義視は浄土寺を継ぐ偉いお坊さんだったのです。

兄・足利義政からのオファー

足利義視の兄で、8代目将軍「足利義政」には子どもがいませんでした。それでも将軍ですから、跡継ぎは必ず必要です。このまま跡継ぎを決めないままというわけにもいきませんから、足利義政は弟の足利義視を継嗣に指名することにしました。

しかし、足利義視はすでに出家してお坊さんになっています。そのうえ、門跡いう高い身分の僧だったので、わざわざ将軍にならなくても、生活に困るようなことは一切なかったのです。

それにもしこの先、足利義政に息子が生まれるようなことになれば、骨肉の争いは避けられません。下手をすれば、殺されてしまう可能性さえあるのです。だから、跡継ぎのオファーがきたとき足利義視は強く拒否しました。

その意志を変えさせたのが、幕府の有力者「細川勝元(ほそかわかつもと)」です。彼ほどの影響力がある人が後見人としてついてくれるなら、と足利義視は還俗(僧侶が一般の人に戻ること)して兄の養子となり、次期将軍に決まりました。

室町幕府イチのダメ将軍「足利義政」

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土佐光信 - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

ここで兄の「足利義政」の話を少ししておくと、実はこの人、室町時代を勉強する上で絶対に外せない「3代目将軍・足利義満」と並ぶ重要人物なのです。ただし、彼の業績は足利義満とは真逆。足利義政は室町幕府イチのダメ将軍なんて言われています。

けれど、最初からダメだったわけではありません。将軍就任当初は先代の政策を復活させようとがんばりましたし、有力者同士の争いに介入して幕府の地位の向上に力を入れていました。

ところが、足利義政の奮闘とは裏腹に政治の場では、義政の乳母・今参局(いままいりのつぼね)、育ての親・烏丸資任(からすまるすけとう)、将軍家の側近・有馬持家(ありまもちいえ)や、義政の母と妻の実家・日野家、その他有力守護大名の介入があり、足利義政が政治の主導となるのは非常に難しい状況だったのです。

さらに、1466年の「文政の政変」で足利義政の側近たちが守護大名たちによって追放されると、足利義政は側近を中心とする将軍の専制政治を行えなくなりました。以降は、守護大名たちを中心とした政治が始まります。

そして、幕府の財政難や、民衆が幕府へ政治的な要求をするために起こした土一揆に散々苦しまされた挙句、足利義政は政治が大っ嫌いになってしまいました。それで、政治にそっぽを向いた彼は、次第に趣味に没頭していったのです。

強い守護大名たち

室町時代、実質的に全国を支配していたのは将軍ではなく、各地に配置された「守護大名」でした。けれど、鎌倉時代の守護や地頭のように、守護大名たちみんながみんな素直に将軍の命令を聞いていたわけではありません。

そもそも、室町時代は南北朝時代と同時にスタートしていて、守護大名たちは北朝についたり、南朝についたりして戦争に次ぐ戦争を繰り返してきました。しかも、今日は南朝の味方だったけれど、気に入らないことがあったから明日から北朝の陣営に加わる、なんてことも珍しくありません。守護大名たちは自分の利益を優先できる陣営を選んで戦っています。なので、一部の将軍の時期を除いて、あまり将軍の影響力は強くありませんでした

8代目将軍・足利義政のころもまた将軍の権威はそこそこといったところで、実際に政治は幕府の有力者たちの介入が強かったのです。だから、足利義政は政治を細川勝元や山名宗全(やまなそうぜん)といった有力守護大名たちに任せたんですね。

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Laitr Keiows - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

足利義政の趣味の世界

そんな足利義政でしたが、しかし、彼の趣味は、個人の趣味の範ちゅうに収まらないくらいにすごかったのです。

なかでも、誰もがその名前を聞いたことがある「銀閣」は、足利義政が鹿苑寺の「金閣」を模して造らせたものでした。「銀閣」は室町時代中期に栄えた「東山文化」の代表的な建築物ですね。

金閣は一度焼失して建て直されたものなんですが、こちらは室町時代のから残ったそのもの。なので、金閣がユネスコの世界遺産に指定されているのに対して、銀閣はユネスコ世界遺産と国宝のふたつに指定されています。

2.応仁の乱、勃発

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\次のページで「足利義政の息子誕生」を解説!/

足利義政の息子誕生

足利義視を後継者として無事に立てることができた室町幕府。これで跡継ぎ問題も解決して安泰だ、と思ったところで、1465年、兄「足利義政」に息子「足利義尚(よしひさ)」が生まれてしまったために一大事が起こります。

足利義政の正室(正妻)の日野富子(ひのとみこ)は、もちろん次の将軍は我が子に継いでもらいたいと思いますよね。しかも、彼女は夫の妾や側室4人を追い出したりとけっこう苛烈な性格の女性です。かわいい息子を将軍にするため、足利義視を次期将軍の座から追い落とすべく日野富子は足利義視の後見人・細川勝元と並び立つ「山名宗全(やまなそうぜん)」を息子の後見人にし、足利義視と対立するようになりました。

次の将軍は誰? 現役将軍の意見は

足利義視としては、わざわざ還俗させてまで引っ張り出されたのに、やっぱりなかったことにしてくれ、とあとから言われるのも釈然としませんよね。はい、そうですか、と引くわけがありません。

いったいどちらが次の将軍になるのか、一刻も早くハッキリさせたいところです。ところが、そこをハッキリさせられる現役将軍の足利義政はどちらを将軍にするとは言いませんでした。前章で解説した通り、足利義政は政治にはそっぽを向いていて、どうせ自分の命令なんて誰も聞きやしない、とばかりに趣味に没頭し続けたのです。

応仁の乱がはじまった場所

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将軍の後継者問題と、それに絡んだ有力守護大名同士の対立が起こります。当然ながら、話し合いは平行線で、平和的に解決できるものではありませんね。そして、足利義政はその争いを止められません。趣味の世界から帰ってきませんから。

かくして、1467年「応仁の乱」が起こりました。

語呂合わせは「1(ひと)4(のよ)6(む)7(な)しい 応仁の乱」。「人の世 むなしい 応仁の乱」です。

ところで、みなさんは室町幕府がどこにあったのかご存知でしょうか?一応、おさらいしておくと、室町幕府があったのは京都。鎌倉や江戸幕府と違って、室町幕府の将軍と天皇は物理的に近い土地にいたんですね。

それでは、室町幕府の将軍家を中心にして争いが起こると戦場はどこになるでしょうか?――はい、京都ですね。

ご存知の通り、鎌倉幕府が立つ以前、京都は平安時代の日本の首都「平安京」でした。その歴史のなかで数々の重要文化財や貴重な建物がつくられ、全国、あるいは海の向こうの大陸からたくさんの貴重な品々が集まった大都市です。

しかし、ひとたび戦いがはじまってしまえば、そういうことにもかまえなくなります。そのため、「応仁の乱」によって京都にあった貴重な文化財や仏像、書物が破壊され、灰になってしまったのです。

東軍の細川勝元、西軍の山名宗全

さて、対立した両陣営は、足利義視と細川勝元を中心とする東軍足利義尚と日野富子、山名宗全を中心とする西軍に分かれて戦うことになります。

ところが、ここも一筋縄ではいかないのが「応仁の乱」。途中で足利義視、足利義尚と日野富子が入れ替わったり、主力守護大名の寝返りが起こったりと敵味方が入れ代わり立ち代わりするなんとも忙しい展開になりました。

そんな状況だからか、なかなか決着がつかずに争いは全国に波及。なんと「応仁の乱」は約11年にわたって続いたのです。

「応仁の乱」の結末

日本全国を巻き込んで11年も争い続けたんですから、戦いの結末は白黒ハッキリついたんでしょうね、と問い詰めたくなりますよね。しかし、「応仁の乱」はこれまたなんともスッキリしない結末を迎えます。

戦い続けた東軍と西軍でしたが、1473年、4月に山名宗全、5月に細川勝元が相次いで亡くなるという事態が起こりました。そんな最中、足利義政が息子・足利義尚に将軍の座を譲ったのです。

そして、徐々に幕府の幕府の機能を回復させていくと同時に、山名宗全の後継者で孫の山名政豊、細川勝元の後継者で息子の細川政元が和解。これに続いて全国で対立していた守護大名たちも和睦していきました。

このように、「応仁の乱」は絶対的な戦いの勝者はなく、和睦、和解の道を選んで終息することとなったのです。

そうして、1477年に西軍は解体。足利義視は息子・足利義稙(よしたね)を連れて美濃国(現在の岐阜県)へと去ることになりました。

\次のページで「3.父の代わりに将軍となった息子」を解説!/

3.父の代わりに将軍となった息子

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応仁の乱は戦国時代の始まり

かくして「応仁の乱」は終わったのですが、しかし、乱が残した爪痕は非常に深く、室町幕府の権威は非常に弱ってしまいます。そのため、各地の守護大名たちはロクに幕府の命令を聞かなくなりました。さらに、実力にものを言わせて他の守護大名を倒して自ら守護大名になったりと、「下剋上」の風潮が生まれていったのです。

このため、「応仁の乱」は戦国時代の始まりといわれています。とはいっても、室町幕府自体は1573年まで存続しますよ。

足利義視のその後

足利義視は、兄・足利義政に許された後も美濃国に留まり続けます。一方、将軍となった足利義尚ですが、これが困ったことに跡継ぎとなる息子がいませんでした。将軍家を継続できなければ、幕府の存続もできません。そして、間の悪いことに足利義尚は1478年に近江(滋賀県)で発生した「長享・延徳の乱」で亡くなってしまいました。

そこで、次の将軍として白羽の矢が立ったのが、足利義稙です。彼は第10代足利将軍に就任し、足利義視は将軍の父「大御所」として政治に関わるようになりました。

しかし、その大御所時代は短く、政務を振るうようになって三ヶ月後に足利義視はこの世を去ってしまうのです。

応仁の乱の火種、振り回された人生

僧侶として安泰な人生を歩むはずだった足利義視。しかし、その思惑は兄の後継者問題によって阻まれてしまいました。継嗣争いはやがて全国に波及し「応仁の乱」に発展したものの、11年の歳月を費やして結局は和解。足利義視は将軍にはなれず、京都を去ってしまいます。その後に息子・足利義稙が10代将軍となり、足利義視自身も大御所としてようやく政治を行うようになりました。

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室町時代戦国時代日本史歴史

3分で簡単「足利義視」の生涯ー応仁の乱の火種になった人物を歴史オタクがわかりやすく解説

「足利義視」は室町時代の後半、室町幕府の将軍家出身で、8代将軍足利義政の弟だった。なぜ将軍の弟をわざわざ話題にするのかと不思議でしょう?実は、彼は室町時代の大内乱「応仁の乱」の火種となった人間なんです。

というわけで、今回は室町時代後半のキーパーソン「足利義視」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。武士について勉強すると室町時代は見逃せない。また「応仁の乱」が勃発したからこそ戦国時代への時代変遷が加速。今回の記事ではその「足利義視」にスポットを当てて勉強し、まとめた。

1.還俗して後継者になって!

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僧侶だった足利義視

今回のテーマとなる「足利義視(あしかがよしみ)」は、6代目将軍「足利義教(よしのり)」の10番目の息子であり、7代目将軍「足利義勝(よしかつ)」、8代目将軍「足利義政(よしまさ)」とは腹違いの弟にあたります。しかし、足利義視は何と言っても10番目の息子、そして、正室の子でもありませんでしたから、なかなか将軍の座というものが回ってくるものではありませんよね。それで彼は、彼の母親が仕えていた父・足利義教の正室の兄にあたる「正親町三条実雅」という公家の養子となっていました。

そうして、そのあとの1443年、足利義視は出家して「義尋(ぎじん)」と改名し、天台宗は浄土寺(京都市左京区銀閣町)の門跡となります。門跡というのは、その宗派の開祖の教えを受け継ぐ寺院、あるいは僧侶のこと。つまり、足利義視は浄土寺を継ぐ偉いお坊さんだったのです。

兄・足利義政からのオファー

足利義視の兄で、8代目将軍「足利義政」には子どもがいませんでした。それでも将軍ですから、跡継ぎは必ず必要です。このまま跡継ぎを決めないままというわけにもいきませんから、足利義政は弟の足利義視を継嗣に指名することにしました。

しかし、足利義視はすでに出家してお坊さんになっています。そのうえ、門跡いう高い身分の僧だったので、わざわざ将軍にならなくても、生活に困るようなことは一切なかったのです。

それにもしこの先、足利義政に息子が生まれるようなことになれば、骨肉の争いは避けられません。下手をすれば、殺されてしまう可能性さえあるのです。だから、跡継ぎのオファーがきたとき足利義視は強く拒否しました。

その意志を変えさせたのが、幕府の有力者「細川勝元(ほそかわかつもと)」です。彼ほどの影響力がある人が後見人としてついてくれるなら、と足利義視は還俗(僧侶が一般の人に戻ること)して兄の養子となり、次期将軍に決まりました。

室町幕府イチのダメ将軍「足利義政」

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土佐光信[1], パブリック・ドメイン, リンクによる

ここで兄の「足利義政」の話を少ししておくと、実はこの人、室町時代を勉強する上で絶対に外せない「3代目将軍・足利義満」と並ぶ重要人物なのです。ただし、彼の業績は足利義満とは真逆。足利義政は室町幕府イチのダメ将軍なんて言われています。

けれど、最初からダメだったわけではありません。将軍就任当初は先代の政策を復活させようとがんばりましたし、有力者同士の争いに介入して幕府の地位の向上に力を入れていました。

ところが、足利義政の奮闘とは裏腹に政治の場では、義政の乳母・今参局(いままいりのつぼね)、育ての親・烏丸資任(からすまるすけとう)、将軍家の側近・有馬持家(ありまもちいえ)や、義政の母と妻の実家・日野家、その他有力守護大名の介入があり、足利義政が政治の主導となるのは非常に難しい状況だったのです。

さらに、1466年の「文政の政変」で足利義政の側近たちが守護大名たちによって追放されると、足利義政は側近を中心とする将軍の専制政治を行えなくなりました。以降は、守護大名たちを中心とした政治が始まります。

そして、幕府の財政難や、民衆が幕府へ政治的な要求をするために起こした土一揆に散々苦しまされた挙句、足利義政は政治が大っ嫌いになってしまいました。それで、政治にそっぽを向いた彼は、次第に趣味に没頭していったのです。

強い守護大名たち

室町時代、実質的に全国を支配していたのは将軍ではなく、各地に配置された「守護大名」でした。けれど、鎌倉時代の守護や地頭のように、守護大名たちみんながみんな素直に将軍の命令を聞いていたわけではありません。

そもそも、室町時代は南北朝時代と同時にスタートしていて、守護大名たちは北朝についたり、南朝についたりして戦争に次ぐ戦争を繰り返してきました。しかも、今日は南朝の味方だったけれど、気に入らないことがあったから明日から北朝の陣営に加わる、なんてことも珍しくありません。守護大名たちは自分の利益を優先できる陣営を選んで戦っています。なので、一部の将軍の時期を除いて、あまり将軍の影響力は強くありませんでした

8代目将軍・足利義政のころもまた将軍の権威はそこそこといったところで、実際に政治は幕府の有力者たちの介入が強かったのです。だから、足利義政は政治を細川勝元や山名宗全(やまなそうぜん)といった有力守護大名たちに任せたんですね。

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足利義政の趣味の世界

そんな足利義政でしたが、しかし、彼の趣味は、個人の趣味の範ちゅうに収まらないくらいにすごかったのです。

なかでも、誰もがその名前を聞いたことがある「銀閣」は、足利義政が鹿苑寺の「金閣」を模して造らせたものでした。「銀閣」は室町時代中期に栄えた「東山文化」の代表的な建築物ですね。

金閣は一度焼失して建て直されたものなんですが、こちらは室町時代のから残ったそのもの。なので、金閣がユネスコの世界遺産に指定されているのに対して、銀閣はユネスコ世界遺産と国宝のふたつに指定されています。

2.応仁の乱、勃発

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