日本史

5分でわかる「足利義視」の生涯ー応仁の乱の火種になった人物を歴史オタクがわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ。「足利義視」は室町時代の後半、室町幕府の将軍家出身で、8代将軍足利義政の弟だった。なぜ将軍の弟をわざわざ話題にするのかと不思議だろう?実は、彼は室町時代の大内乱「応仁の乱」の火種となった人間なんだ。

というわけで、今回は室町時代後半のキーパーソン「足利義視」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。武士について勉強すると室町時代は見逃せない。また「応仁の乱」が勃発したからこそ戦国時代への時代変遷が加速。今回の記事ではその「足利義視」にスポットを当てて勉強し、まとめた。

1.還俗して後継者になって!

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僧侶だった足利義視

今回のテーマとなる「足利義視(あしかがよしみ)」は、6代目将軍「足利義教(よしのり)」の10番目の息子であり、7代目将軍「足利義勝(よしかつ)」、8代目将軍「足利義政(よしまさ)」とは腹違いの弟にあたります。しかし、足利義視は何と言っても10番目の息子、そして、正室の子でもありませんでしたから、なかなか将軍の座というものが回ってくるものではありませんよね。それで彼は、彼の母親が仕えていた父・足利義教の正室の兄にあたる「正親町三条実雅」という公家の養子となっていました。

そうして、そのあとの1443年、足利義視は出家して「義尋(ぎじん)」と改名し、天台宗は浄土寺(京都市左京区銀閣町)の門跡となります。門跡というのは、その宗派の開祖の教えを受け継ぐ寺院、あるいは僧侶のこと。つまり、足利義視は浄土寺を継ぐ偉いお坊さんだったのです。

兄・足利義政からのオファー

足利義視の兄で、8代目将軍「足利義政」には子どもがいませんでした。それでも将軍ですから、跡継ぎは必ず必要です。このまま跡継ぎを決めないままというわけにもいきませんから、足利義政は弟の足利義視を継嗣に指名することにしました。

しかし、足利義視はすでに出家してお坊さんになっています。そのうえ、門跡いう高い身分の僧だったので、わざわざ将軍にならなくても、生活に困るようなことは一切なかったのです。

それにもしこの先、足利義政に息子が生まれるようなことになれば、骨肉の争いは避けられません。下手をすれば、殺されてしまう可能性さえあるのです。だから、跡継ぎのオファーがきたとき足利義視は強く拒否しました。

その意志を変えさせたのが、幕府の有力者「細川勝元(ほそかわかつもと)」です。彼ほどの影響力がある人が後見人としてついてくれるなら、と足利義視は還俗(僧侶が一般の人に戻ること)して兄の養子となり、次期将軍に決まりました。

室町幕府イチのダメ将軍「足利義政」

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土佐光信[1], パブリック・ドメイン, リンクによる

ここで兄の「足利義政」の話を少ししておくと、実はこの人、室町時代を勉強する上で絶対に外せない「3代目将軍・足利義満」と並ぶ重要人物なのです。ただし、彼の業績は足利義満とは真逆。足利義政は室町幕府イチのダメ将軍なんて言われています。

けれど、最初からダメだったわけではありません。将軍就任当初は先代の政策を復活させようとがんばりましたし、有力者同士の争いに介入して幕府の地位の向上に力を入れていました。

ところが、足利義政の奮闘とは裏腹に政治の場では、義政の乳母・今参局(いままいりのつぼね)、育ての親・烏丸資任(からすまるすけとう)、将軍家の側近・有馬持家(ありまもちいえ)や、義政の母と妻の実家・日野家、その他有力守護大名の介入があり、足利義政が政治の主導となるのは非常に難しい状況だったのです。

さらに、1466年の「文政の政変」で足利義政の側近たちが守護大名たちによって追放されると、足利義政は側近を中心とする将軍の専制政治を行えなくなりました。以降は、守護大名たちを中心とした政治が始まります。

そして、幕府の財政難や、民衆が幕府へ政治的な要求をするために起こした土一揆に散々苦しまされた挙句、足利義政は政治が大っ嫌いになってしまいました。それで、政治にそっぽを向いた彼は、次第に趣味に没頭していったのです。

強い守護大名たち

室町時代、実質的に全国を支配していたのは将軍ではなく、各地に配置された「守護大名」でした。けれど、鎌倉時代の守護や地頭のように、守護大名たちみんながみんな素直に将軍の命令を聞いていたわけではありません。

そもそも、室町時代は南北朝時代と同時にスタートしていて、守護大名たちは北朝についたり、南朝についたりして戦争に次ぐ戦争を繰り返してきました。しかも、今日は南朝の味方だったけれど、気に入らないことがあったから明日から北朝の陣営に加わる、なんてことも珍しくありません。守護大名たちは自分の利益を優先できる陣営を選んで戦っています。なので、一部の将軍の時期を除いて、あまり将軍の影響力は強くありませんでした

8代目将軍・足利義政のころもまた将軍の権威はそこそこといったところで、実際に政治は幕府の有力者たちの介入が強かったのです。だから、足利義政は政治を細川勝元や山名宗全(やまなそうぜん)といった有力守護大名たちに任せたんですね。

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Laitr Keiows投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

足利義政の趣味の世界

そんな足利義政でしたが、しかし、彼の趣味は、個人の趣味の範ちゅうに収まらないくらいにすごかったのです。

なかでも、誰もがその名前を聞いたことがある「銀閣」は、足利義政が鹿苑寺の「金閣」を模して造らせたものでした。「銀閣」は室町時代中期に栄えた「東山文化」の代表的な建築物ですね。

金閣は一度焼失して建て直されたものなんですが、こちらは室町時代のから残ったそのもの。なので、金閣がユネスコの世界遺産に指定されているのに対して、銀閣はユネスコ世界遺産と国宝のふたつに指定されています。

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室町幕府の将軍は、俺たちがイメージするような絶対的な権力を持つ権力者じゃなかった。「征夷大将軍」、というすべての武士たちの棟梁という肩書はあったが、現実は守護大名の存在が大きすぎた。

そんな状況下でダメ将軍なんて言われるてしまった足利義政だが、最初はちゃんと将軍として幕府を支えようとしていたんだな。だが、跡継ぎがいなかったために、弟の「足利義視」をわざわざ還俗させて後継者としたんだ。

これで丸く収まればよかったんだが、まあ、現実はそう上手くはいかなかったんだな……。

2.応仁の乱、勃発

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