今回は荻生徂徠を取り上げるぞ。名前くらいは知ってる儒学者ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、荻生徂徠について5分でわかるようにまとめた。

1-1、荻生徂徠は江戸の生まれ

荻生徂徠(おぎゅう そらい)は、寛文6年(1666年)2月に江戸で生まれました。父は当時甲府宰相だった5代将軍徳川綱吉の侍医荻生景明で、7歳下の弟は8代将軍吉宗のブレーンとなった侍医で儒学者の荻生北渓(おぎゅうほっけい)。

幼名は雙松(なべまつ)、字(あざ)と実名は茂卿、字としては「もけい」、実名としては「しげのり」と読み、通称は惣右衛門(そうえもん)、号は徂徠、蘐園(けんえん)

なお、「徂徠」の号は「詩経」にある「徂徠之松」が由来で、字の「茂卿」と同じく「松が茂る」の意味で松にこだわりがあるそう。

1-2、徂徠の子供時代

徂徠は幼いころから学問に優れたため、林羅山の三男の林春斎(鵞峰、がほう)その息子の林鳳岡(ほうこう)について学んでいたが、1679年に父が、仕えていた館林藩主徳川綱吉の怒りにふれて江戸から放逐、蟄居処分となり、徂徠も14歳で家族とともに母の故郷、上総国長柄郡本納村(現千葉県茂原市)に移住することに。徂徠はこの村で13年余りを過ごして漢籍、和書、仏典を独学し、学問の基礎を学んだのですね。

そして1692年に父が赦免されたために、一家は江戸に戻って、27歳の徂徠はさらに学問に専念し、芝増上寺の近くに塾を開塾して教えるようになったが、当初は貧しく食事にも不自由していたということです。

2-1、徂徠、柳沢吉保に召し抱えられる

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京浜にけ - 投稿者撮影, GFDL-no-disclaimers, リンクによる

1696年、徂徠が書いた書物が柳沢吉保の目にとまり、将軍綱吉の側近として幕府側用人に抜擢されたばかりの柳沢吉保に召し抱えられ、15人扶持を支給されるようになりました。のちには500石取りに加増され、徂徠は柳沢邸で講学しつつ、吉保の政治上の顧問として助言をおこない、将軍綱吉にも儒学の講義などで接するように。

柳沢吉保が1705年に甲府藩主となったとき、徂徠は吉保の命令で、甲斐国を見聞して紀行文「風流使者記」。「峡中紀行」を残したということです。

2-2、徂徠、私塾を開く

image by PIXTA / 40840687

1709年、将軍綱吉が死去後、柳沢吉保はあっさり隠居したため、44歳の徂徠は柳沢邸を辞して日本橋茅場町に居を移し私塾を開塾しました。そして徂徠派として、蘐園学派(けんえん)を形成するまでに。塾名の「蘐園」は塾の所在地の茅場町にちなんだもので、隣には俳諧師の宝井其角が住んでいて、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の発句があるということ。

なお、綱吉の死後、6代将軍となった家宣のもとでは、同じ学者の新井白石が登用されて正徳の治を行って活躍していたのですが、徂徠はけっこうライバル意識を持っていたらしく、友人や弟子に宛てた書簡の中で、白石に対する批判や軽蔑の気持ちを書いていたということです。

\次のページで「2-3、徂徠、将軍吉宗にも助言を」を解説!/

2-3、徂徠、将軍吉宗にも助言を

その後、8代将軍吉宗の治世となり、享保の改革を断行するために吉宗は徂徠を幕臣に登用しようとしたが、徂徠は断り、吉宗から政治に関しての意見を求められて、体系的政治論の「政談」という意見書を書いて献上しました。また徂徠は自分の父が蒙った追放刑に代えて自由刑にすることについても進言したそう。

徂徠は多くの門弟を育てて、「徂徠先生答問書」「学則」「弁道」「弁名」など多数の著書もあらわしたのち、1728年に62歳で死去。

3-1、徂徠の逸話

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有朋堂書店 - Japanese Book 『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』, パブリック・ドメイン, リンクによる

徂徠は、中国語にも堪能で、読み下し文でなくそのまま中国古典が読むことができ、孫子の注釈として名高い「孫子国字解」をあらわしたということですが、学者としての見解とか、色々なエピソードをご紹介しますね。

3-2、赤穂事件についての徂徠の意見

徂徠が柳沢吉保に仕えていた1702年、赤穂浪士の討ち入り事件がぼっ発。

世間では義士として讃えられていた赤穂浪士の処分について、老中だった吉保から意見を求められ、徂徠は「擬自律書」を著して処分を上申しました。
幕府お抱えの儒学者の林鳳岡、室鳩巣、浅見絅斎は、赤穂浪士を賛美して助命論を展開したが、徂徠は、義は己を潔くするための道だが法は天下の規範であるとして、義士切腹論を主張し、吉保が採用して赤穂浪士は切腹の処分となったとされています。

しかし「柳沢家秘蔵実記」には、老中たちが赤穂浪士の討ち入りは夜盗同然として打ち首にすべきと決定したが、この決定に不満を持った吉保が徂徠に相談、徂徠は「赤穂浪士の行為は、将軍綱吉も第一に挙げた忠孝の道にかなっているので、盗賊の罪に対する打ち首の処分ではなく切腹にすれば、赤穂浪士たちの顔も立って世の示しにもなるはず」という意見を述べたということ。吉保はこれを将軍綱吉に上聞、綱吉は喜び、打ち首から切腹に処分が変更されたと記述されているそう。

しかし徂徠は事件の数年後の1705年ころに「四十七士の事を論ず」をあらわしていて、このなかでは浅野内匠頭は幕府に処罰されたので、吉良に殺されたわけではないので、赤穂浪士にとっては吉良上野介は主君の仇ではないし、内匠頭が吉良に斬りかかったことに対して、先祖の事を忘れた不義の行為とみなしたということ。したがって赤穂浪士の行動は、同情はするが、主君の邪志を引き継いだもので、「義」とは認められないと著述しているため、「柳沢家秘蔵実記」、「徂徠儀律書」の内容と矛盾しているとして、前者は吉保の後付けの自己弁護で、後者は別人の作ではと言う説があるということです。

3-3、徂徠学とは

徂徠は、当時の武家政治の基礎理念として江戸幕府の正学とされて全国に広まっていた朱子学を「憶測にもとづいた虚妄の説」として、朱子学に立脚した古典解釈を批判、古代中国の古典を読み解く方法論として、古文辞学(蘐園学派)を確立しました。徂徠は中国趣味を持ち、中国文学や音楽を好んでいて、漢籍も訓読せずに中国語の発音のまま読んで本来の意味を知ることができたため、その古文辞学で解明した知識から、中国の古代の聖人の先王の道(礼楽刑政)に従った制度で政治を行うのを理想と考えたということで、徂徠の思想は徂徠学ともいわれるように。

そして武士や町人が帰農する農本思想として、当時すでに市場経済化に置き去りとなり、困窮していた武士救済の道についても考えたということで、徂徠の著作からは、儒学を道徳論から切り離して政治論としてとらえたことがうかがえるそうです。

3-4、徂徠の「政談」とは

前述のように「政談」は、徂徠が晩年に8代将軍吉宗に献上した政治、経済、社会の問題点と対策について書いた意見書のことで、内容は、江戸に暮らす人々の実体と問題点について詳しく述べ、それを治めるために幕府の政治はどうあるべきであるか、どのように直すべきかなどについて指摘、人口問題についてや身分にとらわれない人材登用論も著述

徂徠は若いころ、父が江戸を放逐されて千葉の田舎で生活した体験をもとに、江戸と農村の違いについても具体的で説得力もあるということです。この「政談」はのちに天保になって出版され、日本思想史では、政治と宗教道徳の分離の推進に画期的な役割を果たし、経世論が生まれるきっかけにもなった重要な著作といわれています。

\次のページで「3-5、徂徠豆腐とは」を解説!/

3-5、徂徠豆腐とは

image by PIXTA / 42104814

落語や講談、浪曲の演目に「徂徠豆腐」という話があります。

これは、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が、柳沢吉保の御用学者となった徂徠と赤穂浪士の討ち入りがきっかけで再会、徂徠が豆腐屋に恩返しをする話で、徂徠は江戸へ帰って塾を開いたころ、経済的に困窮していて、お金がないのに豆腐を注文して食べてしまうが、豆腐屋は、それを許しおからをタダでくれるようになり、貧しい中で徂徠を支援してくれていたそう。

そして赤穂浪士討ち入りの翌日の大火で豆腐屋が焼けだされたことを知った徂徠が、今までの豆腐代と新しい店を豆腐屋に贈ったということ。しかし江戸っ子の豆腐屋は、赤穂義士を切腹に導いた側の徂徠から施しは受けられねえと、徂徠のプレゼントをつっぱねたところ、徂徠は、豆腐屋は、本来ならば盗人行為の豆腐のタダ食いを出世払いとしてくれたから今の自分がある、徂徠も学者として法を曲げずに最大の情けをかけて赤穂浪士を切腹の処分にしたのと同じ行為ではないかとし、豆腐屋に武士の道徳について語り、豆腐屋も納得して受け取るというもの。

「先生はあっしのために自腹を切ってくださった」という、豆腐屋の言葉が話のオチになるという、実際に徂徠の体験が元になった話だそう。

4-1、徂徠の弟子たち

徂徠は私塾蘐園塾を開き、多数の弟子を育てましたが、そのなかで有名な人をご紹介しますね。

4-2、服部南郭(はっとりなんかく)

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Creator:Hattori Nankaku服部南郭 - 日野龍夫 『服部南郭伝攷』ぺりかん社, パブリック・ドメイン, リンクによる

京都の裕福な町人服部元矩(もとちか)の次男、母は蒔絵師の山本春正の娘吟子。父元矩は北村季吟に師事したという文雅の教養ある家庭で育ち、歌や絵以外にも「四書」や「三体詩」なども教えられたそう。13歳で父を亡くすと縁故を頼って江戸へ下り、17歳で甲府藩主柳沢吉保に歌道と画業を認められて18年間仕えることに。

このころの柳沢家には、徂徠をはじめ、細井広沢、志村禎幹、鞍岡蘇山、渡辺幹などの学者らが仕えていたが、南郭は徂徠に師事して漢学に転向、徂徠学(古文辞学)について学んで、太宰春台とともに蘐園学派の双璧といわれるように。その後、蘐園学派は、太宰春台や山県周南の経学派と、南郭と安藤東野、平野金華の詩文派に分裂。南郭は和歌、連歌の素養があったためもあり、政治や兵法書に興味を持たず、太宰春台らが古文辞を痛烈に批判したり政治を論じるのとはちがい、詩文に親しんで、山水画、人物画を得意とする日本文人画の先覚者となりました。

4-3、太宰春台(だざい しゅんだい)

信濃国飯田城下生まれで、織田信長の守役の平手政秀の子孫とされ、父の代に下野国烏山藩士太宰謙翁の養子となって平手姓から改姓したが、藩主が改易となり一家で浪人して江戸へ。

そして春台は苦学して15歳で出石藩松平氏に仕官し、17歳のときに朱子学を学び、21歳で浪人して10年遊学して朱子学、天文学などを学んだが、32歳で江戸へ戻り、1713年に、友人の紹介で徂徠の門下生となって、詩文から古文辞学へ転向しました。その後は学者として再仕官したが、数年後に辞して小石川に塾を開き、研究、執筆と門人を育てたということ。のちには徂徠の説を批判したりしたが、「経済録」をあらわして「経済」という言葉を広めたのがこの人だそう。

4-4、海保青陵(かいほせいりょう)

丹後宮津藩青山家の家老角田市左衛門の長子として江戸で生まれ、父は徂徠の系統の経世家でもあったので藩財政の立て直しに尽力したが、藩の内紛で青陵が4歳のときに浪人、経済的に困ることはなく、幼少時は父に、10歳で父の師の宇佐美灊水(しんすい)から儒学を学んだということ。灊水は徂徠晩年の高弟だったので、青陵は孫弟子ということになり、徂徠学の公的な側面を受け継いでいるそう。

青陵は人生ほとんどを遊歴して、各地で中国古典や漢文作成の文法を教えたり、経済上の相談や指導も行って経営の立て直しに手腕をみせたということで、「稽古談」、「洪範談」など数多くの著作も残したということ。

\次のページで「文治政治を行った綱吉の時代にあらわれた学者」を解説!/

文治政治を行った綱吉の時代にあらわれた学者

荻生徂徠は、甲府宰相綱吉の侍医の息子に生まれ、幕府お抱えのエリート学者に学ぶ環境の良さで勉学に励んだのでしたが、父が主君綱吉の怒りを買って江戸を追放され、千葉の田舎で静かに勉学と農民や漁民を観察するという経験をしました。

そして父が許されて13年ぶりに江戸へ帰り、あまりの江戸の変わりように仰天したということで、その後は私塾を開いたが、なかなか注目されず、経済的にも困窮して豆腐屋の好意でおからを食べてしのぐ生活だったそう。しかし著書が当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった学究肌で老中格となった柳沢吉保の目に留まり、お抱え儒者に。徂徠は将軍綱吉にも講義をするまでになり、赤穂事件では意見を求められるという御用学者となって、豆腐屋には恩返しもできたそう。

その後開いた私塾は有名になり多くの弟子を育てて著書を書き、徂徠の提唱する思想は徂徠学といわれ学派も出来、最晩年には8代将軍吉宗にも意見書を出して実際的に政治に役立てようとしたということで、この意見書は後の世にも影響を与え経世思想が生まれるきっかけになったということです。

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日本史歴史江戸時代

3分で簡単「荻生徂徠」江戸中期の著名な儒学者をわかりやすく歴女が解説

今回は荻生徂徠を取り上げるぞ。名前くらいは知ってる儒学者ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、荻生徂徠について5分でわかるようにまとめた。

1-1、荻生徂徠は江戸の生まれ

荻生徂徠(おぎゅう そらい)は、寛文6年(1666年)2月に江戸で生まれました。父は当時甲府宰相だった5代将軍徳川綱吉の侍医荻生景明で、7歳下の弟は8代将軍吉宗のブレーンとなった侍医で儒学者の荻生北渓(おぎゅうほっけい)。

幼名は雙松(なべまつ)、字(あざ)と実名は茂卿、字としては「もけい」、実名としては「しげのり」と読み、通称は惣右衛門(そうえもん)、号は徂徠、蘐園(けんえん)

なお、「徂徠」の号は「詩経」にある「徂徠之松」が由来で、字の「茂卿」と同じく「松が茂る」の意味で松にこだわりがあるそう。

1-2、徂徠の子供時代

徂徠は幼いころから学問に優れたため、林羅山の三男の林春斎(鵞峰、がほう)その息子の林鳳岡(ほうこう)について学んでいたが、1679年に父が、仕えていた館林藩主徳川綱吉の怒りにふれて江戸から放逐、蟄居処分となり、徂徠も14歳で家族とともに母の故郷、上総国長柄郡本納村(現千葉県茂原市)に移住することに。徂徠はこの村で13年余りを過ごして漢籍、和書、仏典を独学し、学問の基礎を学んだのですね。

そして1692年に父が赦免されたために、一家は江戸に戻って、27歳の徂徠はさらに学問に専念し、芝増上寺の近くに塾を開塾して教えるようになったが、当初は貧しく食事にも不自由していたということです。

2-1、徂徠、柳沢吉保に召し抱えられる

Bunkyo Rikugien Panoramic View In Late Autumn 1.JPG
京浜にけ – 投稿者撮影, GFDL-no-disclaimers, リンクによる

1696年、徂徠が書いた書物が柳沢吉保の目にとまり、将軍綱吉の側近として幕府側用人に抜擢されたばかりの柳沢吉保に召し抱えられ、15人扶持を支給されるようになりました。のちには500石取りに加増され、徂徠は柳沢邸で講学しつつ、吉保の政治上の顧問として助言をおこない、将軍綱吉にも儒学の講義などで接するように。

柳沢吉保が1705年に甲府藩主となったとき、徂徠は吉保の命令で、甲斐国を見聞して紀行文「風流使者記」。「峡中紀行」を残したということです。

2-2、徂徠、私塾を開く

image by PIXTA / 40840687

1709年、将軍綱吉が死去後、柳沢吉保はあっさり隠居したため、44歳の徂徠は柳沢邸を辞して日本橋茅場町に居を移し私塾を開塾しました。そして徂徠派として、蘐園学派(けんえん)を形成するまでに。塾名の「蘐園」は塾の所在地の茅場町にちなんだもので、隣には俳諧師の宝井其角が住んでいて、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の発句があるということ。

なお、綱吉の死後、6代将軍となった家宣のもとでは、同じ学者の新井白石が登用されて正徳の治を行って活躍していたのですが、徂徠はけっこうライバル意識を持っていたらしく、友人や弟子に宛てた書簡の中で、白石に対する批判や軽蔑の気持ちを書いていたということです。

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