
3-5、儒学者を保護し、儒学の発展に尽力
吉保は綱吉の文治政治を補佐する立場だったため、儒者を多く召し抱えて儒学の発展に多大な尽力を果たしました。吉保が召し抱えた荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、父が綱吉の侍医荻生方庵で、父方庵が綱吉の怒りに触れて蟄居となり、一家で江戸から上総国長柄郡本納村へ移ったのち、父方庵は13年後に許され、荻生徂徠は江戸へ帰り私塾を開いていたのを、吉保に召し抱えられたということ。徂徠は1706年、吉保に永慶寺(霊台寺)の碑文作成のため、甲斐国の地勢調査に派遣され、紀行文「風流使者記」「峡中紀行」としてまとめたそうで、吉保が隠居ののちは、江戸日本橋茅場町に私宅「蘐園(けんえん)」を構えて蘐園派と呼ばれる学派をつくり、8代将軍吉宗にも諮問を受けたということです。
また、細井広沢(ほそいこうたく)は兵学、天文学、歌道、算数などのあらゆる知識に通じた博学で、吉保に召抱えられた学者ですが、剣術の堀江道場で赤穂浪士の堀部安兵衛武庸(たけつね)と親しくなり、赤穂事件でも赤穂浪士に協力して討ち入り口述書の添削、「堀部安兵衛日記」の編纂を託されるなど、吉良邸討ち入り計画の協力者だったということですが、高崎藩主で幕府側用人松平輝貞との間の揉め事があった友人の弁護がきっかけで、輝貞の不興を買い、吉保に広沢を回顧せよと圧力がかかって放逐されたが、吉保はその後も広沢の学識を惜しんで毎年50両を送ってこっそり関係を続けたということ。
3-6、吉保の名言
吉保の有名な言葉として「泰平の世の中で、出世をするのは、金と女を使うに限る」があるそうですが、吉保は謹直誠実な人で、公用日記である「楽只堂家訓」や我が子に与えた「庭訓」には、「主君の恩に報いること」を第一に、日頃の立ち居振る舞いに気を使うよう、うかつなことやいやしいことを言わないよう、言葉遣いには細心の注意を払えと、書き残しています。
3-7、甲府、大和郡山領民に慕われた
吉保は、川越藩主時代、三富新田の開発(現在埼玉県所沢市)などを行い、行政面での業績は評価されているということで、甲州15万石を領したときも、国元には一度も行かなかったとはいえ、江戸から指令を出して善政を敷いたとされ、甲州八珍果を定めて果物栽培を奨励したという説が。
息子吉里も、甲府城の修築工事、都市整備、施設建設、検地をおこない、物資の流通を活発化したりと、柳沢親子2代の治世に甲府城下は繁栄の時代だったということです。息子の吉里は、1724年、大和郡山に転封となりましたが、領民は年貢を完納し、旧城主を見送っただけでなく、家臣とその家族を含めた5千人以上が甲府から大和郡山に移住したほど。吉里は大和郡山に、養蚕を持ち込んで奨励し、また趣味で飼っていた金魚も運び、自分で育てた金魚を家臣に分け与えたので、幕末には金魚の養殖が藩士の副業になり、明治以降金魚の養殖が盛んになって、現在は日本で最大の産地に。
そういうわけで、明治維新で廃藩置県のおこなわれた1880年に、旧大和郡山藩士族が吉保と吉里の遺徳をしのんで、大和郡山城跡に柳沢神社を創建したそう。
若くして5代将軍綱吉に仕えて認められ、出世街道まっしぐらに
柳沢吉保は、父が甲府宰相と呼ばれた将軍の弟綱吉に仕えていたため、若くして小姓として綱吉に仕え、綱吉が5代将軍となるとともに江戸城へ入り、納戸役から側用人へと出世。
時代劇では綱吉のイエスマンみたいに、側室の力も借りて私腹を肥やす寵臣で、水戸黄門に睨まれ暗殺を企てたりする悪役ですが、事実は違っていて、甲府時代から12歳年上で同じ戌年生まれの綱吉の学問の弟子のような関係だったよう。綱吉も熱心に学問をしたが吉保も学究肌のうえに、綱吉の気性をよく知り、機嫌を損ねることなく仕事が出来る有能さがあったため、綱吉に気に入られ、あれよあれよと15万石の大名にまで出世、最後には徳川家の御家門扱いで大老格にまでなりあがったのですね。
吉保はまた、領民にも慕われた善政を敷いたとか、元の主君武田家を高家として復活させ、荻生徂徠ら学者起用などにも尽力、吉保を敵視する幕臣もいなかったし、しかも綱吉が亡くなるとあっさりと隠居して身を引くという潔ぎよさで、綱吉も気に入って58回も御成りしたという美しい六義園を残しました。
吉保の悪評は要するに吉保を重用した綱吉が、赤穂浪士事件や水戸黄門の敵として扱われるワンマンなトップで、その影響をまともにくらったことと、異常な出世への嫉妬からで、綱吉に気に入られた弊害であったかも。