日本史歴史江戸時代

5分でわかる「柳沢吉保」の生涯!綱吉の側用人をわかりやすく歴女が解説

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独裁者の側近は、独裁者が亡くなるとみじめに失脚するのがガチだが、吉保の失脚の話を聞かないと思ったら、自分からあっさり隠居してあとで罪にも問われていないんだな

3-1、吉保の逸話

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狩野常信 – 一蓮寺所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる

吉保は、若いころ、綱吉の衆道の相手だったとか、好色家の綱吉のために美女を選別したという話もあり、虚実、色々な逸話があります。

3-2、六義園をつくった

image by PIXTA / 63361047

六義園(りくぎえん)は、江戸六上水のひとつである千川上水から水を引いて池を作り、築山を築くなどして7年の歳月をかけて造成した池泉回遊式庭園で、吉保の江戸下屋敷につくられました。将軍綱吉はこの屋敷に58回も御成りを行ったということで、目的は、綱吉自身による儒学の講釈で、受講者は、随行した老中や大名たち、柳沢家の一族と家臣たちだったそう。

「六義園」の名は、古代中国の漢詩集「毛詩(もうし)」の詩の分類法にならい、紀貫之が「古今和歌集」の序文に記した和歌の分類法が由来ということで、歌道に造詣が深い吉保が、「古今和歌集」の「六体(六義)」の歌の情景を再現しようとしたとうことです。

3-3、学究肌で文化人だった

吉保は和歌に造詣が深く、北村季吟から古今伝授を受けたほどだったそう。吉保自身、数々の詩歌を残し、仏教は黄檗宗に帰依して悦峰道章を招聘し、甲斐に永慶寺を創建(永慶寺は後に息子吉里の転封にともない大和郡山に移転)。

吉保自身の好学や黄檗宗への帰依が関係して、柳沢家では大名文化が興隆し、側室で吉里の母である染子も歌集を作るほどの歌人で、また公家出身のもうひとりの側室の正親町町子(おうぎまち)は、公家的な教養をもつ文学者として、吉保一代の半生を平安朝の「源氏物語」のように記した日記文学「松蔭日記(松家気)」をあらわし、江戸時代における宮廷文化の残滓、秘本として知られているそう。

町子の出自は諸説あるそうですが、実父は正親町公通で、公通は霊元天皇使者として何度か江戸へ下向していたため、霊元天皇は吉保の和歌へ添削を行い、六義園十二境を定めたこと、参禅録に題を授けたなど、吉保の和歌や文芸面に影響を及ぼしているということです。

また、吉保の筆頭家老の息子柳沢淇園(きえん) は、吉保の家中で英才教育を受け、悦峯、服部南郭の画、細井広沢の書を学んで文人画を大成する人物として大成
そして吉保は、公用日記として「楽只堂年録」(らくしどうねんろく)全229巻を残し、柳沢家家老薮田重守が編纂した「永慶寺殿公御実録」という吉保の一代記も存在。

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へええ、当主だけじゃなくて側室の女性も和歌や物語を書き、家老の息子も著名な文人画家になるなんて文化的な大名家じゃないか

3-4、吉保の息子吉里の綱吉御落胤説は

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土佐光起 – “歴代徳川将軍の肖像”, パブリック・ドメイン, リンクによる

時代劇では吉保の側室の染子はもとは綱吉の愛妾で、綱吉から吉保に下され、その時にお腹にいたのが吉保の嫡男吉里、綱吉の隠し子であるという噂が必ず登場。綱吉が吉保邸に58回も御成りがあったのは、染子やその息子に会うためとか、綱吉は吉里を将軍後継者としようとしたなど、噂は噂を呼び、吉保が甲府100万石を染子を通じて綱吉に願い、綱吉は承諾、しかし直後に綱吉は病死、または阻止しようとする正室に殺されたという、まことしやかな話まで。このようなおねだりを憂慮した大奥では、これ以降、将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別にお手付き中臈を2名、将軍の寝所に寝ずの番をさせ報告させることを義務付け、江戸幕府が滅亡するまで続けられたということです。

この説話は主に「護国女太平記」をもとに流布されたようですが、実際には吉保の側室で吉里の母染子は柳沢家家臣の娘で、大奥勤めの経験もなく将軍綱吉との接点もほとんどないため、おねだりの逸話も信ぴょう性のないものだそう。しかし同時代の尾張藩士朝日重章の日記「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」では、将軍綱吉の没後に吉里が綱吉の実子であり謀反を企てていた、また吉里が綱吉から50万石を拝領したが、綱吉の死後に将軍家宣が老中小笠原長重を遣わして取り上げたなどの噂があったと記述が。

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