日本史歴史江戸時代

5分でわかる「柳沢吉保」の生涯!綱吉の側用人をわかりやすく歴女が解説

2-3、吉保、側用人に就任し大名に昇格

1685 年、あの生類憐みの令が発令されましたが、吉保は1688年6月、西の丸下から一橋内の屋敷に移転し、11月には30歳で、小納戸上席から将軍親政で新設された側用人に就任。江戸幕府における御側御用人は将軍の側近であり、将軍の命令を老中らに伝える役目を担い、5000石以上の旗本が任命されるものだったそう。

そして禄高も1万2000石とアップして大名になり、廃城となっていた上総国佐貫城主となり、翌年、一橋内から神田橋内に転居して霊岸島にも中屋敷を拝領。1690年3月には2万石が加増、同年12月に従四位下に。1691年2月、常盤橋内に屋敷を拝領して3月には将軍綱吉が柳沢邸に初の御成を行ったのち、綱吉の吉保邸への御成は58回に及ぶことに。

2-4、吉保、老中格に

1692年11月、吉保は3万石、2年後には7万2000石となり、武蔵国川越藩主(現埼玉県川越市)に就任して、老中格と侍従を兼帯するようになりました。そして1698年7月には、大老の任官される左近衛権少将になり、1695年4月、駒込染井村の旧前田綱紀邸を拝領して、後に六義園をつくることに。

2-5、吉保、武田信玄の子孫を高家に推薦

1700年頃、吉保は将軍綱吉に、武田信玄の次男で盲目で僧職に入った龍芳(海野信親)の子孫とされていた、武田信興を引きあわせ、高家武田家の創設に尽力。この縁で、その後、高家武田家は柳沢家から何度か養子を迎えるようになったそう。

1701年11月、息子の吉里とともに、将軍綱吉から松平姓と「吉」の偏諱を与えられて、松平吉保と名乗るようになり、同時に出羽守から美濃守に。この頃、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介を刃傷事件が起きたが、浅野内匠頭の処分には吉保の意向も入っていると言われ、赤穂浪士のフィクションでは綱吉とともに悪役に描かれるように。

2-6、吉保、甲府15万石の大名に

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1704年12月、将軍綱吉の後継者に綱吉の甥で甲府徳川家の綱豊が決定したため、46歳の吉保は綱豊の後任として甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられて、15万1200石の大名になりました。そして翌年、国替えに際した家中禁令を改定、甲府城受け取りは家臣の柳沢保格、平岡資因らが務めたということで、その後、駿河の所領を返上して代わりに甲斐国国中3郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を与えられたそう。なお甲府15万石余の石高は表高で、実際には内高を合わせて22万石余りだったということです。

2-7、吉保、家門に列して大老格となる


1702年、将軍綱吉の生母桂昌院が朝廷から従一位に叙されたが、これは吉保が関白近衛基煕など、朝廷重臣達へ根回しをしておいた功績というわけで、1705年、綱吉によって吉保は徳川家のご家門に列し、1706年1月には大老格に上り詰めることに。

また1705年4月、吉保は甲斐恵林寺(現甲州市塩山小屋敷)で、武田信玄の百三十三回忌の法要を行ない、この法要で吉保は武田氏に連なる一族と強調。吉保は大老格の要職で幕閣にあったため、甲斐国の領地に赴くことはなかったが、甲府に配置した家老の薮田重守に指示して、甲府城と城下町、用水路の整備や検地の実施、甲州金の一種の新甲金の鋳造を行ったということで、甲府での吉保治世での年貢割付状で、吉保治世前に行われた検地増分を減免して実質的な減税を行ったそう。

2-8、晩年の吉保

1709年2月、将軍綱吉が死去し、綱吉の甥が新将軍家宣となると、その家臣の新井白石が権勢を握るようになったため、吉保は同年5月末に隠居願いを出して、嫡男の吉里が柳沢家の家督を継承。そして吉保は町子がうんだ経隆、時睦に甲斐国山梨郡と八代郡の新墾地1万石を与えて支藩の甲府新田藩が成立。

隠居後は江戸本駒込(現東京都文京区本駒込6丁目)で過ごし、綱吉がたびたび訪れた六義園の造営などを行ったそう。1714年9月、持病の再発で病臥し、同年11月2日に57歳で死去。

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angelica