今回は柳沢吉保を取り上げるぞ。将軍綱吉の側用人だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、柳沢吉保について5分でわかるようにまとめた。

1-1、柳沢吉保は江戸の生まれ

柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、万治元年(1658年)12月、江戸市ケ谷で生まれました。父は館林藩士柳沢安忠で、母は側室の佐瀬氏の娘、吉保は長男で、姉妹が2人。

母は父安忠の所領のあった上総国一袋村の出身で、安忠の正室青木氏の侍女で吉保を出産後、実家へ戻ったために、吉保は安忠の正室青木氏のもとで養育されたが、成人後に実母の存在を知り、江戸へ呼び寄せたということ。

吉保は通称吉十三郎、弥太郎、諱は、はじめは房安、佳忠、信本、保明で、綱吉から吉を拝領して吉保、号は保山。

1-2、吉保、綱吉の小姓となる

1664年12月、吉保は7歳で当時の館林藩主で19歳だった徳川綱吉に初めてお目見え。そして1672年、甲斐国恵林寺での武田信玄百回忌の法要では、父安忠とともに奉加帳に名を連ねています。1673年11月に元服、1675年7月、父安忠が隠居して17歳で家督を相続し、保明(やすあき)と改名。家禄は530石で小姓組番衆として出仕し、1676年2月、旗本曽雌盛定の娘定子と結婚。

柳沢家とは
柳沢氏は清和源氏の流れをくんだ河内源氏の支流で、甲斐源氏武田氏一門の甲斐一条氏の末裔。戦国時代は甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆の所属だったが、甲斐武田氏の滅亡後に武田家の遺臣が多くが徳川家康に仕官。

柳沢家も吉保の祖父にあたる信俊が家康に仕官し旗本となり、父安忠は祖父信俊の4男で分家し、甲州舘林藩主となった3代将軍家光の弟忠長に仕えたが、忠長が改易されて浪人したそう。そして7年後に後の5代将軍綱吉が舘林藩主となったときに再雇用され、綱吉の勘定頭として神田屋敷を建築したなど、父子2代で綱吉に仕えたのですね。

なお、吉保は長男だったが、父の晩年57歳のときの庶子なので、柳沢家は姉の夫の信花がすでに養嗣子となって継承したとありますが、吉保は父の隠居にともなって家督を相続しているので、綱吉の意向で吉保が父の跡を継ぎ、養嗣子だった信花はもともと父安忠の兄の息子なので旗本として分家したとみるべきでは。

2-1、綱吉が将軍後継者となり、吉保も江戸城入り

image by PIXTA / 54489800

1680年、館林藩主の綱吉が長兄4代将軍家綱の後継者として江戸城に入ると、吉保も幕臣になり、小納戸役に任命されました。小納戸役は、将軍が起居する「中奥」で若年寄の支配に属し、御場掛、御膳番、奥之番などの掛に分かれて、将軍身辺の雑事を担当した将軍の身の回りの世話をする役目で、側近くに仕えて将軍と気が合うとか気働きが出来るなどで、気に入られ、目をかけられると出世コースという役どころ。

2-2、吉保、綱吉の寵臣となり、出世街道まっしぐらに

1681年4月、吉保は300石を加増されて830石となり、6月には綱吉の学問上の弟子となって、7月に江戸の市ヶ谷から愛宕下に転居し、生母の了本院を江戸へ引き取ったということです。そして翌年には従六位下となり、布衣を許されて、1683年1月200石加増で1030石に。この年の6月、義兄の信花が江戸城西の丸前において高橋源大夫と喧嘩し、殺害される事件がぼっ発。 義兄家はお家断絶となったが、子孫は吉保家の家臣となったそう。

\次のページで「2-3、吉保、側用人に就任し大名に昇格」を解説!/

2-3、吉保、側用人に就任し大名に昇格

1685 年、あの生類憐みの令が発令されましたが、吉保は1688年6月、西の丸下から一橋内の屋敷に移転し、11月には30歳で、小納戸上席から将軍親政で新設された側用人に就任。江戸幕府における御側御用人は将軍の側近であり、将軍の命令を老中らに伝える役目を担い、5000石以上の旗本が任命されるものだったそう。

そして禄高も1万2000石とアップして大名になり、廃城となっていた上総国佐貫城主となり、翌年、一橋内から神田橋内に転居して霊岸島にも中屋敷を拝領。1690年3月には2万石が加増、同年12月に従四位下に。1691年2月、常盤橋内に屋敷を拝領して3月には将軍綱吉が柳沢邸に初の御成を行ったのち、綱吉の吉保邸への御成は58回に及ぶことに。

2-4、吉保、老中格に

1692年11月、吉保は3万石、2年後には7万2000石となり、武蔵国川越藩主(現埼玉県川越市)に就任して、老中格と侍従を兼帯するようになりました。そして1698年7月には、大老の任官される左近衛権少将になり、1695年4月、駒込染井村の旧前田綱紀邸を拝領して、後に六義園をつくることに。

2-5、吉保、武田信玄の子孫を高家に推薦

1700年頃、吉保は将軍綱吉に、武田信玄の次男で盲目で僧職に入った龍芳(海野信親)の子孫とされていた、武田信興を引きあわせ、高家武田家の創設に尽力。この縁で、その後、高家武田家は柳沢家から何度か養子を迎えるようになったそう。

1701年11月、息子の吉里とともに、将軍綱吉から松平姓と「吉」の偏諱を与えられて、松平吉保と名乗るようになり、同時に出羽守から美濃守に。この頃、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介を刃傷事件が起きたが、浅野内匠頭の処分には吉保の意向も入っていると言われ、赤穂浪士のフィクションでは綱吉とともに悪役に描かれるように。

2-6、吉保、甲府15万石の大名に

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1704年12月、将軍綱吉の後継者に綱吉の甥で甲府徳川家の綱豊が決定したため、46歳の吉保は綱豊の後任として甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられて、15万1200石の大名になりました。そして翌年、国替えに際した家中禁令を改定、甲府城受け取りは家臣の柳沢保格、平岡資因らが務めたということで、その後、駿河の所領を返上して代わりに甲斐国国中3郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を与えられたそう。なお甲府15万石余の石高は表高で、実際には内高を合わせて22万石余りだったということです。

2-7、吉保、家門に列して大老格となる


1702年、将軍綱吉の生母桂昌院が朝廷から従一位に叙されたが、これは吉保が関白近衛基煕など、朝廷重臣達へ根回しをしておいた功績というわけで、1705年、綱吉によって吉保は徳川家のご家門に列し、1706年1月には大老格に上り詰めることに。

また1705年4月、吉保は甲斐恵林寺(現甲州市塩山小屋敷)で、武田信玄の百三十三回忌の法要を行ない、この法要で吉保は武田氏に連なる一族と強調。吉保は大老格の要職で幕閣にあったため、甲斐国の領地に赴くことはなかったが、甲府に配置した家老の薮田重守に指示して、甲府城と城下町、用水路の整備や検地の実施、甲州金の一種の新甲金の鋳造を行ったということで、甲府での吉保治世での年貢割付状で、吉保治世前に行われた検地増分を減免して実質的な減税を行ったそう。

2-8、晩年の吉保

1709年2月、将軍綱吉が死去し、綱吉の甥が新将軍家宣となると、その家臣の新井白石が権勢を握るようになったため、吉保は同年5月末に隠居願いを出して、嫡男の吉里が柳沢家の家督を継承。そして吉保は町子がうんだ経隆、時睦に甲斐国山梨郡と八代郡の新墾地1万石を与えて支藩の甲府新田藩が成立。

隠居後は江戸本駒込(現東京都文京区本駒込6丁目)で過ごし、綱吉がたびたび訪れた六義園の造営などを行ったそう。1714年9月、持病の再発で病臥し、同年11月2日に57歳で死去。

\次のページで「3-1、吉保の逸話」を解説!/

3-1、吉保の逸話

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狩野常信 - 一蓮寺所蔵品, パブリック・ドメイン, リンクによる

吉保は、若いころ、綱吉の衆道の相手だったとか、好色家の綱吉のために美女を選別したという話もあり、虚実、色々な逸話があります。

3-2、六義園をつくった

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六義園(りくぎえん)は、江戸六上水のひとつである千川上水から水を引いて池を作り、築山を築くなどして7年の歳月をかけて造成した池泉回遊式庭園で、吉保の江戸下屋敷につくられました。将軍綱吉はこの屋敷に58回も御成りを行ったということで、目的は、綱吉自身による儒学の講釈で、受講者は、随行した老中や大名たち、柳沢家の一族と家臣たちだったそう。

「六義園」の名は、古代中国の漢詩集「毛詩(もうし)」の詩の分類法にならい、紀貫之が「古今和歌集」の序文に記した和歌の分類法が由来ということで、歌道に造詣が深い吉保が、「古今和歌集」の「六体(六義)」の歌の情景を再現しようとしたとうことです。

3-3、学究肌で文化人だった

吉保は和歌に造詣が深く、北村季吟から古今伝授を受けたほどだったそう。吉保自身、数々の詩歌を残し、仏教は黄檗宗に帰依して悦峰道章を招聘し、甲斐に永慶寺を創建(永慶寺は後に息子吉里の転封にともない大和郡山に移転)。

吉保自身の好学や黄檗宗への帰依が関係して、柳沢家では大名文化が興隆し、側室で吉里の母である染子も歌集を作るほどの歌人で、また公家出身のもうひとりの側室の正親町町子(おうぎまち)は、公家的な教養をもつ文学者として、吉保一代の半生を平安朝の「源氏物語」のように記した日記文学「松蔭日記(松家気)」をあらわし、江戸時代における宮廷文化の残滓、秘本として知られているそう。

町子の出自は諸説あるそうですが、実父は正親町公通で、公通は霊元天皇使者として何度か江戸へ下向していたため、霊元天皇は吉保の和歌へ添削を行い、六義園十二境を定めたこと、参禅録に題を授けたなど、吉保の和歌や文芸面に影響を及ぼしているということです。

また、吉保の筆頭家老の息子柳沢淇園(きえん) は、吉保の家中で英才教育を受け、悦峯、服部南郭の画、細井広沢の書を学んで文人画を大成する人物として大成
そして吉保は、公用日記として「楽只堂年録」(らくしどうねんろく)全229巻を残し、柳沢家家老薮田重守が編纂した「永慶寺殿公御実録」という吉保の一代記も存在。

3-4、吉保の息子吉里の綱吉御落胤説は

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土佐光起 - "歴代徳川将軍の肖像", パブリック・ドメイン, リンクによる

時代劇では吉保の側室の染子はもとは綱吉の愛妾で、綱吉から吉保に下され、その時にお腹にいたのが吉保の嫡男吉里、綱吉の隠し子であるという噂が必ず登場。綱吉が吉保邸に58回も御成りがあったのは、染子やその息子に会うためとか、綱吉は吉里を将軍後継者としようとしたなど、噂は噂を呼び、吉保が甲府100万石を染子を通じて綱吉に願い、綱吉は承諾、しかし直後に綱吉は病死、または阻止しようとする正室に殺されたという、まことしやかな話まで。このようなおねだりを憂慮した大奥では、これ以降、将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別にお手付き中臈を2名、将軍の寝所に寝ずの番をさせ報告させることを義務付け、江戸幕府が滅亡するまで続けられたということです。

この説話は主に「護国女太平記」をもとに流布されたようですが、実際には吉保の側室で吉里の母染子は柳沢家家臣の娘で、大奥勤めの経験もなく将軍綱吉との接点もほとんどないため、おねだりの逸話も信ぴょう性のないものだそう。しかし同時代の尾張藩士朝日重章の日記「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」では、将軍綱吉の没後に吉里が綱吉の実子であり謀反を企てていた、また吉里が綱吉から50万石を拝領したが、綱吉の死後に将軍家宣が老中小笠原長重を遣わして取り上げたなどの噂があったと記述が。

\次のページで「3-5、儒学者を保護し、儒学の発展に尽力」を解説!/

3-5、儒学者を保護し、儒学の発展に尽力

吉保は綱吉の文治政治を補佐する立場だったため、儒者を多く召し抱えて儒学の発展に多大な尽力を果たしました。吉保が召し抱えた荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、父が綱吉の侍医荻生方庵で、父方庵が綱吉の怒りに触れて蟄居となり、一家で江戸から上総国長柄郡本納村へ移ったのち、父方庵は13年後に許され、荻生徂徠は江戸へ帰り私塾を開いていたのを、吉保に召し抱えられたということ。徂徠は1706年、吉保に永慶寺(霊台寺)の碑文作成のため、甲斐国の地勢調査に派遣され、紀行文「風流使者記」「峡中紀行」としてまとめたそうで、吉保が隠居ののちは、江戸日本橋茅場町に私宅「蘐園(けんえん)」を構えて蘐園派と呼ばれる学派をつくり、8代将軍吉宗にも諮問を受けたということです。

また、細井広沢(ほそいこうたく)は兵学、天文学、歌道、算数などのあらゆる知識に通じた博学で、吉保に召抱えられた学者ですが、剣術の堀江道場で赤穂浪士の堀部安兵衛武庸(たけつね)と親しくなり、赤穂事件でも赤穂浪士に協力して討ち入り口述書の添削、「堀部安兵衛日記」の編纂を託されるなど、吉良邸討ち入り計画の協力者だったということですが、高崎藩主で幕府側用人松平輝貞との間の揉め事があった友人の弁護がきっかけで、輝貞の不興を買い、吉保に広沢を回顧せよと圧力がかかって放逐されたが、吉保はその後も広沢の学識を惜しんで毎年50両を送ってこっそり関係を続けたということ。

3-6、吉保の名言

吉保の有名な言葉として「泰平の世の中で、出世をするのは、金と女を使うに限る」があるそうですが、吉保は謹直誠実な人で、公用日記である「楽只堂家訓」や我が子に与えた「庭訓」には、「主君の恩に報いること」を第一に、日頃の立ち居振る舞いに気を使うよう、うかつなことやいやしいことを言わないよう、言葉遣いには細心の注意を払えと、書き残しています。

3-7、甲府、大和郡山領民に慕われた

吉保は、川越藩主時代、三富新田の開発(現在埼玉県所沢市)などを行い、行政面での業績は評価されているということで、甲州15万石を領したときも、国元には一度も行かなかったとはいえ、江戸から指令を出して善政を敷いたとされ、甲州八珍果を定めて果物栽培を奨励したという説が。

息子吉里も、甲府城の修築工事、都市整備、施設建設、検地をおこない、物資の流通を活発化したりと、柳沢親子2代の治世に甲府城下は繁栄の時代だったということです。息子の吉里は、1724年、大和郡山に転封となりましたが、領民は年貢を完納し、旧城主を見送っただけでなく、家臣とその家族を含めた5千人以上が甲府から大和郡山に移住したほど。吉里は大和郡山に、養蚕を持ち込んで奨励し、また趣味で飼っていた金魚も運び、自分で育てた金魚を家臣に分け与えたので、幕末には金魚の養殖が藩士の副業になり、明治以降金魚の養殖が盛んになって、現在は日本で最大の産地に。

そういうわけで、明治維新で廃藩置県のおこなわれた1880年に、旧大和郡山藩士族が吉保と吉里の遺徳をしのんで、大和郡山城跡に柳沢神社を創建したそう。

若くして5代将軍綱吉に仕えて認められ、出世街道まっしぐらに

柳沢吉保は、父が甲府宰相と呼ばれた将軍の弟綱吉に仕えていたため、若くして小姓として綱吉に仕え、綱吉が5代将軍となるとともに江戸城へ入り、納戸役から側用人へと出世。

時代劇では綱吉のイエスマンみたいに、側室の力も借りて私腹を肥やす寵臣で、水戸黄門に睨まれ暗殺を企てたりする悪役ですが、事実は違っていて、甲府時代から12歳年上で同じ戌年生まれの綱吉の学問の弟子のような関係だったよう。綱吉も熱心に学問をしたが吉保も学究肌のうえに、綱吉の気性をよく知り、機嫌を損ねることなく仕事が出来る有能さがあったため、綱吉に気に入られ、あれよあれよと15万石の大名にまで出世、最後には徳川家の御家門扱いで大老格にまでなりあがったのですね。

吉保はまた、領民にも慕われた善政を敷いたとか、元の主君武田家を高家として復活させ、荻生徂徠ら学者起用などにも尽力、吉保を敵視する幕臣もいなかったし、しかも綱吉が亡くなるとあっさりと隠居して身を引くという潔ぎよさで、綱吉も気に入って58回も御成りしたという美しい六義園を残しました。

吉保の悪評は要するに吉保を重用した綱吉が、赤穂浪士事件や水戸黄門の敵として扱われるワンマンなトップで、その影響をまともにくらったことと、異常な出世への嫉妬からで、綱吉に気に入られた弊害であったかも。

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日本史歴史江戸時代

3分で簡単「柳沢吉保」の生涯!綱吉の側用人をわかりやすく歴女が解説

今回は柳沢吉保を取り上げるぞ。将軍綱吉の側用人だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、柳沢吉保について5分でわかるようにまとめた。

1-1、柳沢吉保は江戸の生まれ

柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、万治元年(1658年)12月、江戸市ケ谷で生まれました。父は館林藩士柳沢安忠で、母は側室の佐瀬氏の娘、吉保は長男で、姉妹が2人。

母は父安忠の所領のあった上総国一袋村の出身で、安忠の正室青木氏の侍女で吉保を出産後、実家へ戻ったために、吉保は安忠の正室青木氏のもとで養育されたが、成人後に実母の存在を知り、江戸へ呼び寄せたということ。

吉保は通称吉十三郎、弥太郎、諱は、はじめは房安、佳忠、信本、保明で、綱吉から吉を拝領して吉保、号は保山。

1-2、吉保、綱吉の小姓となる

1664年12月、吉保は7歳で当時の館林藩主で19歳だった徳川綱吉に初めてお目見え。そして1672年、甲斐国恵林寺での武田信玄百回忌の法要では、父安忠とともに奉加帳に名を連ねています。1673年11月に元服、1675年7月、父安忠が隠居して17歳で家督を相続し、保明(やすあき)と改名。家禄は530石で小姓組番衆として出仕し、1676年2月、旗本曽雌盛定の娘定子と結婚。

柳沢家とは
柳沢氏は清和源氏の流れをくんだ河内源氏の支流で、甲斐源氏武田氏一門の甲斐一条氏の末裔。戦国時代は甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆の所属だったが、甲斐武田氏の滅亡後に武田家の遺臣が多くが徳川家康に仕官。

柳沢家も吉保の祖父にあたる信俊が家康に仕官し旗本となり、父安忠は祖父信俊の4男で分家し、甲州舘林藩主となった3代将軍家光の弟忠長に仕えたが、忠長が改易されて浪人したそう。そして7年後に後の5代将軍綱吉が舘林藩主となったときに再雇用され、綱吉の勘定頭として神田屋敷を建築したなど、父子2代で綱吉に仕えたのですね。

なお、吉保は長男だったが、父の晩年57歳のときの庶子なので、柳沢家は姉の夫の信花がすでに養嗣子となって継承したとありますが、吉保は父の隠居にともなって家督を相続しているので、綱吉の意向で吉保が父の跡を継ぎ、養嗣子だった信花はもともと父安忠の兄の息子なので旗本として分家したとみるべきでは。

2-1、綱吉が将軍後継者となり、吉保も江戸城入り

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1680年、館林藩主の綱吉が長兄4代将軍家綱の後継者として江戸城に入ると、吉保も幕臣になり、小納戸役に任命されました。小納戸役は、将軍が起居する「中奥」で若年寄の支配に属し、御場掛、御膳番、奥之番などの掛に分かれて、将軍身辺の雑事を担当した将軍の身の回りの世話をする役目で、側近くに仕えて将軍と気が合うとか気働きが出来るなどで、気に入られ、目をかけられると出世コースという役どころ。

2-2、吉保、綱吉の寵臣となり、出世街道まっしぐらに

1681年4月、吉保は300石を加増されて830石となり、6月には綱吉の学問上の弟子となって、7月に江戸の市ヶ谷から愛宕下に転居し、生母の了本院を江戸へ引き取ったということです。そして翌年には従六位下となり、布衣を許されて、1683年1月200石加増で1030石に。この年の6月、義兄の信花が江戸城西の丸前において高橋源大夫と喧嘩し、殺害される事件がぼっ発。 義兄家はお家断絶となったが、子孫は吉保家の家臣となったそう。

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